河は呼んでる。中原美紗緒さん 

中学生2年の夏 父親の転勤で 大分から 東京に再び戻り
青山中学校に編入した。明大前から青山一丁目まで 井の頭線と
銀座線を乗り継いで 通ったいたが、
http://www.asahi-net.or.jp/~FG5M-OGM/l’eau_vive/image/l’eau_vive_e.jpg

当時 評判の映画を見に行き パスカル・オードレという女優さんに 殆どの
中学生が 憧れた。私もごたぶんにもれず。 そのあと 中原さんの清新な
歌声が テレビからも ラジオからも 聞こえてきた。

http://www.audio-visual-trivia.com/images/eau_viveDvd.jpg

きわめて まじめで 丁寧な歌い方に 自然に近いメイク。
時代の流れを感じる。でも それが 流行っていた時代だ。

ところで すっかり忘れていた「映画のあらすじ」は 次のとおり。

また 私が時折読み返している「樹を植える男」の著者 ジャン・シオノのシナリオとは知らなかった。

「河は呼んでる L’Eau Vive (1957)」

投稿日: March 21, 2006 Drama

L’Eau Vive (DVD ASIN: B0000ABBXB)
河は呼んでる DVD
♪ Guy Beart – L’Eau Vive (L’eau Vive) –

L’Eau Vive (1957)
♪ デュランス川の流れのように、ごらんよごらん、可愛いオルタンスよ、小鳥のように、いつも自由に ♪
忘れられませんね。 一世を風靡した映画「L’Eau Vive(河は呼んでる)」の主題歌で「河は呼んでいる」です。

「河は呼んでる」はFrançois Villiers(フランソワ・ヴィリエ)監督が、美しい南仏プロヴァンス地方のDurance(デュランス)河流域での大きなダムの建設をめぐって一人の少女が成長していく様を描いたフランスのヒューマンドラマです。
原作はプロヴァンスの作家「Jean Giono(ジャン・ジオノ)」で脚本も書いています。 ジャン・ジオノについて詳しく書かれたジャン・ジオノ Jean Giono :木を植えた男 に関して
実際にダム工事が行われた「セール・ポンソン湖」を題材に3年ものロケを行ったそうです。 上記のサイトにDurance et Lac de Serre Poncon(ポンソン湖の写真と映画の説明もあり。

のんびりとした田園風景が広がる美しいプロヴァンスの一方では、貧しい農民たちの醜い争いが起こります。 ダムの建設に伴い湖底に沈むこととなった山村の地主は補償金を手にしますが、亡くなってしまいます。 ヒロインである地主の遺児のHortense(オルタンス)は相続財産をめぐって未成年のオルタンスの後見人となった貧しい親戚たちの騒動に巻き込まれます。 その後オルタンスが偶然父の隠した遺産を発見したことを知られて親戚に監禁されてしまいます。
ヒロインのオルタンスを演じたのは可憐なPascale Audret(パスカル・オードレ)ですが、パスカル・オードレは「河は呼んでる」の後にも何本かの映画に出演しましたが、不幸にも2000年に交通事故で亡くなりました。
映画「河は呼んでる」での写真が見られる素晴らしいMemoable Scenes of Pascale Audret Photos – L’Eau Vive
「河は呼んでる」の映画ポスターが見られるL’Eau Vive Posters – Le Cinéma Français

英語のタイトルは”Girl and The River “という「河は呼んでる」は日本では主題歌と共に大ヒットしましたし、アメリカではゴールデン・グローブの外国語映画賞を受賞した作品ですが、不思議なことにネット上での情報は殆ど日本だけで、アメリカではIMDb意外は見つかりません。 フランスのAmazon.frにもDVDはおろかVHSさえ無いのです。

