Inazo Nitobe& Kanzo Uchimura「新渡戸稲造の武士道と内村鑑三の代表的日本人」 181219(Wed)

画像に含まれている可能性があるもの:12人、、石田 学さん、大八木 潤さん、小林 裕幸さんなど、、スマイル、座ってる(複数の人)、群衆

000.(1) Inazo Nitobe Documentary 1983

Shaun Houseman 2018/01/21  
新渡戸稲造
Inazo Nitobe.jpg

1933年頃に撮影
生誕 新渡戸稲之助
1862年9月1日
陸奥国岩手郡盛岡
死没 1933年10月15日(71歳没)
カナダの旗 カナダビクトリア
国籍 日本の旗 日本
研究分野 農学
研究機関 札幌農学校
京都帝国大学
東京帝国大学
出身校 札幌農学校
東京帝国大学退学
ジョンズ・ホプキンス大学
ハレ大学
主な業績 武士道』の執筆
配偶者 メアリー・エルキントン(新渡戸万里子)
子供 遠益、こと
 
 

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日文久2年8月8日) – 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。

国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日文久2年8月8日) – 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。

国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。

陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛用人を務めた盛岡藩新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り幕末に早世した次男十次郎に代わって新渡戸家の家計を大いに助けた。

 稲之助は、巡幸中に新渡戸家で休息していた明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨の言葉をかけられたことから農学を志すようになったという。

画像に含まれている可能性があるもの:12人、Kenji Shinmiyaさんを含む、、スマイル

 

★ 盛岡から上京

作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいた叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。

上京後は叔父の養子となって太田稲造として英語学校で英語を学んだ。

 翌年には元盛岡藩主である南部利恭が経営する「共慣義塾」に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。そのため、自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず、「店の金を持ち出した」と疑われることもあったという。その一件が有ったのちは、信頼を回復しようと稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。

13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校東大の前身の一つ)に入学した。ここで稲造は同じ南部出身で後の北海道帝国大初代総長となる佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、その後農学の道に進むことを決意した。

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111.(1) 新渡戸稲造 生誕150年記念 第1弾「世界を結ぶ『志』~新渡戸稲造の生涯~」HiramekiTV

2013/12/18  チャンネル登録 1万 新渡戸稲造 生誕150年記念 第1弾 「世界を結ぶ『志』~新渡戸稲造の生涯~」 生誕150年をむかえた新渡戸稲造の偉業を、改めて振り返ります。

 

札幌農学校へ

内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代

15歳になった1877年9月になると当時国内で唯一学士号を授与する高等教育機関であった札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学した。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。

 

在学中、札幌丘珠事件が発生し、加害獣である巨羆の解剖をした。稲造は祖父達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(活動家)というあだ名を付けられた。

画像に含まれている可能性があるもの:5人

 

クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。

画像に含まれている可能性があるもの:6人、、小川 あいさん、Kenji Shinmiyaさんなど、スーツ、室内

クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。

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000.(2) The world does not know yet! Colonisation theorist, Inazo Nitobe! 

zinc2010zinc 2010/07/29 

Japan’s first internationally renowned people, Inazo Nitobe. Japanese Wikipedia has completely hidden, the authority of colonisation theory, Inazo Nitobe. AltaVista search. “Inazo Nitobe colonialist” type. Only 22. The U.S. has described Wikipedia as follows. Meiji bureaucrat & educator In 1901, Nitobe was appointed technical advisor to the Japanese colonial government in Taiwan,

where he headed the Sugar Bureau. Nitobe was appointed a full professor of law at the Kyoto Imperial University in 1904 and lectured on colonial studies. He became the Headmaster of the First Higher School (then the preparatory division for the Tokyo Imperial University) in 1906 and continued this position until he accepted the full-time professorship at the Law Faculty of Tokyo Imperial University in 1913.

画像に含まれている可能性があるもの:8人、大塚 俊樹さんを含む、、スマイル、テキスト

He taught agricultural economics and colonial policy and emphasized humanitarian aspect of colonial administration, and was cross-appointed the founding president of Tokyo Woman’s Christian University (Tokyo Joshi Dai). His students at Tokyo Imperial University included Tadao Yanaihara, Shigeru Nanbara, Yasaka Takagi, and Tamon Maeda. ( Yanaihara later continued Nitobe’s chair in colonial studies at Tokyo University;

but Yanaihara’s pacifist views and emphasis on indigenous self-determination, which he partly inherited from Nitobe, came into a full conflict with Japan’s wartime government during the World War II, resulted in barring him from teaching until after the war). Nitobe and Hamilton Wright Mabie in 1911 were the first exchange professors between Japan and the United States under the auspices of the Carnegie Endowment for International Peace.

