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小泉八雲 ラフカディオ・ハーンさんの夫人小泉さんの手記を読んで、すっかり魅せられました。なので全文を掲載したので ご興味ある方は読んでくださいね。そして小泉八雲さんの波乱万丈の人生は、とても参考になる。
著作の殆どが、節子さんに色々な昔話の口述から、書かれたことが判る。節子さんの人生も数奇なもので、お子さんたちに引き継がれた。
少なかれ多かれ、人間の人生は、それぞれ普通ではなく波乱万丈だと思う。先輩諸氏の生きざまは、日本人、外人を問わずとても興味津々で、勇気と元気を貰える。お二人の人生から幾つかの指針も得た。
毎日 2,3人の伝記をパラパラ見る習慣をつけたのは たぶん30年以上前から。書斎にも、トイレにもお風呂場まで あちこちに置いてある。読ませて頂くたびに身の引き締まる思いがする。花たちや虫たちとの交流も八雲さんはしっかりやっていた。
人物巡りは 花たちとの会話にもたびたび話題になる。あ~しあわせ。
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写真の花たちは 私の早朝と帰宅の時の話し相手。会話を楽しんでいる。小泉節子さんと小泉八雲さんの話題も上りました。
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New Star TV 100分de名著 小泉八雲 『古きよき日本を求めて』Part2 武内陶子 伊集院光 池田雅之 佐野史郎 毎週水曜日 100分で名著
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学校から帰ると直に日本服に着換え、座蒲団に坐って煙草を吸いました。食事は日本料理で、日本人のように箸で食べていました。何事も日本風を好みまして、万事日本風に日本風にと近づいて参りました。
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「小泉八雲が辿った壮大な人生」 ゲスト:小泉凡さん(小泉八雲のひ孫)【やすことLunch Break】(11/18/19)
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熊本で始めて夜、二人で散歩致しました時の事を今に思い出します。ある晩ヘルンは散歩から帰りまして『大層面白いところを見つけました、明晩散歩致しましょう』との事です。月のない夜でした。宅を二人で出まして、淋しい路を歩きまして、山の麓に参りますと、この上だと云うのです。
草の茫々生えた小笹などの足にさわる小径を上りますと、墓場でした。薄暗い星光りに沢山の墓がまばらに立って居るのが見えます、淋しいところだと思いました。するとヘルンは『あなた、あの蛙の声聞いて下さい』と云うのです。
又熊本に居る頃でした。夜散歩から帰った時の事です。『今夜、私淋しい田舎道を歩いていました。暗いやみの中から、小さい優しい声で、あなたが呼びました。私あっと云って進みますとただやみです。誰もいませんでした』など申した事もございます。
熊本にいました頃、夏休みに伯耆から隠岐へ参りました。隠岐では二人で大概の浦々を廻りました。西郷、別府、浦の郷、菱浦、みな参りました。菱浦だけにも一週間以上いました。西洋人は始めてと云うわけで、浦郷などでは見物が全く山のようで、宿屋の向いの家のひさしに上って見物しようと致しますと、そのひさしが落ちて、幸に怪我人がなかったが、巡査が来るなどと云う大騒ぎがありました。
西郷では珍客だと申すので病院長が招待して下さいました。ヘルンはこの見物騒ぎに随分迷惑致しましたが、私を慰め励ますために、平気を装って『こんな面白い事はない』などと申していましたが、書物にはやはり困ったように書いて居るそうでございます。御陵にも詣でました。
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後醍醐天皇の[#「後醍醐天皇の」は底本では「御醍醐天皇の」]行在所の黒木山へも参りました。その側の別府と申すところでは菓子がないので、代りに茶店で、『ゑり豆』を出したのを覚えています。
帰りに伯耆の境港で偶然盆踊を見ましたが、元気な漁師達の多い事ですから、足を踏んでも、手を拍ってもえらい勢ですから、ヘルンはここで見た盆踊は、一番勇ましかったといつも申しました。杵築のは陽気な豊年踊、下市のは御精霊を慰める盆踊、境のは元気の溢れた勇ましい踊りだと申しました。
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それから山越しに、伯耆から備後の山中で泊った事をいつも思い出します。ひどい宿でございましたが、ヘルンには気に入りました。車夫の約束は、山を越えまして三里程さきで泊ると云うのでしたが、路が方々こわれていたので途中で日が暮れてしまったのです。山の中を心細く夜道を致しました。
そろそろ秋ですから、色々の虫が鳴いて居るのです。山が虫の声になってしまって居るようで、それでしんとして淋しうございました。『この近くに宿がないか』と車夫に尋ねますと『もう少し行くと人家が七軒あって一軒は宿屋をするから、そこで勘忍して下さい』と申すのです。
車が宿に着きましたのが十時頃であったと覚えています。宿と云うのが小さい田舎家で気味の悪い宿でした。行灯は薄暗くて、あるじは老人夫婦で、上り口に雲助のような男が三人何か話しています。二階に案内されたのですが、婆さんが小さいランプを置いて行ったきり、上って来ません。
あの二十五年の大洪水のあとですから、流れの音がえらい勢でゴウゴウと恐ろしい響をしています。大層な螢で、家の内をスイスイと通りぬけるのです。折々ポーッポーッと明るくなるのです。肱掛窓にもたれていますと顔や手にピョイピョイ虫が何か投げつけるように飛んで来て当るのです。随分ひどい虫でした。
膝の近くに来て、松虫が鳴いたりするのです。下の雲助のような男の声が、たまに聞えます。はしご段がギイギイと音がすると、あの悪者が登って来るのではないかなどと、昔話の草艸紙の事など思い出して心配していました。
婆さんが御膳を持って上って来ました。あの虫は何と云う虫ですかと尋ねますと『へい夏虫でございます』と云って平気で居るのです。
実に淋しい宿で、夢を見て居るようでございました。ヘルンは『面白いもう一晩泊りたい』と云っていました。箱根あたりの、何から何まで行き届いた西洋人に向く宿屋よりも、こんなのがかえって気に入りました。
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それですから、私が同意致したら、隠岐の島で海の風に吹かれてまだまだ長くいたでございましょう。飛騨の山中を旅して見たい、とよく申しておりましたが、果しませんでした。
神戸から東京に参ります時に、東京には三年より我慢むつかしいと私に申しました。ヘルンはもともと東京は好みませんで、地獄のようなところだと申していました。東京を見たいと云うのが、私の兼ての望みでした。
ヘルンは『あなたは今の東京を、廣重の描いた江戸絵のようなところだと誤解して居る』と申していました。私に東京見物をさせるのが、東京に参る事になりました原因の一つだと云っていました。『もう三年になりました。あなたの見物がすみましたら田舎に参ります』と申した事も度々ありました。
神戸から東京に参りましたのは、二十九年の八月二十七日でした。大学に官舎があるとか云う事でしたが、なるべく学校から遠く離れた町はずれがよいと申しまして、捜して頂きましたけれども良いところがございませんでした。
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この時です、牛込辺でしたろう。一軒貸家がありまして、大層広いとの話で、二人で見に参りました事がございました。二階のない、日本の昔風な家でした。今考えますと、いずれ旗本の住んで居られたと云う家でしたろうと存じます。お寺のような家でした。庭もかなり広くて大きな蓮池がありました。
しかし門を入りますから、もう薄気味の悪いような変な家でした。ヘルンは『面白いの家です』と云って気に入りましたが、私にはどうもよくない家だと思われまして、止める事に致しましたが、後で聞きますと化物屋敷で、家賃は段々と安くなって、とうとうこわされたとか云う事でした。この話を致しますと、ヘルンは『あゝ、ですから何故、あの家に住みませんでしたか。
あの家面白いの家と私思いました』と申しました。
富久町に引移りましたが、ここは庭はせまかったのですが、高台で見晴しのよい家でございました。それに瘤寺と云う山寺の御隣であったのが気に入りました。昔は萩寺とか申しまして萩が中々ようございました。お寺は荒れていましたが、大きい杉が沢山ありまして淋しい静かなお寺でした。
毎日朝と夕方は必ずこの寺へ散歩致しました。度々参りますので、その時のよい老僧とも懇意になり、色々仏教の御話など致しまして喜んでいました。それで私も折々参りました。
日本服で愉快そうに出かけて行くのです。気に入ったお客などが見えますと、『面白いのお寺』と云うので瘤寺に案内致しました。子供等も、パパさんが見えないと『瘤寺』と云う程でございました。
よく散歩しながら申しました。『ママさん私この寺にすわる、むつかしいでしょうか』この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。『あなた、坊さんでないですから、むつかしいですね』『私坊さん、なんぼ、仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』『あなた、坊さんになる、面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よい坊さんです』『同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。
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毎日経読むと墓を弔いするで、よろこぶの生きるです』『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』『あゝ、私願うです』
ある時、いつものように瘤寺に散歩致しました。私も一緒に参りました。ヘルンが『おゝ、おゝ』と申しまして、びっくり驚きましたから、何かと思って、私も驚きました。
