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バングラデシュの教育制度を丁寧に解説。
https://www.worldvision.jp/children/education_14.html
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バングラデシュ姉妹校が生徒数増加で校舎を増築!
バングラデシュの教育モデルとなる学校をつくるために、2013年に設立された郁文館夢学園
の姉妹校、ナラヤンクルドリームモデルスクールアンドカレッジ(以下:NDMSC)。
現在生徒数の大幅な増加に伴って、校舎である建物を4階建てから5階建てに増築中です。
NDMSCは時代の変化に対応するために、さまざまな教室が存在しています。
その中には郁文館夢学園の「Future Lab」をモデルにした教室や、コンピューター室も存在します。
バングラデシュでは、ICTを意識した学校づくりをしている学校はまだまだ少ないです。
郁文館夢学園の姉妹校という力を活かして、他のバングラデシュの学校にはないような、
最先端の教育を提供しています。
他の学校にはないシステムや教育設備を積極的に取り入れ、生徒が楽しく、そして夢を叶える
ことができる学校となることを目指しています。
「夢教育を世界中の子どもたちへ!」を合言葉に、バングラデシュでも子どもたちの
幸せのための学校づくりを進めて参ります。
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日本は本当に外国人が住みにくい国なのか ― 在日バングラデシュ人の事例から
コンテンツ
鳴り響くクラクションの音。人であふれかえる市場。信号で車が止まると窓をトントンと叩いてくる物乞いの人々。私はインドとバングラデシュの子ども達に教育支援を行うNPO団体で高校生の時からボランティア活動をしており、その関係でこれまでに3回バングラデシュを訪れた。その国の活気と人の人懐っこさに魅せられて私はすっかり虜になっていた。
3回目の訪問は2019年9月、大学3年生のときだった。街中で、ある中年男性から話しかけられた。どこから来たか尋ねられ、日本と伝えると、「親戚が日本に住んでいるんだ!」と少し興奮気味に、そして誇らしげに教えてくれた。親日国として知られるバングラデシュでは、日本を出稼ぎ先として選ぶ人も少なくない。実際、日本に住んでいてバングラデシュを感じることがある。
例えば、私の自宅から車で10分程の所にある池袋西口公園では、毎年「ボイシャキ・メラ」というバングラデシュ人が一堂に集う正月祭が開催される。また、私の家の近くにもバングラデシュ人が経営する飲食店がある。
以前は、そんな身近にいる彼らがどのような生活を送っているのか意識したことはなかった。しかしバングラデシュで声をかけられてからというもの、彼らが日本でどのような経験をしているのかが気になり始めた。日本は社会が閉鎖的だといわれており、外国人をよそ者として区別して扱う傾向が強いように思える。バングラデシュで会った男性の親戚は日本で満足のいく暮らしをしているのだろうか。日本は、外国人にとって住みやすい国なのだろうか、それとも、住みにくい国なのだろうか。疑問がわいてきた。
本ルポでは、在日外国人について考えるきっかけとなった在日バングラデシュ人に焦点を当て、彼らへのインタビューを通して、生活場所としての日本を彼らがどうとらえているのかを明らかにしていきたい。
第1章 在日外国人労働者の現状
「在日外国人」という言葉に、私自身は何か暗いイメージを抱いてしまう。現代版奴隷制度とも呼ばれる日本の技能実習生制度。在日外国人に対するヘイトスピーチや差別的扱い。在日外国人労働者のそのような暗い部分がメディアでも取り沙汰され、明るいニュースを耳にすることは少ないからだと思う。その一方で、日本で生活する外国人労働者の総数が増えているのも事実である。日本は少子高齢化に伴って、生産年齢人口(15歳~64歳)は著しく減少している。総務省と国立社会保障・人口問題研究所のデータによると、生産年齢人口は8,716万人いた1995年をピークに減少し続けており、2060年には約半分の4,418万人になっていると推計されている[1] 。
このような状況で、従来の日本人成年男性中心の雇用体系から、女性、高齢者、そして外国人といった多様な人材を取り込む必要が生じた。政府はこういった背景から、外国人労働者の受け入れを拡大していったのである。その数は年々上昇し続け、正式に統計を取り始めた1993年には約9万6千人だったのが、2020年には170万人を突破した[2] [3] 。
ただ、在留資格の内訳を見てみると、少し驚くことがある。技能実習生の印象が強い外国人人材であるが、実は全体的にみるとその割合は約20%[4] 。最も多いのは、在留資格別にみると永住者や日本人の妻を持つ「身分に基づく在留資格」で、30%を超える。つまり、来日して日本人と結婚したり、安定した職を手に入れたりした人も多くおり、長期的に日本に滞在する外国人が増えているのである。外国人に不利な制度設計がなされているのにも関わらず日本に留まることを選ぶ方が多いのはなぜだろう。何が彼らを惹きつけているのだろうか。
