ジョン万次郎の勉強会に参加していたことがある。 色々調べた結果。明治維新で 技術的に 学問的に 貢献した日本人として 誰よりも 万次郎の活躍と貢献が一番 大きかったのではと 思うに至った。改めて 色々映像を見たら その確信を深めた。
学歴の全くない漁師の子供が かくも成長して 大きな仕事をなす。波乱万丈の人生は ずいぶん 勇気をもらったものだ。当初 随分 いじめられた万次郎は 凧揚げを思いついて・・・という話が 好きだ。それからの大躍進は 個人的に見ても、多くのハンディキャップや トラウマに悩む人たちにとっても 一筋の光になるのではと 思う。以前 私の環境行動誌 BLUE EARTH でも取り上げて 書かせて頂いたことがあるが 改めて 意を強くした。 なんだか シドニー・シャルダン、 ジェフリー・アーチャー、 ハロルド・ロビン、 アーサー・ヘイリー、マイケル・クライトンなどの小説の 日本語版を読んでいるような気になった。
Nakahama Manjirō
In this Japanese name, the family name is Nakahama.ジョン万次郎(ジョン まんじろう、文政10年1月1日(1827年1月27日) – 明治31年(1898年)11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての人物。日米和親条約の締結に尽力し、その後通訳・教師などとして活躍した。ジョン・マン(John Mung)とも呼ばれた。本名は中濱 萬次郎(なかはま まんじろう)。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、昭和13年(1938年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたため広まったもので、それ以前には使用されていない。
Nakahama Manjiro (中濱万次郎 , 1827-1898), also known as John Manjiro or John Mung, was a Japanesesailor, educator, and interpreter.
Early life
Manjiro was born in the Naka-no-hama in Tosa Province (now Tosashimizu in Kōchi Prefecture). He was the second son of a poor fisherman. He worked when he was young because his father died and his mother and older brother were sick. Because of this, he did not learn how to read and write very well.
Life in the United States
In 1841, when he was fourteen years old, the fishing boat he worked on ran into a storm and was turned over. He and the people with him were on the ocean for five days. They landed on anisland in the middle of the Pacific Ocean where no people lived. They spent 143 days on that island. An American ship passed by the island and John Manjiro and the others were saved.
At this time, Japan was a closed country. The American ship or any non-Japanese ship could not enter Japan. Also, any Japanese who left Japan were killed by the Japanese government if they returned to Japan. Most of the people saved from the island were taken to Hawaii. The captain of the ship liked John Manjiro and took Manjiro with him. Manjiro saw a map of the worldfor the first time and saw how small Japan was in the world. Manjiro was named “John Mung” by the captain. He was adopted by the captain of the ship and lived with the captain’s family in the United States.
Manjiro learned English, math, measurement, navigation, and shipbuilding at school. He spent all of his time to studying to be a captain. He learned new ideas from the Western world. For example, democracy and equality between men and women.
