貴方のワンカットが世界を変える。190101(火) 

皆様 明けましてお目出度うございます。2019年元旦。謹賀新年。今年も宜しくお願いいたします。今年はどんな年に!? まずはやはり「健康第一」で。私自身はボケないように頑張ります。さて大晦日。娘たちの家族が集まってくれた。嬉しかった。で、なんと遊んでいる内に、紅白歌合戦の前に寝てしまった。除夜の鐘の後、やっと起きて、家族と少し団らん。時すでに遅し。仕方ないのでテレビをつけたら、BSで「新・映像の世紀」が始まっていた。これまでの半生と重なっている部分がある。

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物心がついてから、世界各地で起こった大きな戦争、事件、出来事の背景がそうだったのか?と疑問が次々に明らかにされる。生半可知識しか無かったので、思わず引き込まれた。ちろん編集者の意図や脚色された部分もあろうが、面白く「今日の世界を理解」するのに、とても勉強になった。

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歴史の大きな動きが漏れなく活写されている。それぞれの事件。動きの背景、歴史的な、宗教的な、人種的な、その国の置かれて来た。不都合や好都合が 見え隠れしている。大手メディアの報道でニュースを知る時代から、個人がいち早く現場の写真や映像を伝え それが世界に大きな問題を投げかけて、戦争が起こったり、世の中の常識がどんどん変わって行く世紀の入ったことを示唆している。

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映像で取り上げられている中で チュニジアの野菜を行商で売る青年が官憲に注意されて、焼身自殺を起こした一枚の写真からアラブの春が起こったことは 記憶に新しい。ベンアリ大統領は間もなく激しい抗議運動で、大統領を辞任した。ここから他の独裁国家の国々に伝番して行った。シリア難民の男の子が海岸に打ち寄せられたことから 移民を一家族づつ引受けるべきだ。と世界が主張し始めた。思い起こせば、映像をリアルで見ていたことになる。

ならば 私たちも立ち上がり、たとえ一人であっても大きな波を起こせることになるだろう。そこには必死な覚悟が必要だが。可能性が0.1パーセントから 50%まで増えた21世紀になったのだ。認識しよう。

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日本は「沈みゆく国で若者が脱出して海外へ」と朝日、新聞が一面に取り上げていた。丁度 1970年代の初めに、老大国と言われて「沈みゆく英国」というイメージがあった英国は「鉄の女」と呼ばれたサッチャー首相が登場して、民営化をはじめ徹底的な改革を行った。その一つに「教科書の改革」があった。

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当時英国の若者たちは 自分の国が「植民地主義で世界各国を隷属し搾取した悪い国」というイメージに苛まされていた。丁度 今の日本と同じようで。自虐史観で70年も自責の念と重なる。War Guilt Information Projectや年次要望書のを今なお、他国から強いられている節がある。

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サッチャーの歴史教科書改革は 悪い点だけではなく、「良い面」も並行して書いたことだ。英国の若者は以来とても元気になって活気を取り戻した。日本の歴史教科書は 未だに改革されておらず、「新しい教科書を作る会」の人々が頑張っている。未だに採用する手前までは、行くようになったが 結果否定されている。未だに亡霊が息づいているとしか思えない。

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このままでは、日本で本当に沈んでしまうだろう。7つの映像を見ながら、私たちの子孫も、心から元気になり、沈みゆくと国から、逃げださず踏みとどまり「日本の中興の祖」になって欲しい。「不屈の精神」で闘志を燃やして欲しい。

結局朝の6時近くまで 見入ってしまった。これは神様の配剤だった。? これは家族にも見て貰いたいなあ。という事で、探したら見つかった。あ~しあわせ。

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★そういえば、マーガレット・サッチャーさんが 首相に選ばれた日。1979年5月4日。ノルウェー・オスロにある British Schoolに通っていた長女が ニコニコしながら帰宅して、すぐに当時の校長先生から「今日は歴史的な日」英国で女性の首相が誕生したと生徒の前で蔓延の笑みを浮かべて話してくれたんだと喜んでいた。懐かしい。1982年9月にサッチャーさんが来日された時。長女と家人でサッチャーさんの講演会に参加した。懐かしい思い出だ。(サッチャー首相のことは 一番下に記載)

