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昨夜 日本学園「同期の桜」と会って来た。男子校なので、男ばかりだが 結構楽しい。それぞれの現状。自然と活発に話を交わす。高校時代は60年前の話だがすぐに昔のお顔とダブル。出てくる人たちは 皆元気だ。まだまだ あと30年ぐらいは生きそう。迷惑な話かも知れないが。結構 話が弾んで 杯を交わす。健康を考えて焼酎になっている。あ~しあわせ!!
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わが母校 日本学園高等学校 昭和38年卒(1963年)。時折 同期生と会っているので、改めて歴史や現在の姿を追ってみた。校舎など懐かしさが、こみあげてくる。学生たちの姿を訪ねたり、野球、バスケット ラグビー、サッカー、などなど活躍している姿に嬉しくなる。青春 真っ只中と錯覚する。20歳の60歳、20歳の60歳もいる。私たちは 後期高齢者の75歳だが、青春は 心の持ちようかも知れない。
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Youthという詩は、サムエル・ウルマン(Samuel Ullman)という人が作りました。ウルマンは、1840-1924年。ドイツ生まれのユダヤ人です。1851年両親と共にアメリカに移住しました。
Youthは、ウルマンが80歳の頃の作品です。Youthの題は、通常、「青春」と訳されます。しかし、私は、Youthを「若さ」と訳しました。
この詩は多くの日本人に影響を与えました。入社式や卒業式や結婚式などにもよく引用されます。私が訳した原文は、ウルマンが最初に出版した時の原文です。
私訳は次の通りです。あなたもきっと「私は若いんだ」と思われることでしょう。 若さ(Youth) サムエル・ウルマン作 増島俊之私訳 若さとは、歳ではなく、心の在りようである。薔薇色の頬でも、赤い唇でも、しなやかな膝でもない。
若さとは、意志であり、想像力であり、豊かな感性であり、湧き出る命のみずみずしさである。 若さとは欲しいものがあれば躊躇せずに手を伸ばしてつかみ取らんとする勇気であり、易きにつかず冒険することである。その気持ちは二十歳の若者より六十歳の人間にしばしば見られることである。年月を重ねることでは誰も老いない。志を捨てるときに老いていくのである。
年月が過ぎれば顔にしわができる。しかし、熱い思いがなくなると、精神にしわができる。心配、不安、自己不信は、心を折り曲げ、気力を失わせる。 六十歳であれ、十六歳であれ、すべての人間の心には、次々と新しさを求める幼児のような好奇心と生きることを楽しむ心がある。
あなたや私の心の中には、無線基地があって、美しさや希望、元気、勇気そして力が溢れてくるようなメッセージを人や創造主から受信する限り、あなたは若いのである。 そのアンテナが垂れ下がり、あなたの精神が皮肉と世を厭う気持ちで覆われるならば、そのときこそ、あなたはたとえ二十歳でも、老いてしまったのである。
しかし、そのアンテナがぴんと立って、次々と豊かな可能性を取り入れる限り、あなたは八十歳であっても若々しく死ぬことができるのである。
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★ まさかの時に 役立つ人間たれ
★ 社会の役に立つ人間たれ
杉浦重剛先生
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日本学園中学校・高等学校 校歌斉唱
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日本学園中学校・高等学校
過去の名称 東京英語学校
日本中学校 国公私立の別 私立学校 設置者 学校法人日本学園 設立年月日 1885年 創立者 杉浦重剛 共学・別学 男女別学(男子校) 中高一貫教育 併設型(外部混合一部あり) 課程 全日制課程 単位制・学年制 学年制 設置学科 普通科 学科内専門コース (中学校)
中高一貫コース
(高等学校)
特別進学コース
総合進学コース
スポーツコース 学期 3学期制 高校コード 13656F 所在地 〒156-0043