第2章 在日バングラデシュ人の現状
「お久しぶり、愛子ちゃん。お元気ですか?」
ムンシ K. アザドさんとお話するのは5年ぶりのことだった。私が所属するNPO団体の理事を彼が務めたことから知り合い、ご自宅に招かれて奥様がお手製のベンガル料理をごちそうになったこともあった。今回在日バングラデシュ人をルポのテーマに選んだ際、真っ先に連絡をしたのはアザドさんだった。本当なら、奥様が作る絶品ベンガル料理を囲みながらお話を聞きたいところだったが、新型コロナウィルスの流行に伴い、電話でのインタビューとなった。
アザドさんはバングラデシュのクシュティア市出身だ。現地の大学を卒業後、1976年に来日して以降ずっと日本でベンガル語の翻訳、研究、講師等に従事している。長年日本に滞在していることから、多くのバングラデシュ人に頼られる存在であり、在日バングラデシュ人について彼ほど詳しく知っている人はいないであろう。
「在日バングラデシュの方たちはどのようなお仕事をしているのですか?」という質問に対し、アザドさんは「日本にいるバングラデシュ人には3つのパターンがあります」と教えてくれた。
その3つのパターンとは、①奨学金などを得て日本の大学で勉強し、そのまま日本で就職した人、②バングラデシュで日本での職を手にした上で来日して就労している人、そして③日雇い労働者の人を指す。日本での仕事を得てから来日する人のほとんどはIT関係である。また、日雇い労働者の中には更に2グループあり、1つは1980年代に2週間の観光ビザで入国しそのまま超過滞在した後、日本人と結婚するなどして日本の在留資格を得た人達。
そしてもう1グループは、労働者を日本に供給しているバングラデシュにある日本語学校などを通して来日した人達だ。日雇い労働者の人々の職種が気になったので尋ねた。「ほとんど建築関係の仕事です。あとは最近、農家や牧場にもいます。例えば、北海道の牧場でいくつかベンガル人のグループがあるんですね」。これを聞いて、日本人の労働力が不足している職種に就いているという印象を私は受けた。
続けて、それぞれの生活状況についても説明してくれた。前者2グループ(①と②)についてアザドさんは「私の考えでは、このグループの人たちは全然問題ないですね」とのことだ。日本人と全く同じ条件で働いており、保険や年金、ボーナスも受け取ることが出来ている。しかし、日雇い労働者(③)はこの待遇面で問題を抱える。更に、「支払いが時間通りに払われないとか、休む時間がなくて辛くなるとか、約束より多くの時間働かせるとかいう問題もあるんですね」。それに加えて、「住む所がないです。アパートを借りて共同で暮らしているとかね。例えば6畳の部屋で6人で住んでいるとか。そういう住むところの問題があります。あと、いつも仕事があるわけではないです」。
過酷な労働環境、不当な支払、劣悪な居住環境、不安定な仕事などの悩みを抱えているという声もあるようだ。しかし、同時にアザドさんは「(このグループの)全員がそうなのではなく、中にはこのような問題を抱えている人もいます」という点を強調した。困難な状況にある在日バングラデシュ人は一部の人であるようだ。
日本に記録されているバングラデシュからの入国者数はパキスタンから独立した翌年、1972年からとなっている。表1からわかる通り、年々増加していき、1988年に急増している。これは日本がプラザ合意後、円高によって輸出業が低迷した代わりに、建設業、不動産業、サービス業の労働力の需要が増え、アジア諸国を中心に出稼ぎ対象国となったこと。そして、バングラデシュ国内も1987年から88年にかけての大洪水が発生したことや政治情勢が不安定であったことなどが双方の国内事情が合いまった結果である。
しかし翌年は1万人以上の大幅な減少がみられる。これは、バングラデシュとパキスタンからの資格外就労者の増加を制限するため、日本政府が73年に締結していた、3か月の観光や商用にはビザがなくても滞在できる取り決めを停止したためだ。その後は急増こそないものの、増加に転じており、2019年時点では18,392人が日本に滞在している[5] 。 彼らはどのような職について、どのような生活を送っているのだろうか。
私はさらに、1987年から日本に住む外国人に対して相談事業に取り組んできた、Asian People Friendship Society (以下APFS)代表理事の吉田真由美さんにも話をお聞きした。APFSは、東京都板橋区の銭湯での日本人青年とバングラデシュ青年との出会いがきっかけとなり、バングラデシュの青年が餓死したという事件を受けて彼らが互いに助け合うボランティア団体を立ち上げたことが始まりである。そのため団体関係者もバングラデシュ人が多い。吉田さんによると、在日バングラデシュ人は日雇い労働者やIT関連の職業の他に、中古車やハラルフード、飲食店といったビジネスを自ら展開する、自営業の人も多いとのことだった。