大きい杉の樹が三本、切り倒されて居るのを見つめて居るのです。『何故、この樹切りました』『今このお寺、少し貧乏です。金欲しいのであろうと思います』『あゝ、何故私に申しません。少し金やる、むつかしくないです。私樹切るより如何に如何に喜ぶでした。
この樹幾年、この山に生きるでしたろう、小さいあの芽から』と云って大層な失望でした。『今あの坊さん、少し嫌いとなりました。坊さん、金ない、気の毒です、しかしママさん、この樹もうもう可哀相なです』と、さも一大事のように、すごすごと寺の門を下りて宅に帰りました。
書斎の椅子に腰をかけて、がっかりして居るのです。『私あの有様見ました、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るないとあなた頼み下され』と申していましたが、これからはお寺に余り参りませんでした。間もなく、老僧は他の寺に行かれ、代りの若い和尚さんになってからどしどし樹を切りました。
それから、私共が移りましてから、樹がなくなり、墓がのけられ、貸家などが建ちまして、全く面目が変りました。ヘルンの云う静かな世界はとうとうこわれてしまいました。あの三本の杉の樹の倒されたのが、その始まりでした。
淋しい田舎の、家の小さい、庭の広い、樹木の沢山ある屋敷に住みたいと兼々申していました。瘤寺がこんなになりましたから、私は方々捜させました。西大久保に売り屋敷がありました。全く日本風の家で、あたりに西洋風の家さえありませんでした。
私はいつまでも、借家住いで暮すよりも、小さくとも、自分の好きなように、一軒建てたいと申しますと、『あなた、金ありますか』と申しますから『あります』と申します。『面白い、隠岐の島で建てましょう』といつも申します。私は反対しますとそれでは『出雲に建てて置きましょう』と申しますから、全く土地まで捜した事もありました。
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しかし私はそれほど出雲がよいとも思いませんでしたから、ついこの西大久保の売屋敷を買って建増しをする事に、とうとうなったのでございます。
兼てヘルンは、まじりけのない日本の真中で生きる好きと云うのでしたから、自分でその家と近所の模様を見に参りました。
町はずれで、後に竹籔のあるのが、大層気に入りました。建増しをするについては、冬の寒さには困らないように、ストーヴをたく室が欲しい。又書斎は、西向きに机を置きたい。外に望みはない。ただ万事、日本風にと云うのでした。
この外には何も申しませんでした。何か相談を致しましても『ただこれだけです。あなたの好きしましょう。宜しい。私ただ書く事少し知るです。外の事知るないです。ママさん、なんぼ上手します』などと云って相手になりません。強いて致しますと『私、時もたないです』と申しまして、万事私に任せきりでございました。
『もう、あの家、宜しいの時、あなた云いましょう。今日パパさん、大久保に御出で下され。私この家に、朝さようならします。と、大学に参る。宜しいの時、大久保に参ります、あの新しい家に。ただこれだけです』と申しまして、本当にこの通りに致しました。時間を取ると云う事が大嫌いでした。
西大久保に引移りましたのは、明治三十五年三月十九日でした。万事日本風に造りました。ヘルンは紙の障子が好きでしたが、ストーヴをたく室の障子はガラスに致しただけが、西洋風です。引移りました日、ヘルンは大喜びでした。書棚に書物を納めていますし、私は傍に手伝っていますと、富久町よりは家屋敷は広いのと、その頃の大久保は今よりずっと田舎でしたのとで、至って静かで、裏の竹籔で、鶯が頻りに囀っています。
『如何に面白いと楽しいですね』と喜びました。又『しかし心痛いです』と申しますから『何故ですか』と問いますと『余り喜ぶの余り又心配です。この家に住む事永いを喜びます。しかし、あなたどう思いますか』などと申しました。
ヘルンは面倒なおつき合いを一切避けていまして、立派な方が訪ねて参られましても、『時間を持ちませんから、お断り致します』と申し上げるようにと、いつも申すのでございます。
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ただ時間がありませんでよいと云うのですが、玄関にお客がありますと、第一番に書生さんや女中が大弱りに弱りました。
人に会ったり、人を訪ねたりするような時間をもたぬ、と云っていましたが、そのような交際の事ばかりでなく、自分の勉強を妨げたりこわしたりするような事から、一切離れて潔癖者のようでございました。
私は部屋から庭から、綺麗に、毎日二度位も掃除せねば気のすまぬ性ですが、ヘルンはあのバタバタとはたく音が大嫌いで、『その掃除はあなたの病気です』といつも申しました。学校へ参ります日には、その留守中に綺麗に片付けて、掃除して置くのですが、在宅の日には朝起きまして、顔を洗い食事を致します間にちゃんとして置きました。
この外掃除をさせて下さいと頼みます時には、ただ五分とか六分とか云う約束で、承知してくれるのです。その間、庭など散歩したり廊下をあちこち歩いたりしていました。
交際を致しませぬのも、偏人のようであったのも、皆美しいとか面白いとか云う事を余り大切に致し過ぎる程に好みますからでした。このために、独りで泣いたり怒ったり喜んだりして全く気ちがいのようにも時々見えたのです。
ただこんな想像の世界に住んで書くのが何よりの楽しみでした。そのために交際もしないで、一分の時間も惜んだのでした。『あなた、自分の部屋の中で、ただ読むと書くばかりです。少し外に自分の好きな遊びして下さい』『私の好きの遊び、あなたよく知る。ただ思う、と書くとです。
書く仕事あれば、私疲れない、と喜ぶです。書く時、皆心配忘れるですから、私に話し下され』『私、皆話しました。もう話持ちません』『ですから外に参り、よき物見る、と聞く、と帰るの時、少し私に話し下され。ただ家に本読むばかり、いけません』
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その書く物は、非常な熱心で進みまして、少しでも、その苦心を乱すような事がありますと、当人は大層な苦痛を感じますので、常々戸の明けたてから、廊下の跫音や、子供の騒ぎなど、一切ヘルンの耳に入れぬようにと心配致しました。
その部屋に参りますにも、煙草をのんで、キセルをコンコンと音をさせて居る時とか、歌を歌って室内を散歩して居る時を選ぶようにしていました。そうでない時は、呼んでも分らぬ事もあるかと思えば、極小さい音でもひどく感ずる事もありました。何事につけこの調子でございました[#「ございました」は底本では「ごさいました」]。
西大久保に移りましてから、家も広くなりまして、書斎が玄関や子供の部屋から離れましたから、いつでもコットリと音もしない静かな世界にして置きました。それでも箪笥を開ける音で、私の考こわしました、などと申しますから、引出し一つ開けるにも、そうっと静かに音のしないようにしていました。
こんな時には私はいつもあの美しいシャボン玉をこわさぬようにと思いました。そう思うから叱られても腹も立ちませんでした。
著述に熱心に耽って居る時、よくありもしない物を見たり、聞いたり致しますので、私は心配の余り、余り熱心になり過ぎぬよう、もう少し考えぬようにしてくれるとよいが、とよく思いました。松江の頃には私は未だ年は若いし、ヘルンは気が違うのではないかと心配致しまして、ある時西田さんに尋ねた事がございました。余り深く熱心になり過ぎるからであると云う事が次第に分って参りました。
怪談は大層好きでありまして、『怪談の書物は私の宝です』と云っていました。私は古本屋をそれからそれへと大分探しました。
淋しそうな夜、ランプの心を下げて怪談を致しました。ヘルンは私に物を聞くにも、その時には殊に声を低くして息を殺して恐ろしそうにして、私の話を聞いて居るのです。
その聞いて居る風が又如何にも恐ろしくてならぬ様子ですから、自然と私の話にも力がこもるのです。その頃は私の家は化物屋敷のようでした。私は折々、恐ろしい夢を見てうなされ始めました。この事を話しますと『それでは当分休みましょう』と云って、休みました。気に入った話があると、その喜びは一方ではございませんでした。
私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。
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私が本を見ながら話しますと『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません』と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。
話が面白いとなると、いつも非常に真面目にあらたまるのでございます。顔の色が変りまして眼が鋭く恐ろしくなります。その様子の変り方が中々ひどいのです。たとえばあの『骨董』の初めにある幽霊滝のお勝さんの話の時なども、私はいつものように話して参りますうちに顔の色が青くなって眼をすえて居るのでございます。
いつもこんなですけれども、私はこの時にふと恐ろしくなりました。私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大変面白いと申します。『アラッ、血が』あれを何度も何度もくりかえさせました。どんな風をして云ってたでしょう。その声はどんなでしょう。
履物の音は何とあなたに響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います、あなたはどうです、などと本に全くない事まで、色々と相談致します。二人の様子を外から見ましたら、全く発狂者のようでしたろうと思われます。
『怪談』の初めにある芳一の話は大層ヘルンの気に入った話でございます。中々苦心致しまして、もとは短い物であったのをあんなに致しました。
『門を開け』と武士が呼ぶところでも『門を開け』では強味がないと云うので、色々考えて『開門』と致しました。この「耳なし芳一」を書いています時の事でした。
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日が暮れてもランプをつけていません。私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で、芳一芳一と呼んで見ました。『はい、私は盲目です、あなたはどなたでございますか』と内から云って、それで黙って居るのでございます。
いつも、こんな調子で、何か書いて居る時には、その事ばかりに夢中になっていました。又この時分私は外出したおみやげに、盲法師の琵琶を弾じて居る博多人形を買って帰りまして、そっと知らぬ顔で、机の上に置きますと、ヘルンはそれを見ると直ぐ『やあ、芳一』と云って、待って居る人にでも遇ったと云う風で大喜びでございました。