★いでよ。日本のサッチャー。

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The Best of Margaret Thatcher  fakeengineer 2017/03/07

 

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111.① 新・映像の世紀「第1集 第一次世界大戦 100年の悲劇はここから始まった」NHKスペシャル~前編Chad Zammetti 2017/01/16 

 

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111.② 新・映像の世紀「第1集 第一次世界大戦 100年の悲劇はここから始まった」NHKスペシャル~後編Chad Zammetti  2017/01/17

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222.新・映像の世紀 第02集|超大国アメリカの出現・グレートファミリー 新たな支配者  dark goldenyellow 2018/09/02  チャンネル登録 6075

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第一次世界大戦が終結し、1920年代、未曾有の好景気に沸いたアメリカは欧州列強に取って代わり、世界のリーダーに躍り出た。 その頃現れたのが、巨大財閥・グレートファミリーだった。 一族は新しいビジネスに乗り出し、新興国アメリカを資本主義大国に押し上げた。いち早く新しいエネルギー・石油に目をつけ、資本主義の悪魔とも呼ばれながら人類史上最大の富豪となったロックフェラー家。 大統領よりも強い発言力を持ち、金融界を牛耳ったモルガン家。

死の商人から転身し、新製品を次々に生んだデュポン家。 大量生産を軌道に乗せ、車を大衆の乗り物とした自動車王フォード。 さらにアメリカのふりまく富の匂いは、世界中の移民も引き寄せ、超大国アメリカの基盤を形作った。しかし、繁栄が天井知らずだったぶんだけ奈落も底なしだった。20年代最後の年、アメリカを大恐慌が襲う。 一族の公開されたプライベート映像を駆使しながら、グレートファミリーの野望を描き、今の私たちが住む現代資本主義の原型を生んだ欲望の時代を見つめる。 (NHKスペシャルより引用)

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333.新・映像の世紀 第03集|第二次世界大戦・時代は独裁者を求めた

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dark goldenyellow 2018/09/03  チャンネル登録 6074 アドルフ・ヒトラーと彼が率いるナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)はドイツのそれまでの内閣や大統領の歴代政権、君主達が獲得することのできなかった強大な権力を表面上合法的に手中にした。 この権力掌握の過程は大きく分けて二つの時期に分類される。

ナチ党が国内有数の政党になってから、1933年1月30日にヒトラー内閣が成立するまでの期間と、政権についたヒトラーとナチ党が国内外の政敵をほぼ一掃し、立法権・行政権・司法権の三権を含むドイツ国内の権力を、党・国家そしてヒトラーが支配するまでの期間である。 後者の過程は政権獲得からほぼ2年以内の短期間であった。 (Wikipedia)

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dark goldenyellow  2018/09/09  チャンネル登録 6074

冷戦もしくは冷たい戦争は、第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国のアメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、東側諸国のソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造。 米ソ冷戦や東西冷戦とも呼ばれる。 1945年から1989年までの44年間続き、アメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力(火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。

「冷戦」という語は、ジョージ・オーウェルがジェームズ・バーナムの理論を評した時に使っており、後にバーナード・バルークも使い、アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンが1947年に上梓した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。 各陣営とも構成国の利害損得が完全に一致していたわけではなく、個別の政策や外交関係では協力しないこともあったなど、イデオロギーを概念とした包括的な同盟・協力関係である。

冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営が東ヨーロッパに集まっていたことから「東側」、対するアメリカ合衆国を盟主とした資本主義陣営が西ヨーロッパに集まっていたことから「西側」と呼んで対峙した。 その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。

又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体の結成へ向かった。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったため、「ヤルタからマルタへ」ということもいわれる。 ヨーロッパのみならず、アジア、中東、南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているがために経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。 (Wikipedia)

