山元雅信の軌跡と奇跡。それはオスロから始まった。20230123

山元雅信の軌跡と奇跡は、31歳の時、「ノルウェー・オスロ事務所」に半年行って来い                            と言われて始まった。着任してから「寂しい寂しい」と連発したら、上司「森本保男部長」                         が粋な計らいで、半年過ぎた時に家族をオスロに送ってくれた。今思い出しても感謝しかない。
14人、室内の画像のようです
水を得た魚のように、明るく元気に振舞って、2か月経ったら「船会社27社」と                                   「ブローカー6社」の社長さん全員と仲良くなった。御用聞きで 船会社の船に                                    載せる貨物の獲得のマーケティングを手伝った。大きな成果を(15億円~30億円)                                船会社にもたらした。 だが、どんなに成果を挙げても社長以下取締役も参加して                              「正式なディナー」を何度もご馳走になったが、日立造船に新造船建造の                                                 注文が来ない。
種々考えて「奥の手」を考えた。(宮本武蔵ならどうするか?)                                       答えを見つけた。「秘策」を考え実施したら、なんと新造船の建造受注が                                  ばんばん取れるようになった。 さて その秘策とは・・・・。
1年間の受注金額は1100億円(純利益110億円)マーケットシェアは                                            世界の85%ぐらい取れたと思う。 滞在が3年目を迎えるころ                                        「北海油田」が見つかり「海上石油掘削プラットフォーム」                                             通称「リグ」が建造されるようになり、早速「リグのオーナー」を                                              訪ねて、建造実績ゼロだったが、オーナーと交渉して一基目を受注、                                          その後もジャッキアップリグや半潜水型リグの受注も、船の受注と                                         合わせて合計1100億円(純利益110億円)を6年間続けた。
受注の仕組みは、誰も考えなかったようで、                                                              「6年間」続けることが出来た。私が帰国した後も何年か続いた。
日立操船は超優良企業となった。奇跡は起きた。                                                      「神話・伝説になった」と自負。

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日本に帰国すると、なんと「誰でも注文とれるところにいて、楽しんだのだから、                               今度は「インド」に行けと、出張ベースだけど5年近く通った。
インドはマーケットがどん底になり「買い手市場」の時しか、国際入札をしない。                             当時インドは、Bombay High (ボンベイハイ)で石油がやはり見つかり                                             「海上掘削リグ」の需要が高まった。
国際入札であったが やはり当時マーケットの85%は日立造船が独占で来た。                                          北海油田のパイオニアと言われるようになった。 神話は続く。
18人、立っている人の画像のようです
写真左下がインド石油公社「ONGC」責任者ミッタルさん                                        写真下から2段目中央 国際展示会の会社(当時カーナーズ)                                __________________________________________
インドに通っている頃、日立造船は他の造船所と同じく、                                              「残業カット」「ボーナスカット」が当たり前になった。それで無くとも                                        造船所の給与レベルは電機業界の30%ぐらい安い。当時の私の年収は450万円、                                私立の大学や高校に通う3人の娘たちの学費だけでも「600万円」でもう造船会                                     には居られなくなった。日立造船のヒューストン事務所の所長を示唆されたけど、                              以前のように現地手当で3倍の給与を貰っていたが、それは無理だという。
仕方なく不況と年齢制限で企業の募集広告は「35歳まで」と書いてあったが、                                          27社勝手に押しかけ面談・試験を繰り返し、結局23社受かった。                                                       こうなると「売り手市場」と一緒だ。                                                 勝手に年収を各社がどんどん繰り返し挙げてくれ、ヘッドハントに変わったようで、                                           300万円~1000万円上乗せしてくれる企業も現れた。                                                                結局ほぼ1000万円の展示会の会社に入ることにした。
国際展示会を新規に打ち上げて欲しい。それも眼鏡業界でという。ちょっと                                            調べたら「眼鏡業界全体の売上を4倍に出来る」と確信した。業界に話したら、                                          「山元さん何を寝言を」という。マイナーな産業でレッドオーシャンだと                                                   業界の人たちが「異口同音」ありえないという。
仕方ないので勝手に12か国に行き、国際眼鏡展(IOFT)記者会見をやって、                                          なんと127社から仮予約を取った意気揚々と帰国。業界の人たちにどうしますか?                                   と迫った。IOFT開催後 眼鏡業界全体の売上は約束どおり「4倍」となった。
今度は宝飾業界の展示会を打上げて欲しいと直後に頼まれた。                                                       眼鏡の世界と宝飾業界は連携している。メディアから今度は何倍にするのか?と                                      聞かれ、4倍の後は「5倍にする」とつい調子に乗って答えた。
言ったとたんに「奇策を思いついた」約束通り「5倍に出来た」、この後も仕事を続                                           「国際文具紙製品展ISOT」「ブックフェア」「インターナショナル・サロン・ド・東京」                                   「国際電子出版展」「超電導国際展」など14本打上げる。初回より7社がアジア最大。
次にヘッドハントされたのは、当時勃興中のゲーム産業で㈱セガ・エンタープライズ。                                            中山隼雄社長との最終面接で、「売上を4倍、5倍、10倍にします宣言」                                                 初めの役職は「海外国内サードパーティ」責任者。2年で25億円の売上げを、                                                    235億円にした。次に北米の責任者になった。                                                               1年間でマーケットシェア37%を63%にした。645億円を1645億円にした。                                      
北米を制覇したら、もうこのゲーム業界はオーバー。やめようと決意。
                                                                      次の会社はやはり展示会の会社で、1800万円でヘッドハント、支度金も1000万円                                       頂くことになった。この会社の国際展示会は成長して、当時ビッグサイトで全館使用                                              となった。3年半務めた。その後1998年独立して、今日に至る。
独立後は JALのJALアカデミー国際顧問、㈱人間と科学の研究所会長(生体センサー)                          (飛岡健社長)など20~30社の特別顧問などの特別顧問をしてきた。                                               またリーマンショック2008年の翌年2009年18ケ国の大使たちが相談あるのでと訪ねて来た。                                        東大生たちと一緒にAfrica Empowerment Forumを4回開催。                                                        途中アジア7ケ国の大使が訪ねてきて Asia Empowerment Forumを2回開催。                                                
ボランティア活動も活発化して各国大使の対談番組を2つ実行 140ケ国の大使や                                            アパグループ創設者元谷外志雄さまと大使、大統領、国王との対談を重ねた。                                                  現在の肩書は次の名刺の通りです。

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