インドの日本の関係は とても深いものがある。インドが独立しようとしている頃 日本の民間が 2人を助けて以来、ずっと良い関係を続けていると思う。個人的にも、ラジブ・ガンジー首相がいらっしゃる頃、1983年~1988年インドに12回通っていた。(合計1年半滞在)首相に(同い年でもあり)親近感を覚えていた。当時世界的な不況で、マーケットがどん底の時、インドは国際入札で、船やオフショア石油掘削プラットフォームを建造していた。当時日立造船に努めていて担当となり 国際入札の度に 出かけていた。
幸い幾つも受注出来て、半分私はインド人になっていた。ヒンズー語の片言で、相当鍛えられた。貴重な経験が出来た。なので 二人のボースさんには 思い入れがある。ざっと歴史やお二人の活動を眺めていよう。当時はインドは英国の植民地。そこから独立出来た。なので お二人の生き様を見ていると熱くなってくる。
私が初めてインドに行った1983年。とても貧しい国だったので、心情的に助けたいと思った。それを要請・いや強要されることも、しばしばだった。全てを捧げると会社がつぶれてしまう。世界的な不況のど真ん中で、こちらもいつ倒産するか びくびくしながらだった。ぎりぎりで、赤字にならない工夫を幾つも考え行動した。気の毒な状態にある人達との攻防。弱者との闘いは いつも、人道主義。「論語とそろばん」の世界。日本人はおおむね信用されているが、現場では通用しない。
「一過性ではなく永続的に注文を取らない」と意味がない。その場限りの関係は全く意味がない。毎年注文を取らないと、リピートの世界に生きているので 意味がない。どうすれば 良好な関係をずっと続けられるか? インドの人たちは 真剣になると手を掴んだまま 交渉がつづく それも100~200人の人たちの前だ。私も 手を握られたまま、肩を抱き、膝を叩き、熱心に応じた。心を捉えたかどうか 判らないが 本当の信頼は 後から聴いたけど、この形が最高に良いカタチらしい。こっちも真剣勝負だった。
ヒンダスタン造船所で 技術移転 Transfer of tecknologyの責任者で 半年ぐらいビシャカパトナム市に滞在した時は インドの造船所の改良すべき点を 10ページにわたり建白書を書いた。社長。工場長をはじめ幹部 200人ぐらい集まって貰い。皆さんの前で話をした。必死で本当の技術移転をしなければと頑張った。インドのマーケットシェアは結果 年によって違うが 60 %~80%は取れたのではとの自負もある。懐かしい世界だ。
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スバス・チャンドラ・ボーふたりス(Subhas Chandra Bose、
ベンガル文字:সুভাষচন্দ্র বসু 発音 、1897年1月23日 –
1945年8月18日)は、インドの独立運動家、インド国民会議派議長
(1938 – 1939年)、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高
司令官。民族的出自はベンガル人。ネータージー(指導者、
नेताजी, Netāji ネタージ、ネタジ とも)の敬称で呼ばれる。
なおベンガル語の発音は、
シュバーシュ・チャンドラ・ボーシューが近い。
スバス・チャンドラ・ボースSubhas Chandra Bose | |
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通称 | ネータージー |
生年 | 1897年1月23日 |
生地 | イギリス領インド帝国 ベンガル州カタック |
没年 | 1945年8月18日(48歳没) |
没地 | 台湾 台北市 |
思想 | 民族主義 社会主義 |
活動 | インドの独立運動家 |
所属 | インド国民会議派 前進同盟 自由インド仮政府 インド国民軍 |
投獄 | 1924年、1939年 |
刑場 | 投獄地マンダレー(1回目)、カルカッタ(2回目) |
母校 | コルカタ大学 ケンブリッジ大学 |
信教 | ヒンドゥー教 |
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Life of Netaji Subhash Chandra Bose – A Brief Documentary (すぐに英語に切り替わる)
15分を過ぎた頃 日本に来たChandra Boseが歴史的なスピーチをした。この結果 怒った。イギリス大使が厳重に日本に抗議。チャンドラボースを追い出そうとした。173,624 回視聴 2013/01/15 Indian National Congress チャンネル登録者数 111万人
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チャンドラ・ボースの眠るお寺【頂光山 蓮光寺】2019.9.東京都杉並区
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ラス・ビハリ・ボース(ヒンディー語:ラース・ビハーリー・ボース
