picasso 私の記憶は たぶん中学生時代から始まる。何かと話題になるピカソは 一つの生き方。自由奔放な姿勢は まったく別世界の人と映った。しかし示唆に富み、反発しつつも随分教えられた。私の周りには 画家が多く 必ずピカソが話題にのぼった。それだけ影響力が強かった。 大学時代にピカソの英語の本を買った記憶がある。まだ倉庫に眠っていると思う。
中学から 高校に上がるとき、木を削ったり、無心で掘ったりしている時が 一番 精神的に安定しているなあ 没頭できるとして 一度は 彫刻家になることが 頭の中をよぎったことがある。 その後 社会に出て 全く違うビジネスの世界に入った。
ピカソの壮年期から老年期、晩年の生きざまに 新たな感動を覚える今、ピカソの言いたかったこと あるいは 考え方を、もう一度 聞いてみよう。なにか ヒントになる言葉が ひそんでいるに違いない。
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パブロ・ピカソ[1](Pablo Picasso [ˈpaβlo piˈkaso], 1881年10月25日 – 1973年4月8日)は、スペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。
ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られる。生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。
ピカソの洗礼名は、聖人や縁者の名前を並べた長いもので、長い名前の例としてよく引き合いに出される。諸説あるが、講談社が1981年に出版した『ピカソ全集』によると、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード (Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno María de los Remedios Crispiano de la Santísima Trinidad) である[2]。フルネームはこの後に、父親の第一姓ルイス (Ruiz) と母親の第一姓ピカソ (Picasso) が続く(スペインの姓は、父親の第一姓を第一姓に、母方の第一姓を第二姓にして、機械的に個人の姓が決まる)。
画家として活動を始めたピカソは、はじめパブロ・ルイス・ピカソと名乗り、ある時期から父方の姓のルイスを省き、パブロ・ピカソと名乗るようになった。
- 1881年10月25日午後9時30分、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市のプラス・ラ・メルセド15(当時は36)に生まれた。長男。父はアンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペス[3]。
- 1891年、ガリシア地方ラ・コルーニャに移住。父ドン・ホセは同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任。
- 1892年、ラ・コルーニャの美術学校に入学。
- 1894年、父ドン・ホセは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に息子の才能への賞賛が原因とされる[3]。
1895年、バルセロナに移住、美術学校に入学。1月の猶予のある入学製作を1日で完成させる。初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた。
- 1897年、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』がマドリードで開かれた国展で佳作を受賞、マラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。だが、ピカソはアカデミズム・学校で学ぶことの無意味さを悟り、中退する。プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画の模写することで絵画の道を求めていった。
- 1898年、春猩紅熱にかかりオルタ・デ・エブロで療養[3]。
- 1899年、バルセロナに戻ってきた。バルセロナで若い芸術家(サロン)たちと交わりながら熱心に絵を描く。店のメニューをデザインしたり、アールヌーヴォー調のポスターを描いたりした。
- 1900年、カサヘマス、パリャーレスとともにパリを初訪問。その後バルセロナとパリの間を何度か行き来する。
- 1901年、雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで初の個展。「青の時代」の始まり。
- 1902年10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む
- 1904年4月、詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。
- 1905年「ばら色の時代(Picasso’s Rose Period)」または「桃色の時代」[4]が始まる(~1907年)。
- 1907年、『アビニヨンの娘たち』製作。
- 1911年9月、にルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』が盗まれ、容疑者の一人として逮捕された(ただし1週間で釈放された)。同じく逮捕された友人のギョーム・アポリネールについて、「彼は知人ではない」と証言したせいで、その後彼としこりを残した。
- 1912年、モンパルナスへ移る。
- 1913年、父ホセ・ルイス・ブラスコ死去。
- 1916年、パリ郊外モンルージュに移る。
- 1917年、バレエ『パラード』の装置、衣装を製作。
- 1918年1月、オルガ・コクローヴァと結婚。パリ、ラ・ボエシーに移る。
- 1919年5月、ロンドンで『三角帽子』の装置、衣装を製作。
- 1920年、『プルチネルラ』の衣装を製作。新古典主義時代。
- 1921年、息子パウロ誕生。
- 1922年、コクトーの『アンティゴーヌ』の装置、衣装を担当。
- 1924年、バレエ『メルキュール』(ディアギレフ)の装置、衣装を製作。
- 1928年、彫刻に専心。
- 1930年、『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受賞。
- 1931年、『変身譚』の挿絵を制作。
- 1932年、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。
