核兵器を無くそう。なぜ核兵器はなくならず また核保有国が増えたのか?
ローマ法王が来日される。バチカンのローマ法王庁は13日、フランシスコ・ローマ法王が11月23日から26日まで、
この機会に核兵器について 人類を一瞬で滅亡する力をもつ核兵器が なくならないのか?しっかり考えよう。
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各国が 核兵器を減らさない理由は お互いに覇権を争い。また敵対する存在がいつ攻めてくるか? 判らないので 備えようとするからだ。興味深い記事をみつけた。読んでみよう。現実問題として このような背景があるからだ。
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On the Elimination of Nuclear Weapons – António Guterres (UN Secretary-General) •2017/10/06 United Nations
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アメリカの原爆投下は、広島、長崎が最後ではなく、始まりだった、という史実だ。
なぜトルーマン米大統領は一般市民が多数いる大都市に、無警告で、原爆を投下する事を最終決定したのか。
それはソ連に対して「核兵器開発を断念させる」ため、「目にもの見せる」ためだ。
決して、「終戦を早める」ためでも「真珠湾でだまし討ちした日本に罰を与える」ためでもなかったのだ。
出典終戦後もアメリカは原爆を落とそうとしていた−公文書発掘! ( 政党、団体 ) – 脱脂粉乳世代 – Yahoo!ブログ
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Can we prevent nuclear war? | Dr. Ira Helfand | TEDxVail
驚くべき事に、米国は広島・長崎原爆投下の後に、ソ連と満州主要都市を壊滅する計画を考えていたのだ。しかし、そのために必要な核爆弾の製造が間に合わなかった。
その間に、ソ連はスパイ戦で勝利し、米国の計画を察知して核兵器の開発を急ぎ、米国が核兵器を実戦配備する前に原爆実験に成功したのだ。
まさしく、広島・長崎の原爆投下は、今日の米・ロ・中の核大国のせめぎ合いの始まりだったのだ。
唯一の被爆国である日本は、それから74年経った今、日米安保体制の下で米国の核の傘に守られ、ロシア、中国と戦う国に完全に組み込まれてしまった。
そして、いまロシアも中国も、これまで以上に米国との核戦争に対抗できる国になり、日本への米国の核配備に反対している。
74年前には考えられなかった破滅的な核軍拡競争が始まろうとしている。
いまこそ日本は、唯一の原爆投下国と唯一の被爆国が同盟関係にあるという、日米安保体制の矛盾に気づくべきだ。
報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて)
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。
それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。
(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]
亡くなった弟を背負い、直立不動の姿勢で立つ少年の姿が収められています。
この写真は、少年が弟を荼毘に付す順番を待っている際に撮影されたのですが、
オダネル氏によると、少年は硬い表情で目を凝らして立ち尽くしており、
何の感情も見せず、涙も流していなかったそうです。
しかし弟が荼毘に付されている最中には炎を食い入るように見つめ始め、
その唇には血が滲んていたとオダネル氏は回想しています。
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写真を取り上げた投稿には、少年の姿に日本人の特別な精神性を見出す声など、
多くの反応が海外から寄せられていましたので、その一部をご紹介します
ローマ法王フランシスコが、長崎原爆投下の被害者の姿をとらえた1945年の写真をカードに印刷して配布するよう指示を出していることが1日までにわかった。カードの裏には、法王の要請により「戦争が生み出したもの」という言葉が記載されている。
この写真は、死亡した弟を背負いながら火葬場で順番を待つ1人の少年の姿をとらえたもの。第2次世界大戦末期に原爆が投下された直後、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョー・オダネルさんにより撮影された。
法王は今回、カードの裏に自身の署名とともに「戦争が生み出したもの」という言葉を記載するよう要請した。
写真の内容と由来は短いキャプションにより説明。「幼い少年の悲しみはただ、血のにじんだ唇をかみしめるその身ぶりの中にのみ表現されている」などと記している。
■少年の気高さと力強さに敬意を覚えた。
あの年齢の子供がこれだけの責任感を持っているなんて、ちょっと信じられないよ。
■涙が止まらない。
こんな悲しいことは二度と、絶対に起こしちゃ駄目だ!
