1968年早稲田大学(政経学部経済学科)を卒業。〇〇造船会社に入り、大阪堺工場で3年半研修を受けた。22万トン級の巨大タンカー建造主任補佐をやっていた。その後東京営業本部に慶應義塾卒の同期と一緒に移動。堺工場にいた時は順風満帆だったが営業本部は余りにも優秀な先輩諸氏とおまけに慶應義塾の同期は財閥の御曹司、子供の頃から英才教育、自宅に著名人が押し掛ける家庭で雲泥の差があった。英語力も抜群だった。この会社の英検1級はもっていたが全く歯が立たない。
徐々に自信を失い鬱になり、目の下をピクピクさせながら、おどおどしていた。そんな時に森本〇〇部長から「ヤマゲン、これからノルウェーオスロ事務所に2か月行って来い、かき回して来い!」と命じられた。オスロは設立以来10年1隻の受注もなく いわば姨捨山だった。5代目の所長がフォルネービュ飛行場で待っていた。お土産を渡そうとすると、何しに来たんや!?と恫喝。こんなんで人の歓心を取ろうとするのか! 叩き込んできた。ビグドイ通りのオフィスに向かった。このお土産は部長からのお土産なので受け取ってくださいとビクビクしながらお願いした。
オスロにはヴィゲラント公園(石の彫刻の森)があった。どうやって生きて行けばいいのだろう。繰り返し唱えながら公園の中を歩き回った。根本的に自分自身変わらねば生きて行けないと思った。そうか自分の性格を変えないと無理。じゃあ性格も変えちまおう!これまでは人との対面でいつも5~6歩引き下がって逃げていた。これからは 2~3歩でも前に進もう!そう決意した。
目の下のピクピクは収まって行った。マーケット開拓も快活にやってやろう!1年後には受注額が1000億円を超えた。日立造船の毎年の売上が3000億円だったので 毎年3分の1。利益率は オスロオフィスが110億円 これを6年間続けることが出来た。日立造船は造船会を席巻し「超優良企業」となった。他の造船所の受注はほぼゼロに。会社の技術部門が熱心な応援団になってくれ、受注合戦には特にトップのメイン技術者を送ってくれた。
交渉時は、皆さん明るく元気にニコニコしながら振舞ってくれたので 船会社も思わず明るく前向きに対応してくれ、会話は弾んだ。圧倒的なシェアを取れたのも この明るさと元気さだった。それに船会社が明るく反応してくれた。私たちはとてもラッキーだった。お互いに健全で明るさのなかで どんどん成約して行けた。楽しい想い出ばかり。ノルウェーには家族と一緒に1968年から1974年まで、その後インドに 1982年から1988年まで単身で12回、通ったことになる。ノルウェー(ノルウェー語)インドでは片言のヒンズー語をホテルのフロント係やタクシーの運転手から学んだ。 良き時代で今でも熱く思い出し 思わず微笑んでしまう。あ~しあわせ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~