- 1934年、スペインへ旅行、『闘牛』連作を描く。
- 1935年、娘マハ誕生。詩作。
- 1936年、人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。
- 1937年、『フランコの夢と嘘』(エッチング)出版、『ゲルニカ』製作。
- 1939年、ニューヨーク近代美術館で個展、『アンティーブの夜漁』を描く。
- 1940年、ナチス・ドイツ占領下のパリへ帰る。ナチにより解放されるまでパリを離れることができなくなった。
- 1941年、戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。
- 1944年、パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示。フランス共産党入党。
- 1945年、ロンドン、ブリュッセルで個展。
- 1946年、フランソワーズ・ジローと共同生活。
- 1947年、息子クロード誕生。陶器製作。
- 1949年、娘パロマ誕生。
- 1951年、『朝鮮の虐殺』製作。
- 1952年、『戦争と平和』のパネルを制作。
- 1953年、リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展。
- 1954年、ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める。
- 1955年、カンヌ「ラ・カルフォルニ」に住む。
- 1958年、『イカルスの墜落』製作(パリ、ユネスコ本部)。
- 1964年、日本、カナダで回顧展。
- 1966年、パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展。
- 1967年、シカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』公開。
- 1968年、版画に専心、半年間に347点を製作。
- 1970年、アヴィニョン法王庁で140点の新作油絵展。バルセロナのピカソ美術館開館。
- 1973年4月8日午前11時40分(日本時間午後7時40分)頃、南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。
ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。
- 青の時代(1901年~1904年)
- 20才頃、親友のカサヘマスが自殺し、衝撃を受ける[5]。ピカソは当時の鬱屈した心象を、無機顔料のプロシア青の暗青色を基調に使い、娼婦、乞食、盲人など不幸な人々を主に題材にした一連の陰鬱な作品群に表現した。以後「青の時代」は、孤独で不安な青春時代を表す表現として使われるようになった。
- ばら色の時代(1904年~1907年)
- フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。
- アフリカ彫刻の時代(1907年~1908年)
- アフリカ彫刻の影響を強く受けた時代。このとき、キュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。
- セザンヌ的キュビスムの時代(1909年)
- スペインのオルタ・デ・エブロに旅し、セザンヌ的な風景画を描いた。
- 分析的キュビスムの時代(1909年~1912年)
- モチーフを徹底的に分解する、禁欲的で抽象的な作風になった。
- 総合的キュビスムの時代(1912年~1918年)
- 装飾性と色彩の豊かさが特徴で、ロココ的キュビスムとも呼ばれる。このころ、新聞紙や壁紙をキャンバスに直接貼り付けるコラージュ技法を発明したが、これはマルセル・デュシャンのレディ・メイドの先駆である。
- 新古典主義の時代(1918年~1925年)
- 古典的で量感のある母子像を描いた。
- シュルレアリスム(超現実主義)の時代(1925年~1936年)
- 化け物のようなイメージが描かれた時期で、妻オルガとの不和が反映していると言われる。代表作は『ダンス』『磔刑』など。
- ゲルニカの時代(1937年)
- コンドル軍団のゲルニカ爆撃を非難した大作『ゲルニカ』および、そのための習作(『泣く女』など)を描いた。
- 晩年の時代(1968年~1973年)
- 油彩・水彩・クレヨンなど多様な画材でカラフルかつ激しい絵を描いた。このころ、自画像も多く手がけている。
私生活
ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。パリ時代初期には、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタイン、アンドレ・ブルトンらと頻繁に会っていた。
正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエだが、「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァという名前で知られるマルセル・アンベールと付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す (J’ AIME EVA)」、「私の素敵な人 (MA JOLIE)」などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は癌を患い、1915年に亡くなった。
1916年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァと知り合い、1918年に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ趣味を教えた。二人のあいだには息子パウロが生まれた。パウロの長男(ピカソの孫にあたる)は自殺している。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。
1927年、ピカソは17歳のマリー・テレーズ・ワルテルと出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止した。ピカソとオルガの結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘マイアが生まれた。
またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。
