Brasil 移民の人々 「蒼氓」石川達三 150621

https://youtu.be/NqY8wTDB0c8?t=16
神戸港から ブラジルに移民して行った当時の人々の情況。
 
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 戦前から戦後にかけて二十万人もの南米移民を送り出した
旧神戸移民収容所。その建物がそっくり神戸・山の手の高台
に残っていた。もう七十余年、阪神大震災にも耐えたが、
古びた五階建ては取り壊すか保存かで揺れている。
https://www.youtube.com/watch?v=JW702_lB59k
 
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 蒼氓の歌と 貴重な映像  ここをクリックしてください
https://youtu.be/NqY8wTDB0c8?t=4
 第一回芥川賞の受賞作になった石川達三の『蒼氓』は、
ここが舞台になった。神戸港から旅立つ家族連れはいっ
たん この施設に移って、日本での最後の8日間を過ご
した。
 
ほとんどは故郷をすてた農民たち。期待と不安に揺れる思い
を抱き、語り合い、やけ気味にふるさとの民謡を唄う。
 
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1930年3月8日。神戸港は雨である。…三ノ宮駅から
山ノ手に向かう赤土の坂道はどろどろのぬかるみで
ある。
 
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この道を朝早くから幾台となく自動車がかけ上がって
行く。この道が丘につきあたって行き詰まったところ
に黄色い無装飾の大きなビルディングが建つている。
 
是が「国立海外移民収容所」である>
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 二十四歳の★石川は「若気の至り」から、家族移民
ならぬ単独移民として、九百五十人の移民団にまじっ
てブラジルに渡った。
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目にしたその人たちの生活は厳しくも悲しい。
 
「私はこれまでにこんなに巨大な日本の現実を目に
したことはなかった。そしてこの衝撃を、私は書かねば
ならぬと思った」。石川は後日『出世作のころ』で述懐
している。
 
 <彼等のみならず殆どの全部の移民が希望をもって
いた。それは貧乏と苦闘とに疲れた後の少しく捨て鉢
な色をおびていた、
 
それだけに向こう見ずな希望であった。最初この収容所
に集まってきたときは、風の吹き溜まりにかさかさと
散り集まってきた落葉の様な寂しさと不安に沈黙して
きたが、
 
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日を啄うて海外雄飛の先駆者、無限の沃野の開拓者の
ように幻想するようになったのである>
 
 石川はこの小説で、貧しい暮らしのなかで、希望を
見い出そうとする素朴な日本人を描いた。恋しい人に
後ろ髪をひかれながらも弟にしたがっていく佐藤夏、
 
「徴兵逃れ」という非難に身をひそめる弟の孫市。
二人の主人公を含めた移民たちの多くは、事実上、
日本から切り捨てられた「棄民」だった。だけど、
うらみごとは聞こえてこない。
 
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 移民を送り出した建物は神戸の山の手になじんで
いた。昭和四十六年に移民業務が終わって神戸市に
移管され市の看護学院となり、
 
つい最近までは神戸海洋気象台の仮庁舎だった。
船室を模した低い天井、むき出しの配管は建設当時
のまま。外壁をはうつたが時代を感じさせる。
 
 出港の朝、移民の人々は靴ずれの痛みをこらえ、
鍋や釜を手に港に向けて歩いた。
 
突堤までの道は三ノ宮の繁華街を抜ける二キロ。
坂道をくだると見え隠れしていた海は、ビルにさえ
ぎられた。
 
コンテナ貨物を積み下ろしする第三突堤が当時の
乗船地だった。小学生たちが小旗をうち振り、
歌って移民見送った埠頭。いまは釣り人が
のんびり糸をたれていた。
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「移民館は神戸の歴史を語る生き証人、日本の近代史
を語る証人ですよ。だから残したいんです」と案内して
くれた神戸市国際部長、楠本利夫さんは力をこめた。
 
しかし震災による市の財政危機を救うため売却話も出た。
玄関脇の「ブラジル移民発祥の地」の記念碑がわずかにこ
の地を教えてくれる。さきごろブラジルの在留邦人会から
記念館として保存してほしいとの陳情が神戸市に寄せられた。
蒼 氓
石川達三

 戦前から戦後にかけて二十万人もの南米移民を送り出した旧神戸移民収容所。その建物がそっくり神戸・山の手の高台に残っていた。もう七十余年、阪神大震災にも耐えたが、古びた五階建ては取り壊すか保存かで揺れている。

第一回芥川賞の受賞作になった石川達三の『蒼氓』は、ここが舞台になった。神戸港から旅立つ家族連れはいったんこの施設に移って、日本での最後の8日間を過ごした。ほとんどは故郷をすてた農民たち。期待と不安に揺れる思いを抱き、語り合い、やけ気味にふるさとの民謡を唄う。

<1930年3月8日。神戸港は雨である。…三ノ宮駅から山ノ手に向かう赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。この道を朝早くから幾台となく自動車がかけ上がって行く。この道が丘につきあたって行き詰まったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建つている。是が「国立海外移民収容所」である>