Return to Japan
帰国後の活躍
帰郷後すぐに、中浜万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。
嘉永6年(1853年)、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、中浜万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は江川英龍の配下となり、軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。 この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが中浜から英語を学んでいる。
安政元年(1854年)、幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。
藩校「教授館」の教授に任命されるが、役職を離れた。理由の1つには、もともと士分でない中浜が、アメリカ人とも臆することなく対等に交友することをやっかむ者が多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは中浜万次郎1人だったため、ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局ペリーの通訳[1]の役目から下ろされてしまったが、実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。
中浜万次郎は幕府が建造した西洋式帆船の君沢形を、西洋式の航海実習も兼ねて捕鯨に使用することを提案し、中浜万次郎が指揮する「君沢形一番」(同型艦は10隻)は安政6年3月(1859年4月)に品川沖を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により船は損傷し、航海は中止となった。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、中浜万次郎は代わって船内の秩序保持に努めた(彼はアメリカ人との対等な交友を日本人船員にそねまれることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)。サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時に同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る
文久元年(1861年)には外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行った。中浜が小笠原付近に知識があり、当時小笠原に住んでいたアメリカ人やイギリス人との面識もあり、通訳もできるために選ばれた。 文久2年、幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命される。翌年には同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行う。江戸に帰航後、再度捕鯨航海を企図するが政情不安のため幕府の許可が下りず、翻訳をしたり、細川潤次郎などの士民に英語の教示を行っている。
慶応2年(1866年)、土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える。また、藩命により後藤象二郎と長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔丸」を購入。
慶応3年(1867年)には、薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授したが、同年12月、武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻った。
明治維新後の明治2年(1869年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。
明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されるが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機した。帰国の途上、アメリカで恩人のホイットフィールドと再会し、身に着けていた日本刀を贈った(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていたが、後に何者かに盗難され行方不明になり、現在はレプリカが展示されている)。更に帰国途上にハワイにも立寄、旧知の人々と再会を果たした。
帰国後に軽い脳溢血を起こし、数ヵ月後には、日常生活に不自由しないほどに回復するが、以後は静かに暮らす。時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。
明治31年(1898年)、72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られており、墓石は東京大空襲で傷ついている。
社会的影響
- 嘉永5年(1852年)、土佐藩の絵師・河田小龍(川田維鶴)により漂流記『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』がまとめられた。
- 坂本龍馬も中浜万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われ、激動の幕末における影の重要人物である。
- アメリカの様々な文物を紹介し、西洋知識を貪欲に吸収しようとしていた幕末の志士や知識人達に多大な影響を与えた。
人物
- 奢ることなく謙虚で、晩年は貧しい人には積極的に施しを行い、役人に咎められても続けていたという。
- 甘いものや、うなぎの蒲焼が好物だったという逸話が残っている。
- 外国の文物を説明する際、鉄道など言葉に置き換えて説明することが難しいものは絵を描いて図解を試みたものの、絵が不得意で幼児並の絵を描くことしか出来ずにずいぶん苦労したようである。
日本初
アメリカとの交流
- 日本にいる中浜万次郎の子孫は、アメリカのホイットフィールド船長の子孫と代々交流を続けている。
- また出身地の土佐清水市はアメリカでの滞在先となったニューベッドフォード、フェアヘーブンの両市と姉妹都市盟約を締結し、現在も街ぐるみでの交流が続けられている。
ジョン万次郎と英語
- ジョン万次郎は、英語を覚えた際に耳で聞こえた発音をそのまま発音しており、現在の英語の発音辞書で教えているものとは大きく異なっている。中浜万次郎が後に記述した英語辞典の発音法の一例を挙げると、「こーる」=「cool」・「わら」=「water」・「さんれぃ」=「Sunday」・「にゅうよぅ」=「New York」など[2]。実際に現在の英米人に中浜万次郎の発音通りに話すと、多少早口の英語に聞こえるが、正しい発音に近似しており十分意味が通じるという実験結果もあり、万次郎の記した英語辞書の発音法を参考に、日本人にも発音しやすい英語として教えている英会話教室もある。
- 中浜万次郎は武士階級ではなく漁民であり、少年期に漢文などの基本的な学識を身に付ける機会を得ずに米国に渡ったため、口語の通訳としては有能だったが、文章化された英語を日本語(文語)に訳することが不得手だったとされる。そのため西洋の体系的知識を日本に移入することが求められた明治以降は能力を発揮する機会に恵まれなかった。
- 晩年にアメリカ時代の友人が訪ねてきたが、既に英語が話せなくなっていたといわれる。
著名な家族
著書 『英米対話捷径』 日本最初の本格的英会話教本とされ、全213の日常会話対訳を掲載。1859年刊。 伝記・関連作品
Manjiro returned to Hawaii and bought a boat. He and his friends from the fishing boat started to sail back to Japan in December of 1850. Japan was still a closed country. Because of this, he was investigated by the Shogunate (the rulers of Japan) for a long time.
IN 1851, Manjiro return to his village in Japan.
Around this time, Shimazu Nariakira, a historical person in Japan, was interested in English and shipbuilding. John Manjiro began working as an English teacher. He had a strong friendship with many statesmen. He was even asked to be a statesman himself.