1943年、ピカソは21歳の画学生フランソワーズ・ジローと出会い、1946年から同棲生活を始めた。そしてクロードとパロマが生まれた。しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚した。このことはピカソに大きな打撃を与えた。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われている。
しかしピカソはすぐ次の愛人ジャクリーヌ・ロックを見つけた。彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられ、1961年に結婚した。しかし、この結婚は、ピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたと言われている。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。これに乗ってフランソワーズが相手と協議離婚すると、ピカソは既にジャクリーヌ・ロックと結婚していた。
このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言』(1960年)に、自身の役でカメオ出演している。
ピカソの死から年月は経るが、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは自殺している。フランソワーズ・ジローは、現在まで画家として旺盛な創作を続けている(2010年に東京で日本初の個展を開催)。パウロの長女マリーナ(ピカソの孫にあたる)の著書には、「いいおじいちゃんになる方法を教えてあげられれば良かった」という言葉がある。
イデオロギー 左翼・反体制思想
ピカソが平和主義者だったのか、それともただの臆病者 だったのか、現在でも議論が続いている。第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。フランスの2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソはフランコとファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった[6]。
ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちとつきあったが、けっきょく運動には参加しなかったという経歴がある。
スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカがフランコの依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。ピカソはのちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書をみやげとして持たせたという。
スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。
1940年にパリがナチス・ドイツに占領され、親独派政権(ヴィシー政権)が成立した後も、ピカソはパリにとどまった。このことが戦後にピカソの名声を高める要因になった(多くの芸術家たちが当時アメリカ合衆国に移住していた)。しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。ヴィシー政権はピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエで制作して過ごした。ヴィシー政権は資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、レジスタンス(地下抵抗組織)がひそかにピカソに材料を提供したので、制作を続けることができた。
フランス共産党員
1944年、ピカソは友人らの勧めはあったにせよ、自らの意志でフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けた。何かとピカソの共産主義思想を否定したがる人に対し「自分が共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したエピソードは有名である。しかし、友人のルイ・アラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、幾多のトラブルを経験した。
晩年
1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤ、プッサン、マネ、クールベ、ドラクロワでも同様の仕事をしている。
1955年にはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。ピカソがこの映画で描いた絵画は、撮影後全て破棄され、現在では見ることができない。この映画は1956年の第9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞、1984年にはフランス国宝に指定されている。
ピカソの最晩年の作風は、彼がそれまで経てきたスタイルの混合である。ピカソは最後のエネルギーを制作に注入し、より大胆に、カラフルで激しい絵を描いた。
1968年、彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。その中には、『しゃがむ女』や『裸婦たち』などの開脚して女性器を露わにする女性たちを描いたものがある(これは、現代写真家のペッター・ヘグレに影響を与える。)多くの批評家がこれを「不能老人のポルノ幻想」、あるいは「時代遅れの画家のとるにたらぬ絵」とみなした。長い間支持者として知られた批評家のダグラス・クーパーさえ「狂った老人の支離滅裂な落書き」と評した。しかしピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。
晩年のピカソの作風は、のちの新表現主義に大きな影響を与えたと考えられている。ピカソは死ぬまで時代を先取りする画家であった。
死後
ピカソは1973年の死の時点で、多数の作品を手元に残していた。また友人の画家(アンリ・マティスなど)の作品を交換や購入によって相当数持っていた。フランス政府は遺族から相続税としてこれらの作品を徴収し、1985年に国立ピカソ美術館を開館した。一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3000点を所蔵している。
2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインのマラガにピカソ美術館を開館した。
