★デニソワ人(シベリアから?)という巨人のことは 初めて知った。その子孫が縄文人から 現代の
私たちに繋がっているのか? 今朝は、沖縄の縄文文化や與那国の海底遺跡を長年研究されている
勝手連合会長の光永 勇さんと話したら 様々なことを教えてくれた。北の縄文人 南の縄文人。
様々なことが解明されて行く中で、「一番大切なこと」は 現代に生きる私たちが、どのような姿勢
で生き、未来の子供たちの為に何が出来るのかを改めて考えさせられる。
__________________________________________
★さあ與邦国海底遺跡を中心に沖縄縄文文化を学ぼう!!
222.與邦国海底遺跡
NCC Channel 2016/07/03 チャンネル登録 1474 海中遺跡で有名な沖縄県与那国島。この島には、巨人の伝説があった。 与那国島を含むアジア・太平洋地域に広がる巨石遺構は、有史以前の巨人が作ったものだった。そしてその巨人は、現在も生きていた!
222-2.与那国島海底地形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』https://youtu.be/n3o708n3K08?t=6
444.400,000 Year Old Siberian Cave Discovery That Changes Everything We Know About Human Origins
★デニソワ人と言う巨人3~4メートルもありそうだ。私たちの祖先なのか?? 南米に移住したという説もある。光永さんによれば、沖縄にいた縄文人は ペルーに移りアンデス文明を創ったそうだ。映像を見ているとこの話も出てくる。面白いなあ。まだまだ新しい事実が 最新の科学で解明されて行く。マチュピチュもそうなのか?? 身体の大きさは 3~5メートルあるのか?極めて大きい。もし祖先なら その後の食生活や環境変化 あるいは年齢を重ねるにつれ 私のように軟骨が減って、体がちじんで行ったのか? 専門家に調べて貰い解明して欲しい。当時の寿命は縄文人は30歳と言われているが。
日本の最も西に位置する沖縄県の与那国島。この島の新川鼻という断崖の岬からわずか100メートル沖合の海底に、「与那国島の海底遺跡」と呼ばれる神秘の遺跡が眠っている。
与那国島の海底遺跡
出典:クォーク編集部・編『海に沈んだ超古代文明』(講談社、2002年)海底遺跡の全長は、東西方向に約250メートル、南北方向に約150メートル、高さは26メートル(頂上部の約1メートルは海面から出ることも)。その外観は、まるで巨大な山城かピラミッドのようである。
それもそのはずで、用途はおそらく城か神殿ではないかと考えられている。防御を意識した造りや、宗教的な儀式に使われたとみられるレリーフなどがいくつも発見されているからだ。新川鼻の沖合は、かつて陸上にあったことがわかっており、人々の往来もしやすかった。造られた年代は、様々な調査から2000~3000年前頃ではないかと考えられている。ところがその後、突如、急激な地殻変動が起こり、遺跡は海中に没してしまった。
これが人の手によって造られた遺跡だという証拠は、直角に切り取られた階段、大規模なメインテラス、外部からの侵入を阻む城門、周囲を取り囲む石垣、石ころひとつ落ちていない平坦な通路、人の手が加えられたことを直接示すクサビ跡、石器類など、数多い。これらはすべて、自然にできたという考えでは説明不可能なものばかりだ。
一方、人工物であるという証拠は数多く出されており、その信頼性は揺るぎない。こうしたことから、与那国島の海底に眠る遺跡を水中文化遺産として登録しようという動きも出ている。遺跡の保護は必要不可欠であり、人類の遺産として後世に残していくべきである。
_________________________________________
666.縄文人が海外に作った〇〇文明!現代科学が解き明かす縄文人の国外進出!【縄文王国】縄文人がペルーのアンデス文明を創ったのか?
縄文王国
謎解き
与那国島の海底遺跡は、確かに人工的な遺跡のように見える。とても自然にできたとは思えない。最初に海底遺跡の写真を見た頃の私の感想がまさにそうだった。しかし、それから10年以上が経ち、詳しく調べられるようになった現在、その考えは大きく変化した。結論から先に述べれば、与那国島の海底遺跡とされるものは、自然にできたものだと考えられる。なぜそう考えられるのか。具体的には以下の検証結果をご覧いただきたい。以下では、海底遺跡を論じるうえで、その名称に対して使われている「遺跡ポイント」という呼び名を使う。
__________________________________
777.This is Jomon, Japanこれが縄文日本です。縄文土偶イナンナ説byはやし浩司Hiroshi Hayashi, Japan
Hiroshi Hayashi2016/05/09 林さんから学ぶことが多い。
______________________________________________
遺跡ポイントは岩が削られてできたもの?