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555. 新・映像の世紀 第05集|激動の1960年代・若者の反乱が世界に連鎖した dark goldenyellow

2018/09/12  チャンネル登録 6074

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1960年代末、既存の政治体制にNOを突きつける若者たちの反乱が、まるで示し合わせたかのように、同時多発的に巻き起こった。西側で巻き起こったのは、ベトナム戦争反対の声だった。アメリカ、フランス、ドイツ、日本。

 

そして東側でも、自由と民主化を求める声が沸き上がった。チェコスロバキアでは、プラハの春という民主化を求める動きが起こっていたが、急激な民主化を警戒するソビエトが弾圧した。若者たちを団結させたのは、テレビだった。衛星中継が実用化され、東西の壁を越え、あらゆる出来事が世界に瞬時に伝わるようになっていた。

パリの学生が警官に投げつけたレンガの音は世界中に鳴り響き、プラハの若者が戦車に立ち向かう表情を世界が見ていた。その爆発的なエネルギーは、それまでの価値観を壊し、カウンターカルチャーと呼ばれる新たな文化を生み出した。もうひとつ、若者たちを突き動かしたものがある。その時代、若者たちの多くが、ふたりの革命家の肖像を掲げた。キューバ革命を起こしたチェ・ゲバラ、中国を建国した毛沢東である。 1960年代、ふたりの革命家とテレビによって突き動かされた、若者たちの反乱の時代を見つめる。 (NHKスペシャルより)

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666. 新・映像の世紀 第06集|21世紀の潮流・あなたのワンカットが世界を変える dark goldenyellow  2018/09/12  チャンネル登録 6074

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誰もが撮影者となり、誰もが発信者となる時代。 YouTubeには1分間に400時間を越える映像がアップされ続けている。 街の至るところに取り付けられたカメラは、私たちの一挙手一投足を撮影し続けている。もはや世界で起こる出来事のすべてが、映像化されるといっても過言ではない。 21世紀最初の年、世界の記憶に刻まれた映像は、アメリカで起きた同時多発テロだった。ワールドトレードセンターに旅客機が突入する映像は、人々の憎悪を増幅させる装置となった。

2004年のスマトラ沖大地震、2011年の東日本大震災では、一般の市民が撮影した映像が災害の全容を伝えた。 一方映像は、国境を越え人々の心をつなぐこともある。「アラブの春」では、ひとりの若者が発信した映像が独裁国家を転覆させるきっかけを作った。2013年のボストンマラソンの爆弾テロ事件では、進化した映像技術が事件をスピード解決した。最終回では、21世紀に起きた歴史的事件を舞台に秘蔵映像を駆使しながら、世界を時に引き裂き、時につなぐ映像の巨大な力を描く。 (NHKスペシャルより)

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マーガレット・サッチャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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イギリスの旗 イギリス政治家

マーガレット・サッチャー

Margaret Thatcher

Margaret Thatcher.png

生年月日

1925年10月13日

出生地

イギリスの旗 イギリスリンカンシャー州グランサム

没年月日

2013年4月8日(87歳没)[1]

所属政党

保守党

配偶者

デニス・サッチャー

公式サイト

Margaret Thatcher Foundation


イギリスの旗 第71代首相

在任期間

1979年5月4日 – 1990年11月28日

女王

エリザベス2世


イギリスの旗 貴族院議員

在任期間

1992年 – 2013年


イギリスの旗 第13代保守党党首

在任期間

1975年 – 1990年


イギリスの旗 庶民院議員

選挙区

フィンチリー選挙区

在任期間

1959年 – 1992年

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サッチャー女男爵マーガレット・ヒルダ・サッチャーイギリス英語Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher,LGOMPCFRS1925年10月13日 – 2013年4月8日)は、イギリス政治家一代貴族。旧姓はロバーツ(Roberts)。

イギリス保守党初の女性党首(在任: 1975年 – 1990年)、イギリス初の女性首相(在任: 1979年 – 1990年)。1992年からは貴族院議員。

保守的かつ強硬なその政治姿勢から「鉄の女Iron Lady)」の異名を取ったことで知られる[2]

