オードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn、181029(Mon)

★懐かしいオードリー・ヘップバーン。こんな過酷な環境で育った。戦争中でも

バレーを習った姿勢に感動する。で 紆余曲折をへて、オランダに移り住み、

その後 ロンドンに移住。★戦後の混乱の中で 夢を忘れず 生きたことが

その後の華麗な人生となった。

★オードリーヘップバーンのフアンは 私の世代は沢山いる。映画が出来る度に見に行っていた。

誰もが憧れた。そういえば たまたま買い求めたプロマイドを持っていた頃 著名で尊敬する

帯津先生がフアンと知っていたので 差し上げたら満面の笑みを浮かべてくれた。

今も手帳に挟んでいらっしゃるのだろうか?? 今度お会いしたらお聴きしよう。

111.オードリー・へプバーン

63歳で亡くなられたオードリー・へプバーンさんの生立ち。

「ローマの休日」は大好きな映画!!! 彼女は永遠のプリンセス、憧れの女性です

ローマの休日が公開されたのは1953年、スプートニク・ショック(1957)に先駆ける事4年前。冷戦の影が忍び寄る時代でした。そしてこのローマの休日以降旧東側諸国に対するプロパガンダ映画が数多く制作され、米国のミュージシャンが東欧諸国を含む欧州をツアーしたりとプロパガンダ外交も行われていました。(某氏のコメント)

ローマの休日は 下に記載のPart 1からご覧ください。

333.ローマの休日(Roman Holiday, 日本語字幕) part2

監督 ウィリアム・ワイラー 出演者 オードリー・ヘプバーン, グレゴリー・ペック, エディ・アルバート ウィリアム・ワイラーが製作・監督。イタリアのローマを表敬訪問した某国の王女が滞在先から飛び出し、一人でローマ市内に出て知り合った新聞記者との切ない24時間の恋を描いている。トレビの泉や真実の口など、永遠の都ローマの名だたる観光スポットを登場させていることでも有名である。 王女をオードリー・ヘプバーン、新聞記者をグレゴリー・ペックが演じている。この時に新人だったオードリー・ヘプバーンは、1953年のアカデミー賞において、アカデミー最優秀主演女優賞を受賞している。

222.ローマの休日(Roman Holiday, 日本語字幕) part1

監督 ウィリアム・ワイラー 出演者 オードリー・ヘプバーン, グレゴリー・ペック, エディ・アルバート

 444.オードリーヘップバーンの粋な言葉

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

Photo: Photofest/AFLO

“私にとって最高の勝利は、自分と他人の欠点を受け入れられるようになったこと”

1927年ベルギーに生まれたオードリーは、母親はオランダ貴族の出身で、幼い頃に父親が家出、5歳でロンドンの寄宿学校に入るという波乱万丈の幼少時を過ごした。彼女は寂しさから太ってしまい、自分に自信がもてなかったそう。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

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“一番好きなことは笑うこと。人として最も大事なことじゃないかしら”

好きなタイプは自分を笑わせてくれる男性。彼女自身もユーモアあふれる性格で、周りの人たちを笑わせて皆に愛された。頭をスカーフで包み「顔が四角いでしょう?」とおどけるので、スクエアというあだ名が付いたことも。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

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“自分の犬より自分の方が魅力的だなんて、誰も思わないわ”

動物が大好きで、元夫メル・ファーラーから贈られたヨークシャーテリア(名前はミスター・フェイマス)を溺愛。映画『尼僧物語』の撮影では一緒にベルギーに行けるように、フェイマスも特別ビザを持っていた。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

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“ファッションは間違いなく私にとって夢中になれるものね”

明確に自分のスタイルを持っていて、仕立てのいい赤やオレンジなど鮮やかな色のコートや、今ではクラシカルになったリトルブラックドレスなど、自分にぴったり合うものを慎重に選んでいたオードリー。『麗しのサブリナ』の中で彼女が履いたことで有名になったサブリナパンツ姿も個性が際立っていた。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