それから書斎の竹籔で、夜、笹の葉ずれがサラサラと致しますと『あれ、平家が亡びて行きます』とか、風の音を聞いて『壇の浦の波の音です』と真面目に耳をすましていました。
書斎で独りで大層喜んでいますから、何かと思って参ります。『あなた喜び下され、私今大変よきです』と子供のように飛び上って、喜んで居るのでございます。何かよい思いつきとか考が浮んだ時でございます。こんな時には私もつい引き込まれて一緒になって、何と云う事なしに嬉しくてならなかったのでございました。
『あの話、あなた書きましたか』と以前話しました話の事を尋ねました時に『あの話、兄弟ありません。もう少し時待ってです。よき兄弟参りましょう。私の引出しに七年でさえも、よき物参りました』などと申していましたが、一つの事を書きますにも、長い間かかった物も、あるようでございました。
『骨董』のうちの「或女の日記」の主人は、ただヘルンと私が知って居るだけでございます。二人で秘密を守ると約束しました。それから、この人の墓に花や香を持って、二人で参詣致しました。
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『天の河』の話でも、ヘルンは泣きました。私も泣いて話し、泣いて聴いて、書いたのでした。
『神国日本』では大層骨を折りました。『此書物は私を殺します』と申しました。『こんなに早く、こんな大きな書物を書く事は容易ではありません。手伝う人もなしに、これだけの事をするのは、自分ながら恐ろしい事です』などと申しました。
これは大学を止めてからの仕事でした。ヘルンは大学を止められたのを非常に不快に思っていました。非常に冷遇されたと思っていました。普通の人に何でもない事でも、ヘルンは深く思い込む人ですから、感じたのでございます。
大学には永くいたいと云う考は勿論ございませんでした。あれだけの時間出ていては書く時間がないので困ると、いつも申していましたから、大学を止められたと云う事でなく、止められる時の仕打ちがひどいと云うのでございました。只一片の通知だけで解約をしたのがひどいと申すのでございました。
原稿がすっかりでき上りますと大喜びで固く包みまして(固く包む事が自慢でございました。板など入れて、ちゃんと石のようにして置くのです)表書を綺麗に書きまして、それを配達証明の書留で送らせました。校正を見て、電報で『宜しい』と返事をしてから二三日の後亡くなりました。
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この書物の出版は、余程待ちかねて、死ぬ少し前に、『今あの「神国日本」の活字を組む音がカチカチと聞えます』と云って、でき上るのを楽しみにしていましたが、それを見ずに、亡くなりましたのはかえすがえす残念でございます。
ペンを取って書いています時は、眼を紙につけて、えらい勢でございます。こんな時には呼んでも分りませんし、何があっても少しも他には動きませんでした。あのような神経の鋭い人でありながら、全く無頓着で感じない時があるのです。
ある夜十一時頃に、階段の戸を開けると、ひどい油煙の臭が致します。驚いてふすまを開けますと、ランプの心が多く出て居て、ぽっぽっと黒煙が立ち上って、室内が煙で暗くなっています。息ができぬようですのに、知らないで一所懸命に書いて居るのです。
私は急いで障子を明け放って、空気を入れなどして、『パパさん、あなたランプに火が入って居るのを知らないで、あぶないでしたねー』と注意しますと『あゝ、私なんぼ馬鹿でしたねー』と申しました。それで常には鼻の神経は鋭い人でした。
『パパ、カムダウン、サッパー、イズ、レディ』と三人の子供が上り段のところから、声を揃えて案内するのが例でした。いつも『オールライト、スウィートボーイス』と云って、嬉しそうに、少し踊るような風で参りますのでございます。
しかし一所懸命の時は、子供だちが案内致しましても、返事がありません。また『オールライト』と早く返事を致しません。こんな時には、待てども待てどもなかなか食堂に参りませんから、私がまた案内に行きます。
『パパさん沢山時、待つと皆の者加減悪くなります。願う、早く参りて下され。子供、皆待ち待ちです』『はー何ですか』などと云っています。『あなた何ですか、いけません。食事です。あなた食事しませんか』『私食事しませんでしたか。私は済みましたと思う。
おかしいですね』こんな風ですから『あなた、少し夢から醒める、願うです。小さい子供泣きます』ヘルンは『御免御免』など云って、私に案内されて、食堂に参りますが、こんな時はいつも、トンチンカンでおかしいのです。
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子供にパンを分けてやる事など忘れて、自分で『ノウ』などと独り合点をしながら、急いで食べています。子供等がパンをと頼みますので、気がついて『やりませんでしたか。御免御免』と云って切り始めます。切りながら、又忘れて自分で食べたりなど致します。
食事の前に、ほんの少々ウィスキーを用います。晩年には、体のためにと云うので、葡萄酒を用いていました。こんな時にはウィスキーを、葡萄酒と間違ってトクトクとコップについで呑みかけたり、コーヒーの中に塩を入れかけたり、などするのです。子供達から注意されて『本当です。なんぼパパ馬鹿ですね』など云いながらまた考に入るのです。幾度も『パパさんもう、夢から醒めて下され』などと申します。
食物には好悪はございませんでした。日本食では漬物でも、刺身でも何でも頂きました。お菜から喰べました、最後に御飯を一杯だけ頂きました。洋食ではプラムプディンと大きなビフテキが好きでございました。外には好きなものと云えば先ず煙草でした。
食事の時には色々話を致しました。パパは西洋の新聞などの話を致しますし、私は日本の新聞の話を致します。新聞は永い間『読売』と『朝日』を見てました。小さい『清』が障子からのぞきます。猫が参ります。犬が窓下に参ります。自分の食物をそれぞれに分けてやります。なかなか愉快に喰べました。それが済むといつも皆で唱歌などを歌いました。
よく独りで、何か頻りに喜んだり悲しんだりしていました。喜んで少し踊るようにして廊下を散歩して居る事もありますし、又独りで笑って居る事もあります。私が聞きつけて『パパさん何面白い事ありますか』と尋ねますと、こらえていたのが、破れたように大きい声になって大笑など致します。涙をこぼしてママさんママさんと云って笑うのです。これは新聞にあったおかしかった事や、私の話した事などを思い出してであります。
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あのように考え込んだり、怪談好きである事から、常談など申さぬだろうと思われるようですけれども、折々上品な滑稽を申しました。『いつも先生に遇うと、何か一つ常談の出ない事はない』と申された方がございました。
面白い時には、世界中が面白く、悲しい時には世界中が悲しい、と云う風でございました。怪談の時でも、何の時でも、そうでしたが、もうその世界に入り、その人物になってしまうのでございました。話を聞いて感ずると、顔色から眼の色まで変るのでした。自分でもよく、何々の世界と、よく世界と云う言葉を申しました。
ヘルンの平常の話は、女のような優しい声でした。笑い方なども優しいのでしたが、しかし、ひどい意気込みになる人でしたから、優しい話のうちに、えらい勢で驚くように力をこめて云う事がありました。
笑う時にも二つあります。一つは優しい笑方で、一つは何もかも打忘れて笑うのです。この笑は一家中皆笑わせる面白そうな笑で、女中までが貰い笑を致しました。大学を止めた当時、日本に駐在でしたマクドーナルドさんが横浜から毎日曜毎に御出でになりました時などは、書斎からヘルンのこの笑声が致しますので、家内中どんなに貰い笑を致したか知れません。
書斎のテーブルの上に、法螺貝が置いてありました。私が江の島に子供を連れて参りました時、大層大きいのを、おみやげに買って帰ったのでございます。ヘルンがこれを吹きますと、太い好い音が出ました。
『私の肺が強いから、このような音』といって喜びました。『面白い音です』と云って、頬をふくらまして、面白がって吹きました。それから煙草の火のなくなった時に、この法螺貝を吹くと云う約束を致しました。火がないと、これとポオー、ウオーと云うように、大きく波をうたせるようにして、長く吹くのです。
そう致しますと、台所までも聞えるのです。内を極静かにして、コットリとも音をさせぬようにして居るところです。そこへこの法螺貝の音です。夜などは殊に面白いのでございます。私は煙草の火は絶やさないように、注意をしていましたが、自分で吹きたいものですから、少しでも消えると直ぐ喜んで吹きました。如何に面白いと云うので、書斎の近くに持って参って居りましても、吹いて居るのでございます。
この音が致しますと、女中までが『それ、貝がなります』と云って笑いました。
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よく出来た物などを見ますとひどくそれに感じまして、賞めるのでございます。上野の絵の展覧会にはよく二人で参りました。書家の名など少しも頓着しないです。絵が気に入りますと、金がいくら高くても、安い安いと申すのです。
『あなた、あの絵どう思いますか』と申しますから[#「申しますから」は底本では「申ますしから」]『おねだん余り高いですね』と私は申します。金に頓着なく買おう買おうとするのを、少し恐れてこう返事を致すのでございます。
すると『ノウ、私金の話でないです。あの絵の話です。あなた、よいと思いますか』『美しい、よい絵と思います』と申しますと『あなた、よいと思いますならば買いましょう。この価まだ安いです。もう少し出しましょう』と云うのです。よいとなると価よりも沢山、金をやりたがったのです。そして早く早くと云って、大急ぎで約定済の札をはって貰いました。
京都を二人で見物して歩きました時に、智恩院とか、銀閣寺とか、金閣寺とかに廻りました。五銭十銭という拝観料が大概きまっています。ヘルンは自分で気に入りますと、五十銭とか一円とか出そうと云うのです。
そんな事には及びません、かえっておかしいと申しましても『ノウ、ノウ、私恥じます』と申しまして、聞き入れません。お寺でも変な顔して、御名前はなどと聞くのですが、勿論申した事はございません。