日本学園中学校・高等学校は、東京都世田谷区松原二丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。高等学校での募集があり、特別進学コース、総合進学コース、スポーツコースの3コースに分かれ、その一部が内部進学生と混合のクラス編成となる、併設混合型中高一貫校
杉浦重剛、増島六一郎、宮崎道正らが、共に国粋運動の政教社の同人であった千頭清臣、谷田部梅吉、松下丈吉らに要請され[1]、1885年(明治18年)東京市神田区錦町に設立した東大予備門の進学予備校である東京英語学校が前身校に当たる。
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略歴 (ウィキペディアから抜粋)
1885年(明治18年)創立の東京英語学校が前身に当たる。同じ敷地の門を挟んだ所に、増島によって同年月日に設置願いを出された英吉利法律学校(現・中央大学)があり、校舎を共有もしていた。当初は、共立学校(現・開成中学校・高等学校)や成立学舎などを抑えて第一高等中学校(帝国大学予科、のちの一高)への進学者数トップ校として知られていた[1][3]。
その後火災で焼失し、1892年(明治25年)、半蔵門そばの東京府東京市麹町区山元町に再建、1891年(明治24年)の中学校令に合わせて校名を尋常中学私立日本中学校とし、進学予備校から尋常中学校に改組した。のちに日本中学校と改称、1936年(昭和11年)に現在の世田谷区松原に移転した。戦後に現在の日本学園中学校・高等学校となった。
当時、杉浦がその教育の念頭に置いていたのは、欧化一辺倒に流れる中でも伝統の継承を基本的な課題としたことにあり、官学よりもさらに国威を高めようとするものであった。他方で上級学校への進学にも適応し、かつて明治時代の私立全盛期においては、一高合格者数では獨逸学協会(現・獨協中学校・高等学校)、府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)などと並び常に上位に位置していたという進学名門校であった。
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世田谷の松原校舎1号館は日本学園出身の今井兼次の設計による昭和初期の建築である。国の登録有形文化財に登録されている。
交通
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出身者 ※前身校の出身者を含む
文化
- 佐佐木信綱(歌人・国文学者)
- 嶋田青峰(俳人・新聞記者)
- 渡辺水巴(俳人)※中退
- 横山大観(画家 / 府立一中を経て入学)
- 志田甲太郎(法学者、明治大学総長 / 同上)
- 岩波茂雄(岩波書店創業者 / 諏訪実科中を経て入学)
- 長谷川如是閑(ジャーナリスト)
- 永井荷風(作家)
- 鏑木清方(画家)
- 鈴木虎雄(漢詩・漢学者 / のち府立一中へ)
- 渋沢元治(工学者、名古屋帝国大学初代総長 / 同上)
- 荒川文六(工学者)
- 森田草平(作家)
- 浅野和三郎(作家、心霊研究家)
- 吉井勇(作家 / 府立一中を経て入学、のち攻玉社へ)
- 寺崎浩(作家)
- 丸山千里(医学者 / 丸山ワクチン開発者)
- 入江啓四郎(国際法学者・ジャーナリスト)
- 荻野久作(医学者 / オギノ式避妊法)
- 塩澤昌貞(早稲田大学第4代学長、第2代総長)
- 矢野勘治(作詞・一高寮歌・嗚呼玉杯)
- 楠正一(作曲・一高寮歌・嗚呼玉杯)
- 今井兼次(建築家)
- 上田敏(文学者)
- 高山樗牛(文芸評論家)
- 甘利俊一(東大教授)
- 有賀久雄(農学者・東大名誉教授)
- 小川琢治(理学者 / 湯川秀樹の父)
- 朝永三十郎(哲学者 / 朝永振一郎の父)
- 呉文炳(経済学者、日大総長)
- 三好二郎(学者)
- 小田健司(東工大教授)
- 柏原啓一(東北大学教授)
- 杉靖三郎(医博・東京教育大学名誉教授)
- 鈴木隆雄(東京農業大学前学長)
- 関根文之助(文学者、高千穂商科大学学長)
- 竹添秀男(東工大教授)
- 辻涅(東大教授・放送大学教授
- 坂本百大(哲学者)
- 南方康(学者、東大名誉教授)
- 福田徳三(経済学者)