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“私のルックはすぐ真似できるわ、大きなサングラスとノースリーブドレスを着ればね”

『ティファニーで朝食を』で誰もが思い浮かべる有名なブラックドレスは、ご存知の通りジバンシィがデザインしたもので、サングラスはオリバーゴールドスミス。のちにオークションにかけられたこのドレスには90万ドルもの値がついた。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

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“大きなプール付きの家を夢見る人がいるけど、私には大きなクローゼットね”
クローゼットには、ジバンシィ(GIVENCHY)をはじめ、ヴァレンティノ(VALENTINO)ラルフローレン(RALPH LAUREN)サルヴァトーレ フェラガモ(SALVATORE FERRAGAMO)グッチ(GUCCI)エルメス(HERMÈS)ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)などのハイブランドがずらり。ジュエリーは、小粒のパールなど可愛らしいものが好きだった。
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555.ヘップバーンの生涯。

ウィキペディアより抜粋

オードリー・ヘプバーンAudrey Hepburn1929年5月4日 – 1993年1月20日)は、イギリス人で、アメリカ合衆国女優。日本ではヘップバーンと表記されることも多い。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。
ヘプバーンはブリュッセルイクセルで生まれ、幼少期をベルギーイングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダアーネムに住んでいたこともあった。各種資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの名前をもじって(EllaEddaとした)一時的に変えたものである[1]。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル (en:Sonia Gaskell) のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。
イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』(en:Gigi (1951 play)) で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でトニー賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞エミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。
ヘプバーンの女優業は年齢と共に減っていき、後半生のほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ヘプバーンがユニセフへの貢献を始めたのは1954年からで、1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりには、ユニセフ親善大使としての活動に対してアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した
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オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

Photo: AFLO

“愛情に怯えたりはしません。でも、愛情が失われることには怯えています”

第二次大戦中、ナチス占領下のオランダで奇跡的に生きのびた彼女は、「すべてを奪い取られ、人生を引き裂かれるのを私は恐ろしいほど見せつけられました。だから愛をしっかり守るのです」と語っている。

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“この暴力的な世界に一時の休息をもたらせる、そんなビジネスの一員であることを誇りに思っています”

1993年には米映画俳優組合の特別功労賞を受賞。そのとき病で表彰式に出席できなかったオードリーの代わりに、ジュリア・ロバーツがこの感謝のメッセージを読み上げ、感動を呼んだ。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

Photo: Album/AFLO

“アメリカの女性がカウンセラーに依存するように、私はジバンシィに依存しているの”

『麗しのサブリナ』の衣装をオードリーが直々に依頼してからというもの、ユベール・ド・ジバンシィは映画から私服まで、生涯を通じて彼女のスタイルに欠かせないパートナーに。1983年に日本で行われたジバンシィのショーに出演したことも。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

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“人間のわがままが空を汚し…動物を絶滅に追い込みました。次は子どもたちなのでしょうか?”

60年代後半からは、子育てに専念して女優業を控えていた。その後の人生はユニセフ親善大使として、厳しい環境にある世界の子どもたちに注がれた。彼女の熱意あふれる活動は今もユニセフのWebで伝えられている。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

Photo: Photofest/AFLO

“猫を追い出すのは、今まで演じた中で一番嫌なシーンだった”

『ティファニーで朝食を』で、雨の中タクシーから猫を追い出すシーンは、動物好きにとって衝撃的な瞬間。演じた当のオードリーも後にこう語っている。でも映画のヒットでトラ猫が大人気になり、当時シェルターから赤毛の猫がいなくなったそう。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

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“スタイリッシュなホリーにならないと。それが私が唯一できることなら”

『ティファニーで朝食を』は当初、作者のトルーマン・カポーティが主役にはマリリン・モンローをと熱望していた。でも彼女は“夜の女性”は演じない、と辞退。オードリーは、それなら私はスタイリッシュに演じようと直感で決めた。