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松江にいました頃、あるお寺へ散歩致しまして、ここで小さい石地蔵を見て、大層気に入りまして、これは誰の作かと寺で尋ねますと、荒川と申す人の作と云う事が分りました。この人は評判の偏人でございましたが、腕は大層確かであったそうです。学問のない、欲のない、いつも貧乏をしていながら、物を頼まれても二年も三年もかかっても、こしらえてくれない老人でございました。
ヘルンは面白いと云うので、大きい酒樽を三度まで進物に致しました。それから宅に呼びまして御馳走をしたり、自分でその汚い家を訪ねて話など致しました。彫刻を頼んで、そんなに要らないと云うのを沢山にやりました。しかし、宅にございますあの天智天皇の置物は、荒川の作にしては出来のよい方ではないが、ヘルンの申しましたこの『貧しい天才』を尊敬して買ったのでございます。
ある夏、二人で呉服屋へ二三反の浴衣を買いに行きました。番頭が色々ならべて見せます。それが大層気に入りまして、あれを買いましょうこれも買いましょうと云って、引寄せるのです。そんなに沢山要りませんと申しましても『しかし、あなた、ただ一円五十銭あるいは二円です。
色々の浴衣あなた着て下され。ただ見るさえもよきです』と云って、とうとう三十反ばかり買って、店の小僧を驚かした事もあります。気に入るとこんな風ですから、随分変でございました。
浴衣はただ反物で見て居るだけでも気持ちがよいと申しました。始めの好みは少し派手でしたが、後にはじみな物になりました。模様は、波や蜘蛛の巣などが殊に気に入りました、これを着ますと『あゝあの浴衣ですね』などと云って喜びました。日本人の洋服姿は好きませんでした。殊に女の方の洋服姿と、英語は心痛いと申しました。
ある時、上野公園の商品陳列所に二人で参りました。ヘルンはある品物を指して、日本語で『これは何程ですか』と優しく尋ねますと、店番の女が英語でおねだんを申しました。ヘルンは不快な顔をして私の袖を引くのです、買わないであちらへ行きました。
早稲田大学に参るようになりました時、高田さんから招かれまして参りました。奥様が、玄関に御出迎え下さいまして『よく御出で下さいました』と仰って案内されたのが英語でなくて上品な日本語であって嬉しかったと云うので、帰りますと第一に靴も脱がずにその話を致しました[#「致しました」は底本では「致した」]。
『読売新聞』であったかと存じます、ある華族様の御隠居で、昔風が御好きで西洋風の大嫌いの方の話がありました。女中も帯は立て矢の字、髪は椎茸たぼの御殿風でございました。着物も裾長にぞろぞろ引きずって歩くのです。
ランプも一切つけませんで源氏行灯です。シャボンも嫌い、新聞も西洋くさいというので、西洋くさい物は奉公人の末に到るまで使わせないのだそうです。こんな風ですから奉公人も厭がって参りません。
『あの御屋敷なら真平御免です』と申します事が記してございました。この話を致しますと、ヘルンは『如何に面白い』と云って大喜びでした。『しかし私大層好きです、そのような人、私の一番の友達、私見る好きです。その家、私是非見る好きです。私西洋くさくないです』と云って大満足です。
『あなた西洋くさくないでしょう。しかし、あなたの鼻』などと常談申しますと『あ、どうしょう、私のこの鼻、しかしよく思うて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するです』などと申しました。
子供に白足袋をはかせるように申しました。紺足袋よりも白足袋が大層好きでございました。日本人のあの白足袋が着物の下から、チラチラとするのが面白いと申しました。
子供には靴よりも下駄をと申しました。自分の指を私に見せて、こんな足に子供のを致したくないと申しました。
ハイカラな風は大嫌いでした。日本服でも洋服でも、折目の正しいのは嫌いでした。物を極構わない風でした。燕尾服は申すまでもなく、フロックコートなど大嫌いでした。ワイシャツや、シルクハット、燕尾服[#「燕尾服」は底本では「蕪尾服」]、フロックコートは『なんぼ野蛮の物』と申しました。
神戸から東京へ参ります時に、始めてフロックコートを作りました。それも私が大層頼みましてやっとこしらえて貰ったのでございます。『大学の先生になったのですからフロックコートを一着持って居らねばなりません』と申しますと『ノウ、外山さんに私申しました。礼服を私大層嫌います。
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礼服で出るようなところへ私出ませんが、宣しいですかと云いました。それで宣しいですと外山さんが約束しましたのですから、フロックコートいけません』と云うのです。しかし漸く一着フロックコートを作りましたが、それを着けましたのは、僅かに四五度位でした。これを着る時は又大騒ぎです。
いやだいやだと云うのです。『この物、私好きない物です、ただあなたのためです。いつでも外にの時、あなた云う、新しい洋服、フロックコート、皆私嫌いの物です。常談でないです。本当です』など云っていやがりますけれど、私は参らねば悪いであろうと心配しまして、気の毒だと存じながら四五度ばかり勧めて着せました。
自分がフロックコートを着るのはあなたの過ちだと申していました。
ある時、常談に『あなた日本の事を大変よく書きましたから、天子様、あなた賞めるため御呼びです、天子様に参る時、あのシルクハット、フロックコートですよ』と申しますと『それでは真平御免』と申しました。
この真平御免と云う言葉は前の西洋嫌いの華族の隠居様の話で覚えたのです。マッピラと云う音が面白いと云うので、しきりに真平と云う事を申しました。
外出の時はいつも背広でございましたが、洋服よりも日本服、別して浴衣が大好きでした。傘もステッキももった事はございません。散歩の途中雨にあっても平気で帰るのですが、余り烈しいとどこででも車を見つけて乗ってかえりました。靴は兵隊靴です。流行には全く無頓着でした。
『日本の労働者の足は西洋人のよりも美しい』と申しました。西洋よりも日本、この世よりも夢の世が好きであったろうと思います。休む時には必ず『プレザント、ドリーム』とお互に申します。私の夢の話が大層面白いと云うので喜ばれました。
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ワイシャツやカラなどは昔から着けなかったようです。フロックコートを、仕方なく着ける時でもカラは極低い折襟でした。一種の好みは万事につけてあったのてすが、自分の服装は少しも構わない無雑作なのが好きでした。
シャツと帽子とは、飛び放れて上等でした。シャツは横浜へ態々参りまして、フラネルのを一ダースずつ誂えて作らせました。帽子はラシャの鍔広のばかりを買いましたが、上等物品を選びました。
うわべの一寸美しいものは大嫌い。流行にも無頓着。当世風は大嫌い。表面の親切らしいのが大嫌いでした。悪い方の眼に『入墨』をするのも、歯を脱いてから入歯をする事も、皆虚言つき大嫌いと云って聞き入れませんでした。耶蘇の坊さんには不正直なにせ者が多いと云うので嫌いました。しかし聖書は三部も持っていまして、長男にこれはよく読まねばならぬ本だとよく申しました。
日本のお伽噺のうちでは『浦島太郎』が一番好きでございました、ただ浦島と云う名を聞いただけでも『あゝ浦島』と申して喜んでいました。よく廊下の端近くへ出まして『春の日の霞める空に、すみの江の……』と節をつけて面白そうに毎度歌いました。よく諳誦していました。それを聞いて私も諳ずるようになりました程でございます。上野の絵の展覧会で、浦島の絵を見まして値も聞かないで約束してしまいました。
『蓬莱』が好きで、絵が欲しいと申しまして、色々見たり、描いて貰ったりしたのですが皆満足しませんでした。
熱い事が好きですから、夏が一番好きでした。方角では西が一番好きで書斎を西向きにせよと申した位です。夕焼けがすると大喜びでした。これを見つけますと、直に私や子供を大急ぎで呼ぶのでございます。
いつも急いで参るのですが、それでもよく『一分後れました、夕焼け少し駄目となりました。なんぼ気の毒』などと申しました。子供等と一緒に『夕焼け小焼け、明日、天気になーれ』と歌ったり、または歌わせたり致しました。
焼津などに参りますと海浜で、子供や乙吉などまで一緒になって『開いた開いた何の花開いた、蓮華の花開いた……』の遊戯を致しまして、子供のように無邪気に遊ぶ事もございました。
『廣瀬中佐は死したるか』と申す歌も、子供等と一緒に声を揃えて大元気で、歌いました。室内で歌ったり、子供の歌って居るのを書斎で聞いて喜んだり、子供の知らぬ間にそっと出かけて一緒に歌ったり致しました。先年三越で福井丸の船材で造った物を売り出した時に巻煙草入を買って帰りました。
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その日に偶然ヘルンの書いて置きました『廣瀬中佐の歌』が出ましたから私は不思議に思いまして、それを丁度その箱に納めて置きました。
発句を好みまして、これも沢山覚えていました。これにも少し節をつけて廊下などを歩きながら、歌うように申しました。自分でも作って芭蕉などと常談云いながら私に聞かせました。どなたが送って下さいましたか『ホトトギス』を毎号頂いて居りました。
奈良漬の事をよく『由良』と申しました。これは二十四年の旅の時、由良で喰べた奈良漬が大層旨しかったので、それから奈良漬の事を由良と申していました。
熊本を出まして、これから関西から隠岐などを旅行しようとする時です。九州鉄道のどの停車場でございましたか、汽車が行き違いに着きまして、四五分、互いに止まりました時に、向うの汽車の窓から私共を見た男の眼が非常に恐ろしい凄い眼でした。『あゝえらい眼だ』と思って居ると、私共の汽車は走ってしまったのですが『今の眼を見ましたか』とヘルンは申しました。『汽車の男の眼』と云う事を後まで話しました。
角力は松江で見ました。谷の音が大関で参りました。西洋のより面白いと申していたようでした。谷の音という言棄はよく後まで出まして、肥ったという代りに『谷の音』と申すのでございます。
芝居はアメリカで新聞記者をして居る時分に毎日のように見物したと申していました。有名な役者は皆お友達で交際し、楽屋にも自由に出入したので、芝居の事を学問したと申していました。
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日本では芝居を見たのは僅か二度しかないのです。それは松江と京都で、ほんのちょっとでした。長い間人込みの中でじっとして見物して居る事は苦痛だと申しました。しかし、よい役者のよい芝居は子供等にも見せて宜しいと申しまして、よく芝居を見に行くように私に勧めました。