L’Eau Vive DVD
ページトップの画像は2003年発売の日本語字幕版「河は呼んでる」ワイドスクリーンDVDですが残念なから現在は入手不可。 今までのところ、「河は呼んでる」のDVDは世界中でも日本でしか見つからないのでますます幻の名画になりました。
こちらの「河は呼んでる」の1998年版日本語字幕版DVDも入手不可となりオークションを探すしかありません。 DVDでもブルーレイでも再リリースされないでしょうか。
L’Eau Vive河は呼んでる

L’Eau Vive Soundtrack映画「河は呼んでる」の音楽はフランスのシンガーソングライターGuy Béart(ギイ・ベアール)作詞作曲のシャンソン「L’Eau Vive(河は呼んでいる)」です。 ギイ・ベアールは”Qu’on est bien(なんていい気分)”や”Il N’ Y A Plus D’apres(あとには何もない)”など「悲しみよこんにちは」で歌ったジュリエット・グレコにも曲を提供したそうです。
ちなみに2003年の「Les Egares(かげろう)」で主演した演技派女優のEmmanuelle Béart(エマニュエル・ベアール、Emanuelではない)はギイ・ベアールの娘だそうです。

世界のGuy Béart(ギイ・ベアール)のアルバム集ですがAutour du Monde(ギイ・ベアールのアルバム殆どに”L’Eau Vive(河は呼んでいる)”が収録されています) Au Japonで検索すると、現在は中古レコードで4500円の価格が付けられている日本発売の「河は呼んでいる」公開当時のEPサントラ・レコードの画像が見られます。

他にGuy BéartのL’Eau Viveは「Paroles et Score pour L’Eau Vive – Comptines et chansons pour enfants」にあったのですが現在はそのL’eau vive Valse – Guy Béart 楽譜(pdf)だけが表示されます。(拡大可)
※ギー・ペアールが歌うフランス語のL’EAU VIVE(河は呼んでる)が聴ける河は呼んでる 懐かしのヨーロッパ映画(フランス語の歌詞付き)
☆”Ma petite est comme l’eau, elle est comme l’eau vive…”と歌われるフランス語の歌詞はL’Eau Vive – LyricsMania.com

ギイ・ベアールが歌った映画主題歌の”河は呼んでいる”は、日本でヒットした洋楽ポップスを収録した「僕たちの洋楽ヒット Vol.1 1965~66」に収録されています。
続・僕たちの洋楽ヒットVol.1続・僕たちの洋楽ヒットVol.1

「河は呼んでる」公開当時、日本では倉金章介原作のテレビ・ドラマの”あんみつ姫”役を演じたシャンソン歌手の中原美紗緒が歌ってヒットしました。

※この美しい”河は呼んでる”のテーマ曲は、”河は呼んでる”として”Summer Time(夏の日の恋)”で有名なThe Percy Faith Orchestra(パーシー・フェイス・オーケストラ)が演奏した試聴できるアルバムの「STAR BOX パーシー・フェイス」(ASIN: B00009WKX4)や、現在は入手困難ですがジャケットが浜辺の夕日画像のクラシックCDの「CBS.SONYのCDのFDPA 15(パーシー・フェイス / 夏の日の恋 追憶)」などに収録されています。

Pascale Audret

Pascale Audret Filmography
パスカル・オードレは1957年の「河は呼んでる」の後に「Oeil Pour Oeil(眼には眼を)」と、1969年のLes Chemins de Katmandou(カトマンズの恋人)というAndré Cayatte(アンドレ・カイヤット)監督の2作品に出演していますが、1958年には「Les Jeux Dangereux(危険な遊び)」でSami Frey(サミー・フレイ)と共演し、1961年には歴史映画の「La Fayette(ラファイエット侯爵)」で主役のラ・ファイエット夫人を演じました。

 

ところで 脚本を書いた ジャン・シオノは 「樹を植える男」を書いた人だ。 今回初めて そのことに気付いた。やはり印象的な映画も作っていたのが うれしい。

木を植えた男 – 1987年 – フレデリック・バック   (やっと この動画を見つけた)