1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。
2004年、ニューヨークのサザビーズの競売で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が1億416万8000ドル(約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した。2006年5月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が9521万6000ドル(約108億円)で落札された。
2010年5月4日、ピカソの『ヌード、観葉植物と胸像』がニューヨークのクリスティーズで約1億650万ドル(約101億円)で落札され、最高額を更新した。ロサンゼルスの収集家が1950年代に購入した作品で事前予想でも8000万ドル以上と予想されていた。それまで(2010年2月当時)の最高額はアルベルト・ジャコメッティのブロンズ像『歩く男』の約1億430万ドルだった[7]。
2006年10月、ラスベガスのホテル王で美術品収集家としても知られるスティーブ・ウィンが、1億3900万ドル(約165億円)で別の収集家に売却する予定だったピカソの名画「夢」に誤ってひじを食らわせ、直径約2.6cmの穴を開けてしまった。事件を目撃した友人がインターネットのブログに書き込みをして詳細が発覚した。ウィンは1997年にこの絵を4840万ドル(約58億円)で購入し、長年大切にしてきた。もうすぐお別れとなる絵の前に立ち、友人らに説明していたところ、誤って名画の真ん中に穴を開けてしまった。結局、契約はないことになり、名画は修理され、ウィンの元にとどまることになった。ウィンは穴を開けた瞬間、「何てことをしてしまったのか。でも(破ったのが)私でよかった」と話したという。
2012年7月、オランダのクンストハル美術館が所蔵していた「アルルカンの頭部」が、クロード・モネやルシアン・フロイドの絵画と共に盗難される。翌年になって犯人は逮捕されたが、絵画は既に焼却されていた[8]。
家族
ピカソにはかけがえのないパートナーがいた。それは鳩である。幼い頃から鳩が大好きだったピカソにとって、鳩は生涯の友であり、重要なモチーフでもあった。アトリエには妻さえ入れなかったが、鳩は特別に入れていた。フランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘に「パロマ=鳩」と名付けた。パロマ・ピカソは著名なジュエリー・デザイナーとなり、現在はティファニー社のデザイナーとして活躍している。
語録
- 「明日描く絵が一番すばらしい」
- 「絵画は、部屋を飾るためにつくられるのではない。画家(私)は古いもの、芸術を駄目にするものに対して絶えず闘争している」
- 「労働者が仕事をするように、芸術家も仕事をするべきだ」
- 「誰でも子供のときは芸術家であるが、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかである」
- 「昔、母は私にこう言った。お前が軍人になれば、将軍となるでしょう。修道士になれば、法王となるでしょう。そして私は画家となり、ピカソとなった」
- 「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」
- 「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」
- 「スペイン内戦は、スペイン人民と自由に対して、反動勢力が仕掛けた戦争である。私の芸術家としての生涯は反動勢力に対する絶え間なき闘争以外の何物でもなかった。私が反動勢力すなわち死に対して賛成できるなどと誰が考えることができようか。私は「ゲルニカ」と名付ける現在制作中の作品において、スペインを苦痛と死の中に沈めてしまったファシズムに対する嫌悪をはっきりと表明する。」(「ゲルニカ」制作時の声明より
ゲルニカ (絵画)
作者 | パブロ・ピカソ |
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製作年 | 1937年 |
種類 | 油彩、壁画 |
寸法 | 349 cm × 777 cm (137 in × 306 in) |
所蔵 | ソフィア王妃芸術センター、 マドリード州・マドリード |
『ゲルニカ』(Guernica)は、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画である。ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。20世紀を象徴する絵画であるとされ[1]、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画であるとされることもある[2]。発表当初の評価は高くなかったが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられた。
ゲルニカ爆撃
1936年7月には第二共和政期のスペインでスペイン内戦が勃発し、マヌエル・アサーニャ率いる共和国軍とフランシスコ・フランコを中心とした反乱軍が争った。1934年にスペインを離れてフランス・パリに在住していたスペイン人画家パブロ・ピカソは共和国政府を支持しており、1937年1月にはフランコを風刺する内容の詩『フランコの夢と嘘』を著し、後には詩に添える銅版画を製作していた[3]。この銅版画でフランコは怪物の姿として描かれており、売られた絵葉書の収益は共和国政府の救援資金となった[4]。スペイン内戦中の1937年1月、共和国政府は在フランスのスペイン大使館を経由してピカソにパリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画の製作依頼を行った[5][6]。ピカソは依頼に対して明確な返事をしなかったが、スペイン内戦とは無関係のシュルレアリスム風の壁画を制作する予定だったとされている[7]。1980年頃にパリのピカソ美術館で発見されたスケッチによれば、この構想は画家やモデルが登場する個人的な世界の描写だったが、後の『ゲルニカ』に含まれる太陽や女のイメージは既に存在していた[4]。4月半ばにはこの個人的世界の絵画に対して、鉛筆とインクによる素描を仕上げていた。1937年4月26日にビスカヤ県のゲルニカがナチスドイツ軍によって都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を受けると、27日には数紙の夕刊にゲルニカ爆撃の短報が掲載された。28日朝にはジョージ・スティアによる長い記事が『タイムズ』に掲載され、この記事は世界各国の新聞に転載された。ピカソはこれらの過程でゲルニカ爆撃を知り、パリ万博で展示する壁画の主題に選んだ。この絵画の製作に先立つ数年間、ピカソは女性関係に翻弄されてほとんど絵を描かなかったが、この絵画では熱心に作業を行った[8]。