團十郎の芝居には必ず参るように勧めました。その日の見物や舞台の模様から何から何まで、細い事まで詳しく話しますのが私のおみやげで、ヘルンは熱心にこれを喜んで聞いてくれました。團十郎には是非遇って芝居の事について話を聞いて見たいと申していましたが、果さないうちに團十郎は亡くなりました。
晩年には日本の芝居の事を調べて見たいと申していました。三十三間堂の事を調べてくれと私に申した事もございました。これから少しずつ自伝を書くのだと申しました。その方は断片で少しだけでもできていますが芝居の方は少しもできぬうちに亡くなりました。
私はよく朝顔の事を思い出します。段々秋も末になりまして、青い葉が少しずつ黄ばんで、最早ただ末の方に一輪心細げに咲いていたのです。ある朝それを見ました時に『おゝ、あなた』と云うのです。
『美しい勇気と、如何に正直の心』だと云うので、ひどく賞めていました。枯れようとする最後まで、こう美しく咲いて居るのが感心だ。賞めてやれ、と申すのでございます。その日朝顔はもう花も咲かなくなったから邪魔だと云うので、宅の老人が無造作に抜き取ってしまいました。
翌朝ヘルンが垣根のところに参って見るとないものですから、大層失望して気の毒がりました。『祖母さんよき人です。しかしあの朝顔に気の毒しましたね』と申しました。
子供が小さい汚れた手で、新しい綺麗なふすまを汚した事があります。その時『私の子供あの綺麗をこわしました、心配』などと云った事もありました。美しい物を破る事を非常に気に致しました。一枚五厘の絵草紙を子供が破りましても、大切にして長く持てば貴い物になると教えました。
祭礼などの時には、いつももっと寄附をせよと申しました。少し尾籠なお話ですが、松江で借家を致しました時、掃除屋から、その代りに薪(米でなく)を持って来てくれた話を聞いてヘルンは大層驚いて『私恥じます、これから一回一円ずつおやりなさい』と申して聞き入れなかった事がございました。
ヘルンはよく人を疑えと申しましたが、自分は正直過ぎる程だまされやすい善人でございました。自分でもその事を存じていたものですからそんなに申したのです[#「申したのです」は底本では「申したのてす」]。
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一国者であった事は前にも申しましたが、外国の書肆などと交渉致します時、何分遠方の事ですから色々行きちがいになる事もございますし、その上こんな事につけては万事が凝り性ですから、挿画の事やら表題の事やらで向うでは一々ヘルンに案内なしにきめてしまうような事もありますので、こんな時にヘルンはよく怒りました。
向うからの手紙を読んでから怒って烈しい返事を書きます、直ぐに郵便に出せと申します。そんな時の様子が直に分りますから『はい』と申して置いてその手紙を出さないで置きます。二三日致しますと怒りが静まってその手紙は余り烈しかったと悔むようです。
『ママさん、あの手紙出しましたか』と聞きますから、態と『はい』と申し居ります。本当に悔んで居るようですから、ヒョイと出してやりますと、大層喜んで『だから、ママさんに限る』などと申して、やや穏かな文句に書き改めて出したりしたようでございます。
活溌な婦人よりも優しい淑かな女が好きでした。眼なども西洋人のように上向きでなく、下向きに見て居るのを好みました。観音様とか、地蔵様とかあのような眼が好きでございました。私共が写真をとろうとする時も、少し下を向いて写せと申しましたが、自分のも、そのようになって居るのが多いのでございます。
長男が生れる前に子供が愛らしいと云うので、子供を借りて宅に置いていた事もありました。
長男が生れようとする時には大層な心配と喜びでございました。私に難儀させて気の毒だと云う事と、無事で生れて下されと云う事を幾度も申しました。こんな時には勉強して居るのが一番よいと申しまして、離れ座敷で書いていました。
始めてうぶ声を聞いた時には、何とも云えない一種妙な心持がしたそうです。その心もちは一生になかったと云っていました。赤坊と初対面の時には全く無言で、ウンともスンとも云わないのです。後に、この時には息がなかったと申しました。よくこの時の事を思い出して申しました。
それから非常に可愛がりました。その翌年独りで横浜に参りまして(独り旅は長崎に一週間程のつもりで出かけて、一晩でこりごり[#「こりごり」は底本では「こりこり」]したと云って帰った時と、これだけでした)色々のおもちやを沢山買って大喜びで帰りました。五円十円と云う高価の物を思い切って沢山買って参りましたので一同驚きました。
ヘルンは朝起きも早い方でした。年中、元日もかかさず、朝一時間だけは長男に教えました。大学に出て居ります頃は火曜日は八時に始まりますからこの日に限り午後に致しました。大学まで車で往復一時間ずつかかります。昼のうちは午後二時か三時頃から二時間程散歩をするか、あるいは読書や手紙を書く事や講義の準備などで費しまして、筆をとるのは大概夜でした。
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夜は大概十二時まで執筆していました。時として夜眠られない時起きて書いて居る事もございました。
壽々子の生れました時には、自分は年を取ったからこの子の行先を見てやる事がむずかしい。『なんぼ私の胸痛い』と申しまして、喜ぶよりも気の毒だと云って悲しむ方が多ございました。
私の外出の日はヘルンの学校の授業時間の一番多い日(木曜日)にきめていました。前日にはよく外に出かけてよいおみやげを下さいと親切に注意致しました。『歌舞伎座に團十郎、大層面白いと新聞申します。
あなた是非に参る、と、話のおみやげ』など申します。そしていつも『しかし、あなたの帰り十時十一時となります。あなたの留守、この家私の家ではありません。如何につまらんです。しかし仕方がない。面白い話で我慢しましょう』と申しました。
晩年には健康が衰えたと申していましたが、淋しそうに大層私を力に致しまして、私が外出する事がありますと、丸で赤坊の母を慕うように帰るのを大層待って居るのです。私の跫音を聞きますと、ママさんですかと常談など云って大喜びでございました。少しおくれますと車が覆ったのであるまいか、途中で何か災難でもなかったかと心配したと申して居りました。
抱車夫を入れます時に『あの男おかみさん可愛がりますか』と尋ねます。『そうです』と申しますと『それなら、よい』と申すのです。
ある方をヘルンは大層賞めていましたが、この方がいつも奥様にこわい顔を見せて居られる。これが一つ気にかかると申していました。
亡くなる少し前に、ある名高い方から会見を申しこまれていましたが、この方と同姓の方で、英国で大層ある婦人に対して薄情なような行があったとか申す噂の方がありましたのでヘルンはその方かと存じまして断ろうと致して居りました。
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しかし、それは人違いであった事が分りまして、愈々遇う事になっていましたが、それは果さずに亡くなりました。凡て女とか子供とか云う弱い者に対してひどい事をする事を何よりも怒りました。一々申されませんが、ヘルンが大層親しくしていました方で後にそれ程でなくなったのは、こんな事が原因になって居るのが幾人もございます。日本人の奥様を捨てたとか、何とかそれに類した事をヘルンは怒ったのでございます。
ヘルンは私共妻子のためにどんなに我慢もし心配もしてくれたか分りません。気の毒な程心配をしてくれました。帰化の事でも好まない奉職の事でも皆そうでございました。
電車などは嫌いでした。電話を取つける折は度々ございましたが、何としても聞き入れませんでした。女中や下男は幾人でも増すから、電話だけは止めにしてくれと申しました。その頃大久保へは未だ電灯や瓦斯は参って居りませんでしたが、参っていても、とても取り入れる事は承知してくれなかったろうと存じます。電車には一度も乗った事はございません。私共にも乗るなと申していました。
汽車も嫌いで焼津に参りますにも汽車に乗らないで、歩いて足の疲れた時に車に乗るようにしたいと云う希望でしたが、七時間の辛抱と云うので汽車に致しました。汽車と云う物がなくて歩くようであったら、なんぼ愉快であろうと申していました。船はよほど好きでした。船で焼津へ行かれる物なら喜ぶと申していました。
ヘルンが日本に参ります途中どこかで大荒れで、甲板の物は皆洗いさらわれてしまう程のさわぎで、水夫なども酔ってしまったが酔わない者は自分一人で、平気で平常のように食事の催足をすると船の者が驚いていたと話した事がありました。
灯台の番人をしながら著述をしたいものだとよく申しました。
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Koizumi Yakumo NHK歴史秘話ヒストリア「出雲・縁結びの旅へ!」
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ある時散歩から帰りまして、私に喜んで話した事がございます。『千駄谷の奥を散歩していますと、一人の書生さんが近よりまして、少し下手の英語で、「あなた、何処ですか」と聞きますから「大久保」と申しました。
「あなた国何処です」「日本」たゞこれきりです。「あなた、どこの人ですか」「日本人」書生もう申しません、不思議そうな顔していました。私の後について参ります。私、言葉ないです。唯歩く歩くです。書生、私の門まで参りました。門札を見て「はあ小泉八雲、小泉八雲」と云いました』と云って面白がっていました。
『アメリカに居る時、ある日、知らぬ男参りまして、私のある書物を暫らく貸してくれと申しますので貸しました。私その人の名前をききません。またその男、私の名前をききません。一年余り過ぎて、ある日その人その書物を返しに参りました。大きい料理屋に案内しました。そして大層御馳走しました。しかし誰でしたか、私今に知らないです』と話した事がありました。
煙草に火をつける時マッチをすりましたら、どんな拍子でしたかマッチ箱にぼっと燃えついたそうです。床は綺麗なカーペットになっていたので、それを痛めるのは気の毒だと思いまして、下に落さぬようにして手でもみ消したそうでございました。そのために火傷いたしまして、長く包帯して不自由がっていた事がございました。
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ヘルンの好きな物をくりかえして、列べて申しますと、西、夕焼、夏、海、游泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱などでございました。場所では、マルティニークと松江、美保の関、日御崎、それから焼津、食物や嗜好品ではビステキとプラムプーデン、と煙草。