■こんなに人の心を揺さぶる写真は他にないだろ。
■少年の気丈な態度を見てると、胸が張り裂けそう。
■こんなに直視が難しい写真に出会ったのは初めてだ。
■70年が経った今も戦争はなくなっていない。俺たちは何も学んでこなかった
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この映像を見ると戦争は、なんとしても 回避しなければと思う。いま戦争や紛争で、シリア、イエメン、コンゴをはじめ、世界の7500万人の子供たちが紛争の影響を受けている。知覧から飛び立った特攻機は陸軍、海軍合わせて 2000機が飛び立った。132機が命中できたが、亡くなった先輩たちは合計4300人を超える。映像を見ていると、居たたまれなくなってくる。
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「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器”ツァーリ・ボンバ”の破壊力」【核兵器】 922,905 回視聴
原爆3発目、急いでいた 長崎翌日の米軍公文書 http://www.chunichi.co.jp/articl…
「あの子じゃなかろうか」。長崎市の元小学校長、村岡正則さん(85)は10年ほど前、写真が長崎で公開されることを伝えるニュースを見て驚いた。同じ銭座国民学校(現銭座小)に通っていた少年にそっくり。学級は違ったが、何度か校庭で遊んだことがある。丸顔でおとなしい性格。転校生だったと記憶するが、名前は思い出せなかった。
45年8月9日、村岡さんは爆心地から1・6キロ離れた自宅で被爆。外出しようとした瞬間、閃光(せんこう)が走り吹き飛ばされた。がれきの下からはい出し、両脚と左腕のやけどの痛みをこらえながら母たちと裏山に逃げ込んだ。あの少年も幼子を背負って裏山にいた。「どうしよっとね」と尋ねると、少年は「母ちゃんを捜しよると」と言い、立ち去ったという。それっきり会っていない。
2017年末、法王は写真をカードに印刷し、<戦争がもたらすもの>というメッセージを添えて各国に配るよう指示。日本ではカトリック中央協議会(東京)などを通じて配布された。「私はあの子に会うたとさ、話したとさ」。カトリック信者でもある村岡さんは法王の行動に背中を押され、少年を捜し始めた。
銭座小は児童約850人のうち約500人が犠牲となり、学籍簿も焼失した。写真のことが書かれた本に出てくる人に会い、自分の記憶と照らし合わせて手掛かりを探った。調査範囲は市外にも広げたが、有力な情報は得られていない。
法王はかつて<核兵器は人類の平和的共存の基礎にはなれない>と語り、その教訓となる被爆者の証言を<予言的な声>と表現した。「焼き場に立つ少年」は核廃絶が進まない世界の未来を示唆する、と伝えたいのだろうか。
日米開戦回避回避を訴えるルーズベルト米大統領から天皇への親電を「瀬島少佐が配達遅らせた」 日米開戦前のまとめ
Kaneto Shindo’s “Children of Hiroshima” was released in Japan in 1952, when the memories of World War II and the dropping of atomic bombs on Hiroshima and Na…
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核廃絶より核の傘を重視するのは時代錯誤で非現実的 トランプ以降の世界情勢は混沌を絵に描いたような。ひたすら,米国ファーストを声高らかに吹聴してまわり。中には,米国から逃げ出す企業もあるような。 以前は,デトロイトって言えば,自動車産業の…
被爆後の長崎で、アメリカの従軍カメラマンが撮影したモノクロ写真「焼き場に立つ少年」です。少年が背負っているのは亡くなった弟。その火葬の順番を待つ姿を捉えたものです。
ことし11月に来日予定のローマ法王が「戦争がもたらすもの」というメッセージを添えて、おととし、世界中に発信。改めて注目されているのです。
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長崎投下から74年 “焼き場に立つ少年”をさがして