この絵画では習作を計45枚描くが[9]、1枚を除いて日付や制作順を表す番号が添えられ、全45枚が保存されている[2]。5月1日の午後に習作の製作を開始し、初日には青色のデッサン用紙に鉛筆で6枚の習作を描いたが、初日の習作にはすでに、傷ついた馬、超然とした牡牛、灯火を持つ女などの主要な要素が登場している[10][11]。また、戦争画には戦い、爆弾、殺戮者などがつきものだが[12]、習作から壁画の完成までこのような加害者はついに登場することはなかった[11]。5月2日はカトリックの安息日である日曜日であり、普段なら娘のマヤと出かける曜日だったが、マヤのことも忘れて作業に没頭した[13]。この日は苦悶する馬の表情を集中的に描き、それまでの14枚の習作は紙に鉛筆で描いていたが、初めてキャンバスに油絵具で習作を描いた[14]。前日の習作では構成要素がほぼ静止していたのに対して、この日の習作では喘いだ馬が頭を折り曲げ、女は驚愕の表情を浮かべるという具合に変化した[11]。この日までに構図がほぼ固まったが、ゲルニカ爆撃を直接的に示す要素は何ひとつなく、あくまでも絵画は爆撃の隠喩という意味合いが強かった[11]。わずか2日間で絵画製作は大きな進展を見せ、その後の1週間はほとんど何もせずに放置したが[11]、メーデーの数日後には「スペイン軍部への嫌悪の意味を込めた『ゲルニカ』を製作中である」とする声明を発表した[15]。スペイン内戦開戦当初はピカソが反乱軍の味方であるという噂が広まっていたため、自身の立場を明らかにする意味合いもあった[16]。
5月8日には製作を再開し、幼子の屍を抱いた女が初めて登場した[17]。習作の製作中にも内戦の状況は刻々と変化しており、ピカソは共産党系のユマニテ紙で状況を把握しながら習作に修正を加えていった[17]。5月9日は日曜日だったが、2週連続でマヤとの外出をキャンセルして作業に臨んだ。この日の習作では女や幼子の位置がたびたび変化し、それぞれの要素に関連性が持たせられ、立体感や明暗の対比なども意識された[17]。前週の馬の造形を集中して掘り下げたように、9日には子の屍を抱く女単独の習作がペンで精細に描かれた[12]。前週はほぼ正方形の白紙が習作に使用されたが、5月8日と9日の2日間は横長の白紙が習作に使用され、縦横比は最終的な壁画の形状に近づいた[17]。牡牛の顔は人間に似通い始めて正面に向けられ、腕が千切れたふたりの女が登場した[17]。夜の場面であることがはっきりと示され、最終的な作品に登場するすべての人物が出そろった[18]。
キャンバス[編集]
5月11日の朝、パリのグラン・ゾーギュスタンにあるアトリエで縦349cm×横777cmのキャンバスに向かいはじめた[19]。それまでピカソはモデル以外とは製作過程を共有せず、製作途中の作品を撮影したことはなかったが、助手役を務めたドラ・マールは様々な段階でキャンバスの写真を8枚撮影し[20]、時には製作中のピカソもカメラに収めた[19]。11日に撮られた1枚目の写真では、習作の段階で右端にいた女は左端に移され、右半分には3人の女が加えられ、この日のうちに巨大なキャンバスはある程度要素で埋め尽くされた[19]。巨大なキャンバスに向かいながらも、習作を描くことも続けていた。特に女の頭部と牡牛を頻繁に描いており[21]、女の頭部は1937年10月26日に完成する『泣く女』に結実しているとされる。助手はドラひとりだったが、アトリエを訪ねてきたマリー=テレーズとドラが鉢合わせし、口論や小突き合いをしたこともあった[19]。ピカソはなすすべもなく喧嘩を見ていたという。『ゲルニカ』の画面左端で子どもを抱いてなく女性はマリー=テレーズだといわれており、泣き叫ぶドラもこの時期のピカソの『泣く女」のモチーフとなったが、この作品の阿鼻叫喚は女たちの暴力や罵声をも反映しているとも考えられる[22]。5月13日に撮られた2枚目の写真では、太陽に似た形象が出現し、画面が黒く塗られ始めた[23]。
5月16日-19日頃に撮られた3枚目の写真では、馬の顔や兵士の向きが変更され[23]、前掲の人間は女と兵士の屍のみに整理され、戦士の拳の位置にも変化が加えられた[24]。当時は「突きあげた拳」がファシストに対する反戦のシンボルとして世界に広まっており[17][25]、当初は戦士が右腕を突き上げていたが、政治色を弱めるためか体の横に伸ばされた[24][26][27]。太陽のような形象は押しつぶされてアーモンド型になり、牡牛の目の前に三日月に似た形象が出現した[27]。5月20日-24日頃に撮られた4枚目の写真では、それまで頭を垂れていた馬が頭を起こし、鼻孔を開いて豪気を示した[24]。三日月に似た形象は消え去って時間帯が曖昧となり、色や模様のあるコラージュが貼り付けられた[27]。5月27日頃に撮られた5枚目の写真ではコラージュが取り去られたが、6月1日頃に撮られた6枚目の写真では再びコラージュが試みられた[27]。6月4日頃に撮られた7枚目の写真では再びコラージュが剥がされ、兵士の人間性が失われて石膏像のようになった[27]。完成時に撮られた8枚目の写真ではアーモンド型の光源の中に電球が描かれた[24][28]。
ピカソは絵画をスペイン共和国に無償で寄贈する予定だったが、5月28日には在フランスのスペイン大使館員が来訪し、材料費という名目で15万フランを受け取った[29]。製作末期の作業過程は判然としておらず、何度も背景の色調の修正、灰色の上塗り、馬の体への線の書きいれなど細部の修正を行った[24]。この際にはドラの手を借りているが、ピカソの作品に本人以外の手が加わったのはこの絵画が初めてだとされる[24]。仕上げとして右端に半開きの扉を描いたが、それ以降も微修正を続けた[30]。6月4日頃には絵画がほぼ完成したとされ、6月6日にはスペイン人詩人のホセ・ベルガミン、スペイン人学者のフアン・ラレーラ、イタリア人彫刻家のアルベルト・ジャコメッティ、ドイツ人画家のマックス・エルンスト、フランス人詩人のポール・エリュアールとアンドレ・ブルトン、イギリス人画家のローランド・ペンローズ、彫刻家のヘンリー・ムーアがアトリエに来訪し、ドラ以外に初めて絵画を披露した[30]。
公開と批評[編集]