アザドさんや吉田さんがおっしゃっていたことは、実際に数値にも表れている。近年では留学生の割合が一番多く、永住者・家族滞在が続く(表2参照)[6] 。 近年特に増加傾向の大きい「技術・人文知識・国際業務」にはIT関連の職業が含まれる[7] 。 待遇面で立場の弱い人々は割合的に少数派だということが読み取れる。意外にも安定した生活を送っているようだ。
第3章 日本での幸せな生活
「在日バングラデシュ人の方々は日本のどのような部分に生きづらさを感じていると思いますか?」
単刀直入に吉田さんに質問した。この時点で、私はルポのタイトルを『外国人労働者が住みにくい国日本』とすることを考えていた。そして、いくつもの問題点をすらすらと返答してくれることを期待していた。しかし私の予想に反し、吉田さんは、数秒間考えてから、一言ひとこと絞り出すように返答してくれた。たしかに制度を知らないことによる不都合や、難民申請に不満を持つ人もいるという。一方で、生きづらさよりも、多くが日本を気に入ってくれており、日本での生活に満足しているとの声も多いと教えてくれた。更に印象的だったのが、80~90年代に来日した第一陣についての言葉だった。「(彼らは)トラブルがあったら自分たちで解決し、日本の考えに迎合して溶け込んでいこうとしてきました。居やすいような環境は自分たちで作らなければならないという思いを強く持っています」。私の予想に反し、在日バングラデシュの方々は前向きに日本での暮らしを奮闘している印象を受けた。「日本って意外と住みにくくないのかもしれない」。そう思い始めていた。
|外国人にとって住みやすくなった日本
電話でお話を伺ったアザドさんだったが、新型コロナウィルスの感染状況も落ち着きを見せており、久しぶりに直接お会いしてより詳しいお話を聞きたいと思って連絡した。すると、アザドさんは歓迎してくれ、ご自宅に招いて頂いた。お住まいのアパートに着くと、変わらずお元気で優しい笑顔のアザドさん、スルタナさんご夫婦が待っていてくれた。
用意して下さった温かい紅茶を飲みながら、しばらくはそれぞれの近況や世間話を楽しんだ。それから、アザドさんのこれまでの日本での経験を中心にお話を伺った。私の倍以上の年月を日本で過ごしているアサドさんに、昔と比べて日本人の外国人に対する対応は変わったかどうか尋ねた。「それはだいぶ変わっていますよ」。初めて来日して羽田空港に降り立った際、アザドさんはカルチャーショックを受けたそうだ。表示はすべて日本語。周りの人が話しているのもすべて日本語。「まるでヘレンケラーの気分でした」。街中も、アザドさんの記憶では山手線がローマ字表記であるくらいだった。長野オリンピックを機に英語の表示が増えていき、今では英語を話せる人も増えており、言語の面で壁は低くなった。また、当時は外国人の存在自体が珍しく、来た時は15人くらいしかバングラデシュ人を知らなかった。今では在日バングラデシュ人も増え、週末になると集まって食事をしている。同じ国籍の人とのコミュニティがあることは安心につながり、これも住みやすくなった一つの要因と言えよう。
そして、アザドさんはこれまでの経験を振り返りながら、「日本は人がいいです」とおっしゃった。日本人とはベンガル語を教えていた先生と生徒の関係である為、皆尊敬の意をもって接してくれ、悪いイメージは全くない。これまで1000人以上を教えてきて、今でも節目ごとに連絡を取り合っており、年賀状も200枚くらい受け取る。「日本人との経験は私とってすごく財産ですね」。本当に長く、日本でご活躍なさったアザドさんであるが、バングラデシュに帰りたいと思ったことはないか尋ねてみた。すると、「思ったことはありましたけど、最近はそう思わない。」バングラデシュの家族と未だに頻繁に連絡を取り合う仲だが、それぞれが忙しく、この歳で帰っても面倒を見てくれるわけではない。「それより、人生の3分の2を過ごした日本の方が合っていると思います。なんでも知っていて、自分で仕事も出来るし。そういうところを考えると日本の方がいいですね」。そして今、アザドさんは日本で国籍を取ることを検討している。現在正規の仕事がないため、取得は難しいかもしれないが、トライしてみるとのことだ。まだ外国人が珍しかった日本で苦労をしながらも強く生き抜きいてきたこと、教育者としての日本への多大なる貢献と、日本で骨を埋めるというその覚悟に心を動かされるものがあった。
|すっかり日本の社会に溶け込むデロワさん
「お待たせ―!」待ち合わせ場所の雷門に現れたのは、来日25年目のバングラデシュ人のホッサン・デロワさんだ。日本人女性と結婚して2人の息子を授かり、現在は金属加工工場で働いている。彼はアサドさんから紹介して頂いた一人だ。初めて会った時からとてもフレンドリーで明るい印象を受けた。日本で生まれ育ったかのように流暢な日本語をしゃべり、「やばい」「めちゃ」などの若者言葉も使いこなしているが、特に日本語を勉強したことはないそうだ。私が、バングラデシュが好きで過去に3回訪問したことがある旨を伝えると、笑顔を弾けさせて「俺もバングラデシュ大好きなんだよ!ありがとう!」と私の手を取り強く握りしめた。「これからも宜しくね!」私は彼の世界にどんどんと引き込まれていった。夜ご飯を食べながらお話を聞いたのだが、場所は彼のチョイスで焼き鳥チェーン店の「鳥貴族」。イスラム教徒で食べられる肉に限りのある彼にとってそこが最適であるそうだ。