次にもうひとつ、おさえておきたいことがある。それは遺跡ポイント全体が、石を組み上げていった建造物ではなく、岩が削られてできた地形であるという事実だ。この違いは、実はかなり大きい。通常、世界中の遺跡などにある多くの建造物は、人間が整形した石を組み上げるようにして造られている。エジプトのピラミッドがわかりやすい例だ。
これに対し、与那国島の遺跡ポイントでは石が組み上げられておらず、もともとあった地層が削られるかたちで存在している。その地層とは、今から約1600万年前に海底で砂や泥が固まった「八重山層群」というもの。これに「節理」(せつり)と呼ばれる自然の割れ目が入り、波などの影響を受けて削られていったものが、まさしくあの遺跡ポイントだったと考えられている。
この節理というのは直線的に入りやすく、その性質や状況によって、自然の岩をブロック状や板状、ときには多角形の柱状にすることが知られている。以下は、そういった節理の一例。
長野県の名勝地「寝覚の床」
出典:”Nezame-no-toko, Kiso River”. Licensed under GFDL via Wikipedia – http://bit.ly/1RifJb4
和歌山県の由良要塞(加太・深山地区)にある節理。
出典:「日本珍スポット100景」(http://bqspot.com/)
このたびは管理人の五十嵐麻理様よりお写真をお借りすることができました。深く感謝申し上げます。
アメリカの「ウティカ頁岩」
出典:”Joints 1″ par Michael C. Rygel – Travail personnel. Sous licence CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons – http://bit.ly/1RigmS3
与那国島の「サンニヌ台」(沖縄県指定の名勝)
出典:「与那国島の奇岩怪石」 (http://d.hatena.ne.jp/Pulin/touch/20090513/1242184312)
「ハイビジョン 謎の沖縄海底遺跡 -Mysterious Dive-」(日本コロムビア、2002年)これらは、すべて自然のものである。こうした自然が生み出す造形への理解があれば、遺跡ポイントに対する見方も少しは変わってくるのではないだろうか。
個別の人工説の検証
とはいえ、人工説を支える証拠とされるものはたくさんある。ここからは、それらをいくつかピックアップし、個別に検証していきたい。
アーチ門は3つの巨石を組んで造られた?
アーチ門とは、遺跡ポイントの西側にあるトンネル状の岩のことをいう。通常、ここが遺跡ポイントへの「入口」だと紹介されることが多い。その構造は高さ160センチ、幅80センチ、奥行き3メートルほどで、3個の巨石を組んで造られているとされる。
アーチ門
出典:木村政昭『海底宮殿 沈んだ琉球古墳と“失われたムー大陸”』(実業之日本社、2002年)
しかし引いた位置から見るとわかるが、左右の巨石とされているものは、もとから存在している地形の岩である。これに、縦、横の節理が入り、縦の部分が剥がれて欠ける。この欠けたスペースに上から節理によって剥がれ落ちてきた石がはまり、アーチ門はできたと推測される。(実際、アーチ門周辺には落ちてきた石がたくさん見られる)
アーチ門の先にある「二枚岩」と呼ばれる巨石も、節理によって剥がれ落ちたもの。こちらはすき間の下まで落ちて挟まっている。下の右写真は、縦、横に節理が入った例。真ん中の部分が剥がれて欠けている。遺跡ポイント近くの「サンニヌ台」という沖縄県指定の名勝で見られる。左写真も同じ節理の例。こちらは岐阜県下呂市にある「重箱岩」という奇岩。市指定の天然記念物となっている。
ループ道路に落石がないのは人工的な証拠?