少年は誰なのか、74年たった今もわかっていません。その後、少年はどんな人生を歩んだのか。あの少年に会ったことがあると、今もさがし続ける男性がいます。
長崎市に住む、村岡正則さん(85歳)です。この1年半あまり、写真の少年につながる手がかりをさがし続けています。ローマ法王の発言をきっかけに、被爆当時の記憶が呼び覚まされたからです。
74年前のきょう。当時、小学6年生だった村岡さんは、爆心地から1.5キロ離れた自宅で母親とともに被爆しました。やけどを負った母親を支え、命からがら逃げ惑いました。ようやくたどり着いた避難先で出会ったのが、赤子を背負った、あの写真の少年だったといいます。
少年はその後、母親を見つけることができたのか。自分と同じ年ごろだったあの少年が、忘れられません。
村岡さんは「母親と一緒に私も逃げて、難民生活をしていったけれど、そんな苦労を(少年も)しただろうなと思うんですね。自分もそうだから、ひしひしと感じるんです。そういうことで、どうしても捜したい」と言います。
自らの記憶を頼りに、少年をさがす村岡さん。有力な手がかりがない中、ようやく少年の同級生だったという男性に会うことが出来ました。
男性によると、少年の名前は「あきひろ」くん。戦後、母親の実家がある諌早市に移住した可能性があるといいます。
新たな手がかりを得て、諌早市内で調査を始めた村岡さん。市内の小学校を探し回る中、ある学校にたどり着きました。
村岡さんと同い年にあたる、昭和21年の卒業生の中に、「あきひろ」という名前の子どもが見つかったのです。
学校には、昔の卒業写真も残されていることがわかりました。写真の少年と見比べることができれば、大きな手がかりとなります。
期待をいだき、写真集をめくる村岡さん。しかし、被爆直後の混乱からか、昭和21年の卒業写真はありませんでした。
被爆から74年。当時を知る人が少なくなる中、写真そのものから、少年に近づく情報を得ることはできないか。私たちが取り組んだのが、写真のカラー化です。
これまでNHKでは、最新のデジタル技術を使い、数多くのモノクロ映像のカラー化を行ってきました。カラー化するために画像を分析していくと、少年の体に、ある異変が起きていたことがわかりました。
黒い瞳の部分の横に、さらにグレーのかかった部分があることが分かったのです。これが何を意味しているのか。
48年にわたり広島などで被爆者医療に携わってきた、医師の齋藤紀さんは、目のグレーの部分は、出血したあとだと考えられると言います。
写真を詳しく見てみると、鼻には詰め物をしています。このことからも、出血しやすい状態にあったとうかがえます。
少年は、一定量の放射線を浴びたことで、骨髄が傷つき、体中が出血しやすくなっていた可能性があるといいます。少年がなんらかの形で被爆した可能性が浮かび上がってきました。
74年たった今もなお、私たちに戦争の悲劇を訴えかけている「焼き場に立つ少年」。当時の体験を語れる被爆者が少なくなっているからこそ、村岡さんは、この写真への思いを強くしています。「(少年は)写真で平和を訴えてくれている。立派だ。あっぱれだ。と呼びかけたい」といいます。
残念ながら、村岡さんが出会った少年が「焼き場に立つ少年」だという確かな証拠は、まだありません。写真の少年は誰なのか、謎は残されたままです。
しかし、74年前、長崎市民の多くが、写真の少年と同じように悲惨な経験をしたことは確かです。
だからこそ、多くの人たちが、この写真の少年に思いを寄せ、平和への祈りを新たにしているのだと思います。
★写真を撮ったジョー・オダネルさんの奥さんは 日本人の坂井貴美子さんの
お話を見てみよう。http://www.news24.jp/articles/2019/08/09/07479019.html
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娘は痛みと恐怖で叫び続けました。
空爆で重傷を負ったラザンさん(8歳・イエメン)のお父さんのストーリー
「私はサミール、33歳です。娘は空爆で金属片が目に当たって重傷を負い、血を流しながら痛みと恐怖で叫び続けていました。しかし私には、病院に連れて行くための交通費すらありませんでした。娘は『大丈夫、痛いけれど見えるよ』と言っていましたが、本当はかなり見えなくなっていたのです。