生い立ち

リンカンシャーグランサムで、食糧雑貨商の家に生まれる。父アルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。サッチャーの生家は代々メソジストの敬虔な信徒であり、生家の家訓であった「質素倹約」「自己責任・自助努力」の精神はサッチャーにも色濃く受け継がれた。父アルフレッドを非常に尊敬し、サッチャーは「人間として必要なことは全て父から学んだ」とたびたび口にした。オックスフォード大学で化学を学び、1947年に卒業する。その後、研究者の道に進み、ライオンズ社に就職した研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究したことがある。コロイド化学が専門であり、Langmuir- Blodgett膜の研究を行っていた時期もある。一方、大学時代にはフリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していた。この頃に培われた経済学に対する思想が、後の新自由主義(ネオ・リベラリズム/Neoliberalism)的な経済改革(いわゆるサッチャリズム)の源流になった。

下院議員

1950年保守党から下院議員選挙に立候補するが、落選する。翌1951年に10歳年上のデニス・サッチャーと結婚し、法律の勉強を始める。1953年には弁護士資格を取得する。なお、この当時は女権拡張について強く訴えていた。

1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からヒース内閣で教育科学相を務める。この時、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは、学校における牛乳の無償配給の廃止を決定し「ミルク泥棒」(Margaret Thatcher, Milk Snatcher)と謗られるなど、猛烈な抗議の嵐を巻き起こした[3]

保守党党首

1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌1975年2月に保守党党首選挙が行われる。当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念した。そのため、右派からはサッチャーが出馬する。教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。同年、イギリスを含む全35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。

これに対し、ソビエト連邦国防省機関紙クラスナヤ・ズヴェズダ(「赤い星」:現在でもロシア連邦国防省機関紙として刊行)」は1976年1月24日号の記事の中で、頑固なサッチャーを鉄の女と呼び、非難した[4]。この「鉄の女」の呼び名は、サッチャーの強硬な反共主義を揶揄するためのものだったが、皮肉にもサッチャー自身が気に入り、またその後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞(愛称)として定着した。

英国首相

1979年の選挙では、20世紀以後に継続されてきた、高福祉の社会保障政策、社会保障支出の拡大継続[5][6][7][8][9]と、経済の規制緩和、水道、電気、ガス、通信、鉄道、航空の民営化によるイギリス経済の競争力強化を公約に掲げ、保守党を大勝に導く。なお、総選挙の際、2週間で体重を9kg減らすダイエットを実施していたことが、サッチャー財団の保管していた資料から明らかになっている。仮に首相に就任すれば報道への露出が増すことを想定し、実施したと推測されている。ダイエットの中身は食事のコントロールが主で、卵を1日に4個から6個食べる、肉や穀類を減らす、好きなウイスキーなどのアルコール飲料は週4日までに制限、間食を絶つといった内容だった[10]。選挙後、女性初のイギリス首相に就任した。イギリス経済の建て直しを図り、政府の市場への介入・過剰規制を抑制する政策を実施した。こうした経済に対する思想は、新自由主義あるいは新保守主義と呼ばれ、理論的にはエドマンド・バークフリードリヒ・ハイエクの保守哲学、同じくハイエクやミルトン・フリードマンの経済学を背景にしていると言われる。

エドワード・ヒース内閣での教育大臣だった時代、サッチャーは中道政策に反対しなかった[3]。しかし1979年に首相になる頃には、タカ派のマネタリズム支持者になっていた。27%を記録したインフレーション率は、非効率な国営産業や混合経済の失敗が原因なのだと流言することに成功した。そのインフレ率は第四次中東戦争とその後のイラン革命などで、原油価格が高騰したことと大きく関係していたにもかかわらずである[3]

1982年に、南大西洋のフォークランド諸島フォークランド紛争が勃発する。アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵略に対し、サッチャーは間髪を入れず艦隊、爆撃機をフォークランドへ派遣し、多数の艦艇を失ったものの、2ヶ月の戦闘の結果、6月14日にイギリス軍はポート・スタンリーを陥落させ、アルゼンチン軍を放逐した。サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還は、イギリス国民からの評価が極めて高い。