デロワさんはいとこの誘いで1995年に観光ビザで来日し、まずアパレル関係のアイロン工場にバイトとして1か月間勤めた。その後知り合いから紹介された携帯塗装会社に12~3年勤務し、現在の職に至る。どれも肉体労働で辛くなかったのかを尋ねると、体を動かすのが好きだから平気だったとのこと。どんな環境でも前向きに生きていける、そして辛いことを辛いと思わない強さが彼の日本での幸せな生活に繋がっているのかもしれないと感じた。そんな彼が思う日本の良さは、治安面・物質面・教育面で住みやすいこと、食事がおいしく、食材が新鮮なことであるそうだ。
「日本に来てほんとによかったよ!」
周りをぱっと明るくしてくれるようなその軽快な喋りで、楽しそうにこれまでの日本での経験を話してくれ、「外国人にとって住みにくい国日本」という私の仮説はここでも壊された。
食事を終えてもまだ話足りなかった私たちは、川沿いのベンチに座り込んで様々な話をした。デロワさんの息子さんの話題になった際、彼らがサッカーを習っており、更に、現在は自らが地元のサッカーコーチを務めているとおっしゃった。ご近所の方々からも慕われていて、すっかりコミュニティに溶け込んでいることが伺えた。また、他の在日バングラデシュ人との付き合いについても伺うと、たくさん仲間がいて、良好な関係性を築いているとのことだった。月に1回くらいのペースで仲の良いバングラデシュ人家族何組かと思い思いの料理を持ち寄ってパーティーをするのだそうだ。そして、「愛子ちゃんも今度呼ぶね!」と誘ってくれた。アザドさんも、バングラデシュ人コミュニティとの集まりの際には必ず日本人がいると言っていた。残念ながら新型コロナウィルスが流行しており、大人数での飲食が自粛される中でパーティー自体が実施されなかった。しかし、バングラデシュ人コミュニティの強さとそこに日本人を呼ぶことに対する寛容さを実感した。
デロワさんのように、日本社会にうまく順応できるのはバングラデシュ人の間で珍しくないようだ。北区が2020年に北区在住の外国人を対象に行った調査の中で、生活で困った時の相談相手として、バングラデシュ人の80%が自分と同じ国の友人、60%が日本人の友人と挙げた[8] 。 この二つの数字は他の国籍の方々と比べてもダントツで高い数字だ。更に、知りたい情報の入手方法としては、日本人の友人が90%、自分の職場・団体・学校が50%にのぼっている(資料1を参照)。このことは、在日バングラデシュ人の特徴として、日本におけるバングラデシュコミュニティが強固にあること、日本人コミュニティに溶け込めることがあると推測でき、それが日本での生活の満足度の上昇に繋がっているのではないか。更に、インタビュー調査を通して在日バングラデシュ人のエスニック空間の形成について調査した谷口博香さんによると、彼らは居住空間周辺ではエスニシティをほとんど表さない一方、「ボイシャキ・メラ」など一時的な機会にエスニシティを前面に出すという、大きく2つの特徴がある[9] 。 特に池袋の西口公園で行うこの祭事は「ホスト社会における公共物としての性格が強い公園において、その権力性を乗り越え、自らのアイデンティティと差異を誇示しつつも日本社会との良好な関係や友好示す機会を継続して作り出している」。9自身の文化を一時的に放出する機会があることで、ストレスなく居住空間周辺で周囲に溶け込むことが出来るのかもしれない。
|職場環境に恵まれた人も
Tさん(27)[10]は、眼鏡をかけた物静かな印象を受ける若者だ。4年前にソフトウェアエンジニアとして日本の会社に就職して来日した。彼もまたアサドさんに紹介して頂いた。大学で情報工学を専攻し、アニメがきっかけで日本語を学びはじめた。あまり働き口のないバングラデシュではなく、日本企業への就職活動をオンラインで行い、日本での職を手にしてから来日した。アサドさんの分類に基づくと、グループ②の典型例と言えよう。
働き始めてから職場環境での不満は全くなく、むしろ社員の方々がとても協力的であるそうだ。複雑な行政手続き等分からない部分はすべて助けてくれ、非常にありがたいと言っていた。日本での生活環境について尋ねると、最近では英語表記やハラルフードを取り扱う店も増え、基本的には住みやすいとのことだ。しかし彼は、詳細は後述するが、日本には“隠れた人種差別”が存在するとし、生きづらさも多少あると語ってくれた。
第4章 住みにくさの残る社会
3人からの話を伺い、在日外国人に対するイメージは一変して明るいものとなった。しかし、彼らも全く嫌な思いをしなかったわけではない。やはりどこか外国人に不寛容な部分が残っているようだ。
|外国人にとって不都合な日本の制度