- 米川伸一(歴史学者、一橋大名誉教授)
- 八杉貞利(ロシア語学者)
- 古川晴風(ギリシア語学者)
- 中西利雄(画家)
- 西郷孤月(画家)
- 菱田春草(画家)
- 真野紀太郎(画家)
- 斎藤義重(画家)
- 小畠廣志(彫刻家)
- 笹村良紀(彫刻家)
- 山脇洋二(彫金家 / 芸術院賞)
- 佐藤圀夫(画家 / 芸術院賞)
- 鈴木千久馬(画家 / 芸術院賞)
- 山口五郎(尺八奏者 / 人間国宝)
- 吉村公三郎(映画監督)
- 荒井注(俳優、コメディアン、元ザ・ドリフターズメンバー)
- 高田文夫(放送作家)
- 太川陽介(歌手、俳優、タレント)
- 乱一世(タレント)
- 荒木しげる(俳優)
- 鈴木將義(フリーランスライター、デジタルメディア評論家)
- 斎藤工(俳優)
- 西山祐貴(柔道家)
- 岡部冬彦(漫画家)
- 三笑亭夢太朗(落語家)
- 大塚周夫(声優)[7]
官界
- 埴原正直(外務次官、駐米大使 / 山梨尋中を経て入学)
- 永井松三(外務次官、駐独大使 / 高師附属を経て入学)
- 太田政弘(内務省警保局長、警視総監 / 高橋政知の父)
- 荒木貞夫(陸軍大将、東京裁判にて終身刑判決、後釈放)
- 小村欣一(拓務次官、外務省情報部長 (1927) / 小村寿太郎の長男)
- 白鳥敏夫(駐イタリア大使、東京裁判にて終身禁錮刑判決、昭和24年死去)
- 斎藤博(駐米大使 (1933- ))
- 佐分利貞男(外務省条約局長)
- 川村竹治(内務次官、台湾総督、司法大臣)
- 秦豊助(逓信次官、拓務大臣、政友会幹事長 / 府立一中を経て入学)
- 中川正左(鉄道次官(1923年))
- 川村貞四郎(山形県知事、内務官僚、大日本インキ社長 / 愛知二中を経て入学)
- 井上庚二郎(海軍司政長官、駐ハンガリー兼ユーゴ大使)
- 磯田三郎(陸軍中将、特務機関「光機関」長)
- 和仁貞吉(大審院院長)
- 三好達(最高裁判所長官)
- 藤島昭(最高裁判所判事)
- 尾崎陞(弁護士、東京地裁判事 / 免田事件弁護団長)
政財界
- 吉田茂(内閣総理大臣 / のち数校に在籍)
- 芳沢謙吉(外務大臣 / 高田中学を経て入学)
- 加藤勘十(労働大臣)
- 宮沢胤勇(運輸大臣)
- 大口喜六(衆議院議員、初代豊橋市市長、薬剤師)
- 牛島謹爾(カリフォルニア州開拓者、「在米ポテト王」 / のち二松学舎へ)
- 小平浪平(日立製作所創業者)
- 瀬下清(三菱銀行会長)
- 小坂順造(電源開発総裁 / 長野中学を経て入学)
- 菅礼之助(東京電力会長 / 秋田中学を経て入学)
- 佐藤義夫(新潮社社長)
- 鈴木誠一(エステー会長)
- 千葉一男(王子製紙会長)
- 細川春雄(新京成電鉄会長)
- 佐々木弥市(日本石油社長)
- 浅野康介(日本軽金属社長)
- 井上実(東京銀行頭取)
- 榎本龍幸(JR東日本東京本社社長)
- 藤井健(三井信託銀行会長)
- 三浦勇一(トクヤマ社長)
- 本林理郎(日本IBM副社長)
- 高井昌史(紀伊國屋書店社長)
スポーツ
- 和宇慶勇二(プロボクサー、1998年度卒業)
- 岡部一彦(登山家・画家)
- 小原勝郎(マナスル登山隊隊員)
- 橋本清(日本山岳会副会長)
- 小西得郎(元プロ野球監督、元野球解説者 / 三高を経て入学・明大卒)
- 西郷泰之(社会人野球選手、アトランタ五輪日本代表)
- 山口貴之(サッカー選手、元ヴェルディ川崎在籍、アトランタ五輪予選日本代表、1991年度卒業)
- 竹中穣(サッカー選手、元横浜FC在籍、現FC町田ゼルビアヘッドコーチ、1994年度卒業)
- 尾亦弘友希(サッカー選手、元セレッソ大阪在籍、2001年度卒業)
- 山本恭平(サッカー選手、フィテッセ在籍、2005年度卒業)
- 野村政孝(サッカー選手、ロアッソ熊本在籍、2010年度卒業)
教職員
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★日本学園のホームページ★
https://www.nihongakuen.ed.jp/
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2017夏 日本学園 外野手 井上丈伊 スリーラン ホームラン!
