カンボジアの現在は どうなっているのか?今朝の日本道でカンボジアのお話を聴かせて頂いた。もう10年以上前になるが カンボジア大使に山元学校でお話をして頂いたことがある。カンボジアは 国民の3分の1が 1956年から3年間で 300万人(170万人?)の人々が虐殺された。学校は全て崩壊、国も崩壊し、まだまだ回復途上にある。
当時 ご年配の大使から、教育が無くなったので すべてが困窮しているとお聴きした。出来ることは少しでもやろうと メンバーと、地雷撤去を支援したり、フォーラム・イベントに積極的に参加。カンボジア大使をはじめアジアの大使たちとの対談の雑誌も出版していた。まだ、どこかに2,3冊あるはずだ。
カンボジアの一昔前の歴史が信じられない、有り得ない話の連続で唖然とするが、このようなことが起きて良いはずがない。だが、戦争は今でも何処かで、激しさを増している。人間の業なのかも知れない。このような陰湿な虐殺や浄化が行われることもあることも認識しなければと思う。歴史から学なぶことの大切さを痛感する。
カンボジアでは、今でも友人が何人も 何年も前から学校を建てたり、孤児たちを救い育て、若い女の子たちを過酷な状況や疾病から救い。雑貨を一緒に作ったりしている。時折友人たちのサイトを見るが、胸が熱くなる。現地の人たちは、意外と明るく元気なので笑顔が見れる。ほっとする。ところで もう一度、何が出来るか考えよう。まだまだ温かい手が必要なんだと思うので。
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111. 虐殺・拷問・強制労働… ポル・ポト政権崩壊から40年
プノンペン=鈴木暁子
建設中のビルを望むスタジアムで、聴衆に笑顔を見せるフン・セン首相(左)とヘン・サムリン下院議長=プノンペン、鈴木暁子撮影
約170万人の虐殺に関わったカンボジアのポル・ポト政権が崩壊して7日で40年がたった。プノンペンで開かれた記念式典では、フン・セン首相が平和と発展をもたらした現政権の貢献を強調。節目の年を自らの権威づけに利用する意図がにじんだ。
フン・セン氏はヘン・サムリン下院議長と黒いベンツのオープンカーに乗り、会場のオリンピックスタジアムで約6万人の観衆を前に手を振った。「キリングフィールド(虐殺の地)だったカンボジアは、民主的な選挙ができる自由で公平な国になった」。フン・セン氏は年7%前後の経済成長や観光客の増加など、自身が首相を務める30年以上の間にカンボジアが手にした成果を訴えた。会場で行われたパレードには、フン・セン氏らの顔写真や日本政府の支援で建設した橋、中国企業の工業団地など、発展を象徴する写真を掲げた山車も登場した。
ポル・ポト派は1975年に実権を握り、極端な共産主義思想のもと、都市の住民らを農村に強制移住させ、強制労働や拷問、虐殺を繰り返した。病気や餓死を含め人口の2~3割にあたる約170万人が犠牲になったとされる。
もともとポル・ポト派の一員だったフン・セン氏らはベトナムに亡命。78年12月にベトナム軍がカンボジアに侵攻し、79年1月に同政権は崩壊した。その後も元幹部らが率いる武装勢力が争いの種になってきたが、フン・セン氏は対話によってこの問題を解決したと強調。昨年12月には多額の費用をかけて、その記念碑をプノンペン市内に建設した。
フン・セン氏は7日、「カンボジアの平和を踏みにじろうとする者には断固として立ち向かう」と述べ、対抗勢力を「平和を脅かす存在」のように位置づけて警戒を呼びかけた。40年たった今も、ポル・ポト政権時代の記憶は人々に生々しい傷を残す。ドゥオン・サボンさん
(62)は、同政権下で兄や妹ら十数人の家族を失った。コンポンチャム州のゴム農園で強制労働に従事した20歳のとき、作業のリーダー格だった60代の男性3人が、ある日突然、「古い思想を持っている」と批判され、殺害されたことが忘れられない。「今も宗教の違いなどで憎しみ合う人がいる。相手を排除してはいけないということが、私たちが得た教訓だと信じている」と話した。(プノンペン=鈴木暁子)
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222.【実話】死刑が好きで300万人を処刑…世界一残虐な首相をマンガにした。
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333. 池上彰の現代史講義 第08回 「カンボジアの悲劇」
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444.【日本語字幕】ポル・ポト 最後のインタビューと死 – The last interview with Pol Pot
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555. ポル=ポト/ポル=ポト政権
1976年から1979年までカンボジアを支配した、ポル=ポトを指導者とする急進的な共産主義政権。ポル=ポト派は赤色クメール(クメール=ルージュ)と同義である。国名は「民主カンプチア」とした。
ポル=ポトとは