アサドさんは、日本でこんなにもいい経験ばかり出来て、自分はラッキーだと言っていた。「工場や会社で働いている人の話を聞くと私みたいじゃない。彼らは結構悪い経験しています」。例えば、怒られたり、汚い言葉遣いをされたりしたという話を聞くそうだ。「私の経験が全てのバングラデシュ人にあてはまるわけではないです」。アサドさん自身は日本で嫌な思いをしたことがないが、皆がそのような経験をしているかと言われると、やはりそうではないようだ。
また、日本は住みやすい国かという質問に対して、仕事があれば生活はしやすいと答えてくれた。しかし続けて、「でも、私がよいと感じないのは、例えば家を借りるとすれば、日本人の保証人が必要です。私は外人でしょ、お金の関係のことだから誰も保証してくれないんです。そうすると私は部屋を借りることが難しい。子どもが東京にいて、私が長野にいた時にすごく苦労しました。(仕事の関係でアサドさんは長野に単身赴任していた)」日本人の友達がいても、保証人となるとなかなか承諾してくれる人はいない。日本人なら問題ないが、外国人にとっては非常に不都合な制度である。
|祖国をけなされ
日本の生活を謳歌しているデロワさんであったが、一度居酒屋で他のお客さんともみあいになり、警察沙汰に発展したことがある。その日彼は、日本人の友達20人くらいと居酒屋でお酒を飲み交わしていた。途中トイレへと席を立ち順番待ちをしていると、そこに来た男性に「国どこ?」と尋ねられた。デロワさんがバングラデシュと答えると、「なんだよ、バングラかよ」と軽蔑したような言い方をされた。祖国をけなされた怒りをこらえることができず、反論すると胸倉をつかまれ、デロワさんもそれに応戦する形でもみ合いとなり、警察が駆け付ける事態に発展した。その男性のように外国人を差別的な目で見る人は少なからず日本に存在する。
そのような経験をしながらも日本はいいところだと言ってくれる彼に、日本の悪い部分は何か尋ねてみた。すると、「日本人の悪いところは弱い者いじめをするところ」という答えが返ってきた。これは外国人に対する話だけではない。ある時、彼の職場に65歳のおじいさんが働き始め、年齢のせいか仕事を覚えるのが周りより遅かった。すると皆そのおじいさんに対して酷い言葉を投げかけ、粗末な扱いをするようになり、仕事を教えてあげるのはデロワさんだけだったそうだ。もちろんこのような精神論には個人差があり、一般化することは難しいが、外国人に対する差別的、軽蔑的な対応をする根源はここにあるのかもしれない。
もう一つ気になる話があった。お話を伺った当時彼は、あるバングラデシュ人留学生の学生ビザをめぐって弁護士とやり取りをしていた。外国人留学生は、資格外活動の許可を得ていれば原則1週間28時間の就労が認められている。国の言い分としては、本来の目的である学業に専念できるように設けた制限であり、それを超過してしまうと学生は強制退去の対象となる。しかし、仮に生活費に加えて学費を自分で賄おうとすると、規定内の時間のみ働くだけでは到底足りない為、規定以上に働いてしまうケースも少なくない。しかも皮肉なことに、ビザを更新する際、最初の3年間は就労状況については全く聞かれず、4年目になっていきなり就労関係の書類を提出するよう求められ、時間を超過していると強制退去させられるケースが多いという。彼に言わせれば、「やらしい」やり方だ。この話から、制度の周知の仕方、そして制度自体にも問題があると感じた。アサドさんの経験同様、外国人にとって不利な日本の制度は住みにくさを感じる大きな要因の一つとなっている。
また、インタビューの最後に本ルポに掲載するための写真を撮っていいか聞いたところ、「俺、警察に捕まっちゃう?」とふざけた風に言っていた。冗談だったとは思うが、過去に不法滞在していたことに対して、後ろめたさや警察や入国管理局に捕まるのではないかという恐怖を感じているのかもしれないと思った瞬間だった。
|隠れた人種差別
職場環境に不満はないと語ったTさんも、会社の外では、外国人であるがゆえに何度か不当な扱いを受けてきたという。ある時、コーヒーを持って会社の周りを歩いていると、年配の女性が何か言いながら彼を指さしてきた。すると警察が来て、「なぜここにいるのですか?」と尋ねてきたので、そこで働いていることを伝えると警察が謝罪してきたそうだ。彼はこのように警察に止められて荷物や財布を確認される経験を4回してきた。他にも、アパートを借りる際に外国人お断りの物件や話も聞いてくれない不動産屋さんが多くて苦労したことや、電車内で席のない時以外は隣の席に誰も座ろうとしないことなど、人種差別的な経験をしてきた。更に個人的に衝撃だったのが、銀行口座を開設できなかったことだ。職場の方が同行してくれて無事開設することはできたが、外国人というだけで口座すら作れないことはあまりにも理不尽だ。また、外国人対応がよい銀行とそうでない銀行があるらしく、外国人の間では常識になっているそうだ。私の知らない日本の一面が垣間見えた気がした。