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第1 日本学園 – 東亜学園 [準々決勝]2019年4月30日(火)平成31年度関東大会東京都予選会バレーボール男子
沿革
1885年(明治18年)創立の東京英語学校が前身に当たる。同じ敷地の門を挟んだ所に、増島によって同年月日に設置願いを出された英吉利法律学校(現・中央大学)があり、校舎を共有もしていた。当初は、共立学校(現・開成中学校・高等学校)や成立学舎などを抑えて第一高等中学校(帝国大学予科、のちの一高)への進学者数トップ校として知られていた。
その後火災で焼失し、1892年(明治25年)、半蔵門そばの東京府東京市麹町区山元町に再建、1891年(明治24年)の中学校令に合わせて校名を尋常中学私立日本中学校とし、進学予備校から尋常中学校に改組した。のちに日本中学校と改称、1936年(昭和11年)に現在の世田谷区松原に移転した。戦後に現在の日本学園中学校・高等学校となった。
当時、杉浦がその教育の念頭に置いていたのは、欧化一辺倒に流れる中でも伝統の継承を基本的な課題としたことにあり、官学よりもさらに国威を高めようとするものであった。他方で上級学校への進学にも適応し、かつて明治時代の私立全盛期においては、一高合格者数では獨逸学協会(現・獨協中学校・高等学校)、府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)などと並び常に上位に位置していたという進学名門校であった。
ただ、その当時のどの私学にも見られたように資金面で苦慮し、また伝統派の大学がそうであったように近代化の過程で教育面における伝統の創造的継承という課題にも成功してきたとはいえず、明治後半以降から徐徐に上級学校への進学力も落としていくこととなる。
2007年度から高等学校に「特進コース」を設置。また、日本大学とは無関係だが、中央大学とは設立当初に関わりのあった人物や経緯などから、また当初は東京英語学校から英吉利法律学校へ無試験入学が許可されていたように関係が深い。
2008年度から、同じ世田谷区にある講道学舎の塾生を中学校・高等学校ともに受け入れ始めた。2012年3月には、明治大学と高大連携協定を結んでいる。
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年表
- 1885年 – 東京英語学校として東京府東京市神田区錦町(現:千代田区神田錦町)に設立
- 1892年 – 日本中学校に改称
- 1916年 – 東京府豊多摩郡淀橋町(現:新宿区西新宿)に移転
- 1936年 – 現在地に移転
- 1948年 – 学制改革により現校名に改称
- 1965年 – 中学校の募集停止
- 1996年 – 中学校の募集再開
校舎
世田谷の松原校舎1号館は日本学園出身の今井兼次の設計による昭和初期の建築である。国の登録有形文化財に登録されている。
交通
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杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、安政2年3月3日(1855年4月19日)- 大正13年(1924年2月13日)は、明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家。幼名は謙次郎。父は膳所藩の儒者杉浦重文。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。
若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講する。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立。
