63歳で亡くなられたオードリー・へプバーンさんの生立ち。
「ローマの休日」は大好きな映画!!! 彼女は永遠のプリンセス、憧れの女性です
444.オードリーヘップバーンの粋な言葉
“私にとって最高の勝利は、自分と他人の欠点を受け入れられるようになったこと”
1927年ベルギーに生まれたオードリーは、母親はオランダ貴族の出身で、幼い頃に父親が家出、5歳でロンドンの寄宿学校に入るという波乱万丈の幼少時を過ごした。彼女は寂しさから太ってしまい、自分に自信がもてなかったそう。
“一番好きなことは笑うこと。人として最も大事なことじゃないかしら”
好きなタイプは自分を笑わせてくれる男性。彼女自身もユーモアあふれる性格で、周りの人たちを笑わせて皆に愛された。頭をスカーフで包み「顔が四角いでしょう?」とおどけるので、スクエアというあだ名が付いたことも。
“自分の犬より自分の方が魅力的だなんて、誰も思わないわ”
動物が大好きで、元夫メル・ファーラーから贈られたヨークシャーテリア(名前はミスター・フェイマス)を溺愛。映画『尼僧物語』の撮影では一緒にベルギーに行けるように、フェイマスも特別ビザを持っていた。
“ファッションは間違いなく私にとって夢中になれるものね”
明確に自分のスタイルを持っていて、仕立てのいい赤やオレンジなど鮮やかな色のコートや、今ではクラシカルになったリトルブラックドレスなど、自分にぴったり合うものを慎重に選んでいたオードリー。『麗しのサブリナ』の中で彼女が履いたことで有名になったサブリナパンツ姿も個性が際立っていた。
“私のルックはすぐ真似できるわ、大きなサングラスとノースリーブドレスを着ればね”
『ティファニーで朝食を』で誰もが思い浮かべる有名なブラックドレスは、ご存知の通りジバンシィがデザインしたもので、サングラスはオリバーゴールドスミス。のちにオークションにかけられたこのドレスには90万ドルもの値がついた。
Photo: Mondadori/AFLO
“大きなプール付きの家を夢見る人がいるけど、私には大きなクローゼットね”
クローゼットには、ジバンシィ(GIVENCHY)をはじめ、ヴァレンティノ(VALENTINO)、ラルフローレン(RALPH LAUREN)、サルヴァトーレ フェラガモ(SALVATORE FERRAGAMO)、グッチ(GUCCI)、エルメス(HERMÈS)、ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)などのハイブランドがずらり。ジュエリーは、小粒のパールなど可愛らしいものが好きだった。
555.ヘップバーンの生涯。
ウィキペディアより抜粋
オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 – 1993年1月20日)は、イギリス人で、アメリカ合衆国の女優。日本ではヘップバーンと表記されることも多い。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。
ヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。各種資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの名前をもじって(EllaをEddaとした)一時的に変えたものである[1]。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル (en:Sonia Gaskell) のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。
イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』(en:Gigi (1951 play)) で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でトニー賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。
ヘプバーンの女優業は年齢と共に減っていき、後半生のほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ヘプバーンがユニセフへの貢献を始めたのは1954年からで、1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりには、ユニセフ親善大使としての活動に対してアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した。
“愛情に怯えたりはしません。でも、愛情が失われることには怯えています”
第二次大戦中、ナチス占領下のオランダで奇跡的に生きのびた彼女は、「すべてを奪い取られ、人生を引き裂かれるのを私は恐ろしいほど見せつけられました。だから愛をしっかり守るのです」と語っている。
“この暴力的な世界に一時の休息をもたらせる、そんなビジネスの一員であることを誇りに思っています”
1993年には米映画俳優組合の特別功労賞を受賞。そのとき病で表彰式に出席できなかったオードリーの代わりに、ジュリア・ロバーツがこの感謝のメッセージを読み上げ、感動を呼んだ。
“アメリカの女性がカウンセラーに依存するように、私はジバンシィに依存しているの”
『麗しのサブリナ』の衣装をオードリーが直々に依頼してからというもの、ユベール・ド・ジバンシィは映画から私服まで、生涯を通じて彼女のスタイルに欠かせないパートナーに。1983年に日本で行われたジバンシィのショーに出演したことも。
“人間のわがままが空を汚し…動物を絶滅に追い込みました。次は子どもたちなのでしょうか?”