二十四歳の石川は「若気の至り」から、家族移民ならぬ単独移民として、九百五十人の移民団にまじってブラジルに渡った。目にしたその人たちの生活は厳しくも悲しい。「私はこれまでにこんなに巨大な日本の現実を目にしたことはなかった。そしてこの衝撃を、私は書かねばならぬと思った」。石川は後日『出世作のころ』で述懐している。

<彼等のみならず殆どの全部の移民が希望をもっていた。それは貧乏と苦闘とに疲れた後の少しく捨て鉢な色をおびていた、それだけに向こう見ずな希望であった。最初この収容所に集まってきたときは、風の吹き溜まりにかさかさと散り集まってきた落葉の様な寂しさと不安に沈黙してきたが、日を啄うて海外雄飛の先駆者、無限の沃野の開拓者のように幻想するようになったのである>

石川はこの小説で、貧しい暮らしのなかで、希望を見い出そうとする素朴な日本人を描いた。恋しい人に後ろ髪をひかれながらも弟にしたがっていく佐藤夏、「徴兵逃れ」という非難に身をひそめる弟の孫市。二人の主人公を含めた移民たちの多くは、事実上、日本から切り捨てられた「棄民」だった。だけど、うらみごとは聞こえてこない。

移民を送り出した建物は神戸の山の手になじんでいた。昭和四十六年に移民業務が終わって神戸市に移管され市の看護学院となり、つい最近までは神戸海洋気象台の仮庁舎だった。船室を模した低い天井、むき出しの配管は建設当時のまま。外壁をはうつたが時代を感じさせる。

出港の朝、移民の人々は靴ずれの痛みをこらえ、鍋や釜を手に港に向けて歩いた。突堤までの道は三ノ宮の繁華街を抜ける二キロ。坂道をくだると見え隠れしていた海は、ビルにさえぎられた。コンテナ貨物を積み下ろしする第三突堤が当時の乗船地だった。小学生たちが小旗をうち振り、歌って移民見送った埠頭。いまは釣り人がのんびり糸をたれていた。

「移民館は神戸の歴史を語る生き証人、日本の近代史を語る証人ですよ。だから残したいんです」と案内してくれた神戸市国際部長、楠本利夫さんは力をこめた。しかし震災による市の財政危機を救うため売却話も出た。玄関脇の「ブラジル移民発祥の地」の記念碑がわずかにこの地を教えてくれる。さきごろブラジルの在留邦人会から記念館として保存してほしいとの陳情が神戸市に寄せられた。


いしかわ・たつぞう 1905ー1985 秋田県横手市生まれ。早大英文科を中退、雑誌記者を経て作家活動に。昭和10年『蒼茫』で第1回芥川賞を受賞。


☆ メモ 移民の歴史は神戸からはじまった。移民収容所の地下にはマンモスボイラーが置かれている。炊事に風呂にフル活動したのだろう。いまは赤くさび付いている。

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ウォルターさんが ブラジルに 移民された日本人の歴史の
映像を送ってくれた。学生時代から なんども 読み返した
「石川達三さん」の「蒼茫」を思い出しながら 映像を見ていた。
 
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石川達三の長編小説。ブラジル移民を主題とする
三部作の第一部として、昭和10年(1935)に発表。
 
同年、第1回芥川賞受賞。第二部「南海航路」および
第三部「声無き民」は昭和14年(1939)に発表された。
 
昭和12年(1937)映画化、昭和35年(1960)
テレビドラマ化。
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本当に 移民された私たちの すこし先輩の皆さまは
辛酸を舐め、ご苦労を重ねて 今日の地位を築かれた。
 
農業をはじめ、様々な世界を 実りあるものに変えたと
いわれる「私たちの先輩日本人」 一方で、「餓死しても 
人のものを 盗まないと言われ・・・生き方は 感動の
渦を巻き起こしたという。
 
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詐欺行為を働いたり、振込詐欺で シニア世代から
お金を奪う人々 毎日のように テレビで報道される。
地に落ちた 人間とも思えない人々 本当に
恥ずかしい。 日本人の伝統を汚すな! と なんだか
怒りが こみあげてくる。 映像を見ていて 原点に
戻らねば とも思う。
 
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山元学校の活動を 通じて まともに 地道に努力しよう
と呼びかけて 行きたい。
 
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ポルトガル語で書かれていますが 訳すと
 
★ 1908 年 6 月 18 日、「朝日丸、笠戸丸で日本から来た
最初の移民の到着以来、107 年がたちました。
 
ブラジルの日本の移住の 107 年へのオマージュが出来た。
 
今日、150 万以上で、日系の人々の人口は 毎年、増加して
ブラジルに住んでいると推定されます。
 
国内外の日本人の子孫の最大のコミュニティとなっています。
 
大多数の人々は、
 
サンパウロ、
パラナ州、
マットグロッソ州
スル
パラー州https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=NqY8wTDB0c8#t=86