5日間家で激痛に耐えていた娘は、セーブ・ザ・チルドレンの支援で専門病院へ搬送され、手術を受けることができました」
恐怖を経験したラザンさんに、セーブ・ザ・チルドレンは精神保健・心理社会的支援(こころのケア)も提供しています。
イエメンの紛争は、世界最悪の人道危機です。
イエメンでの紛争はすでに3年を経過し、世界最悪の人道危機となっています。この危機において、最も影響を受けているのは子どもたちです。ハーリドさん(12歳)が戦闘機から爆撃を受けた時、スクールバスに乗っていた子どもたちのうち、40人の子どもたちが死亡しました。犠牲になった子どもたちの多くは10歳未満の子どもたちでした。
ハーリドさんは爆弾の破片によりひどい傷を負いました。爆撃直後は意識不明の状態が25日間続きました。その後、この恐ろしい経験から回復するため、集中的にこころのケアを受けました。
「死んでしまった友達もいるし、けがをした友達もいます。いつも一緒に遊んでいた友達とは、もう一緒に遊べない。お墓に行って、いつもそこで泣いています」
彼の望みは、紛争が終わることです。そして彼の夢は、医師になって、子どもたちの治療をすることです。
私たちは、イエメンの子どもたちがトラウマとなるような経験から立ち直れるよう、こころのケアを行うほか、教育の機会を提供といった様々な形での支援をしています。 また、子どもたちの命を救い、子どもたちの未来を守るために病気や傷の治療、コレラやジフテリアといった感染症の流行を止めるための活動を行っています。
紛争、飢え、そして病気によって何百万人もの子どもたちの命が脅かされています。
コンゴ民主共和国は、世界最悪の人道危機に直面しています。子どもたちは、そうした状況の最大の犠牲者となっており、200万人を超える子どもたちが、飢えにより命を落とす危険があります。この地域での紛争は20年にわたって続いているだけでなく、国全体でコレラやエボラにより子どもたちの命は脅かされています。紛争により村が安全ではなくなる前までは、ティムさんの暮らしはいいものでした。
「家は焼け崩れてしまいました。お父さんが首を斬り落とされて殺されたと、村の人から聞きました。お母さんと私たちきょうだいは何も持たず、30キロも歩きました」
彼女は家族とともに逃げ、今はおばの家で暮らしていますが、彼女の母親が重い病気のため小さな家に19人もの親戚が暮らし、食べ物は極端に不足しています。ティナさんは紛争のために学校に行っておらず、教育を受けないと、自分の未来がなくなると心配しています。
私たちは、最も弱い立場にある子どもたちの命が守られ、安全でいられるような支援活動を行っています。また、子どもたちにとって必要な教育の機会を提供し、子どもの未来を守るための支援も行っています。そして、本来なら子どもたちが経験してはならない恐怖から回復できるようこころのケアを行ったり、学んだり、遊んだりできる安全な空間の提供もしています。
紛争が子どもに与える影響
シリア国内と周辺国での支援
2011年3月に始まったシリア危機。人道支援を必要とする1,310万人を超える人のうち、500万人以上が子どもです。この危機の影響を受けた子どもたちやその家族に対し、セーブ・ザ・チルドレンは、緊急支援物資の提供や教育、子どもの保護などさまざまな面で支援を行っています。2018年までにシリア国内、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプト、トルコで380万人(うち子ども240万人)を超える人々に支援を届けました。
南スーダン国内と周辺国での支援
2016年7月の国内での武力衝突以降、ウガンダをはじめとする周辺国に逃れた南スーダン難民は約230万人となり、国内で支援を必要とする人は約570万人に上りました。セーブ・ザ・チルドレンは、南スーダン国内および周辺国で、食料支援や保健・栄養、教育分野での支援のほか、避難の途中で家族と離散した子どもや、虐待や児童労働、児童婚といったリスクにさらされている子どもを守るための保護の活動などを行いました。
イエメンの子どもたちへの支援