この際、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命財産の存在する根拠が失われるという意味)と述べた。イギリス経済の低迷から、支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率は73%を記録する。フォークランド紛争をきっかけに、保守党はサッチャー政権誕生後2度目の総選挙で勝利し、これをきっかけにサッチャーはより保守的かつ急進的な経済改革の断行に向かう。

1984年10月12日、保守党党大会開催中のブライトンにて、投宿していたホテルでIRAによる爆弾テロに遭っている。議員やその家族など5人が死亡、30人余りが負傷した。

1986年コモンウェルスゲームズ大会では、サッチャー政権の南アフリカアパルトヘイト政策に抗議した32ヶ国が、大会をボイコットした。イギリス連邦に属する国家や地域が、アパルトヘイト廃止のために経済制裁を支持していたが、サッチャー政権はイギリスの貿易と経済への影響を考え、経済制裁には反対していた。

サッチャーは若年期にナチス・ドイツとの激しい戦争を経験しており、そのためドイツに対して強い警戒心を持ち続けていた。東西ドイツ再統一に当たっては、フランスのミッテランと共に強い懸念を持っており、特にサッチャーは、統一が実現すれば英雄となるコールが第2のヒトラーとなり、第二次大戦前までのドイツの領土すべてを要求してくるという考えに囚われていた[11]。また、「コールはドイツが分割された理由を分かっていない」と憤り、ベルリンの壁崩壊の翌日、連邦議会西ドイツの議員たちが、自発的にドイツ国歌を歌ったという報告を聞いて戦慄したという[12]

保守的かつ急進的な改革を断行する強い姿勢から、3度の総選挙を乗り切ったサッチャーだったが、任期の終盤には人頭税 (community charge) の導入を提唱して、イギリス国民の強い反発を受け、また欧州統合に懐疑的な姿勢を示したため、財界からもイギリスが欧州統合に乗り遅れる懸念を表明する声が上がり、1990年の党首選では1回目の投票で過半数を獲得したものの、2位との得票数の差が15%以上に達せず、規定により第2回投票が行われることとなったために求心力がさらに低下し、結局11月22日に首相および保守党党首を辞任する意向を表明した。(なお、辞任を表明した日が西洋史上有名なケネディ暗殺の日でもあったことから、「なぜこの日を選んだのか?この辞任劇の背後にケネディ暗殺に関わる勢力がいた事を暗示しようとしているのか?」など一部で、疑問や憶測を呼んだ。)

首相退任後とその晩年

1992年からは貴族院議員を務め、政治の表舞台から退いた。2008年に長女キャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かし、2008年8月24日付の『メール・オン・サンデー英語版』紙が詳報を掲載した。それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「詳細を思い出せなくなってきた」としている[13]。一方でサッチャーの功績に関する書籍を出版したイアン・デールは、2010年にサッチャーと面会した際には目の前の出来事を把握するのに難があったものの、首相時代の記憶ははっきりしていたと証言している[14]。2012年12月21日膀胱にできた腫瘍を取るため、入院し手術を受けた[15]

2013年4月8日脳卒中のため死去したことが、サッチャー家のスポークスマンより発表された[16][1]。87歳没。

死去後

サッチャーの死去が報道されると、イギリス国内からはキャメロン首相や労働党ブレア元首相から、また国外からアメリカオバマ大統領、ドイツのメルケル首相、日本安倍晋三首相といった現職の指導者らが相次いで深い追悼の意を表明した。とりわけ首相在任中に「鉄の女」の異名をとったことから、メルケル首相のほかオーストラリアギラード首相、韓国朴槿恵大統領など各国の女性指導者がサッチャーの業績を讃えるコメントを出している。ほかに彼女と同時代の指導者である旧ソ連のゴルバチョフ元大統領、日本の中曽根康弘元首相などからも深い追悼の意が寄せられた[14][17][18][19]。また中国外務省も、定例記者会見で「香港返還に大きな役割を果たした。」と哀悼の意を示した。しかしサッチャー政権期の1982年フォークランド紛争をイギリスと戦い敗北したアルゼンチンキルチネル大統領は、サッチャー死去に関して沈黙している。なおフォークランド諸島の住民はサッチャーの死去を深く悲しんでいる[20]