絵画がアトリエから万博会場に搬入された日付は不明だが[6]、1937年6月末にはスペイン館に絵画が運ばれ、入口から見て右手の壁面全体に絵画が掛けられた[6]。なお、スペイン館の3階には破壊されたゲルニカの写真が展示され、またフランス人詩人のポール・エリュアールによる『ゲルニカの勝利』という詩が掲げられた[6]。写実的な絵画を期待していた関係者の中には、より目立たない位置に移すことを計画した人々もいたが、ピカソの名声を考慮して万博閉幕まで入口ホールに掲げられた[31]。7月12日にはスペイン館の完成披露宴でこの絵画が公開された[32]。前衛芸術家や一部の知識人を除けば絵画の評判はいま一つであり[33]、「深刻化するスペインの危機を視覚的に表現していない」「ナチスの酷い犯罪の真相をだれにでもすぐにわかるように描いていない」などの批判が聞かれ、新聞などで絵画が取り上げられることはなかった[29]。スペイン館の開館がパリ万博自体の開会より遅れたこともあって、公式パンフレットにこの絵画が記載されることもなかった[33]。しかし、スペイン人美術評論家のジャン・カスーはとてもスペイン的な絵画であると評価し、スペイン人詩人のホセ・ベルガミンは祖国の本質を反映して体現していると評価した[29]。クリスチャン・ゼルヴォスは『カイエ・ダール』誌の丸々一冊をこの絵画の特集に当て、ドラの記録写真とともに取り上げた[33]。
万博閉幕後の12月にはフランス人建築家のル・コルビュジエが「ピカソの壁画は醜いばかりで、観る者の心を萎えさせる」と、政治的な理由ではなく美学的な理由で絵画を批判した[29][34]。閉幕後には展示品の大半が海路でバレンシアに送られたが、共和国政府は反乱軍の攻撃に対する対応で手一杯であり、ジョアン・ミロの絵画、アルベルト・サンチェス・ペレスの彫刻など、積み荷となった美術品の多くが紛失した[35]。共和国政府の所有物であるはずのこの絵画はなぜかスペインに送られることはなく、アレクサンダー・カルダーやジュリオ・ゴンザレスなどパリ在住の他の芸術家の作品同様に[36]、パリにあるピカソのアトリエに送り返された[35]。1938年1月にはスカンディナビア半島で開催された四人展[37]に絵画を出展したが[36]、ここでは称賛の対象にも侮蔑の対象にもならなかった[38]。1938年10月にはロンドンの展覧会に出展し、収益をスペイン共和国政府に送金した[35][36]。美術評論家のロジャー・ヒンクスはピカソが絵画に知的遊戯や当世風ガラクタを持ち込んだと異議を唱え、美術史家のアンソニー・ブラントはピカソがスペイン内戦の複雑な真相を理解できていないと批判した[35][36]。スティーヴン・スペンダーや美術批評家のハーバート・リードは批判者に反論し、スペンダーはこの絵画が「傑作かもしれない」と指摘した初の人物である[39]。この頃には共和国軍の敗戦が濃厚となっており、年を越した1939年3月31日にはフランコ独裁政権が誕生した。
ニューヨークでの保管[編集]
1937年12月、アメリカ芸術家会議は共和国支援のために『ゲルニカ展』を企画し、この展覧会は約1年半後に実現した[33]。1939年5月には絵画がアメリカ合衆国に送られ、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シカゴでの展覧会に出展された[40]。すでにスペイン内戦が終結していたこともあり、アメリカでは内戦の悲劇の象徴ではなく一枚の現代美術作品と捉えられた[36]。ゲルニカ展のオープニングにはエレノア・ルーズヴェルト(ファーストレディ)、サイモン・グッゲンハイム(実業家)、W・アヴェレル・ハリマン(政治家)、ジョージア・オキーフ(芸術家)、ソーントン・ワイルダー(劇作家)などが出席した。美術評論家のエリザベス・マコースランドはピカソが孤立から社会との連帯に転じたことを象徴する絵であるとしたが、美術記者のエドウィン・オールデン・ジュエルは現代美術に侵入しつつある異質な意図の典型だとした[40]。鑑賞者の賛否は分かれ、スペインの孤児を救援するための収益は少額にとどまった[40]。1939年9月には第二次世界大戦が勃発したため、ピカソは絵画を戦場に近いフランスに戻すことを躊躇し、そのままアメリカ合衆国のニューヨーク近代美術館(MoMA)に保管された[41][36]。1940年から1942年にはピカソの回顧展がシカゴを筆頭にアメリカ合衆国内の10か所で開催され、展示作品には必ずこの絵画が含まれた[41]。
1953年には第二次大戦開戦後初めて絵画がヨーロッパに戻され、ミラノで開催されたピカソの回顧展に出展され、反戦平和のシンボルとして『朝鮮戦争の虐殺』(1951年)とともに並べられた[33]。1954年にはブラジルのサンパウロ近代美術館の回顧展に、1955年夏には18年ぶりにパリに戻って回顧展に出展された[42]。1937年の初公開時とは異なり、回顧展の最重要作品としてパリ市民に称えられた[42]。ピカソ自身は1955年の夏中ずっとニースに滞在しており、このパリでの回顧展の際も、また死去するまでにも再び絵画を間近で見ることはなかった。1955年秋から1956年にはブリュッセルとストックホルムに加え、ドイツのミュンヘン、ケルン、ハンブルクで展示された。ドイツ国民は主題の奥に潜むドイツ空軍を意識することなく、現代アートの傑作として鑑賞した[43]。1957年には再びアメリカ合衆国に戻ると、3か所で展示された後にニューヨーク近代美術館に戻り、1958年以後には幾度もの修復作業がなされた[42]。1968年にはフランコ政権で副首相を務めるルイス・カレーロ・ブランコが美術庁長官に手紙を送り、絵画がスペインの財産であること、スペインへの返還をニューヨーク近代美術館に申し立てるよう求めた[44]。1969年には美術庁長官が絵画のスペインへの返還を求める声明を出し、フランコ自身がそれを望んでいると付け加えた[44]。ニューヨーク近代美術館はピカソの意思を尊重するとし、ピカソ本人は現時点では絵画がニューヨークにとどまること、スペイン人民の自由が確立した時点でスペイン政府に返還することを希望した[44]。1950-1960年代のスペインでは、独裁政権に対する抵抗の印としてこの絵画の複製を飾る家庭が多く、バスク地方ではそれが特に顕著だった[45]。
1960年代後半のアメリカ合衆国でベトナム戦争参戦が誤りだったという論調が趨勢を占めると、改めてこの絵画の様式が注目されるようになり、反戦のシンボルとしてデモなどに使用された[46]。アメリカ軍によるベトナムでの残虐な軍事行動が報じられると、一部の美術家や著作家たちは自国が絵画を手元に置いておく権利がないと考え、1967年には約400人の美術家・著作家が、1970年には256人の美術家・著作家がピカソに対して絵画の撤去を要請する運動を行った[46][33]。1973年4月8日、ピカソはフランスのムージャンにある自宅で死去した。1974年2月にはアーティストのトニー・シャフラジが赤色のスプレー缶で落書きを行う事件が起こり、これ以後の展示中は常に絵画のそばに監視員が配備された[47]。
