東京工業大学
リベラルアーツ研究教育院長 教授
上田 紀行 先生
真の教養が求められている
「リベラルアーツ」という言葉が大学教育の中でよく聞かれるように
なってきました。日本語に直すと「教養教育」がいちばん近いのですが、
内容はちょっと違います。
教養という言葉には悪い意味はありませんが、
これまで大学における「教養教育」という
言葉には「専門教育」の前に学習する一段低い教育と
いった意味がつきまとっていました。
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ですからリベラルアーツ教育と言うときには、
昔の「教養教育」とは違うんだぞという意味合い
が含まれています。
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最近まで多くの大学は「役に立つ人材」を育てようと
いうことで、なるたけ早く専門教育を行い、その専門の
スペシャリストを育てようという傾向がありました。
しかしそうなると自分の専門のことは
詳しいけれど、それ以外のことはあまり知らない
という人たちが生みだされてしまいます。
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また、最近の大学入試は科目数がとても
少なくなっています。そうすると高校生の皆さん
はどうしても入試に出る科目を集中して勉強する
と思います。
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そうすると例えば理工系では
「数学と物理と化学には詳しいけれど、
それ以外の分野はほとんど知らない」
といった学生が、
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文系でも「法律や経済は知っているけど、
科学技術も文学も知らない」といった学生
が増えてしまいます。
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でもそうやって一つの分野のことしか
知らない人が社会に出ていった場合、その人は
社会のいろいろな問題に対処することができる
でしょうか?
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現代社会の問題はさまざまな要因が絡まり
合っています。例えば原発の問題を対処する
にも理科系と文系の両方の知識が必要です。
高齢化の問題に向き合うにも、
心理、経済、社会福祉などのさまざまな分野の
知識が必要になるでしょう。
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専門教育だけを受けてきた人が「役に立つ」と
は限らないのです。むしろ幅広い「教養」を持って
いる人が必要とされているのが現代なのです。
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答えがない問題にどう対処するか
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また誰もが「正解を求めてしまう」のも
大きな問題になっています。皆さんは小学校から
ずっと「正解」を求める勉強をしてきたと思います。
だから物事には正解があって、それを答えられれば
優秀だと思い込んでいる人が多いでしょう。
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しかしこの社会で起こっていることは、
一つの正解を見いだすことが難しい問題ばかりです。
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グローバル社会の中での国際紛争は、
民族も宗教も違う人たちが「自分の考えは正しい」
と言って争っています。
その中で「正解はこれだ」という発想は
役に立ちません。
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日本の中でさえ、生まれや立場の違う人たちは、
まったく違った意見を持っています。
一つの家庭の中でも、お父さんとお母さん、
兄弟姉妹で考え方は違います。その中で
「正解を見つける」ことよりも、
ものの考え方・感じ方が違う人たちの中で、
いかにほかの人たちの立場を理解し、他人の
主張を聞き、自分の主張も述べ、調停し、
共存していけるのかが問われているのです。
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そこでは「ひとつの正解」よりも「多様性の理解」が
とても大切になります。ビジネスパーソンも海外の文学
を読めば、その国の国民性がわかります。弁護士も人々の
心理や人間関係のあり方を知っていたほうがいいはずです。
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そうやって「物事にはいろいろな見方があるのだ」と
いうことを学んでいることが、私たちの人生を切り
ひらくときにとても大切になるのです。
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多様な見方ができるとは、
「他の人の言っていることを鵜呑みにしない」と
いうことでもあります。どんな偉い人が言ったこと
でも、必ずしも正しくないかもしれない。
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ある時代のある場所では正しくても、ほかのところ
では通用しないかもしれない。だからそれをすぐに
信じてしまうのではなく、
自分の頭で考え、自分のハートで感じ、
自主的に判断し行動することが求められています。
もちろんそうやって自分で判断するためには、