このような日本の現状を、 “hidden racism”、直訳すると「隠れた人種差別」が存在すると、Tさんは表現していた。アフリカのアパルトヘイトやアメリカの黒人差別のように、肌の色によって日本人と全く違う扱いを受けたり、路上で侮辱的な言動を浴びせられたりすることはないが、多くの日本人がどこか外国人に対して壁を感じているのかもしれない。つまり、彼の「隠れた人種差別」という表現は、マイクロアグレッションを意味しているのではないだろうか。マイクロアグレッションは、1970年にハーバード大学の心理学者、Chester M. Pierceによって作られた造語だ[11] 。 そしてその後、コロンビア大学教授の Derald Wing Sueが自らの経験や豊富なインタビュー調査を通して次のように定義した。
日本はこれまで様々な偏見や差別の問題を抱えてきた。アイヌ差別や在日韓国人に対するヘイトスピーチ。最近では、アフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイドさんが警察官による暴行で死亡した事件を受けてアメリカ合衆国で巻き起こった、Black Lives Matterの運動が日本にも波及した。東京では約3500人がデモ行進を行った。参加者達は、アメリカにおけるアフリカ人差別の問題に対する抗議のみならず、日本に存在する対マイノリティ差別の訴えなど、様々な思いを抱いていた。この運動に関連し、2020年6月7日、NHKのニュース番組「これでわかった!世界のいま」がTwitterの公式アカウントに白人と黒人の格差を説明したアニメーションを投稿した。しかし、そこに登場する黒人のキャラクターが「攻撃的な黒人」という偏見を助長するとして批判が殺到し、同番組はその後動画を削除して謝罪した。この投稿は、日本人がいかに外国人に対して偏見を持っているかが露呈した結果と言える。Tさんも、警察に止められるといった経験をしている周りの外国人は、「全員ではない。ブラウンやブラックの人が多い」と言っていた。凝り固まった固定観念がマイクロアグレッションを引き起こしていると思う。
アフリカ系だからというだけで「足が速そう」と言ったり、日本人としてのアイデンティティをもつ外国人に出身地を聞いたり、「日本人みたいだね」と言ったりする。これらもマイクロアグレッションの一つである。私ももしかしたら気付かずに相手を傷つけていたかもしれない、と少しどきっとした。意図せずして差別的な言動や行動を取ってしまうところにマイクロアグレッションの難しさがある。自分が人を傷つけていることに気付いていないからこそ直すことが難しいし、傷ついた側も言い出しにくい。解決に向けた第一ステップとして、一人一人の心がけが大切だと思う。自分自身の行動や言動が人を傷つけないか、相手の立場や事情を想像しながらコミュニケーションをとることで、今外国人が感じている差別や偏見による生きづらさを取り除くことが出来るのではないだろうか。
|非正規滞在の子ども達
APFSの事務所を訪れた際、壁に気になるものが展示されていた。「非正規滞在の子どもたちの声」と印刷された紙の横の模造紙に、何か書かれた黄色とピンク色の付箋がぺたぺたと貼ってある。そこには子ども達からの不条理な現実に対する悲痛な叫びが詰まっていた。課題の欄には「将来」「病気」「劣等感」などの文字。日本人の私たちには当たり前に保障されていることも脅かされている現実があった。特に私の印象に残ったのは「自由をうばうな」という言葉。民主主義国として、すべての国民に自由が保障されているはずのここ日本で、このような訴えがあるということに驚き、そしてどこか実感がわかなかった。一方で解決策の欄には、辛い状況の中でも前向きに、強く日本社会で生き抜こうとする確固たる信念が感じられた。日本人と同じように生まれ育ち、懸命に日本で暮らしていこうとする罪のない子ども達から、日本は自由を奪い続けていいのだろうか。子ども達の叫びはあまりにも衝撃的で、彼らの言葉が私の胸にその後もわだかまりが残った。どうにも現実のものとして受け止めることができず、実際に会って話が聞きたいと思い、後日吉田さんに誰か会わせてくれないかと面会を依頼した。するとバングラデシュ人ではないが、フィリピン人なら近日事務所に来るから紹介できるとのことだったので、ありがたくその機会を頂いた。
面会当日、私を待っていたのは大柄な若い男性だった。「よろしくお願いします。」と礼儀正しく挨拶してくれたその声は、見た目に反してとても柔らかく、控えめだった。彼の名前はダニエルさん、23歳。現在は介護施設で働いている。その日は夜勤明けで一睡もしていないそうだったが、疲れた素振りは見せず、丁寧に対応してくれた。両親はフィリピン人で、20数年前に出稼ぎとして来日。ダニエルさん自身は埼玉で生まれ育った。周りの日本人と同じように生活していたダニエルさんは、両親が非正規滞在をしていることなど露程も知らなかった。そしてその時は突然やってきた。彼が小学校5年生の時、いつも通り学校に行く支度をしていると、いきなり入国管理局の人らしき人が数人入ってきて両親は摘発されたのだ。父親はそのまま長期間収容されてしまった。そして4年前、入国管理局で両親がフィリピンに帰ったら子どもには在留資格をあげると言われ、両親は祖国へと戻っていった。難しい決断だったか尋ねると、「選択肢はなかったです。全員残っても仕事できないので。もうどうすればいいかわからない状態でした」。家族にとって一番避けたい条件であろうが、それを飲まなければ生きていくのが難しい。子ども達を残して日本を離れなければならなかったご両親の胸の内を考えると、いたたまれない気持ちになった。