嫌いな物は、うそつき、弱いもの苛め、フロックコートやワイシャツ、ニユ・ヨーク、その外色々ありました。先ず書斎で浴衣を着て、静かに蝉の声を聞いて居る事などは、楽みの一つでございました。
三十七年九月十九日の午後三時頃、私が書斎に参りますと、胸に手をあてて静かにあちこち歩いていますから『あなたお悪いのですか』と尋ねますと『私、新しい病気を得ました』と申しました。『新しい病、どんなですか』と尋ねますと『心の病です』と申しました。私は『余りに心痛めましたからでしょう。
安らかにしていて下さい』と慰めまして、直に、兼てかかっていました木澤さんのところまで、二人曳の車で迎えにやりました。ヘルンは常々自分の苦しむところを、私や子供に見せたくないと思っていましたから、私に心配に及ばぬからあちらに行って居るようにと申しました。
しかし私は心配ですから側にいますと、机のところに参りまして何か書き始めます。私は静かに気を落ちつけて居るように勧めました。ヘルンはただ『私の思うようにさせて下さい』と申しまして、直に書き終りました。
『これは梅さんにあてた手紙です。何か困難な事件の起った時に、よき智慧をあなたに貸しましょう。この痛みも、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。
小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭位のです。私の骨入れるのために。そして田舎の淋しい小寺に埋めて下さい。悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。如何に私それを喜ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。若し人が尋ねましたならば、はああれは先頃なくなりました。それでよいです』
私は『そのような哀れな話して下さるな、そのような事決してないです』と申しますと、ヘルンは『これは常談でないです。
心からの話。真面目の事です』と力をこめて、申しまして、それから『仕方がない』と安心したように申しまして、静かにしていました。
ところが数分たちまして痛みが消えました。『私行水をして見たい』と申しました。冷水でとの事で湯殿に参りまして水行水を致しました。
痛みはすっかりよくなりまして『奇妙です、私今十分よきです』と申しまして『ママさん、病、私から行きました。ウイスキー少し如何ですか』と申しますから、私は心臓病にウイスキー、よくなかろうと心配致しましたが、大丈夫と申しますから『少し心配です。
しかし大層欲しいならば水を割って上げましょう』と申しまして、与えました。コップに口をつけまして『私もう死にません』と云って、大層私を安心させました。この時、このような痛みが数日前に始めてあった事を話しました。
それから『少し休みましょう』と申しまして、書物を携えて寝床の上に横になりました。
そのうちに医師が参られました。ヘルンは『私、どうしよう』などと申しまして、書物を置いて客間に参りまして、医師に遇いますと『御免なさい、病、行ってしまいました』と云って笑っていました。医師は診察して別に悪いところは見えません、と申されまして、いつものように常談など云って、色々話をしていました。
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ヘルンはもともと丈夫の質でありまして、医師に診察して頂く事や薬を服用する事は、子供のように厭がりました。私が注意しないと自分では医師にかかりません。ちょっと気分が悪い時に私が御医者様にと云う事を少し云いおくれますと、『あなたが御医者様忘れましたと、大層喜んでいたのに』などと申すのでございました。
ヘルンは書いて居る時でなければ、室内を歩きながら、あるいは廊下をあちこち歩きながら、考え事をして居るのです。病気の時でも、寝床の中に永く横になって居る事はできない人でした。
亡くなります二三日前の事でありました。書斎の庭にある桜の一枝がかえり咲きを致しました。女中のおさき(焼津の乙吉の娘)が見つけて私に申し出ました。
私のうちでは、ちょっと何でもないような事でも、よく皆が興に入りました。『今日籔に小さい筍が一つ頭をもたげました。あれ御覧なさい、黄な蝶が飛んでいます。一雄が蟻の山を見つけました。蛙が戸に上って来ました。
夕焼けがしています。段々色が美しく変って行きます』こんな些細な事柄を私のうちでは大事件のように取騒ぎまして一々ヘルンに申します。
それを大層喜びまして聞いてくれるのです。可笑しいようですが、大切な楽みでありました。蛙だの、蝶だの、蟻、蜘蛛、蝉、筍、夕焼けなどはパパの一番のお友達でした。
日本では、返り咲きは不吉の知らせ、と申しますから、ちょっと気にかかりました。けれどもヘルンに申しますと、いつものように『有難う』と喜びまして、縁の端近くに出かけまして『ハロー』と申しまして、花を眺めました。
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『春のように暖いから、桜思いました、あゝ、今私の世界となりました、で咲きました、しかし……』と云って少し考えていましたが『可哀相です、今に寒くなります、驚いて凋みましょう』と申しました。
花は二十七日一日だけ咲いて、夕方にはらはらと淋しく散ってしまいました。この桜は年々ヘルンに可愛がられて、賞められていましたから、それを思って御暇乞を申しに咲いたのだと思われます。
ヘルンは早起きの方でした。しかし、私や子供の『夢を破る、いけません』と云うので私が書斎に参りますまで火鉢の前にキチンと坐りまして、静かに煙草をふかしながら待って居るのが例でした。
あの長い煙管が[#「煙管が」は底本では「煙晉が」]好きでありまして、百本程もあります。一番古いのが日本に参りました年ので、それから積り積ったのです。一々彫刻があります。
浦島、秋の夜のきぬた、茄子、鬼の念仏、枯枝に烏、払子、茶道具、去年今夜の詩、などのは中でも好きであったようです。これでふかすのが面白かったようです。外出の時は、かますの煙草入に鉈豆のキセルを用いましたが、うちでは箱のようなものに、この長い煙管をつかねて入れ、多くの中から、手にふれた一本を抜き出しまして、必ず始めにちょっと吸口と雁首とを見て、火をつけます。
座布団の上に行儀よく坐って、楽しそうに体を前後にゆるくゆりながら、ふかして居るのでございます。
亡くなった二十六日の朝、六時半頃に書斎に参りますと、もうさめていまして、煙草をふかしています。『お早うございます』と挨拶を致しましたが[#「致しましたが」は底本では「致したが」]、何か考えて居るようです。
それから『昨夜大層珍らしい夢を見ました』と話しました。私共は、いつも御互に夢話を致しました。『どんな夢でしたか』と尋ねますと『大層遠い、遠い旅をしました。今ここにこうして煙草をふかしています。旅をしたのが本当ですか、夢の世の中』などと申して居るのです。
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『西洋でもない、日本でもない、珍らしいところでした』と云って、独りで面白がっていました。
三人の子供達は、床につきます前に、必ず『パパ、グッドナイト、プレザント、ドリーム』と申します。パパは『ザ、セーム、トウ、ユー』又は日本語で『よき夢見ましょう』と申すのが例でした。
この朝です、一雄が学校へ参ります前に、側に参りまして『グッド、モーニング』と申しますと、パパは『プレザント、ドリーム』と答えましたので、一雄もつい『ザ、セーム、トウ、ユー』と申したそうです。
この日の午前十一時でした。廊下をあちこち散歩して居まして、書院の床に掛けてある絵をのぞいて見ました。これは『朝日』と申します題で、海岸の景色で、沢山の鳥が起きて飛んで行くところが描いてありまして夢のような絵でした。ヘルンは『美しい景色、私このようなところに生きる、好みます』と心を留めていました。
掛物をよく買いましたが、自分からこれを掛けてくれあれを掛けよ、とは申しませんでした。ただ私が、折々掛けかえて置きますのを見て、楽しんでいました。御客様のようになって、見たりなどして喜びました。地味な趣味の人であったと思います。御茶も好きで喜んで頂きました。私が致していますと、よく御客様になりました。一々細かな儀式は致しませんでしたが、大体の心はよく存じて無理は致しませんでした。
ヘルンは虫の音を聞く事が好きでした。この秋、松虫を飼っていました。九月の末の事ですから、松虫が夕方近く切れ切れに、少し声を枯らして鳴いていますのが、いつになく物哀れに感じさせました。
私は『あの音を何と聞きますか』と、ヘルンに尋ねますと『あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、段々寒くなって来ました。知っていますか、知っていませんか、直に死なねばならぬと云う事を。
気の毒ですね、可哀相な虫』と淋しそうに申しまして『この頃の温い日に、草むらの中にそっと放してやりましょう』と私共は約束致しました。
桜の花の返り咲き、長い旅の夢、松虫は皆何かヘルンの死ぬ知らせであったような気が致しまして、これを思うと、今も悲しさにたえません。
午後には満洲軍の藤崎さんに書物を送って上げたいが何がよかろう、と書斎の本棚をさがしたりして、最後に藤崎さんへ手紙を一通書きました。夕食をたべました時には常よりも機嫌がよく、常談など云いながら大笑など致していました。『パパ、グッドパパ』『スウイト・チキン』と申し合って、子供等と別れて、いつのように書斎の廊下を散歩していましたが、小一時間程して私の側に淋しそうな顔して参りまして、小さい声で『ママさん、先日の病気また帰りました』と申しました。
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私は一緒に参りました。暫らくの間、胸に手をあてて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。
少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑を含んで居りました。天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病をしたりして、愈々駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけのない死に方だと今に思われます。
落合橋を渡って新井の薬師の辺までよく一緒に散歩をした事があります。その度毎に落合の火葬場の煙突を見て今に自分もあの煙突から煙になって出るのだと申しました。