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去年出席させて頂いた梅窓会が送られて来た。なんとご紹介をして頂いていた。感謝です。
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経歴
近江国膳所藩の儒者で父杉浦重文(蕉亭)と母八重の次男として生まれる。3歳のとき、護送される頼三樹三郎を目撃する。数え年6歳で藩校・遵義堂に入学を許され、高橋正功(坦堂、作也)、黒田麹廬、岩垣月洲に漢学洋学を学ぶ。“予の精神は之を坦堂先生に受け、学問は之を麹盧先生に受け、識見は之を月洲先生に受けた”と後に懐述するように、この三人より受けた教育的感化は彼の一生を支える程強かった。15歳で句読方に任ぜられる。
15歳のおり藩より貢進生に選ばれ東京に下り、大学南校に学ぶ。在学中は猛勉強の結果、明治6年(1873年)10月、明治天皇への御前講演に選ばれ理化学の実験を行う。明治9年(1876年)、第2回文部省派遣留学生に選抜されて渡欧。化学を専攻。当初は農業を修めるつもりでサイレンセスターの王立農学校に入るが、英国の農業は牧畜が中心で、穀物は麦で、勉強をしても帰国後役には立たないと気付き放棄した。化学に転向し、マンチェスター・オーエンスカレッジに移り、ロスコー、ショーレマン両教授の指導下で研究に従事。更にロンドンのサウスケンジントン化学校、ロンドン大学等で学ぶうちに神経衰弱にかかり、明治13年(1880年)5月に帰国。
27歳で文部省と東京大学に勤める。その間、東大予備門(のちの一高)校長にあり、また大学予備門など旧制高校進学のために英語でもって教授する予備校であった東京英語学校(のちすぐに日本中学に改称)創立の中心の一人となる。
のちに、読売・朝日新聞の社説を担当となり、三宅雪嶺、志賀重昂らと政教社発行の「日本人」(のちに「日本及日本人」)や新聞「日本」の刊行に力を尽くす。それらによって国粋主義を主張し、当時の社会に影響を波及させる。明治22年(1889年)3月に文部省を非職[2]。同年には日本倶楽部をつくり、大隈重信の不平等条約改正案に反対する。小石川区議員を経て、翌年明治23年(1890年)第1回衆議院議員総選挙に大成会から出馬し当選。しかし翌年に辞職した。
その後は子弟の養成と共に東京文学院を設立し、以後も國學院学監や東亜同文書院院長、東宮御学問所御用掛などを歴任。官学崇拝も強く、当時の官公立中等教育のメッカである府立一中にも足を運び、「本校は帝都の第一中学であるのみならず、帝国の第一中学である」など講演にても国家の権威を高めることに尽力していた[3]。
迪宮裕仁親王(摂政宮、のちの昭和天皇)の御進講役も務め、さらに宮中某重大事件にては久邇宮家と結んで、山縣有朋に対抗した。大正13年(1924年)、腎臓炎のため死去[4]。墓所は東京文京区伝通院。
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門下
文士三羽烏
その他
- 高山樗牛– 文芸評論家。
- 長谷川如是閑– ジャーナリスト。
- 朝永三十郎– 哲学者。物理学者でノーベル賞受賞者の朝永振一郎の父。
- 荻野久作– 産婦人科医、医学博士。オギノ式
- 丸山千里– 丸山ワクチン発明者。
- 小西得郎– 昭和初期のプロ野球監督、野球解説者。
- 入江啓四郎– 国際法学者。
- 吉村公三郎– 映画監督。
- 小川琢治 – 地質学者、地理学者、湯川秀樹ら「小川兄弟」の父。
- 吉田茂 – 外交官、内閣総理大臣。
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日本学園硬式野球部 第98回夏季大会 vs國學院久我山 先制シーン2,118 回視聴 2016/08/28日本学園梅窓会
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栄典
- 1882年(明治15年)3月7日 – 正七位