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“庭に花や木を植えることは、明日を信じること”

生涯の3分の2を過ごした場所は、18世紀に建てられたスイスの邸宅。さくらんぼの果樹園が見渡せ、すずらんやクロッカスなど季節の花が咲きほこる庭園は、“永遠の妖精”にぴったりの場所だった。

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“人生について深刻に考えたりはしないけど…私の人生で何をするかは真剣に考えているわ”

野心的で、目標を決めたら猛進するけれど、内心はとても伝統的でロマンティックなタイプの彼女。2人の息子が生まれたときは仕事を休んで子育てに専念した。“家族の幸せを母は一番大切にしていた”と息子ルカは語っている。

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“エレガンスは、決して色褪せることのない唯一の美です”

その言葉どおり、映画や写真集などで私たちが目にすることができる、オードリーの自然で無理のない優雅さ、シンプルな美しさは、デザイナーやクリエイターだけでなく、世界中の女性たちにインスピレーションを与え続けている。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

Photo: Everett Collection/AFLO

“不可能なことなどないわ。Impossible(不可能)という単語自体に、I’m possible(私にはできる)と書いてあるのだから”

バレリーナを目指してレッスンに励んでいたときに学んだのは、“一生懸命にやれば必ず上手く行き、すべては内面からほとばしるものでなければならないということ”。その精神は彼女の生涯にわたって貫かれた。

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“自信も経験もない、やせっぽちの女の子に、手を貸して磨き上げてくれた”

『ローマの休日』の主役に抜擢されたオードリーは当時ほぼ無名の女優。でも彼女の抜群の魅力にスタッフはみな虜になった。衣装担当のイディス・ヘッドは彼女の細いウエストに感嘆して、「最もスリムな50cm!犬の首輪でも大丈夫!」と絶賛した。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

Photo: Alfaqui/AFLO

“ダメ、白いソックスではライン全体が崩れてしまうわ”

駆け出しの頃、手持ちの帽子が少なくても、曲げたりスカーフを巻いたり毎日スタイルを変えて周囲を驚かせていた、根っからおしゃれ好き。『パリの恋人』『シャレード』のドーネン監督とは、白のソックスか黒タイツかで喧嘩したこともある。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

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“男女が愛し合う。それはまず、いつも理解しあうことから成立するものだと思うの”

12歳年上の俳優メル・ファーラーや精神科医アンドレア・ドッティ、晩年を共に過ごした俳優のロバート・ウォルダーズなど、恋の相手はいつもオードリーを気遣う大人の男性だった。彼女も理解し合うことが一番大切と、パートナーを支えた。

オードリー・ヘップバーンの名言集!愛に生きた彼女が語った言葉。

Photo: AFLO

“私のような顔が写真に載るなんて思いもしなかったわ”

オードリーは映画史上最も多く写真を撮られた女優と言われ、特に『マイフェアレディ』の衣装やVOGUEの撮影を手がけたセシル・ビートンや、リチャード・アベドン、スティーブン・マイゼルは約40年に渡って彼女の美しさを捉えた。

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666.オードリーヘップバーンの1954年以降

ネットより抜粋

1954年9月25日、オードリーとメル・ファラーはスイスのルツェルン湖畔にあるブルゲンシュトック教会で結婚式を挙げた。
オードリー25歳。ピエール・バルマンの白いオーガンジーのドレスに、頭に白バラの冠をつけ、清純な花嫁姿を披露した。

一方メルは37歳。3度の離婚経験があり、4児の父親でもあった。
メルと出会う前、オードリーはジェームズ・ハンソンというイギリス人実業家と婚約していた。けれど、『ローマの休日』の成功でオードリーが世界的なスターになったことから2人の生活にはすれ違いが生じ、婚約解消となった。
その後『麗しのサブリナ』の撮影中に、共演したウィリアム・ホールデンと恋仲になったが、彼に妻子がいたことが障害となり、撮影の終了とともに別れることになった。