日本での生活において人間関係で悩むことはなかったが、不自由な思いはしていた。高校生の時、バイトができないためにお金がなく、友人と遊びに行ってもあまり払うことが出来なかったのだ。そしてこのように、簡単に働けない状況になって初めて、自分は周りと違うのかもしれないと感じた。ダニエルさんも日本で生まれ育った者なら当然認められるべき自由を奪われていた。彼から話を聞くことで、ようやく付箋に書いてあった言葉の数々が、現実の叫びとして私の胸に刺さった。
「日本は外国人に対して厳しいけど、こうだから成り立っているんだと思います。」
ここでデロワさんの言葉を思い出した。「日本人の悪いところは弱い者いじめをするところ」。考えてみれば日本の政策は、外国人があまりにも少数派なために今まであまり問題とされてこなかったが、外国人を冷遇する政策が多い。例えば在留資格の労働条件。活動制限のある在留資格を有する人は自由に転職することができない。失業してしまった場合、3か月以内に同じ業種で仕事を探すか在留資格の変更を行わないと在留資格をはく奪されてしまう。つまり、職を選択する自由がないのだ。人を人として扱わないような制度を改定する必要性を実感した。
両親と日本に住み、いつでも会える環境にすることがダニエルさんの夢なのだそうだ。そんな叶えられて当たり前なことを夢として見なければならない日本社会の現状を問題視し、今後ますます外国人が増える時代にその状況を変えていかなければならない。
第5章 多文化共生社会に向けて
私がお話を伺ったバングラデシュ人3人は、日本が住みやすい国であると感じていた。一方で、私がこのルポルタージュを作成するにあたってお話を伺うことが出来たのは、日本で満足のいく生活をしている人達であることには留意しておきたい。アサドさんに電話でお話を伺った後、日本の生活について、出来ればITの分野で働いている人と日雇い労働者の人から話を聞きたいとショートメッセージにて依頼した。アサドさんも日雇い労働者の方々何人かに尋ねてくれたが、断られてしまったそうだ。第4章で述べたように、差別的な扱いを受けたり、制度的な壁にぶち当たったり、自由な暮らしが出来なかったりと課題は山積する。更に、在日外国人が抱える課題は複雑に絡み合っているようだ。
|複雑に絡み合う課題
私自身は直接課題に直面するバングラデシュ人の生の声に耳を傾けることは叶わなかった。しかし、私がお話を伺った吉田さんも協力し、在日外国人が抱える問題やそれに対する支援の実態、そして今後の展望などが詳しく記された南野奈津子『いっしょに考える外国人に支援―関わり・つながり・協働する』によると、外国人の課題は多岐にわたる。まずは法的な問題。主な要素は在留資格であるが、それと絡み合って様々な問題が複雑化する。医療の問題。DV等家族関係の問題。教育の問題。子ども達の養育の問題。そしてどの分野でも横断的に問題となっていたのは、言語の壁である。コミュニケーションが取れないことによって受けられるサービスが受けられなかったり、トラブルに発展したりすることが多い。彼らが直面している問題だけでも一つの論文をかけてしまうのでこの程度で留めておくが、各方面で困難があることは分かって頂けただろう。そして、苦境に立たされている外国人はここで挙げた問題の一つではなく、それらが複雑に絡み合って、更に解決への道から遠ざけられていると感じた。山積する課題をクリアするには、一筋縄ではいかない現実があった。
|行政の取り組み
このような複雑な課題を行政はどのように対処しようとしているのか。私は現在の行政側の取り組みや現状に対する意見を聞きたいと思い、バングラデシュ人も多く住む東京都の北区役所を訪問した。質問したかったのは、北区に住む外国人の基本情報や北区の国際化に向けた取り組み、今後の展望などについてである。北区総務課の担当職員が対応してくれた。事前に送った質問に対して回答を文書で用意し、さらに参考資料もそろえて待っていて下さった。
2020年1月時点の北区におけるバングラデシュ人人口は1,043人で国別に見ると5番目の多さである。同時期の東京都全体でのバングラデシュ人人口は4,664人なので、およそ4分の1弱が北区で暮らしている[12] 。 北区が国際化に力を入れるようになったのは平成11年のことだ。北区基本構想を策定し、グローバル時代のまちづくりを掲げ、国際化を推進することになった。では具体的にどのような方針に基づき、具体的にどのような施策を実行しているのか。資料3を参照して頂きたい。 左から右に向けて施策が具体化していき、上から下に向けて取り組みやすさが難化していく。そして、情報提供の多言語化、日本語学習の充実、交流機会の創出に力を入れて取り組んでいくとのことだった。