- 1885年(明治18年)11月9日 – 従六位
- 1915年(大正4年)11月10日 – 勲四等瑞宝章
- 1916年(大正5年)5月30日 – 正五位
- 1919年(大正8年)5月7日 – 勲三等旭日中綬章
- 1921年(大正10年)3月1日 – 従四位
- 1924年(大正13年)2月13日 – 勲二等旭日重光章
著作
- 『天台道士教育論纂』 渡辺元吉、草川清編纂、敬業社、1890年5月
- 『天台道士著作集』 日本中学校校友会編、博文館、1915年4月
- 『天台道士語録』 猪狩史山、中野亨共著、政教社、1925年3月
- 『天台道士詩歌集』 世界文庫刊行会〈世界文庫〉、1925年2月(上・下)
- 『杉浦重剛座談録』 猪狩史山、中野刀水共編、岩波書店〈岩波文庫〉、1941年8月(復刊1986年)、ISBN 4003312317
- 『杉浦重剛先生全集』 大日本教育会滋賀県支部編、研究社、1945年3月 – 第一のみ
- 「杉浦重剛篇」(松本三之介編 『明治文学全集 37 政教社文学集』 筑摩書房、1980年5月、ISBN 4480103376)
- 『杉浦重剛先生遺墨集』 杉浦重剛先生顕彰会、1981年10月
- 『杉浦重剛全集』 明治教育史研究会編、杉浦重剛全集刊行会、1982年1月-1983年2月(6冊)
- 「『杉浦重剛全集』補遺」(『日本学園高等学校 研究紀要』第3集、1986年5月 / 第4集、1988年4月)
- 著書
- 『鬼哭子』 沢屋蘇吉、1884年5月
- 『鬼笑子』 沢屋活版部、1884年7月
- 『鬼怒子』 井上蘇吉、1885年1月
- 『鬼哭子 鬼笑子 鬼怒子』 井上蘇吉、1886年4月
- 『鬼哭子 他』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1950年
- 『国史初歩』 井上蘇吉ほか、1885年8月
- 『樊噲夢物語 : 一名新平民回天談』 福本誠筆記、井上蘇吉、1886年10月
- 『日本教育原論』 原亮三郎、1887年2月
- 『教育勅語渙発関係資料集 第二巻』 国民精神文化研究所、1939年3月
- 貝塚茂樹監修 『文献資料集成 日本道徳教育論争史 第1期第1巻』 日本図書センター、2012年6月、ISBN 9784284306089
- 『哲学こなし』 哲学書院、1887年5月
- 『日本通鑑』 辰巳小二郎ほか合著、哲学書院、1887年8月-1890年7月(7冊)
- 『外交私見』 浅岡雄之助筆記、遠山英一、1889年8月
- 『倫理書』 敬業社、1891年12月
- 『倫理書』 猪狩史山註解、政教社、1927年2月
- 『教旨弁惑 : 一名所謂衝突に就て』 宮崎繁吉筆記、敬業社、1893年8月
- 『諸葛亮』 猪狩又蔵共著、博文館〈偉人伝叢書〉、1913年10月
- 『知己八賢』 猪狩又蔵編、博育堂、1914年4月
- 『吉田寅次郎』 世木鹿吉共著、博文館〈偉人伝叢書〉、1915年6月
- 『日本の精神』 広文堂書店、1916年6月
- 『亡友追遠録』 猪狩又蔵編、明治図書、1921年5月
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國學院久我山vs日本学園_前半_第97回全国高校サッカー選手権東京予選U18_20181020 2,687 回視聴 2018/10/20 iwa44iwa チャンネル登録者数 555人
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- 『倫理御進講草案』 猪狩又蔵編纂、杉浦重剛先生倫理御進講草案刊行会、1936年4月
- 『倫理御進講草案』 猪狩又蔵編纂、杉浦重剛先生倫理御進講草案刊行会、1937年11月-1938年1月(4冊)
- 『倫理御進講草案抄』 猪狩又蔵編纂、杉浦重剛先生倫理御進講草案刊行会、1938年4月
- 『選集 倫理御進講草案』 第一書房、1938年10月