セントポール寺院に運ばれるサッチャーの棺

イギリス政府はサッチャーの葬儀を4月17日にセントポール寺院で、エリザベス女王エディンバラ公の参列を賜る準国葬にすると発表した。サッチャーの棺は霊柩車でウエストミンスター宮殿からトラファルガー広場のあるホワイトホール地域を通過しセント・クレメント・デインズ教会英語版で大砲馬車に乗り換え、セントポール寺院に到る。首相経験者の葬儀に国王(エリザベス女王)が参列するのは、1965年に亡くなったウィンストン・チャーチル以来48年ぶりであった[21]

その一方で、イギリス各地では首相在任中のいわゆる「サッチャリズム」政策によって圧迫された、労働者階級や元教員の間で「彼女の死を祝賀するパーティ」が見られた[22][23]。さらにネット上には「(サッチャーによって)地獄が民営化されようとしています」「(サッチャーが)地獄に落ちてわずか20分で地獄のかまどが3つ廃炉になった。」などと、首相在任時期の小さな政府政策と絡めて批判するコラージュが登場した[24]。また「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ」(映画『オズの魔法使』の挿入歌)が、英国音楽ダウンロードチャートの1位となった[25]。また死者にささげる言葉「RIP」を「鉄の女」の異名にかけて「安らかに朽ちよ(Rust In Peace)」として批判する者もいた[26][27]

4月16日午後にサッチャーの棺はウェストミンスター宮殿に運ばれた。宮殿内の教会に棺は安置され、近親者による葬儀が執り行われた。翌4月17日にサッチャーの棺は宮殿からホワイトホールを経てクレメントディーン教会まで運ばれ、そこで大砲馬車に乗り換えられた。ユニオンジャックで包まれたサッチャーの棺の上には、2人の子からの花が置かれていた。棺の後には海軍軍楽隊が音楽を演奏しながら追従した。サッチャーの家族や歴代首相など要人らが待つセントポール寺院前で、儀仗兵に担がれて棺は内部に運ばれ安置されると、国歌『女王陛下万歳』が流れる中、エリザベス女王とエディンバラ公を乗せた御料車が到着した。女王夫妻が司祭の先導で聖堂内に姿を現すと、出席者から拍手が起きた。そのあとロンドン大司教英語版に司式による葬儀が行われた。多くのロンドン市民が沿道に詰めかけ、「鉄の女」の最後の別れを見送る一方で、「サッチャーの葬儀のために我々の血税を使うな」という抗議デモもロンドンで起きた[28]

サッチャリズム

  • サッチャーは新自由主義に基づき、電話ガス空港航空水道などの国有企業の民営化や規制緩和金融システム改革を掲げ、それらを強いリーダーシップで断行した。さらに改革の障害になっていた労働組合の影響力を削ぎ、所得税[29]法人税[30]の大幅な税率の引き下げを実施。一方、付加価値税(消費税)は1979年に従来の8%から15%に引き上げられた。

  • ルイス・マウントバッテンが暗殺されてから数ヵ月後、イングランド銀行公定歩合を17%へ引き上げた[31]。公約であったインフレの抑制には成功した。しかし、首相就任から間もなくイギリスの失業者数は倍増し、1982年には300万人を上回る。サッチャー政権において、英国の失業率世界恐慌以降最悪の数字を記録した[32]。失業率はその後も1986年半ばまで減少せず(1986年以降は1990年まで減少)、これによりサッチャーの支持率は低下した。そのため小さな政府の柱の一つであった完全マネタリズムを放棄し、リフレーション政策に転じる。その結果、イギリス経済は回復した。ミルトン・フリードマン新自由主義を唱える経済学者はサッチャーの変節を非難したものの、総じてイギリス国民からはこの転換が受け入れられ、支持率も回復の兆しを見せた。