 

ジャン・シノンのことについては 一番下に記載。

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アルプス山麓のオート・ザルプ県、ユバイという村で、ある百姓が死に、ただ一人の相続人、娘のオルタンス(パスカル・オードレ)が残った。

村の近くを流れるデュランス河に、大々的な水力発電ダム工事が行われており、近辺の村はいずれ水底に没する運命にあり、巨大な機械の活動や、入りこんでくる人々の動きは、日々にのどかな山村の総てを変えつつあった。

オルタンスの亡き父は、やがて沈む土地を多く所有していた。彼は死んだ時、三千万フランという賠償金を既に受けとっている筈だった。

http://ecx.images-amazon.com/images/I/21MV6JT0DFL.jpg

未成年のオルタンスが、成人に達して財産を自由にすることの出来る日がくるまで、彼女の叔父や、叔母や、従兄妹たちは、後見という名目で彼女の許に集まってきた。

しかし、亡き父は一体大金を何処にしまったのか、それはオルタンスでさえもが知らない。公証人は、オルタンスが一カ月づつ親戚の家をめぐって、生活するようにきめた。

アスパラガス造りのカバイヨンの叔父と叔母は、息子と彼女を結婚させようとした。貧しい葡萄作りのロシュブリーヌ叔父と妻、その娘は、富裕な彼女をねたんで、息子をそそのかして暴力で彼女を征服させようとした。

エホバ教信者のメランドール叔父夫婦は、自分達の宗教をおしつけて、彼女を利用しようとした。シヤトー・アルヌーの肉屋の従兄は、人のよい夢想家で彼女と仲よくなったが、妻君がそれを邪推した。

そんな時、彼女が心からとびこんでいけるのは、親類のなかの除け者で、夏は羊飼いをし、冬は密猟をやって、一人自然の中に暮しているシモン叔父(シャルル・ブラヴェット)のところだった。

彼女の不在中、亡き父の家を何回となく家探ししても、どうしても三千万フランの隠し場所を見つけることの出来ぬ親族たちは、シモン叔父の所からオルタンスを官憲の力でつれもどした。

彼女は、父の遺した家に一人で暮すことになった。そして、思いもかけぬ屋根裏の、昔のおもちゃの箱の中に、父の遺産を発見したのである。大金を持った彼女は、テレビを買い、衣裳を作り、自分の生活を設計した。

しかし、ロシュブリーヌの一家がそれに気づいた。従姉の発案で、貧しい叔父一家はオルタンスを監禁し、彼女にお金のある場所を白状させようとした。そして、口を破らぬ彼女を、間もなく湖底に沈もうとする父の遺した家の地下室に閉じこめた。

それでも、オルタンスは黙っていた。ダム工事は進行し、ユバイの村に人のいなくなる時がきた。地下室で一人閉された日々を送るオルタンスを残して……。ダムに貯水の始められた日、それはオルタンスが成人を迎える日だった。

古い村の、家や石垣や、岡を水はひたひたと呑みこんでいった。しかし、オルタンスは負けはしなかった。水の流れが押し破った壁から、彼女は地下室を出た。

公証人を囲んだ親類たちの前で、彼女は、ロシュブリーヌ一家が運んでおいたテレビ・セットの中から、三千万フランをとり出してみせた。もうオルタンスは大人だった。

親戚の人々がした総てのことも、もう過去のことだ。三千万フランをスクーターのうしろにつけて、オルタンスは、一人で山の叔父シモンのもとに向った。

題名 L’eau Vive  製作年 1958年  製作国 フランス
監督 フランソワ・ヴィリエ  脚本 ジャン・シオノ
脚色 アラン・アリュウ  台詞 ジャン・ジオノ
撮影 ポール・スリニャック  美術 ピエール・セベント
音楽 ギイ・ベアール
キャスト
Hortense パスカル・オードレ
Simon シャルル・ブラヴェット
Rochebrune モンコルビエ
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アルプスからプロヴァンスに流れるデュランス河のダム建設工事を背景として、山村の少女の成長を描くこの作品は、ダム工事の進行とともに三年間の日数を費して製作された。