60年代後半からは、子育てに専念して女優業を控えていた。その後の人生はユニセフ親善大使として、厳しい環境にある世界の子どもたちに注がれた。彼女の熱意あふれる活動は今もユニセフのWebで伝えられている。
“猫を追い出すのは、今まで演じた中で一番嫌なシーンだった”
『ティファニーで朝食を』で、雨の中タクシーから猫を追い出すシーンは、動物好きにとって衝撃的な瞬間。演じた当のオードリーも後にこう語っている。でも映画のヒットでトラ猫が大人気になり、当時シェルターから赤毛の猫がいなくなったそう。
『ティファニーで朝食を』は当初、作者のトルーマン・カポーティが主役にはマリリン・モンローをと熱望していた。でも彼女は“夜の女性”は演じない、と辞退。オードリーは、それなら私はスタイリッシュに演じようと直感で決めた。
“庭に花や木を植えることは、明日を信じること”
生涯の3分の2を過ごした場所は、18世紀に建てられたスイスの邸宅。さくらんぼの果樹園が見渡せ、すずらんやクロッカスなど季節の花が咲きほこる庭園は、“永遠の妖精”にぴったりの場所だった。
“人生について深刻に考えたりはしないけど…私の人生で何をするかは真剣に考えているわ”
野心的で、目標を決めたら猛進するけれど、内心はとても伝統的でロマンティックなタイプの彼女。2人の息子が生まれたときは仕事を休んで子育てに専念した。“家族の幸せを母は一番大切にしていた”と息子ルカは語っている。
“エレガンスは、決して色褪せることのない唯一の美です”
その言葉どおり、映画や写真集などで私たちが目にすることができる、オードリーの自然で無理のない優雅さ、シンプルな美しさは、デザイナーやクリエイターだけでなく、世界中の女性たちにインスピレーションを与え続けている。
“不可能なことなどないわ。Impossible(不可能)という単語自体に、I’m possible(私にはできる)と書いてあるのだから”
バレリーナを目指してレッスンに励んでいたときに学んだのは、“一生懸命にやれば必ず上手く行き、すべては内面からほとばしるものでなければならないということ”。その精神は彼女の生涯にわたって貫かれた。
“自信も経験もない、やせっぽちの女の子に、手を貸して磨き上げてくれた”
『ローマの休日』の主役に抜擢されたオードリーは当時ほぼ無名の女優。でも彼女の抜群の魅力にスタッフはみな虜になった。衣装担当のイディス・ヘッドは彼女の細いウエストに感嘆して、「最もスリムな50cm!犬の首輪でも大丈夫!」と絶賛した。
“ダメ、白いソックスではライン全体が崩れてしまうわ”
駆け出しの頃、手持ちの帽子が少なくても、曲げたりスカーフを巻いたり毎日スタイルを変えて周囲を驚かせていた、根っからおしゃれ好き。『パリの恋人』『シャレード』のドーネン監督とは、白のソックスか黒タイツかで喧嘩したこともある。
12歳年上の俳優メル・ファーラーや精神科医アンドレア・ドッティ、晩年を共に過ごした俳優のロバート・ウォルダーズなど、恋の相手はいつもオードリーを気遣う大人の男性だった。彼女も理解し合うことが一番大切と、パートナーを支えた。
“私のような顔が写真に載るなんて思いもしなかったわ”
オードリーは映画史上最も多く写真を撮られた女優と言われ、特に『マイフェアレディ』の衣装やVOGUEの撮影を手がけたセシル・ビートンや、リチャード・アベドン、スティーブン・マイゼルは約40年に渡って彼女の美しさを捉えた。