画像に含まれている可能性があるもの:9人、、スマイル、群衆、木、屋外

After World War I, Nitobe joined other international and reform minded Japanese in organizing the Japan Council of the Institute of Pacific Relations. As the authority of colonisation theory, he was actively involved in the colonization of Korea, Taiwan policy in practice. Annexation of Dokdo by Shimane Prefecture in 1905.

Nitobe Inazo at that time was teaching colonisation theory at Kyoto Imperial University. This year is the 100th anniversary of annexation of Korea. There is no organization to report about the existence of colonisation theory and the role of Inazo Nitobe. Although NHK has produced a series of Japan-Korea annexation, no coverage at all for Inazo Nitobe. “Don’t run away from history. Do face up to history. Otherwise the Japanese people would be forgotten in the history of humanitarian.”

この頃から稲造は視力が悪化し、眼鏡をかけるようになったが、やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、『サーター・リサータス』(Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり生涯に幾度となく読み返した。

画像に含まれている可能性があるもの:15人、、宇賀神 智さん、Makiko Akimotoさん、佐藤 健司さん、岩瀬 貴之さん、西田 稔さん、岩崎 弘治さんなど、、スマイル、立ってる(複数の人)、室内

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111.(2) 新渡戸稲造 生誕150年記念 第2弾「未来につながる『道』~新渡戸稲造の武士道~」HiramekiTV

2013/12/18  新渡戸稲造 生誕150年記念 第2弾「未来につながる『道』~新渡戸稲造の武士道~」 生誕150年をむかえた新渡戸稲造の偉業を、改めて振り返ります。

 

画像に含まれている可能性があるもの:8人、、今枝 宗一郎さん、松村 聖さん、Kiyoshi Kurakawaさん、道端 慶二郎さん、篠原 美香さん、西田 稔さん、山田 貴一さんなど、、スマイル、立ってる(複数の人)、室内

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111.(3) 新渡戸稲造 生誕150年記念 第3弾「すべてに根ざす『愛』~新渡戸稲造の苦悩~」HiramekiTV 2013/12/18 

谷崎潤一郎と新渡戸稲造

農学校卒業後は、国策により級友達とともに上級官吏として道庁に採用され、畑の作物を食い散らすイナゴの異常発生の対策の研究等をしていた。

その後、創立後間もない帝国大学(のち、東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、帝国大学の研究レベルの低さに失望したため退学した。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋になりたい」とアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会う。米国の某地で日本についての講演をした際に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントンが稲造を見初めて告白をしたという。

画像に含まれている可能性があるもの:6人、、Yuko Vcidさん、平野 大海さん、大八木 潤さんなど、、スマイル、座ってる(複数の人)、立ってる(複数の人)、室内

その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。そのいきさつとして、米国留学にて農業を経済学と結び付けて考える必要を感じた稲造は、独学で社会科学を学び新たな学問を創設しようと試みたのであるが、ドイツ留学にて農政学が既にゴルツブッヘンベルゲルにより創始されていたことを知った。この間、『女学雑誌』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職してカリフォルニア州で転地療養した。

画像に含まれている可能性があるもの:5人、、浄法寺亘さん、石川 博信さんなど、、スマイル、座ってる(複数の人)、テーブル、室内

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学の道へ

この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている[2]

台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした[3]。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した[4][5]

その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位もうけた。同年、牧野伸顕文相の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。それまでの東洋的文化色が強かった同校に、西洋色を取り入れようと努めた。愛読書でもあるカーライルの『衣服哲学』の読書を学生に薦めるなどした。その新たな学風づくりの試みは、河合栄治郎などに影響を与えた。1911~1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田梅子津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。

画像に含まれている可能性があるもの:5人、、スマイル、ミーム、テキスト

「郷土会」の発足

1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーには、柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤牧口常三郎中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。

国際連盟事務次長

1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長のひとりに選ばれた[6]。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。

エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラント作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。同年、バルト海オーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。