監督は、兄ジャン・ピエール・オーモンを主演に「マルセイユの一夜」を作って以来のフランソワ・ヴィリエ。バロンセリ、モーリス・クロシュ、レオニード・モギイ等の助監を経て、短篇映画や記録映画を作った経歴をもつ人である。

同地方を背景とした作品の多い地方主義作家ジャン・ジオノのオリジナル・シナリオをアラン・アリュウが脚色し、ジオノ自身が台詞を書き、撮影監督はポール・スリニャック。ギターによる主題曲をつけた音楽は、ミュージック・ホール出身の若い歌手ギイ・ベアール。

主演するのは、この作品に出るまで無名の存在で、撮影中舞台の「アンネの日記」の主役に選ばれたり、「眼には眼を」に出演したりしたパスカル・オードレ。その他「七つの大罪」ロッセリーニ編に出たアンドレ・ドバールや、シャルル・ブラヴェット、モンコルビエ、アンリ・アリュ、ユベール・ド・ラッパラン、パニッス、ミリー・マチス等が出演する。

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★ジャン・シオノのこと★

ジャン・ジオノ(Jean Giono、1895年3月30日1970年10月8日)は、フランスプロヴァンス出身の作家。 プロヴァンス地方マノスクに生まれる。16歳で銀行員として働き始める。1914年第一次世界大戦に出征。

私が繰り返し 長年読んでいる本はこれだ。 いろいろ迷ったときに 人間としてやるべきことを示唆してくれる。あとは 断捨離でいこうという気にしてくれる。

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2015年6月8日 11:59 · 80
私の手元に置いている本は これだ。立教大学での
シンポジウムの行きがけに 見つけて いまでは宝物
になっている。時折 裏山の森の中から いろいろな
ドングリを取って来ては 一晩 水につけて 乾かす。
浮いてきたドングリは 虫に食べられているので
沈んだものだけを 保管して・・

★『木を植えた男』(きをうえたおとこ、フランス語
:L’Homme qui plantait des arbres)は、フランスの
作家ジャン・ジオノの短編小説である。1953年発表。

主人公である「私」が、人知れず荒野で植樹を続ける
男エルゼアール・ブフィエ(Elzéard Bouffier)と出会い、
男の活動により森が再生していく様子を回想として記す
という形式をとる。

しばしばノンフィクションであると誤解されるが、
完全なフィクションである。

1987年には同作を原作として、フレデリック・バック
の監督・脚本で同名の短編アニメが公開された。

1987年アカデミー短編アニメ賞受賞、ほかいくつかの賞
を受賞した。このほか、1989年にはバックが描き下ろした
イラストを用いた絵本が発表されている。

 

1929年長編小説『丘』がアンドレ・ジッドに認められ出版。第二次世界大戦では徴兵反対運動を行う。1939年逮捕される。1953年の『木を植えた男』は、『リーダーズ・ダイジェスト』の「あなたが今まで会った中で最も忘れがたい人物は誰か」というアンケートへの回答だったが、編集部はその人物が実在しないことを確認して掲載しなかった(高畑訳著)。

しかしテキストはいつしか広がり、ジオノの没後、20数か国語に翻訳され、フレデリック・バックによってアニメーション化された。 マノスクに生涯住み、死去。

木を植えたひと

木を植えた男』(きをうえたおとこ、フランス語L’Homme qui plantait des arbres)は、フランスの作家ジャン・ジオノの短編小説である。1953年発表。

主人公である「私」が、人知れず荒野で植樹を続ける男エルゼアール・ブフィエ(Elzéard Bouffier)と出会い、男の活動により森が再生していく様子を回想として記すという形式をとる。しばしばノンフィクションであると誤解されるが、完全なフィクションである。