  • 1988年、教育法を改定した。イギリスの教育機関は独自性が強く、カリキュラムも学校別の独自性が強いものだった。サッチャーは、使用されていた教科書の一つ「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか」(イギリスの人種差別や、植民地支配の歴史を批判的に扱う内容)が自虐的な内容であるとして使用を止めさせようとしたが、政府に教科書の使用を制限する法的権限が存在しなかった[要出典]。そのためサッチャーは教育界の反対を押し切り、「(1)全国共通のカリキュラムを作り、非キリスト教徒に対してもキリスト教の授業を必修とするなど「自虐的」内容の是正」「(2)全国共通学力テストの実施」「(3)学校当局に、地方教育委員会からの離脱を認め、その場合は政府直轄とする(政府と共に、親の発言力を強める)」という内容の法改正案を成立させ、大胆な教育改革も実行した[要出典]

授爵・叙勲[編集]

  • 1992年、一代貴族として男爵位を授爵し、女男爵(Baroness)として貴族院議員になる。1995年、ガーター勲章を受ける。

  • 2007年2月21日、在世中の元首相では初めて、英国議会議事堂(ウェストミンスター宮殿)内に銅像が建立された。なお、建立に際しサッチャーは、「鉄の像(「鉄の女」にかけている)になるかと思ったのですが、銅像ですね…銅もいいですよね、錆びないから」と述べ、周囲の笑いを誘った。

  • 1995年(平成7年)5月、日本から勲一等宝冠章が贈られている。儀礼的な叙勲でなく、個人的な功績によって同章の勲一等が授与された、極めて珍しい例である。

家族[編集]

夫のデニス・サッチャーとの間に娘キャロル、息子マークの双子の子供がいる。

デニス・サッチャーは、1991年に準男爵(Baronet)になり、サーと呼ばれる。マーガレットの政治活動についても助言を行い、妻は夫の助言に素直に従っていたが、あくまで家庭内での夫婦関係に留め、これを公にせず、賢い妻に対して愚かな夫であるように演じていたと言われる。

1982年、長男のマークはダカール・ラリーに出場中に一時行方不明となり、世界を巻き込んだ大騒動になる。その際、サッチャーは「息子が見つからなかったらレースを中止にさせる」と発言したと言われる。最終的にマークは無事に発見・保護され、ラリーは世界的に認知された。2004年8月には当時居住していた南アフリカ共和国で、「赤道ギニアのクーデターを企んでいた傭兵へ資金援助を行った」容疑で逮捕されたが、すぐに200万ランド(約4千万円)の保釈金により保釈され、イギリスへの帰国を認められた。2005年1月に南アフリカ政府と司法取引をし、「資金提供は認めるが、クーデターの意図は知らなかった」ということで、懲役4年(執行猶予付き)と300万ランド(約6千万円)の罰金を支払った。また娘のキャロルも、コンゴ系フランス人テニス選手のジョー=ウィルフリード・ツォンガに対して差別的発言を行い問題となった。

評価[編集]

イギリスでの評価[編集]

  • その非常に強硬な政治方針と信念から、在任中も、その後も、イギリス国内では、非常に毀誉褒貶の激しい二分された評価がある。財政赤字を克服しイギリス経済を立て直した救世主[要出典]として国内外の新保守主義新自由主義の政治家・経済論者からは未だに高い評価を受けているが、一方で失業者を増大させ、地方経済を不振に追いやった血も涙もない人間としての評価もある。富裕層優遇政策を採ったことから、リベラリズムや労働者からの評価は低い。旧来の保守勢力からも、古き良き英国の伝統を破壊した政治家として、批判に晒されることがある。