平常から淋しい寺を好みました。垣の破れた草の生いしげった本堂の小さい寺があったら、それこそヘルンの理想でございましたろうが、そんなところも急には見つかりません。
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ろくろ首 ラフカディオ・ハーン『怪談』より・・・
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墓も小さくして外から見えぬようにしてくれと、平常申して居りましたが、遂に瘤寺で葬式をして雑司谷の墓地に葬る事になりました。
瘤寺は前に申したようなわけで、ヘルンの気に入らなくなったのですが、以前からの関係もあり、又その後浅草の伝法院の住職になった人と交際があった縁故から、その人を導師として瘤寺で式を営む事になりました。
ヘルンは禅宗が気に入ったようでした。小泉家はもともと浄土宗ですから伝通院がよかったかも知れませんが、何分その当時は大分荒れていましたので、そこへ参る気にはなりませんでした。
お寺へ葬りましても墓地は直に移転になりますので、どうしても不安心でなりませんから割合に安心な共同墓地へ葬る事に致しました。青山の墓地は余りにぎやかなので、ヘルンは好みませんでした。
雑司ヶ谷の共同墓地は場所も淋しく、形勝の地でもあると云うので、それにする事に致しました。一体雑司ヶ谷はヘルンが好んで参りましたところでした。
私によいところへ連れて行くと申しまして、子供と一緒に雑司ヶ谷へつれて参った事もございました。面影橋と云う橋の名はどうして出たかと聞かれた事もございました。
鬼子母神の辺を散歩して、鳥の声がよいがどう思うかなどと度々申しました。関口から雑司ヶ谷にかけて、大層よいところだが、もう二十年も若ければこの山の上に、家をたてて住んで見たいが残念だ、などと申した事もございました。
表門を作り直すために、亡くなる二週間程前に二人で方々の門を参考に見ながら雑司ヶ谷辺を散歩を致したのが二人で外出した最後でございました。その門は亡くなる二日前程から取りかかりまして亡くなってから葬式の間に合うように急いで造らせました。
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底本:「小泉八雲全集 別冊」第一書房
1927(昭和2)年12月20日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※「或」は「あ(る)」に、「見度い」は「見たい」に、書き換えました。
※つぎの語にルビを新たに付けました。
「愈々」、「態々」、「態と」
※「ビフテキ」と「ビステキ」、「ウイスキー」と「ウィスキー」といった表記のばらつきは、底本通りです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林田清明
校正:松永正敏
2000年10月24日公開
2011年5月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
小泉節子
小泉 節子(こいずみ せつこ、1868年2月26日(慶応4年2月4日[1]) – 1932年(昭和7年)2月18日[1])は、小泉八雲の妻。日本に関する八雲の著述を支えた。戸籍上の名前はセツだが、本人は節子の名を好んだ。
出雲松江藩の家臣小泉家に生まれ、22歳の時に松江の英語教師として赴任したラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)と結婚した。夫・八雲の日本語の理解を助けるとともに、幼少時から物語が好きだったこともあって日本に関する八雲の著述を支えた。八雲との間に三男一女をもうけた。八雲の死後に、八雲との思い出をつづった「思い出の記」を著した。
生い立ちから八雲との結婚まで
1868年(慶応4年)2月4日、松江に生まれセツと命名される。父は出雲松平家の番頭で家禄300石の小泉弥右衛門湊、母はチエ。生後7日で親類で子供の無かった家禄100石の稲垣家の養女となる。幼いころから物語が好きで、大人たちから昔話、民話、伝説などを聞いて育った。明治維新で士族は家禄を失い困窮した。節子の稲垣家も没落したため、小学校を優秀な成績で卒業し上級学校への進学を希望したにもかかわらず11歳から織子として働き家計を助けた。節子が18歳の時に稲垣家は士族の前田為二を婿養子として迎えるが、為二は困窮に耐えられず一年足らずで出奔した。1890年(明治23年)、22歳の初めに正式に婚姻関係を解消して小泉家に復帰した。小泉家も困窮しており、1891年2月頃一人住まいのハーンの家に住み込み女中として働き始めた。
結婚生活
同居して約半年を経た7月に、ハーンは同僚の英語教師西田千太郎と出雲大社近くの稲佐の浜を訪れ約半月滞在したが、ハーンは2日目には節子を呼びよせて仲よく一緒に行動しており「住み込み女中」という扱いではなかった。また8月11日にハーンが友人に出した手紙には節子との結婚を報じている。
1891年11月に八雲の転勤で夫婦は熊本に転居。節子は八雲との意思疎通のために英語を勉強するが結局ものにならなかった。しかし八雲が語る片言の日本語の「ヘルンさん言葉」を節子は正確に理解し、夫婦はお互いに意思疎通ができた。熊本では長男の一雄が誕生した。
1894年夫婦は神戸に引っ越した。八雲が熊本時代に執筆した『知られぬ日本の面影』が好評となったのを受けて、著述に専念するようになった。これ以後の八雲の主要作品に節子が素材を提供している。神戸在住中の1896年にハーンは兵庫県知事の承認を得て日本に帰化し、更に小泉家への「外国人入夫結婚」の願いが島根県知事に「承認」されて正式に「小泉八雲」となった。
1896年夫婦は東京の市ヶ谷へ転居する。東京でも節子は八雲に作品の素材を探して提供した。伝承だけでなく当時出版されていた書物を節子が読んで、その内容を「ヘルンさん言葉」で八雲に伝え、彼の執筆を支えた。八雲は節子に対し「本から得た物語で」あっても本を見ずに節子自身の言葉で語る「語り部」であることを要求し、節子はそれに応えた。夫婦は東京で二男一女をもうけるが、夫婦が西大久保に引っ越した1902年頃からハーンの健康が衰え始め、節子が36歳の1904年9月26日に八雲が亡くなった。
八雲の著作に対する節子以外の協力者の存在
八雲の著作物の中には、元となった書籍の内容が小学校卒の節子には理解できないと推察されるものがあり、彼女以外にハーンに協力した人物の存在が考えられる。1899年頃八雲と親交のあったフェノロサの婦人メアリーは八雲に仏教説話を物語ったと述べている。また 長男の小泉一雄に「母にとっての影武者」と呼ばれた三成重敬や、八雲の死の翌年に「人間、ラフカディオ・ハーン」を著した雨森信成などの協力者がいたが、両人とも八雲の著作への貢献については黙している。
晩年
小泉八雲は生前から遺言状に遺産は全て妻に譲ることを明言していたおかげで、西大久保の家や書斎を生前のまま残すことができ、裕福な暮らしをしながら子供たちを育てた。1914年に八雲との思い出をまとめた「思い出の記」が田辺隆次が著した「小泉八雲」に収められて出版された。晩年は動脈硬化に苦しみ、1932年2月18日に64歳で亡くなった。
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ハーンを慕った二人のアメリカ人 ボナー・フェラーズとエリザベス・ビスランド
Exhibition
Two Americans Who Admired Hearn
Bonner Fellers & Elizabeth Bisland
ラフカディオ・ハーン渡米150年記念企画展
2019年6月27日(木)―2020年6月7日(日)
1階 展示室3
2019年は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲 / 1850-1904)がアメリカにわたって150年。ハーンは、シンシナティとニューオーリンズで約20年間ジャーナリストとして文才を発揮し、その豊かな経験と確かな筆力は来日後の著作に多大な影響を与えました。この企画展では、生涯の友人でハーン文学の最大の理解者であるエリザベス・ビスランドと、ハーンの愛読者で彼の日本理解をもとに戦後日本の象徴天皇制の実現に力を尽くしたボナー・フェラーズを取り上げます。2人を通して、ハーンが日米相互理解に及ぼした「光」に迫ります。
主催:小泉八雲記念館
共催:松江市、山陰中央新報社
協力:マッカーサー記念館、エイミー・リア―・ホワイト氏、新宿歴史博物館、 池田記念美術館、テュレーン大学、バージニア大学、アメリカ議会図書館、小泉家 後援:八雲会
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Exhibition: The 150th Anniversary of Lafcadio Hearn’s Arrival in the USA
Thursday June 27, 2019–Sunday June 7, 2020
Exhibition Room 3
The year 2019 marks 150 years since Lafcadio Hearn (Koizumi Yakumo, 1850-1904) arrived in the USA as an Irish immigrant. In the USA, he overcame much hardship and eventually worked as a writer, and as a journalist at four newspapers, in Cincinnati and New Orleans. This was work at which he excelled. In this exhibition, we aim to shine a light on Hearn’s influence on the later mutual understanding between Japan and the USA. We will do this by focussing on two Americans who had an understanding of Japan and were admirers of Hearn — Elizabeth Bisland, an expert in Hearn’s work, and Bonner Fellers, an avid reader of Hearn.