晩年

1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。

札幌農学校時代の仲間と共にメリマン・ハリスの参り。1928年

1932年(昭和7年)、上海事変の直後の2月4日、地元新聞記者を前にオフレコで語った内容「近頃、毎朝起きて新聞をみると、思わず暗い気持ちになってしまう。わが国を滅ぼすものは共産党か軍閥である。そのどちらが恐いかと問われたら、今では軍閥と答えねばなるまい。軍閥が極度に軍国主義を発揮すると、それにつれて共産党はその反動でますます勢いを増すだろう。共産主義思想はこのままでは漸次ひろがるであろう」「国際連盟が認識不足だというのか? だが、いったい誰が国際連盟を認識不足にしたのか? 国際連盟の認識不足ということは、連盟本部が遠く離れているのだから、それはあるだろう。 しかし、日本としては当然、国際連盟に充分認識せしめる手段を講ずべきではなかったか? 上海事件に関する当局の声明はすべて三百代言的というほかはない。私は、満州事変については、われらの態度は当然のことと思う。しかし、上海事件に対しては正当防衛とは申しかねる。支那がまず発砲したというのか? だから、三百代言としか思えぬというのだ」との発言が新聞紙上に取り上げられ、当時、日本の海軍省によって日本側からの先制攻撃ではなかったとの発表がなされていたこともあり、軍部や在郷軍人会や新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人から反発を受け、失意の日々だった。

1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加した。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、入院。病名は出血性膵臓炎であった。10月15日に開腹手術が行われるが容態が急変し、午後8時30分にそのまま帰らぬ人となる。享年72(満71歳没)。

画像に含まれている可能性があるもの:10人、、岸 義福さん、谷山 哲浩さん、岩瀬 貴之さんなど、、スマイル、座ってる(複数の人)、室内

人物

新渡戸稲造と妻メアリー

キリスト教徒クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから矢内原忠雄高木八尺南原繁宇佐美毅前田多門藤井武塚本虎二河井道などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。

非常に交流の幅が広い人物であり、著作のひとつである『偉人群像』には、伊藤博文桂太郎乃木希典らなどとのエピソードも書かれている。

家族

妻メアリー・エルキントン

1891年(明治24年)にアメリカ人女性メアリー・エルキントン(Mary P. Elkinton 日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚している。二人の間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折している。養子に孝夫(よしお)がいる。

祖父の新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった南部盛岡藩の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し産業開発も行った。傳は江戸で材木業を営み成功するといった才能もあった。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼりつめた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。

また、従弟に昆虫学者の新渡戸稲雄がいるが、31歳で早世している

画像に含まれている可能性があるもの:6人、、國領満男さん、Naoko Nancy Tadaさん、岩瀬 貴之さんなど、、スマイル、立ってる(複数の人)、座ってる(複数の人)、室内

後世

生誕の地である盛岡市と、客死したビクトリア市は、新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている[8]

1984年(昭和59年)11月1日に発行された五千円紙幣D号券の肖像に採用された。

年譜

Bushido: The Soul of Japan(1900)

画像に含まれている可能性があるもの:4人、、浅川 ひろゆきさん、Kazumi Miyazakiさんなど、、スマイル、立ってる(複数の人)、スーツ

画像に含まれている可能性があるもの:2人、、スマイル、立ってる(複数の人)

栄典

ゆかりの地

  • 新渡戸稲造没後50年を記念して、盛岡市下ノ橋町の生誕の地に、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像が建立された。作者は朝倉文夫
  • 鎌倉稲村ケ崎にあった別荘跡地は、聖路加看護大学鎌倉セミナーハウス「アリスの家」になっている[15]

代表的な著書[編集]

栄典[編集]

ゆかりの地

  • 新渡戸稲造没後50年を記念して、盛岡市下ノ橋町の生誕の地に、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像が建立された。作者は朝倉文夫
  • 鎌倉稲村ケ崎にあった別荘跡地は、聖路加看護大学鎌倉セミナーハウス「アリスの家」になっている[15]

代表的な著書

  • 農業本論』 裳華房、1898年(明治31年)9月。
  • Inazo Nitobe (1900). Bushido: the soul of Japan, an exposition of Japanese thought. Philadelphia: The Leeds and Biddle Company.

※以下以外にも、様々な出版社から新版再刊されている。

  • 『自警録 心のもちかた』講談社学術文庫、1982年(昭和57年)
  • 『西洋の事情と思想』講談社学術文庫、1984年(昭和59年)
  • 『世渡りの道』文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2015年(平成27年)

全集・選集