スペインへの返還[編集]
1975年11月20日にフランコが死去し、フアン・カルロス1世が国王に就任して民主化への移行期を迎えると、絵画のスペイン返還を求める声が高まった[48]。1977年には民主化後初の総選挙が行われ、その後成立したスペイン国会では絵画の返還を求める決議案が可決された[48][49]。1978年、スペイン・アメリカ合衆国の両国政府は絵画がスペインに移送されるべきであるという判断を発表し、スペインではピカソが名誉館長を務めたマドリードの国立プラド美術館、絵画の主題の対象地となったゲルニカ、ピカソの出生地のマラガ、ピカソが青年時代を過ごしたバルセロナなどが絵画の受け入れ先に手を挙げた[48][49]。マドリード、マラガ、ゲルニカの各市長とバルセロナのピカソ美術館館長をゲストに行われたテレビの討論番組では、絵画の受け入れ先をめぐって白熱した議論が繰り広げられた[50]。
政治状況の不安定さに加え、遺産相続者間の係争も問題だったが、1981年にはようやく絵画のスペイン返還が決定した[50]。特にバスク地方ではこの絵画をバスクの受難と解放のシンボルとみなし[51]、バスク自治州は熱心に絵画の展示を希望したが、9月10日にマドリードのプラド美術館別館(カソン・デル・ブエン・レティーロ)に運び込まれた[50]。スペインでこの絵画は「故国の土を踏んだ最後の亡命者」とされており[52]、もっとも保守的でフランコ独裁政権との親和性が強かったABC紙でさえも、社説で同様の論調を示した[53]。西側諸国では絵画のスペイン帰還が大きく報じられ、日本では朝日新聞が5段抜きの見出しでもっとも大きく取り上げた[53]。絵画の搬入に合わせ、別館は温度・湿度管理装置、爆発物検知装置、ラジオとテレビによる監視システムなど、様々なテロ対策設備が加えられ[54][51]、さらに直接攻撃を防ぐために絵画は防弾ガラスで覆われた[55]。絵画は展示室の中にある密封状態に近い小部屋に設置され、磁気読み取りの保安カードを持った人間のみが小部屋に入ることができた[54]。プラド美術館のホセ・マヌエル・ピタ・アンドラーデ館長は本館での展示を希望していたため、スペイン政府がこのような形態での保管を支持したことに不満を示し、ただちに館長を辞任した[56]。10月25日、ピカソの生誕100周年記念日に一般公開され[53]、45枚の習作すべてもプラド美術館で展示された[1]。
ソフィア王妃芸術センターでの展示[編集]
1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、絵画はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された[56]。10年間絵画を保管してきたプラド美術館のフェリペ・ガリン館長は、「この絵画はたいへん重要な作品だが、プラド美術館の歴史的なコレクションとは必ずしも馴染まない」と語った[56]。10年前に絵画の受け入れを希望したバスク地方はこのマドリード市内での移動に不満を示した[56]。プラド美術館でもソフィア王妃芸術センターでも絵画の破壊行為が起こったことはなく、1995年には防弾ガラスが取り除かれた[57]。同時に展示室内から展示室の側壁に移されたため、鑑賞者が正面から絵画全体を観ることはできなくなったが、展示室内に鑑賞者があふれて身動きが取れなくなることは避けられた[57]。絵画の両脇には非武装の警備員が配備されているが、絵画まで4mの距離まで近づくことができる[57]。1992年の開館当初のソフィア王妃芸術センターは、この絵画を除けば凡庸なコレクションであるとされたが[56]、1997年にはプラド美術館の入館者数を上回り、スペインでもっとも入館者数の多い美術館となった[57]。
1992年にはバルセロナオリンピックに合わせた文化行事のためにバルセロナが、1995年には第二次世界大戦終戦50周年にちなんで日本政府が、1996年にはピカソの大回顧展を開催するフランス政府が、1997年にはゲルニカに近いビルバオに開館したビルバオ・グッゲンハイム美術館が、2000年には数十年に渡って絵画を管理していたニューヨーク近代美術館が絵画の貸与を希望したが、ソフィア王妃芸術センターはすべての打診を拒否した[55]。1995年から1996年にかけて、日本の京都国立近代美術館と東武美術館で「ピカソ、愛と苦悩 -『ゲルニカ』への道」と題したピカソ展が行われた[53]。この絵画に関連する「闘牛」「磔刑」「ミノタウロス」「女」「アトリエ」の5本柱で構成され、この絵画に関しては原寸大のポラロイド写真複製が展示された[53]。1997年10月、グッゲンハイム美術館開館記念式典にフアン・カルロス1世国王夫妻が来賓した折、建物を設計したアメリカ人建築家のフランク・ゲーリーは、絵画が本来あるべき場所がグッゲンハイム美術館であることを国王夫妻に示唆した[55]。
作品[編集]
画面構成[編集]
パリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画を意図して製作されたこともあり、絵画は縦349cm×横777cmの横長の大作である[31]。キャンバスに工業用絵具ペンキで描かれ、ペンキは油絵具よりも乾きが速く作業効率が高いため、1か月弱と大作にしては短期間で描ききることができた。ペンキの使用は後に傷みの要因となっている。当時の絵画としては珍しくモノクロームで描かれているが、各部分の習作や後のタペストリー作品は彩色が施されている。ピカソはこの絵画の製作と並行して何枚もの習作を描いており、泣き叫ぶ女だけを独立した作品にした『泣く女』という絵がある。第二次世界大戦後、ピカソはこの絵画と同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、そのひとつはニューヨークにある国際連合本部の国際連合安全保障理事会議場前に展示されている。日本の徳島県鳴門市にある大塚国際美術館には絵画の実物大のレプリカが置かれている。