長年にわたる貧困や情勢不安が続いていたイエメンでは、2015年の武力衝突の激化により全土が大規模な人道危機に陥りました。2018年に人道支援を必要とする人は人口の約8割に当たる 約2,200万人、うち子どもは約1,130万人に上りました。セーブ・ザ・チルドレンは2018年、深刻な食料危機に対応するための食料配布に加え、栄養不良の子どもたちの治療、保健サービスの提供、教育支援などを通して、373万人へ支援を届けました。
セーブ・ザ・チルドレンの特徴
セーブ・ザ・チルドレンは子どもの権利のパイオニアとして、約120ヶ国で活動しています。
セーブ・ザ・チルドレンは、子ども支援活動を行う、民間・非営利の国際組織です。1919年、イギリス人エグランタイン・ジェブによって設立されました。彼女は第一次世界大戦で荒廃したヨーロッパで、敵味方を超えて、栄養不良に苦しむ敵国の子どもたちの援助に取り組みました。その活動の中で、子どもの権利に関する世界初の公式文書とされる「ジュネーブ子どもの権利宣言」を起草。その理念は、現在196の国と地域が締結している国連の「子どもの権利条約」へとつながり、世界に広がっています。
現在、日本を含む29ヶ国の独立したメンバーが連携し、約120ヶ国で子ども支援活動を展開。子どもの権利のパイオニアとして、国連や各国政府からもその専門性を認められ、世界中で、子どもを取り巻く環境に変革をもたらしています。
活動資金
セーブ・ザ・チルドレンの活動は皆さまからのサポートで成り立っています
セーブ・ザ・チルドレンは活動資金のうち、94%を事業費に充てています。支援の内容としては、保健・栄養分野の支援、教育支援など多岐にわたります。
経常費用の割合※1
地域別支出割合※2
分野別支出割合(日本)
分野別支出割合(海外)
※1 2018年度経常費用 1,751,289,418円
※2 海外援助費・緊急援助事業費・国内事業費・事業助成金等 計1,116,166,835円
活動内容
緊急・人道支援
自然災害や紛争などの影響を受けた子どもや地域社会に対して、迅速かつニーズに合った支援を行い、人々が日常を取り戻したり、生活を再建したりできるようサポートします。
保健・栄養
妊産婦と新生児のケア、感染症や栄養不良の予防と治療、保健システムの強化などを通し、すべての子どもやその家族が、良質な保健サービスを受けられるよう支援します。
教育
すべての子どもが質の高い教育を受けられるよう、学習環境の改善、教員の能力養成、地域社会の意識向上、就学前教育の普及などの活動を通して支援します。
子どもの保護
子どもを暴力、虐待、搾取から守るための取り組みや、安心・安全に成長できる環境づくりを、行政や地域社会、保護者、子どもたちなどさまざまなステークホルダーとともに推進します。
防災(災害リスク軽減)
防災に子どもたちの声が反映され、災害時に子どもたちが主体的に行動できるよう、地域社会の防災体制を強化。子どもを中心とする防災を推進します。
子どもの貧困
すべての子どもが生活や成長に必要なものやサービス、機会を得られ、可能性を発揮できるよう、直接支援や社会啓発、政策提言を通し、子どもの貧困問題の解決に取り組んでいます。
支援を受けた子どもの声
暴力が激化したミャンマーから逃れ、 バングラデシュで避難生活を送る ロヒンギャ難民のジャナットさん(12歳)
(セーブ・ザ・チルドレンが運営する)学 習センターが大好きです。ミャンマーで はいろいろなことがありましたが、ここ で勉強したり遊んだりしていると落ち着 いた気持ちになって、これまでに起こっ たことを忘れることができます。
学校が空爆で破壊され、セーブ・ザ・チルドレンが支援する学習支援センターで学んでいるイエメンのアブラーさん(12歳)(写真中央奥)
大きくなったら先生になりたいです。この学校にいる先生が大好きだから。でも、私が何より願っているのは、この紛争が終わることです。紛争は、私と、私の愛する人たちを引き離しているのです。
空爆に遭い、 セーブ・ザ・チルドレンの支援で 治療を受けているイエメンの サミールさん(8歳)
救急車で病院に運ばれて、3日後に目 が覚めました。早く紛争が終わって、落ち 着いてほしいです。将来は医者になっ て、たくさんの人を治療したい。 今はそう思っています。
職員の想い
海外事業部 プログラム・コーディネーター
渡邊 紗世