1987年には同作を原作として、フレデリック・バックの監督・脚本で同名の短編アニメが公開された。1987年アカデミー短編アニメ賞受賞、ほかいくつかの賞を受賞した。このほか、1989年にはバックが描き下ろしたイラストを用いた絵本が発表されている。

邦題はほかに『木を植えた人』など。男の名前が「ブッフィエ」などとされているものもある。

1953年、アメリカ合衆国の雑誌『リーダーズ・ダイジェスト』の編集者から「私がこれまでに出会った中で最も並外れた人物」についての執筆依頼を受けたジオノは、1週間ほどで『木を植えた男』を書きあげた。当初、原稿を好意的に受け取った『リーダーズ・ダイジェスト』だったが、調査したところブフィエなる男は実在せず、作中に出てくる実在する地名もそれぞれの位置関係が全く合っておらず、単に地名を借用しただけであったことが判明した。それについてジオノに問い質すと、ジオノはブフィエを知っているという人物の名前を挙げたりしたが、その人物もまた架空であったという。実在の人物についての原稿を求めていた『リーダーズ・ダイジェスト』は、このようなジオノの態度もあって、ジオノを非難し『木を植えた男』を雑誌に掲載することを拒否した。その後、ジオノは『木を植えた男』の著作権を放棄した。

著作権放棄後の1954年に、アメリカの雑誌『ヴォーグ』に、英語訳版が “The Man Who Planted Hope and Reaped Happiness” (希望を植え幸福を育てた男)の題で掲載され、人気を博した。この英語訳を行なった翻訳者が誰なのかは不明となっている。その後、ほかの国でも翻訳、発表され、『木を植えた男』は世界中で親しまれるようになった。翻訳が掲載されたのは、エコロジー関連の雑誌が主であった

英語訳版の広がりとは裏腹に、ジオノの母国フランスでは長年この小説はほとんど知られておらず、ジオノの生前はフランス国内では出版されなかった。1974年にいくつかの雑誌に掲載された後、1975年に「ジャン・ジオノ友の会会報」に『私がこれまでに出会った中で最も並外れた人物』として掲載され、死後13年経った1983年になって、ガリマール出版社からフランス語原文の小説が児童書として発売された。この1983年フランス語版には、ブフィエが架空の人物であることが記されていない。

フィクシ

しばしばこの作品は、読者に事実を元にしたものだと思い込ませるが、前述のとおりフィクションであり、ブフィエのモデルとなった実在の人物といったものも存在しない[※ 2]。ブフィエが亡くなったとされるバノンフランス語版には、ブフィエの死亡記録はない。作中終盤で森が再生したとされているヴェルゴンという村には森はなく、そもそもヴェルゴン自体は実在するものの、作品の舞台となる高地からは数十キロメートルも離れたところにある小村であり、作中に登場する同名の村は名前を借りただけだと推測されている。

1957年には、ブフィエの話に感動したあるイギリス人女性から詳しい背景を知りたいと問い合わせを受けたオート=プロヴァンスの営林署の職員がジオノに尋ねたところ[※ 3]、『木を植えた男』は「幻滅させてしまい申し訳ないが」フィクションであると手紙で返答を受けている。この手紙では、物語の狙いは「読者に“木を植えること”を好きになってもらうこと」であったと語り、ブフィエによってこの狙いは成功したとしている。また「この物語は自分に1サンチームの利益ももたらしていないが、そのおかげで目的を達成できた」とも記している。