アーチ門をくぐり、右手に曲がって進むと、遺跡ポイントの南東側に沿うように「ループ道路」と呼ばれる道のようなものが現れる。もし節理によって上部から石が剥がれ落ちてくるなら、ここにも石が多くあるはずだ。しかし、ここでは十数メートルほどにわたって落石が見られない。そのため、人の手によって石がどけられた=人工説の証拠になるとされている。
本当だろうか。映像や写真を確認してみると、確かにループ道路では落石がほとんどないように見える。(ただし東側と西側では落石が見られる。)ところが、このループ道路のすぐ横には次項でも取り上げる石の山が確認できる。さらにループ道路自体が、その石の山の方に向かって傾いており、石の山の下は一段低い窪地になっている。つまり上からはがれ落ちてきた石は、その窪地にたまりやすいのだ。
また、ちょうどループ道路の上部には「メインテラス」と呼ばれる場所があり、そこは遺跡ポイントの中でも南東への潮の流れが強いことで知られている。この方向は窪地へ向かうものでもあり、現在より水位が低かった時代には、ループ道路上の石も波や潮の流れの影響を受けやすかったと推測される。
擁壁は石を組んで造られた? 前項で扱った石の山は、木村名誉教授によれば、石を組んで造られた擁壁、もしくは石垣のようにできているという。(「つら」「ひかえ」などの専門用語を使って、伝統的な石組み工法が用いられているかのように説明)しかし、これは確認してみると明らかに違うことがわかる。下の写真をご覧いただきたい。どう見てもバラバラだ。
実際に潜って遺跡ポイントを調査された神戸大学理学部の原俊雄准教授によれば、これらの石に整形された痕は認められず、積み石によって擁壁を形成していることも確認できなかったという。ちなみに、この擁壁はイラスト化されており、木村名誉教授の著書によく登場する。以下がそのイラスト。しかしこれには、縦横比、方角、傾斜など、おかしな点が多い。とくに傾斜は30~40度と書かれているにもかかわらず、イラストでは約70度に誇張されている。
出典:木村政昭・編著『与那国島海底遺跡・潜水調査記録』(ザ・マサダ、2000年)実際の擁壁とされているものは70度もない。せいぜい45度だ。しかしこのくらいの角度では、とうてい壁に見えない。そのためイラストでは、それらしく見えるように誇張したのだと思われる。石どうしもあまりすき間がない石垣のように描かれているが、先に見たように、これも明らかに誇張されている。
人が使うための階段が造られている?
ループ道路の先には、人が上へのぼるれるように階段が造られているという。これはイラストなどでは角がしっかりある、まさに「階段」のように描かれることが多い。
ところが、これも実際の写真を見ると印象がかなり違ってくる。
出典:木村政昭・編著『与那国島海底遺跡・潜水調査記録』(ザ・マサダ、2000年)
ご覧のように全然人工的な階段には見えない。しかもこの先には、段差が1メートルほどもある場所まで存在している。
出典:木村政昭・編著『与那国島海底遺跡・潜水調査記録』(ザ・マサダ、2000年)このようなものを、さも計画的に造られた階段であるかのように主張するのは無理があるのではないだろうか。とはいえ階段のような地形自体は節理によって形成されやすい。メインテラスを含め、階段状の地形は遺跡ポイントの南~南西側に集中している。この場所は陸側(北)の反対に位置し、かつて水位が今より低かった時代には、波の影響を受けやすかった。つまり節理によって剥がれやすくなった石が、波によって削られていき、南~南西側に特徴的な階段地形を形成したと考えられる。
三角プールは自然にはできない?
三角プールとは、遺跡ポイントの上部に位置する、一辺が十数メートルほどの扇状に削られた地形のことをいう。木村名誉教授などは、ここに水をため、プールとして使っていたのではないかと主張している。また節理で窪地のようなものはできにくいため、人工的な証拠になるともいう。しかし三角プールは遺跡ポイントの地形上にあるため、当然ながら傾いている。そして節理も入っている。よって、この場所も節理によってもろくなったところが波によって削られていったと考えられる。
ちなみにここは節理や傾きがあるため、水をためることはできず、プールとしては使えない。柱穴に柱を立てていた?三角プールのすぐ近くには、3つの深い穴があいている。これは、かつて柱を立てていた「柱穴」の跡ではないかという。しかし、こうした穴は自然でも形成される。「甌穴」(おうけつ、別名ポット・ホール)と呼ばれるものだ。甌穴では、海底などのくぼみに硬い石がとらえられ、波や流れの力によって回転が長い年月繰り返されることで、まるでドリルで掘ったような穴ができる。
前出の神戸大学理学部の原俊雄准教授の調査によれば、3つの穴のうちの2つには、長径が穴の直径に等しいラグビーボール状の石があったという。また穴の内壁には、石の回転でできたと考えられる線状痕が認められたため、明らかに自然にできたものだと結論している。残りの一つにはサンゴが付着しており、確認するには至らなかったという。
太陽石は実用機能を持っていた?