- 『倫理御進講草案』 心交会〈やまと文庫〉上中下、1984年7月-9月
- 『昭和天皇の学ばれた「倫理」 倫理御進講草案抄』勉誠出版、2016年11月。所功解説
- 日本大学精神文化研究所編輯 『教育勅語関係資料 第14集』 日本大学精神文化研究所、1990年2月 – 抄録
- 『教育勅語 : 昭和天皇の教科書』 勉誠出版〈勉誠文庫〉、2000年10月、ISBN 458501053X。所功解説
- 『教育勅語 : 昭和天皇の教科書』 勉誠出版〈べんせいライブラリー〉、2002年10月、ISBN 4585103651。同
- 『昭和天皇の学ばれた教育勅語』 勉誠出版、2006年3月、ISBN 4585053603。新書普及版、所功解説
- 『昭和天皇の学ばれた教育勅語』 勉誠出版、2009年8月(増訂版)、ISBN 9784585053606。同
訳書
- 『教育原論沿革史』 ブラウィング著、金港堂、1887年6月
- 『教育史善本叢書 西洋教育史 4』 雄松堂出版、1988年1月
- 『教育全史』 ペインター著、普及舎、1887年3月-1888年3月(6冊)
- 『教育全史』 ペインター著、普及舎、1892年11月(2冊)
- 『教育史善本叢書 西洋教育史 3』 雄松堂出版、1988年1月
- 『羅斯珂氏化学』 宮崎道正合訳、三浦源助ほか、1888年4月-1889年1月(2冊)
- 編書
- 『維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調書』 大日本教育会事務所、1892年9月
- 大日本教育会編 『維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調書』 国書刊行会〈明治教育古典叢書〉、1981年4月
- 『旧膳所藩学制』 杉浦重文編纂、杉浦重剛、1901年11月
- 『巌垣月洲』 政教社、1918年11月
- 『明治天皇 聖徳余韻』 大町桂月謹補、世界文庫刊行会、1925年2月
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日本学園硬式野球部 第97回夏季大会 対立川高校
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私たちの高校時代の校長先生は
久留島秀三郎先生だった。
薫陶を受けたことが 強烈な体験として 今なお残っている。
久留島 秀三郎(くるしま ひでざぶろう、1888年9月11日 – 1970年9月22日)は、多くの会社の社長、会長を務めた財界人、作家。京都府生まれ。鉱山技師で工学博士でもある。日本科学技術連盟第5代理事長。ボーイスカウト日本連盟第5代総長。旧姓は中野秀三郎。実兄は中野忠八。義父は久留島武彦。
第三高等学校、九州帝国大学工科大学採鉱学科を卒業。1914年12月より1916年6月まで兵役を務めた後、1916年9月より1920年7月まで農商務省鉱山局札幌鉱務署に勤務。
1916年、「京都少年義勇軍」の少年たちとともに、日本のボーイスカウトによる初野営(キャンプ)が琵琶湖畔の雄松崎(滋賀県志賀町)を実施。(現在、同地には『日本ボーイスカウト初野営の地』記念碑が建てられている。)
1920年から1937年まで満州に滞在し、多数の会社の役員を歴任。
1924年に行われた第2回世界ジャンボリー(デンマーク、コペンハーゲン)からの帰国の船内で、久留島武彦と中野忠八が中野の弟・秀三郎と久留島の一人娘を娶わせ、秀三郎を久留島家の養子とする縁談を決めたと伝えられている。
1937年から1963年まで昭和鉱業株式会社の社長(退任後、相談役)。1946年、同和鉱業株式会社の取締役社長となる。
1950年、ボーイスカウト日本連盟理事に就任。1953年日本科学技術連盟理事長に就任[1]。1954年、ボーイスカウト日本連盟理事長に就任。