メルと出会ったのは、その直後の1953年7月。グレゴリー・ペックが自分の開いたパーティで2人を引き合わせたのだ。
恐らくそのとき、オードリーは仕事と私生活の両方で自分を支えてくれる男性を必要としていたのだろう。12歳年上で、キャリアのある俳優であり、演出家でもあるメルは恰好の結婚相手だったのだ。

スイスとイタリアの郊外でハネムーンを過ごし、10月には妊娠が明らかになった。
常々、「わたしには子供を産むこと以上に大切なことなんてありません」と公言していたオードリーは仕事よりも家庭を優先させる生活を望んでいた。
しかし翌年3月に子供を流産してから、彼女の運命は、本人の思いとは反する方向へと展開していく。

アカデミー賞女優という栄光以上にオードリーを有名にしたのが、その体形とファッションだった。
オードリーのスリー・サイズは23歳から、32―20―35インチで変わらなかった。当時もてはやされていたマリリン・モンローの体形からはほど遠い、がりがりで骨ばった、少年のような体つきだった。
その体形を洗練されたチャーミングなものにしたのが、ジバンシーの服だった。

1953年に『麗しのサブリナ』の服を担当して以来、ジバンシーは生涯にわたって、オードリーの服をデザインし続けた。
ジバンシーの幾何学的で単純なラインと、黒、オフ・ホワイト、抑えたパステルカラーといった色合いは彼女の体形に完全にマッチしていた。
それまでの女性美の概念を覆したオードリーの「妖精スタイル」はたちまち大流行し、世界中の女性が真似をするようになった。

「わたしはまじりもののない、本物の楽園にいたの」

オードリーは自分の起こしたブームについて、こう語っている。

「・・・・・・びっくりするばかりですよ。街でわたしに出会うと驚きます。『あらあら、わたしはずっと私に似ていなくちゃならないのね・・・・・・』ってひとりごとをいうんです」(『オードリー・ヘップバーン 妖精の秘密』ベルトラン・メイエ=スタブレ)

『麗しのサブリナ』『ティファニーで朝食を』『マイ・フェア・レディ』と、主演した作品はファッションへの注目もあって次々に大成功をおさめ、『ローマの休日』から10年でオードリーは世界の大スターとなった。

いっぽうプライベートでは、1960年にメルとの間に待望の息子ショーンが生まれた。けれど、オードリーの名声と富はメルの自尊心を傷つけ、夫婦間の溝を深くしていった。
その溝を埋めようとしたのだろう。2人は65年、スイスのモルジュ村に新しい住居を購入した。18世紀に建てられた美しい田舎家で、アルプスの眺望も素晴らしかった。
オードリーはここで家族が仲睦まじく暮らすことを夢みたのだろうが、その夢がかなうことはなかった。

1966年、67年とオードリーが続けて流産したこともあり、結婚生活を維持できなくなった2人は67年秋に別居した後、68年11月、正式に離婚した。
離婚の半年前、フランス人の友人からエーゲ海クルーズに招待されたオードリーは、そこで9歳年下のローマ大学の助教授にして精神科医のアンドレア・ドッティと出会った。

ユーモア溢れるイタリア男、アンドレアはオードリーの気持ちを明るくさせた。
急接近した2人は69年1月18日、スイスのモルジュ村の教会で結婚した。ジバンシーのピンクのアンサンブルに同色のスカーフという装いの39歳の花嫁は、その若々しさで周囲を驚嘆させた。

新居はローマのポポロ広場に面した豪勢なアパートメントだった。
アンドレアと息子のショーンの仲はよく、3人は普通の家族のように、街での買い物や食事を楽しんだ。

「わたしはまじりもののない、本物の楽園にいたの。毎日家のことを取りしきって暮らしたいと、前からずっと願っていたのよ。・・・・・・」
(『オードリー・ヘプバーン』ダイアナ・メイチック)

オードリー・ヘプバーン