遺跡ポイントの東側の海底には、「太陽石」と名付けられたワンボックスカーほどの巨石が置かれている。ここには台座のようなものがあり、その近くには線のようなものが何本か刻み込まれている。木村名誉教授によれば、道しるべや時間を示す実用機能を持っていた可能性があるという。
太陽石
出典:木村政昭『海底宮殿 沈んだ琉球古墳と“失われたムー大陸”』(実業之日本社、2002年)確かに写真で見ると、台座のようなものに見事にのっていて人工的なようにも見える。ところが、実は反対側から見ると、これもまた印象が違ってくる。
太陽石の反対側。こちら側からの写真はほとんど紹介されない。出典:「ハイビジョン 謎の沖縄海底遺跡 -Mysterious Dive-」(日本コロムビア、2002年)台座のように見えたのものは、段差状に削れていった薄い岩の残りだとがわかる。太陽石も、先に紹介した側からだときれいに台座におさまっていたように見えたが、こちら側から見ると、かなりズレていることがわかる。
しかも2000年8月29日に台風12号が過ぎ去ったあとには、波の影響で太陽石は岩場から落ちてしまっている。木村名誉教授は、太陽石がある水深25メートル付近は遺跡ポイントの中でも最深部にあたるため、波の影響力はほとんどないと主張していた。
台座の右側に落ちているのが太陽石 出典:「ハイビジョン 謎の沖縄海底遺跡 -Mysterious Dive-」(日本コロムビア、2002年)
もはやこうなると、周囲の他の落石と見分けをつけるのも難しいくらいだ。おそらく太陽石自体は、周囲の岩場から削れた石のひとつが流されてきたものだったか、ミャンマーのゴールデン・ロックのように、周囲の石が節理や風化によって削られていく中で、最後に残った部分だったのかもしれない。いずれにせよ、人工的なものである可能性はきわめて低い。なお、岩場にあった線のようなものは、次項で扱うように、ウニなどの岩を掘る穿孔性の生物によるものと考えられている。
クサビで穴をあけた痕がある?
遺跡ポイントやその周辺では、岩を割るために使うクサビによって、直線的に並べてあけたと思われる穴の痕がいくつも見つかっているという。この件については神戸大学の原俊雄准教授が直接調べている。その報告によると、こうした穴はクサビ痕ではなく、まず間違いなくウニなどの穿孔性の生物によってあけられた穴だと考えられるという。
ただし比川海岸で見つかった石の穴は、他と比べて明らかに穴の形状が違い、60年ほど前にあけられたという証言も出ていることから、戦後にあけられたクサビ痕の可能性が高い。直線的に並んでいるように見えるものについては、穴が掘りやすい節理に沿ったためと解釈できるという。事実、それらの穴に沿って、節理による割れ目が確認されている。また実際に穴の中にいたウニも別のダイバーが発見している。木村名誉教授は、ウニがあける穴と遺跡ポイント周辺の穴は違うと主張している。この件については私が沖縄県の美ら海水族館に、木村氏の著書に掲載されている穴の断面図を送って問い合わせたところ、ウニがあける穴としては珍しくないとの回答が返ってきた。
石器やレリーフ類は、人工説の決定的証拠?
遺跡ポイント周辺で見つかっているという石器類と称される石は、それだけでは、ただの石片と見分けがつかない。もし石器類を研究している専門家による論文が発表されていれば検討の価値はあるものの、そういった論文は残念ながら出ていない。また、動物をかたどったレリーフとされるものには、亀、牛、大ワシなどがあるが、どれもよく似ていると言うにはほど遠い。
逆傾斜なら落石はない?
遺跡ポイントの北側は傾斜とは逆方向にあたる。木村名誉教授によれば、節理によって剥がれた石は、傾斜方向には重力によってすべり落ちるものの、逆傾斜方向には落ちにくいとしている。にもかかわらず、その逆傾斜方向でも石は削られているため、人間が手を加えた有力な証拠になるという。
しかし、木村名誉教授は波の影響力というものをまったく考えていない。石は波や風によっても削られ、移動していくことが知られている。たとえば、1994年8月に台風13号が与那国島に接近した際には、1~6トンクラスの巨石が低所から高所に数メートルにわたって移動している。このときは最大瞬間風速70.2メートルという猛烈な風を記録し、高波も約21メートルに達した。
与那国島では過去数千年の間に、こうした台風の襲来が何度もあったはずで、遺跡ポイントの逆傾斜側も、波や風の力を受けてきたはずだ。そうであれば、逆傾斜側に削られた部分があるのも当然だと考えられる。
サンニヌ台は遺跡だった?
海底遺跡から北東に約2.5キロ離れたところに、「サンニヌ台」と呼ばれる陸地がある。ここの岩石には節理が非常に多く見られ、遺跡ポイントとよく似た地形が形成されている。木村名誉教授も著書の中で次のように述べている。
確かにサンニヌ台は遺跡ポイントと非常に形が似ているので、これが自然物ならば遺跡ポイントもまた自然物と言われても仕方がない。(『沖縄海底遺跡の謎』P.44)けれどもサンニヌ台は自然物ではないという。人工的に造られた遺跡であり、遺跡ポイントと同じだと主張する。その証拠となるものには、サンニヌ台に残る炉の痕や、人工的に削られたとみられる加工痕などがあるという。