1956年、日本国有鉄道理事、産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)就任。
1966年、ボーイスカウト日本連盟の第5代総長に就任。
1971年に静岡県、朝霧高原で行われた第13回世界ジャンボリーの後、ボーイスカウト日本連盟の正式英語名を “Boy Scout of Japan” から “Boy Scout of Nippon” とすべきだと主張し、議論の末にこれが定着した(なお、英語表記は2001年に “Scout Association of Japan” に変更された)。
また、神奈川県横浜市の「こどもの国」に「無名のスカウト戦士(Unknown Soldier)」のトーテムボール・彫像を建てる活動を推進した。
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- 『珈琲を啜りながら ― 南米紀行』(1931年)
- 『馬賊を語る』(1939年)
- 『印度・印度支那』(1940年)
- 『沸印を描く』(1944年)
- 『飛行機とバスの窓から』(1950年)
- 『空気の液化とその利用』(1950年)
- 『北米東西南北』(1951年)
- 『ユーゴスラヴィア ― ヴアルカンの赤い星』(1954年)
- 『つれづれに』(1957年)
- 『鉱物資源の完全活用 ― 鉱物資源の完全活用に関する工業的研究』(1957年)
- 『世界ところどころ 第1集 ニュージーランドの巻』(1959年)
- 『世界ところどころ 第2集 イスラエルの巻』(1959年)
- 『世界ところどころ 第3集 ヨーロッパの巻』(1959年)
- 『偲ぶ草 ― 久留島武彦』 (1960年)
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★著名な関係者 文化
官界
- 埴原正直(外務次官、駐米大使 / 山梨尋中を経て入学)
- 永井松三(外務次官、駐独大使 / 高師附属を経て入学)
- 太田政弘(内務省警保局長、警視総監 / 高橋政知の父)
- 荒木貞夫(陸軍大将、東京裁判にて終身刑判決、後釈放)
- 小村欣一(拓務次官、外務省情報部長 (1927) / 小村寿太郎の長男)
- 白鳥敏夫(駐イタリア大使、東京裁判にて終身禁錮刑判決、昭和24年死去)
- 斎藤博(駐米大使 (1933- ))
- 佐分利貞男(外務省条約局長)
- 川村竹治(内務次官、台湾総督、司法大臣)
- 秦豊助(逓信次官、拓務大臣、政友会幹事長 / 府立一中を経て入学)
- 中川正左(鉄道次官(1923年))
- 川村貞四郎(山形県知事、内務官僚、大日本インキ社長 / 愛知二中を経て入学)
- 井上庚二郎(海軍司政長官、駐ハンガリー兼ユーゴ大使)
- 磯田三郎(陸軍中将、特務機関「光機関」長)
- 和仁貞吉(大審院院長)
政財界
- 牛島謹爾(カリフォルニア州開拓者、「在米ポテト王」 / のち二松学舎へ)
- 小平浪平(日立製作所創業者)
- 瀬下清(三菱銀行会長)
- 小坂順造(電源開発総裁 / 長野中学を経て入学)
- 菅礼之助(東京電力会長 / 秋田中学を経て入学)
スポーツ
- 和宇慶勇二(プロボクサー、1998年度卒業)
- 岡部一彦(登山家・画家)
- 小原勝郎(マナスル登山隊隊員)
- 橋本清(日本山岳会副会長)
- 小西得郎(元プロ野球監督、元野球解説者 / 三高を経て入学・明大卒)
- 西郷泰之(社会人野球選手、アトランタ五輪日本代表)
- 山口貴之(サッカー選手、元ヴェルディ川崎在籍、アトランタ五輪予選日本代表、1991年度卒業)
- 竹中穣(サッカー選手、元横浜FC在籍、現FC町田ゼルビアヘッドコーチ、1994年度卒業)
- 尾亦弘友希(サッカー選手、元セレッソ大阪在籍、2001年度卒業)
- 山本恭平(サッカー選手、フィテッセ在籍、2005年度卒業)
教職員
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