中央に大きな長方形、左右に小さな長方形と、画面は3枚の長方形からなり、中世の教会に飾られた三連祭壇画を連想させる[31]。右側の長方形には3人の女が描かれている。左上の女は灯火を手に窓から身を乗り出し、右の女は燃え盛る家から落下(もしくは爆発によって吹き飛ばされて)しており、左下の女は中央に駆け寄っている[58]。左側の長方形には女と牡牛が描かれている。女は子の屍を抱えて泣き叫んでおり、牡牛は女を守るかのように立っている[58]。中央の長方形には馬と戦士が描かれている。馬は槍で貫かれて頭を上方に突き出し、戦士は折れた剣を握りしめて死んでいる[58]。中央の長方形は大きな三角形で仕切られており、その頂点には女が持つ灯火が配置されている。三角形の左斜線は馬の首元から馬の右脚や戦士の腕で構成され、逆側の斜線は駆け寄る女の身体で構成されている[58]。灯火の左脇には目のような形の光源があり、その左下には上方に羽ばたきながら口を開けている鳥が描かれている[59]。色彩はモノクロームに近いが、無色に近い灰色、紫みがかったり青みがかった灰色など、様々な色合いの灰色が用いられており、光と闇の効果を高めている[59]。要素は単純な形態で描かれ、絵画の普遍的性格を強めている[59]。惨劇の主要な要素は中央の三角形に集められているが、これはギリシア神殿建築を連想させる。
画面全体には中世の三連祭壇画とギリシア神殿建築というふたつの異なる宗教美術の影響を見ることができる[59]。左手のテーブルと右手の扉で屋内を連想させるが、同時に右手の屋根瓦や窓で屋外をも連想させている。また、太陽のような光源で昼を連想させるが、女が持つ灯火で夜をも連想させている[59]。このような設定で時間や空間の超越を表現しており[28][60]、画面構成で明らかになった宗教画的性格をさらに強めている[59]。
解釈[編集]
- 全体の解釈
- ピカソ自身は1940年代初頭に、「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。大衆、観客は、馬と牡牛を自分で解釈できるシンボルとして見ようとしている」と述べたが[61]、1945年には画商のジェローム・セックラーに対して「牡牛はファシズムではなく、残忍性と暗黒である。(中略)馬は人民を表す(中略)『ゲルニカ』の壁画は象徴的、寓意的なものである。だから、わたしは馬や牡牛やその他を使ったのだ」と述べた[33][62]。ピカソは動物たちの象徴性だけは認めたが、その他の要素については多くを語らず、また具体的な意味合いなどを説明することなく世を去った[33]。美術史家の宮下誠は、全体として「キリスト教的黙示録のヴィジョン、死と再生の息詰まるドラマ、ヒューマニズム救済の希求、すべてを見抜く神の眼差し、それでも繰り返される不条理な諍いと死、人間の愚かさと賢明さ、人知を超えた明暗、善悪の葛藤の象徴的表現の最良の結果」を描いているとしている[63]。
- 牡牛
- 現代絵画において、この絵画ほど様々な解釈が示された絵画は稀である[59]。個々の要素が善悪のどちらを表すのかを判断するのは難しく、特に牡牛(ミーノータウロス)は善悪それぞれに解釈されてきた[64]。ギリシア神話の怪物であるミーノータウロスは暴力、好色、平和など様々な象徴であり、ピカソは1935年から1937年にかけてミーノータウロスを集中的に描いている[10]。ピカソは大の闘牛好きであったことから、牡牛をスペインの象徴とする解釈もあり、災厄から遠ざかろうとするピカソ自身であるとする解釈もある[65]。芸術心理学者のルドルフ・アルンハイムは、牡牛の体の向きの変更を「真に天才的な発明」とし、苦悩や悲嘆を画面外に伝える役割を持っているとみなした[26]。アルンハイムは牡牛の尻をイベリア半島の形になぞらえ、スペインを表すシンボルであるとした[26]。しかし、カーラ・ゴットリープ(Carla Gottlieb)はアルンハイムの解釈を批判し、牡牛が女の存在に気づいていないかのように冷淡であることに疑問を呈し、牡牛と馬のシンボル性について問題を提起した[64]。ゴットリープは、無表情で行動を起こさず、惨劇に加わることをしない牡牛を、牡牛のイメージを持ち、かつスペイン内戦に対して不干渉政策を取るフランスの隠喩であるとした[64]。
- 馬、灯火を持つ女、兵士
- 瀕死の馬はゲルニカ爆撃の犠牲者や共和国政府であるとする解釈が一般的であるが、より普遍的には瀕死のヒューマニズムであり、フランコのファシズムの崩壊であるとする研究者もいる[65]。西洋絵画は伝統的に蝋燭や灯火を真理の象徴として描いており、この絵画でも灯火を持つ女は真理を表すことがほぼ確実だが[10]、社会主義の象徴であるとする研究者もいる[65]。ゴットリープは灯火の女が「善、正義および理性を意味する光明の運び手」とし、小さな灯火が共和国軍兵士であると解釈しているが、絵画と現実世界の政治を強く結びつけていることには批判もある[64]。死んだ兵士はファシズムの犠牲となった戦士とみるのが単純だが、スペイン市民の代表とも考えられる[65]。
- 子の屍を抱く女、駆け寄る女、落ちる女
- 子の屍を抱く女はゲルニカ爆撃の被害者であるとされる[64]。子の屍を抱く女は西洋絵画の伝統的主題であるピエタ(磔刑に処されたキリストを抱くマリア)でもあり[12]、その姿勢はピカソが1929年から1932年にかけて描いたマグダラのマリアの姿勢にも似通っている[65]。ニコラ・プッサンなどが書いた伝統的主題である嬰児虐殺の影響を見る研究者もいる[65]。右手から中央に駆け寄る女は、屍を抱く女を慰めようとする何かであるとされている[64]。ソビエト連邦はスペインから遠距離にありながら、即座に共和国政府を支援した唯一の国であり、駆け寄る女はソビエト連邦の隠喩であるとされることが多い[64]。建物から落ちる女はピカソ自身、またイエス・キリストの象徴であるとされる[60]。
- 光源、鳥
- 内部に電球が描かれた光源は神の眼、すべてを明るみに出す証人であるとされる[60]。光源の内部には現代を意識させる唯一の要素である電球が描かれており、現代のテクノロジーと爆撃の惨劇の関連を示唆している可能性がある[59]。資本主義国家またはキリスト教的救済の希望を欠いた世界とする研究者もいる[60]。机の上の鳥は精霊や平和の象徴であるとされる[60]。
影響[編集]
一般の人々以外にも、この絵画は多くの芸術家に影響を与えている。戦後のフランスに起こったアンフォルメルの画家たち、ピエール・スーラージュ、ジョルジュ・マテューなどはこの絵画の規模や多義的な性格に影響を受けたとされている[66]。また、ニューヨーク近代美術館で展示されていた時期には、スチュアート・デイヴィス、ロバート・マザーウェル、アーシル・ゴーキー、ウィレム・デ・クーニング、ジャクソン・ポロックなど、アメリカ合衆国の抽象表現主義画家の多くがこの絵画に影響を受けたとされる[67][12]。
1980年代にはドイツのアンゼルム・キーファーが描いた歴史画、イギリスのギルバート・アンド・ジョージの作品、1990年代にはビル・ヴィオラの三連画などにこの絵画の影響がみられる[66]。2000年代にはドイツのネオ・ラオホなどにもこの絵画の影響が見られるとされる[66]。影響を受けた日本人画家では岡本太郎が代表的だが、藤田嗣治の『アッツ島の玉砕』などにもこの絵画の影響がみられる[66]。