その後もジオノのもとには、ブフィエの写真を送ってほしいという出版社や、ブフィエの森に最寄りの駅はどこかと尋ねる読者からの手紙などが何度も届いた。

『木を植えた男』のアニメーションを監督したフレデリック・バックも、ブフィエが実在しないことをアニメ制作途中まで知らなかった(後述)。また、日本のアニメーション監督で『木を植えた男を読む』の著者でもある高畑勲も実在しないことを知らなかった一人で、1988年にバックと対談したときは『木を植えた男』をまだ事実だと思い込んでいたため、そのことについて話題に出すこともなかった。後に虚構と知って、呆然となったという。

この物語は、「私」の回想という形式をとる。

40年ほど前の1913年6月、フランスのプロヴァンス地方の荒れ果てた高地をあてもなく旅していた若い「私」は、この荒野で一人暮らしをしている寡黙な初老の男に出会う。近くには泉の枯れた廃墟があるだけで人里もないことから男の家に一晩泊めてもらうことになった「私」は、男がドングリを選別しているのに気付く。手伝おうと進言した「私」だったが、男は自分の仕事だからと言って断る。

翌日、男がこの地で何をしているのか気になった「私」は、もう1日ここに滞在したいと言うと、男は構わないという。はじめは散歩と称して男の後をついて歩いていた「私」だったが、男から「何もすることがないなら一緒に来ないか」と誘われて、男と連れ立って荒れた丘へ登る。そして男は、前日選別していたドングリを植える。

「私」は男に様々な質問をし、男はそれに答える。男の名前がエルゼアール・ブフィエであること、55歳であること、かつては他所で農場を営んでいたこと、一人息子と妻を亡くしたこと、特別にすることもないのでこの荒れた土地を蘇らせようと思い立ったことなど。ここが誰の土地かは知らないが、3年前から種子を植え始め、10万個植えたナラ[※ 5]の種子の多数は駄目だったが、1万本ほどは育つ見込みがあるという。ナラ以外の植樹も計画していると話すブフィエと「私」は、その翌日に別れた。

翌1914年から第一次世界大戦が始まり、従軍した「私」はブフィエを思い出すこともなかった。5年後に戦争が終結し、わずかな復員手当てを貰った「私」は、澄んだ空気を吸いたいという思いから、再び1913年に訪れた荒野へ足を運ぶ。ブフィエや彼の植樹活動のことを思い出しながら廃墟を過ぎ、かつての荒野に近づいた「私」は、荒野が何かに覆われているのに気付く。

ブフィエは変わらず木を植え続けていた。戦争のことなど全く気にせず木を植え続けていたというブフィエの言葉に、「私」は納得する。「私」とブフィエは連れ立って、10年前の1910年に植えられ、荒野を覆うように育ったナラの森を歩く。「私」の背丈より高く成長したナラの木々に、「私」は深い感銘を覚える。ほかにも「私」が従軍していた1915年に植えられたというシラカバの森は、「私」の肩のあたりまで成長していた。

1920年以降、「私」は年に1度は必ずブフィエを訪ねるようになる。ブフィエの計画は常に成功したわけではなく、1年がかりで植えたカエデが全滅するなど悲劇に見舞われることもあったが、ブフィエは挫けることなくひとり木を植え続ける。木々の復活はあまりにゆっくりとした変化だったため、周囲の人間はブフィエの活動に気付かず、ときどき訪れる猟師などは森の再生を「自然の悪戯」などと考えていた。また、森林保護官が「自然に復活した森」に驚き、そこに住むブフィエに「森を破壊しないように」と厳命するなどの珍事まで起こる。しかしそういったことも関係なく、ブフィエは木を植え続ける。

その後も第二次世界大戦など様々な危機があったが、「私」の友人である政府役人の理解と協力などもあって、森は大きな打撃を受けることはなかった。ブフィエはそれらも気にせず木を植え続け、いつしか森は広大な面積に成長していた。森が再生したことで、かつての廃墟にも水が戻り、新たな若い入植者も現れ、楽しく生活している。しかし彼らはブフィエの存在も、ひとりの男が森を再生したことも知らない。

ブフィエは1947年、バノンの養老院で安らかに息を引き取った。