रास बिहारी बोस、ベンガル語:ラシュビハリ・ボスゥ রাসবিহারী বসু、
英語:Rash Behari Bose 、1886年3月15日 – 1945年1月21日)はインド
独立運動家。過激派として指名手配され、日本に逃れてインド独立運動
を続けた。スバス・チャンドラ・ボースと区別するため、
「中村屋のボース」と呼ばれる(新宿中村屋の相馬家の婿であり、
取締役も務めた。この二人は名前が同じであることから混同される
ことがあり、『朝日新聞』でも1990年1月9日付の紙面で誤り、
翌10日付で訂正記事を掲載している)。
日本に本格的なインドカレーを伝えた人物でもある。
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インドカリーを日本に伝えた、ラス・ビハリ・ボース
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ラース・ビハーリー・ボースRash Behari Bose 、 रास बिहारी बोस রাসবিহারী বসু |
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ラース・ビハーリー・ボース
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通称 | 中村屋のボース |
生年 | 1886年3月15日 |
生地 | イギリス領インド帝国、ベンガル |
没年 | 1945年1月21日(58歳没) |
没地 | 日本、東京都 |
思想 | 民族主義 |
活動 | インドの独立運動家 |
所属 | インド国民会議 |
受賞 | 勲二等旭日重光章 |
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India Untold | This Is The Forgotten
Story Of Bose And It’s Not About Netaji!
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頭山満と玄洋社【CGS ねずさんとふたりごと】
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吹けば飛ぶよな家具屋のおやじ
インドの独立には日本は深いかかわりがあった。
それは独立を見ることなく、亡くなった二人のボースが
日本に深いかかわりがあったのである。
今でもチャンドラ、ボースは、インドでは絶大な人気を誇っており、
インドの国会議事堂には、チャンドラ、ボースの肖像画を中央にして
その右側にマハトマ、ガンジー。左側にジャワハルラール、ネルーの
肖像画が掛けられているほどなのだ。
インドは英国による植民地が200年以上続き
人々は弾圧に苦しみぬいてきた。
戦前は米英ではなく英米と言って
英国の艦隊が世界の海を支配していた。
17世紀冒頭にはイギリス、オランダ、フランスが
それぞれ東インド会社を設立、し、アジアでの精力拡大競争を開始した。
結局、ムガール帝国の没落に乗じてインドでの
覇権を確立したのはイギリスであった。
インド人が無抵抗であったのではない。
たくさんの抵抗の戦いはすべて、世界一のイギリス艦隊と
産業革命による近代装備軍隊の前に失敗に終わった。
さらに、イギリスはインドで生産した麻薬(アヘン)を中国に売りつけ
武力によってこれを強要した。
アヘン戦争である。
これに気がついた吉田松陰により
日本も明治維新を起こし、挙国一致の体制を
アジアで整えた最初の国になる。
植民地化を防いだのである。
やがて、日露戦争における日本の勝利は、
全インド、全アジアに大きな刺激を与えた。
そして、多くのインド独立の志士が国内外で活動を強めていったが、
ついにビハリ、ボースを中心とするインド総督暗殺
未遂事件が起きたのである。
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★さて 忘れてはならない「マハトマ・ガンジー」のこと
10分で解説】インド独立の父 ガンジーの言葉【不屈の魂】
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Nakamuraya Manna, Shinjuku
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The Subhash Chandra Bose Archive – Purabi Roy
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用途及び属性 | ? |
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縦横比 | 2:3 |
制定日 | 1947年7月22日 |
使用色 |