たくさんのことを知っておかなければなりません。
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自由人として生きるための学問
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リベラルアーツという言葉は
元々ギリシャ・ローマ時代の「自由7科」
(文法、修辞、弁証、算術、幾何、天文、音楽)
に起源を持っています。
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その時代に自由人として生きるための
学問がリベラルアーツの起源でした。
「リベラル・アーツ」、つまり人間を自由に
する技ということです。
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現代社会は一見自由に見えます。
しかし多くの人たちが生きづらさ、不自由さを感じて
いるのはなぜでしょうか。いま私たちが直面しているのは、
評価をたいへん気にして、「正解」を求めていないと不安だ
という意識です。
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ですから多くの人たちが「評価されること」に
がんじがらめになっています。しかしそれが本当に
自由な生き方でしょうか。
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「評価される正解」にがんじがらめになっている
人は実はとても不自由で、そして結局のところ新しいものを
創り出す創造性を欠く人になってしまいます。
それでは自分も楽しくないし、社会に貢献する
こともできません。
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リベラルアーツとは自分を多様な世界へと
解き放ち、より良い自分、より良い世界へと
導く入口となります。
大学に入学したらぜひリベラルアーツを
広く学び、生き生きとした
自分を発見してください。
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杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、安政2年3月3日(1855年4月19日)- 大正13年(1924年2月13日)は、明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家。幼名は謙次郎。父は膳所藩の儒者杉浦重文。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。
若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講する。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立。
経歴[編集]
近江国膳所藩の儒者で父杉浦重文(蕉亭)と母八重の次男として生まれる。3歳のとき、護送される頼三樹三郎を目撃する。数え年6歳で藩校・遵義堂に入学を許され、高橋正功(坦堂、作也)、黒田麹廬、岩垣月洲に漢学・洋学を学ぶ。“予の精神は之を坦堂先生に受け、学問は之を麹盧先生に受け、識見は之を月洲先生に受けた”と後に懐述するように、この三人より受けた教育的感化は彼の一生を支える程強かった。15歳で句読方に任ぜられる。
15歳のおり藩より貢進生に選ばれ東京に下り、大学南校に学ぶ。在学中は猛勉強の結果、明治6年(1873年)10月、明治天皇への御前講演に選ばれ理化学の実験を行う。首席の鳩山和夫、小村寿太郎、高平小五郎らが同期生だった。のちに小村の外務省入りのきっかけとして、小村を外務卿井上馨に紹介したのは杉浦であった。
明治9年(1876年)、第2回文部省派遣留学生に選抜されて渡欧。化学を専攻。当初は農業を修めるつもりでサイレンセスターの王立農学校に入るが、英国の農業は牧畜が中心で、穀物は麦で、勉強をしても帰国後役には立たないと気付き放棄した。化学に転向し、マンチェスター・オーエンスカレッジに移り、ロスコー、ショーレマン両教授の指導下で研究に従事。更にロンドンのサウスケンジントン化学校、ロンドン大学等で学ぶうちに神経衰弱にかかり、明治13年(1880年)5月に帰国。
27歳で文部省と東京大学に勤める。その間、東大予備門(のちの一高)校長にあり、また大学予備門など旧制高校進学のために英語でもって教授する予備校であった東京英語学校(のちすぐに日本中学に改称)創立の中心の一人となる。
のちに、読売・朝日新聞の社説を担当となり、三宅雪嶺、志賀重昂らと政教社発行の「日本人」(のちに「日本及日本人」)や新聞「日本」の刊行に力を尽くす。それらによって国粋主義を主張し、当時の社会に影響を波及させる。明治22年(1889年)3月に文部省を非職[2]。同年には日本倶楽部をつくり、大隈重信の不平等条約改正案に反対する。小石川区議員を経て、翌年明治23年(1890年)第1回衆議院議員総選挙に大成会から出馬し当選。しかし翌年に辞職した。
その後は子弟の養成と共に東京文学院を設立し、以後も國學院学監や東亜同文書院院長、東宮御学問所御用掛などを歴任。官学崇拝も強く、当時の官公立中等教育のメッカである府立一中にも足を運び、「本校は帝都の第一中学であるのみならず、帝国の第一中学である」など講演にても折に触れ、国家の権威を高めることに尽力していた[3]。
迪宮裕仁親王(摂政宮、のちの昭和天皇)の御進講役も務め、さらに宮中某重大事件にては久邇宮家と結んで、山縣有朋に対抗した。大正13年(1924年)、腎臓炎のため死去[4]。墓所は東京文京区伝通院。
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