バングラデシュに避難しているロヒンギャ難民の子どもたちと家族のために、難民キャンプで井戸やトイレを設置しています。人口が密集したキャンプでは、生活に必要な水が不足しているばかりか、衛生環境が悪いために感染症が蔓延する危険もあります。このキャンプには、ミャンマーで凄惨な体験をした多数の子どもたちが生活しています。これらの子どもたちが健康に生きるためには、長期的な支援が必要です。そのためには皆さまの協力が不可欠です。あなたのご寄付を、困難な状況を生きる子どもたちのためにしっかりと役立ててまいります。
海外事業部 プログラム・コーディネーター
松村 拓憲
シリアにおける紛争で家を追われ、隣国レバノンで避難生活を送る子どもたちの支援を行っています。ここでは家計を支えるために、工場での危険な労働や、早すぎる結婚を強いられる子どもたちも少なくありません。私たちは、皆さまのご寄付をもとに、子ども一人ひとりのニーズに沿った支援を届けています。今後は、難民となった人たちが自分たちの力で生きていけるよう、保護者が収入を得られるための支援にも取り組んでいく予定です。生まれた場所に左右されず、子どもたち誰もが可能性を開いてほしい。そう願って活動を続けています。
支援者の声
世界の子どもたちの現状を見過ごすことができず
社会貢献活動にはこれまで参加したことはありませんでした。 きっかけは初めての海外一人旅です。
自分がいかに恵まれていて、ちっぽけな価値観で生きてきたか、と痛感しました。 どこかの団体に寄付をして社会の役に立ちたいと思っていたときにセーブ・ザ・チルドレンのことを知り、世界の子どもたちの現状を見過ごすことができませんでした。
毎月の寄付ぐらいの金額は、いくらでも無駄なことに使えてしまいます。
支援を受けた子どもたちの笑顔を写真で見ると嬉しい気持ちになり、少しでも人の役に立っているなら良かった、と思っています。
(男性、24歳、埼玉県)
子どもと世界の問題について話すきっかけに
自分の息子と同年代か、より小さい子どもたちが厳しい暮らしを強いられていることを再認識し、これまで何も貢献していなかったことに気づき、セーブ・ザ・チルドレンへの寄付を始めました。
ニュースレターやアニュアルレポートをいただくたびに、子どもと世界の問題について話せるのがありがたいです。
子どもが「僕も大人になったら寄付するよ」と言っていたので、続けていて良かったと思います。
(男性、42歳、東京都)
子どもが健康に5歳を迎えられた感謝を込めて
末っ子が5歳になった時、何かの拍子にキャッチコピーで、世界では5歳の誕生日を迎えるのが難しい国がある、ということが目に留まりました。
末っ子が健康に恵まれ5歳を迎えられた感謝をこめて寄付をしようと思ったのがきっかけです。
社会貢献とか、寄付とかいう考えではなく、単純に息子が元気に育ってくれたので、他の子も元気に育つように、と願ってセーブ・ザ・チルドレンへの寄付を始めました。
これからも人の幸せも願える人で有りたいと思っています。 何より、子どもに背中を見せられる親でありたいです。
(女性、44歳、奈良県)
退職後の自分のあり方のまず一歩と思って
セーブ・ザ・チルドレンへの寄付を始めた頃、退職後で社会的なつながりを失い、自分のあり方について答えを探していた時だったと思います。
ネットで活動内容などを調べ、今後の自分のあり方のまず一歩と思いセーブ・ザ・チルドレンへの定期支援を決めました。
紛争地の子どもたちの惨状に対し、何かできることをしたいと思ったからです。
(女性、64歳、神奈川県)
寄付金控除を受けられます
セーブ・ザ・チルドレンへの寄付は税控除の対象です。
セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンは内閣府より公益社団法人としての認定を受けています。そのため、セーブ・ザ・チルドレンへの寄付は、税制優遇措置の対象となっています。所得税、法人税、相続税、一部の自治体の住民税において、それぞれに定められている条件を満たすことで優遇措置を受けられます。
よくある質問
世界の子どもたちへのセーブ・ザ・チルドレンの活動をご支援いただく毎月定額での継続ご寄付の仕組みです。すでに世界で約200万人の支援者がいらっしゃいます。毎月寄付をいただいている支援者様には定期的に年次報告書やニュースレター、メールマガジンをお送りしています。
あなたのご支援・活動へのご参加が、子どもたちの未来につながります。
セーブ・ザ・チルドレンにご協力ください。