北区の取り組みを聞き、色々と積極的に取り組んでいるな、という印象を純粋に受けた。自分が想像していたよりも様々な取り組みに着手していたし、今後の計画もかなり明確だった。また、複数の新聞記事で、国は外国人労働者の教育などは地方自治体や企業に丸投げしているという話を目にした[13] [14] [15] 。 実際のところどうなのか気になり、担当職員の方にも聞いてみたが、予想に反して彼からの回答は「そうではない」だった。というのも、地方自治体は、団体と連携して地域や社会になじめるように施策を実行し、国は制度設計をするという風に役割分担をしているそうだ。外国人に対する日本語教育に関して例に挙げると、日本語教師の質を高めるために資格制度を設けるなどの制度設計は国が行い、日本語教育や活躍できる場を設けるなどの具体的なフェーズは地方自治体が担うという具合だ。また、外国人受入環境整備交付金として、役所で外国人ワンストップ相談窓口設置にあたる費用を入国管理局から補助金として補助してくれる制度があるそうだ。外国人人口が増えている今、国としても対策を講じてきていることが分かった。
お話を伺う中で課題も見えてきた。外国語で保健や税金の説明が書かれたパンフレットを区役所だけでなく、駅など複数箇所おいてあるというお話があったので、その反響はどうか尋ねると、区に対して外国人からの働きかけは特に無いのだそうだ。課題の部分でも触れたように、言語のハードルは外国人にとって高く、APFSにおいても行政手続きに関する問い合わせは多いと聞いた。北区の取り組みは素晴らしいし、需要も十二分にあるはずなので、活用されていないのはもったいないと感じた。このような行政の取り組みを周知すること、そしてデジタル化を推進する必要があると思った。区役所のホームページからもそのパンフレットのPDF版が見られるそうだが、日本人でデジタルネイティブの私でさえ少してこずるくらい分かりにくい場所に掲載されていた。国際化に向けた取り組みを推進するより先に、多言語対応の専用アプリを開設するなど、取り組みを広報する場としてのオンライン上のプラットフォームを整備することを優先すべきではないかと感じた。外国人の多くが苦労する行政手続きの壁を払拭することが出来れば、日本は外国人にとって格段と住みやすくなるはずだ。
おわりに
日本は外国人にとって本当に住みにくい国なのか。タイトルとして掲げたこの質問に対する答えは、イエスでもありノーでもある。在留資格と職を有していれば、居住環境としての日本は文句ない。むしろ私が持っていた「日本=外国人にとって住みにくい国」という仮説が壊れるくらい日本での生活に満足している人達も多くいた。一方その陰では多岐にわたる問題が絡み合い、苦しい生活を強いられている人達もいた。
このルポルタージュ制作を通して気づいた、問題解決に向けて必要な二つのことがある。一つは、人を人として扱わないような制度を直ちに改正することだ。非正規滞在の子ども達の声は私に強い衝撃を与えた。日本に居住する人々の自由を保障することは国の義務である。たとえ認められた在留資格を有していなくても、彼らの生活をないがしろにしてはいけない。具体的にどのような制度が考えられるか、知識も経験もない私には現段階では分からない。しかし、彼らの声を拾って拡散し、国に届けることは出来る。自由がなく、将来に不安を抱えながら生きる子ども達がゼロになるような制度設計を是非政府には速やかに実行して頂きたい。
二つ目は、学校における多文化共生の教育を促進することだ。ある日、代々木公園でピクニックを楽しんでいると、中学生くらいの生徒5人と黒人の男性が一緒に歩きながら話していた。学校の授業の一環として外国人と交流しようというものであったと推測するが、素敵な取り組みだと思った。外国人と触れ合う機会が少ない日本で、若いうちからそのような機会を設けることは異文化理解を進める上で重要である。また、学校内でも外国にルーツを持つ生徒が今後ますます増えてくるだろう。そのような子ども達が取り残されない為にも、日本にいる外国人が当たり前の存在になる為にも、多文化共生に向けた教育を丁寧に行っていく必要がある。そうした教育を通し、外国人が日本社会の一員であると認識することで、マイクロアグレッションも改善していくと私は考える。
在日バングラデシュ人だけでは、外国人にとって日本が住みやすい国か判断するためのサンプルが少なすぎるかもしれない。しかし、話を聞いていく中で、日本の生活に満足している人も多くいることがわかった。彼らが評価してくれている部分に自信を持ちつつ、山積する課題を解消していくことで、より外国人にとってこの日本が住みやすい国にすることが出来る。慢性的な少子高齢化問題を抱える日本は、外国人がいなければ成り立たない。外国人をただの労働力として見るのではなく、仲間として受け入れる体制を取っていかなければならない。道のりは長いであろうが、日本にとって必要な変化だ。多文化共生社会日本に向けた航海の船に、私たちはまだ乗り込んだばかりなのである。
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インタビューから見た在日バングラデシュ人の人々
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