ロシアの歌 カチューシャ。 高校時代から 完全に歌えるが 発音を間違えていた。これで 完璧にするぞ !!
それにしても お国柄が よく出ている。 ロシア兵も これで 励まされて 戦場に向かったのか?? 第2次世界大戦が
終わったあとの ロシア軍の行動は いまだに 許せないが、 どのような 大義名分が あったのか これで 兵士は頑張った。
アンドロポフの時代の1984年 モスクワに半年ぐらいいたことがある。ロシアの酒場で 大声で皆で 歌ったことがある。当時の
ロシアでは ロシア人が 一緒に歌うという状態では 無かったが、 今なら 一緒に歌ってくれるのかも 知れないなあ。
そういえば 当時は お土産に 消しゴム 小さなカレンダー センス パンティーストッキング ボールペンなどを 持っていき
タクシーに乗った時など カレンダー一枚 消し込む1個 あるいは ボールペン一本で タクシー代の代わりに 使えた。
もう そんなことは 無いだろうかな?? ビジネスの交渉相手には パンティーストッキングを上げると とても 喜ばれた。
今でも そうなのか ??
モスクワで 忘れれないことが ある。 大きな公園で あちこちに 家族づれが ピクニックを楽しんでいた時だ。
リンゴの木があって、 あちこちに リンゴの香りが漂っていた。 僕たちも 芝生に 座って温かい日差しを楽しんでいた。
すると 近くのリンゴの木から 風に揺られて 一つ 僕のところに 転がってきた。 すぐ近くの男の子が ほしそうな
顔をしていたので あげたら とても 感謝された。 で、 そんなに喜んでくれるならと 周りの木をゆすったら ばらばら
落ちてきて、 子供たちが わっと駆け寄ってくれた。 なんと 大人たちは 動かない。いや 正確にいうと 動けなかった。
で 納得 お互いに監視の目が 厳しく。 訴えられるからだと 後からロシアの友人たちから 聴いた。
子供たちの嬉しそうな また 大人たちも外人が やってくれたと ニコニコしてくれて、 素晴らしい笑顔が たくさん
みれた。確か あちこちに 走り回って リンゴの木を 次々に ゆすって バラバラ落とした。
カチューシャという名前は 普通の名前なので たぶん カチューシャも 少し硬くて 小さな ロシアリンゴを
ひろってくれたに 違いない。 あの子たち ロシアの家族たち どうしているのか ? この歌を聞くたびに 想いだす。
★ところで ロシアというと 瀬島龍三さんを 良く思い出す。 旧ソ連の戦車が蹂躙していったシベリアの大地。
瀬島さんは 陸軍参謀として シベリア収容所に抑留された。東京裁判で証人として出頭された。
その後 ご帰国され しばらくして 伊藤忠の嘱託となり 社長 会長になられ 日本の政財界で ご活躍された。
★ ご縁があって ご指導して頂いたが、1995年 「幾山河」というご本を書かれ 出版記念講演会に招かれた。
一番前で 2時間ほどメモを取りながら拝聴させて 頂いた。周りには 中曽根さんや橋本さんほか
政財界の著名な方々で溢れていた。
懇親会が すぐに別の部屋で 始まったが しばらくして 瀬島さんから お声を掛けられた。
山元君 ちょっと話がある 来てくれと 宴会場の隅にいき いぶかる私に
「山元君なあ、 経営者というのは 自分の会社で 一生懸命やるのは 当たり前のことなんだ。
これからの経営者は
少しで いいから 時間とエネルギーを 日本の若者に割いてもらいたい。
日本の若者、日本の民族 日本の国家に 時間を割いてもらいたい!」 と言われた。
呆然として 立ち尽くす 僕に 握手を求めてきた。 恐る恐る差し出すと
なんと 大きな 分厚い手で 頼んだよ と なんと両手で僕の手を包んで
しばらく じっと見つめられて いらっしゃった。
有難うございます。 私に何ができるか 判りませんが やってみます!
というのが 精一杯だった。
あの時のぬくもりが 忘れられない。 思い出すたびに 目頭が熱くなる。
瀬島さんから言われて それまでの勉強会 ジョイラッククラブ(エイミータンの小説から命名)
を発展解消して 山元学校として もう 21年目になる。 瀬島さんのおかげで
私の人生も いつの間にか 豊かなものに変わって行った。 まだ ミッションは
完成されていない。 色々なミッションに挑戦して 山元学校に集まる人たちの
力をお借りして これからも 瀬島さんのご意思に 報いねば。 老骨に鞭打つ
余裕はない「。細胞を 蘇らせよう 細胞よ 蘇れ 細胞よ 蘇れ 毎朝 一杯の水を
かぶりながら 唱えている。 しっかり 大切だと思うプロジェクトに 果敢に挑戦しながら。
幸い たぶん 日本の若者たちが 山元学校や 山元学校の活動に集まってくれるように
なった。 しあわせだ。