organizer: Lafcadio Hearn Memorial Museum
co-organizers: Matsue City / The San-in Chuo Shimpo Newspaper Co., Ltd.
cooperation: The MacArthur Memorial / Amy Lear White (Granddaughter of Bonner Fellers) / Shinjuku Historical Museum / Ikeda Art Museum / Tulane University / Virginia University / Library of Congress / Koizumi Family
sponsor: The Hearn Society
関連イベント多数開催
詳しくは会期中のイベントをご覧ください。
エリザベス・ビスランドとの永遠の友情
ハーンの才能を早くから見出していた一人に、エリザベス・ビスランド(1861-1929)がいる。
ルイジアナのプランテーションに生まれたエリザベス・ビスランドは、1882年の冬、ハーンの記事「死んだ花嫁」を読んでジャーナリストを志し、ハーンが文芸部長を務めるタイムズ=デモクラット社に入社した。その後ニューヨークに移り「ザ・サン」や「コスモポリタン・マガジン」などで編集者や花形記者として活躍する。1889年には、同じ女性記者のネリー・ブライと世界一周を競ってハーンより一足先に日本の土を踏んだ。1891年に法律家のチャールズ・W. ウェットモアと結婚。ハーンの没後、日本に3回来日し、親日家としても知られていた。
ハーンとの生涯にわたる深い交友は、おびただしい往復書簡が物語っている。八雲の長男一雄は著書『父小泉八雲』(1954年 / 小山書店)で、「エリザベス・ビスランド女史との親交は、あるいは一種の恋愛ともいえるかもしれぬ。しかし、それは白熱の恋ではない。沢辺の蛍のごとき清冽な恋である」と書いている通り、二人は才知を見せ合い、尊敬し合い、共感し合いながら理想的な友情を保った。ハーンは、来日後9作目の『日本雑記』(1901年 / Little Brown & Co.)をビスランドに捧げている。
ビスランドは、ハーンの没後2年目に、生前ハーンと交友のあった友人知人にあてた多くの手紙を集めて編集した『ラフカディオ・ハーンの人生と書簡』(1906年 / Houghton Mifflin & Co.)二巻と『ラフカディオ・ハーンの日本時代の書簡』(1910年 / Houghton Mifflin & Co.)を出版し、さらに残された遺族への支援も惜しまなかった。
1922年、ビスランドは4度目の来日の際、松江の小泉八雲旧居を訪れている。そして1929年、67歳でその生涯を閉じた。
Lifelong friendship with Elizabeth Bisland
Elizabeth Bisland (1861-1929) was one of the first people to recognise Hearn’s talent.
Bisland was born on a plantation in Louisiana. In the winter of 1882, she read Hearn’s article called The Dead Wife, and decided to become a journalist. She joined the Times-Democrat, where Hearn was literary editor. Later, she moved to New York, where she worked as an editor and became a prominent reporter for publications including The Sun and Cosmopolitan magazine. In 1889, she raced around the world against a fellow female journalist, Nellie Bly, and actually arrived in Japan before Hearn. In 1891, she married a lawyer named Charles W. Wetmore. After Hearn’s death, she visited Japan three times, and was known as a Japanophile.
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食人鬼、ムジナ ラフカディオ・ハーン『怪談』より・・・
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Her deep, lifelong friendship with Hearn is shown in their prolific correspondence. Hearn’s eldest son, Kazuo, wrote in Father Koizumi Yakumo (Koyama Shoten, 1954) “The friendship with Elizabeth Bisland could be said to be a kind of love. Not a blinding passionate kind of love, but a clear form of love, like the light of a firefly.” They maintained an ideal friendship, based on mutual intelligence, respect and empathy. Hearn dedicated his eighth work written in Japan, A Japanese Miscellany (Little Brown & Co., 1901), to Bisland.
Two years after Hearn’s death, Bisland collected the many letters Hearn had sent to his friends and acquaintances and published the two volumes of The Life and Letters of Lafcadio Hearn (Houghton Mifflin & Co., 1906), and The Japanese Letters of Lafcadio Hearn (Houghton Mifflin & Co., 1910). She also supported his family.
In 1922, on her fourth trip to Japan, Bisland visited the former residence of Hearn in Matsue. She died in 1929, at the age of 67.
ハーンの愛読者ボナー・フェラーズ
ボナー・フェラーズ(1896-1973)は、アメリカ陸軍将校でマッカーサーの腹心として日本の戦後処理にあたり、今日の象徴天皇制の端緒を切り拓いたとされる人物である。
米国イリノイ州リッジファームで生まれたフェラーズは、インディアナ州にあるクエーカー派のアーラム大学に進み、そこで日本人の留学生の渡辺ゆりと出会った。彼女から紹介されたラフカディオ・ハーンに傾倒し、すべての著作を集め読破した。ハーンの「日本人の祖先崇拝と天皇崇拝は不可分の関係にある」とする日本文化理解に深く共感し、天皇の力を民主的に生かす新しい日本の戦後を提案したと言われている。2012年には、フェラーズを主人公とするハリウッド映画「終戦のエンペラー」(ピーター・ウェーバー監督)も制作、公開された。
フェラーズは、戦前より小泉家とも親交が深く、「ハーンが私に日本を愛することを教えてくれた」と妻のセツに語った。フェラーズは長男一雄と親友になり、戦後の混乱の中でハーンの遺族を探し出し、一雄と涙の再会を果たした。フェラーズの人間性に心を打たれた一雄は、『父小泉八雲』の中で、「日本はアメリカに戦争で負けた。科学で負けた。が今、人情でも氏に負けた」と述懐している。
フェラーズは帰国後もハーンの遺族への物心両面での支援と交流を続け、手紙のやり取りは1965年に一雄が亡くなったあとも続いた。また、一雄とフェラーズの娘ナンシーとの共著『リ・エコー』(1957年 / The Caxton Printing)出版のために奔走し、ハーンを通して日米友好に生涯をささげた。曾孫の小泉凡の名も「Bonner(ボナー)」に由来する。1973年、自宅のあるワシントンンDCで生涯を閉じ、アーリントン墓地に眠る。
Bonner Fellers, an avid reader of Hearn’s works
Bonner Fellers (1896-1973) was a US army officer, and served as MacArthur’s confidant in Japan at the end of the war. He paved the way for the creation of the modern symbolic role of the Emperor.
Fellers was born in Ridge Farm, Illinois in the USA. He studied at the Quaker school, Earlham College, where he met a Japanese exchange student named Yuri Watanabe. She introduced him to the works of Hearn, and he read all of Hearn’s books devotedly. He shared Hearn’s understanding of Japanese culture, empathizing with the latter’s assertion that the ancestor worship of the Japanese was inseparable from Emperor worship. It is said that he proposed a new post-war system for Japan, which utilized the power of the Emperor within a democracy. In 2012, Fellers was a central character in the Hollywood film Emperor (directed by Peter Webber).
Fellers had been friends with the Koizumi family since before the war, and told Hearn’s wife, Setsu, that Hearn had taught him to love Japan. He became close friends with Hearn’s eldest son, Kazuo, and in the post-war turmoil, he searched for Hearn’s family, leading to a tearful reunion with Kazuo. Touched by the humanity of Fellers, Kazuo reminisced in Father Koizumi Yakumo. “Japan lost to America through war. It lost by science. Now, it has lost to Fellers’ humanity.”
After returning to the USA, Fellers continued to support Hearn’s family both spiritually and materially. He continued to correspond by letter even after the death of Kazuo in 1965. He worked to bring the book Re-echo (The Caxton Printers, 1957), written by Kazuo and Fellers’ daughter Nancy, to publication. He devoted his life to promoting Japanese-American friendship through his knowledge of Hearn. Bon Koizumi, the great-grandson of Lafcadio Hearn, is named after him. He was living in Washington DC when he died in 1973, and is buried in Arlington National Cemetery.
企画展図録『八雲が愛した日本の美:彫刻家 荒川亀斎と小泉八雲』
ミュージアムショップで取扱中
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