In 1853-1854, Manjiro was the interpreter for Matthew C. Perry when the Americans first came to Japan.
In his later years, Manjiro visited American friends. By then, he could not speak English very well any more. He died in 1898 at the age of 71 years old.
The Name, “John Manjiro”
John Manjiro was actually born as Nakahama Manjiro (Manjiro is a Japanese first name). The name “John” comes from the name of the ship he was saved by when on the island in 1841. The name of the ship was “John Howland.” The captain gave Manjiro this name. In 1938, Ibuse Masuji, a Japanese writer, first used the name “John Manjiro.” From this book came the name of “John Manjiro.”
John Manjiro’s English
Manjiro had problems translating because he was not good at translating English sentences. This was because he had not learned basic grammar when he was young. He was used as interpreter when Commodore Perry came in 1863. Manjiro pronounced English just as he heard it. His pronunciation was different from present-day English. Japanese based their pronunciation of English at the time on Manjiro’s pronunciation. They were able to be understood by Americans and English people.
The John Manjiro Musical
There is a musical about Manjiro in Japan. It is called The Dream of John Manjiro. It was first done in June, 1974.
Trivia
John Manjiro was the first Japanese man to set foot on the contintental United States, to take a train, to ride a steamship, and to wear a necktie. John Manjiro talked about world views with Ryoma Sakamoto, a famous Japanese statesman and general.
2010-09-13 John Gill Regarding John Manjiro
At the September San Jose-Okayama Sister City public meeting, President John Gill discusses attending the 150th anniversary celebration closing event. The celebration acknowledged the first official Japanese visit to America and other significant events between the two countires.
This is the amazing story of the fisherman Manjiro who visited as one of the first Japanese America
Manjiro Nakahama, aka John Mung – the most Japanese themed fountain pen ink of all time
Nothing But An Island: John Manjiro’s California Gold Rush adventure
Proof book! Nothing But An Island on Kickstarter: John Manjiro
ジョン万次郎 (中浜万次郎:なかはままんじろう) |
(1827~1898) 土佐の貧しい漁師の子。1841年、14歳の時漁の手伝いで船で海に出たところ遭難し数日間の漂流の末、無人島鳥島に漂着。およそ5ヶ月間のサバイバル生活を続けていたところ、偶然通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救われた。しかし日本は鎖国中だったため帰国は出来ず、仲間はハワイで降ろされたが、一番若く向学心があった万次郎はホイットフィールド船長に気に入られ、そのままアメリカ本土に渡った。万次郎は船長の養子となってマサチューセッツ州フェアヘブンの屋敷に一緒に暮らし、約3年の間、学校で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学んだ。その後捕鯨船「フランクリン号」に乗りこんで3年間働く。帰国を目指してゴールドラッシュで沸くカリフォルニアで金鉱を掘り、大金を得て船を購入。1851年2月、ハワイに寄港して2人の仲間と再会し共に琉球に上陸。しかし厳しい鎖国の時代にあって、薩摩、長崎へと護送されて牢で取り調べを受け、翌年の夏ようやく土佐へ帰郷した。土佐で万次郎は藩主より名字帯刀を許され、出身地の中浜をとって中浜万次郎を名のることになる。その後ペリー来日時に幕府に呼び出され通訳として活躍。江川太郎左衛門の下で造船や翻訳の仕事に就いた。が、また幕府に万延遣米使節に通訳として雇われ再びアメリカに渡った。この時に恩人ホイットフィールドと再会し、身に着けていた日本刀を贈っている。明治維新後も開成学校の英語教授や1870年には普仏戦争視察団として欧州へ派遣されるなどの活躍をした。 |
井伏鱒二著 『ジョン万次郎漂流記 (偕成社文庫)』ウエルカム ジョン万の会著 『ジョン万次郎物語―THE STORY OF JOHN MUNG』童門冬二著 『ジョン万次郎 (人物文庫)』星亮一著 『ジョン万次郎―日本を開国に導いた陰の主役 (PHP文庫)』直系4代目の著者による伝記『中浜万次郎―「アメリカ」を初めて伝えた日本人』マーギー・プロイス著 『ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂』 |