  • その後、保守党から政権を奪取した労働党ブレア政権が成立すると、サッチャーによって廃止された地方公共団体や公企業が復活し、民営化によるサービス低下への対策が図られた。また教育政策においても、サッチャー政権が導入した競争型の中等学校が事実上廃止され、公立学校の地位向上が図られるなど、サッチャリズムの弊害除去が、イギリスの重要な政策になった(第三の道)。その福祉政策も、またイギリス暴動の遠因となる結果になっている[33]

日本での評価[編集]

語録[編集]

  • 「あなたの旗は赤旗でしょう? 私の旗はユニオンジャックです」

  • 「我々は核兵器の無い世界ではなく、戦争の無い世界を目指すべきです」

  • 「社会というものはありません。あるのは個人と家庭だけです」

  • 「私はコンセンサスというものは、さほど重要なものであるとは思いません。あれは時間の浪費の原因のようなものですから」

  • (議会で動物擁護法案が通過する際、野次を飛ばす野党議員に対して)「お黙りなさい!これはあなた方のためにもなる法律なんですからね!」

  • (「長期政権は民主主義に反するのでは」と質問した記者に対して)「あなたはミッテランのことを批判するのですか?」

  • フォークランド紛争開戦に反対する閣僚達に向かって)「この内閣には1人しかいないのですか?」

  • 「言ってほしいことがあれば、男に頼みなさい。やってほしいことがあれば、女に頼みなさい」

  • 「金持ちを貧乏にしても、貧乏人が金持ちにはなりません」[35]

ERM参加

サッチャーが欧州懐疑論の立場をとっていたことは通説であるが、サッチャーは1975年のEEC離脱を問う国民投票では残留を主張した[36]。サッチャー政権下においても、1986年にEECを強くするための単一欧州議定書に署名した。

ユーロ加盟の前段階となるERM加入には強く反対の立場であったことは事実である。「事がうまく運んだとしてもERM加入はプラスにはならない。事がうまく運ばなかった場合はERM加入は状況を悪化させるだろう」とサッチャーは考えていた。アラン・ウォルターズ(サッチャーの経済アドバイザー)も、ERM加入はスターリング・ポンドへの投機攻撃の圧力を強くするだろうと懸念していた。ERMは為替レートの安定どころか不安定化の要素だとし、ERMに加入すべきではないとウォルターズは考えていた[37]

とはいえ、財務大臣ナイジェル・ローソンとその後任ジョン・メージャーらの働きかけに押され、英国をERMに加入させたことも事実である。ローソンは1987年頃から為替レートの安定化政策を主張し始めた。1988年にはサッチャーとローソンの関係は悪くなっていた。1980年代後半からの拡張型金融政策によって英国経済が成長していた状況下、インフレ抑制を好むサッチャーと安定な為替レートを好むローソンの対立が次第に顕在化し始めた。それでもEMUに対するサッチャーとローソンの見解は一致していた。両者ともにEMUには反対していた。その年の中頃にジェフリー・ハウが閣内不一致となるスピーチをするようになった。ハウはERMに関してローソンとほぼ同じ意見であった。

1989年にはレオン・ブリタンがERM加入のメリットをサッチャーに力説した。英国がERMに加入することでERMの発展を英国主導で行えるとブリタンは主張した。その年の5月にはウォルターズが公式にサッチャーの助言役として復帰、これによってサッチャーとローソンとの間の確執は決定的になった。ローソンはドイツマルクとの為替レートを見ながらイングランド銀行の利上げを主張、一方のウォルターズは景気を悪化させるとして利上げには反対だった[37]。サッチャーは内閣改造により、ハウを下院院内総務にし、ローソンを留任させた。だが結局ローソンは辞任し、ウォルターズも辞任することになる。サッチャーは後任人事としてジョン・メージャーが適任と考えた。いつかはメージャーがサッチャーの後任を務めるだろうとサッチャーは考えていた。メージャーに経験を積ませたいとサッチャーは考え、メージャーを財務大臣にした。

だがメージャーはERM参加に熱心になり始めた。1990年には、ERM参加のメリットは為替レートの安定だけでなく金利を下げることでもあるとメージャーは主張した