ポル=ポト Pol Pot はゲリラ名で、本名はサロト=サルという。その生涯は謎に包まれている。1925年、フランス保護国時代のカンボジア中部、コンポントム州の貧しい農家に生まれ、建築専門学校で学んだ。45年、日本軍が去った後のカンボジアでフランスからの独立運動が激しくなり、サロト=サルも政治活動に参加した。しかしシハヌーク国王はフランスとの妥協の道を探り、独立派を弾圧した。失望した学生指導者たちはカンボジア政府からの奨学金でパリに留学する道を選んだ。
ポル=ポト政権樹立
1975年4月17日、ポル=ポト派はついに首都プノンペンを制圧し、ロン=ノル政権を倒した。これは4月30日のサイゴン陥落に先立っており、ポル=ポト派はベトナムより先に革命を達成したことを誇った。ポル=ポト派は実権を握ったが、国家元首には国民に一定の人気のあるシハヌークをかつぎ、ポル=ポトは首相となった。
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しかし、シハヌークにはまもなく自宅軟禁状態にされ、ポル=ポト派の独裁政治が開始される。国号は翌76年、民主カンプチアとされた。
ポル=ポト政権の人権抑圧
1975年4月17日のポル=ポト派による解放をプノンペン市民は大いに歓迎した。しかし、ポル=ポト派が翌日出した命令は、すべての市民に対する市街退去命令であった。
ポル=ポト政権の虐殺
特にロン=ノル政権やシハヌーク派の官僚、教員やマスコミ関係者など知識人がまず標的にされたが、彼らに留まらず、プノンペンなどの都市住民の多数が農村に送られ、集団農場での労働に従事させられた。
また移住に抵抗したものは強制収容所に送られ、社会的に不用なものとして次々と殺害された。ポル=ポト時代の虐殺の犠牲者数は正確な数字は判らないが、ある推計では3年9ヶ月で100万~170万という犠牲者が出たと言われている。
虐殺のための収容所
(引用)そうした“拷問センター”の一つがプノンペンのトゥルスレン刑務所だった。高校の校舎を改造したこの刑務所には、記録が残っている二年八ヶ月間だけで約二万人が投獄され、電気ショック、ムチ打ち、水責め、宙づり、生づめはがしなどの拷問を受けた。
女性の場合は全裸でベッドに縛り付けたうえ、真っ赤に焼いたペンチで乳首をつまんだり、毒サソリを体にはわせるというった性的な拷問も加えられた。<冨山泰『カンボジア戦記』1992 中公新書 p.35>
これらのことは当時は外部に報道されること無く、世界に知られることはなかったが、ベトナム軍が侵攻し79年にポル=ポト政権が崩壊してから、その実態が知られるようになった。
トゥルスレン刑務所跡も公開され、たくさんの犠牲者の写真、そしてなぜか看守たち(その中には少年看守も多かった)の写真が展示されているという。また映画『キリングフィールド』はその状況を描き、世界に衝撃を与えた作品である。
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ポル=ポト政権の外交
ポル=ポト政権は資本主義自由経済を否定したので、外国との貿易には不熱心であり、政治的にも経済的にも独立独歩の姿勢を崩さなかった。外交では親中国の立場をとり、中国もポル=ポト政権を公認した。
また日本などの諸国も、ロン=ノル軍事政権を倒して成立した民主的な政権ととらえて、またソ連の影響力の強いベトナムに対する牽制策もあって、当初はポル=ポト政権を積極的に認め、外交関係を結んでいった。
ベトナム軍の侵攻
しかし、隣接するベトナム、及びそれを支援するソ連との関係は悪化していった。カンボジアにはメコンデルタ地帯をかつてベトナムに奪われたという思いがあり、またベトナム戦争中の協力に対してその後のベトナムが依然としてカンボジアに影響力を残そうとしていることに不満を抱いていた。
1977年、ベトナムのタイニン省の領有を主張するカンボジアは東部国境軍を越境させ、両国の国境紛争は深刻化した。
しかしポル=ポト政権のこの強硬策はカンボジア軍内部にも動揺をもたらし、ポル=ポト政府軍の幹部であったヘン=サムリンやフン=センはカンボジアから脱出してベトナムに亡命した。
ヘン=サムリン政権下でのポル=ポト派
1979年初頭、ベトナム軍に支援されたヘン=サムリン政権が成立すると、中国はただちにベトナムに対する武力攻撃に踏み切り、中越戦争となった。
幽閉されていたプノンペンから脱出したシハヌークは、北京から共産勢力のポル=ポト派と共和派のソン=サンに反ベトナム・反ヘン=サムリンでの共闘を呼びかけた。
1982年にはシアヌーク派、ポル=ポト派、ソン=サン派の三派連合政府が樹立され、内戦はさらに続いたが、この三派はもともと水と油であり、実体はなかった。
しかし、ヘン=サムリン政権がベトナムとソ連に支援されていたため、三派連合政府は中国とアメリカ、およびASEAN諸国が支援するという複雑な図式が出来上がった。
和平機運とポル=ポト派
カンボジア内戦の第二局面は一進一退を続けたが、80年代後半に転機が訪れた。1986年、ベトナムがソ連のゴルバチョフのペレストロイカに触発されて、経済改革をめざすドイモイ路線に転換した。
それはベトナムにとって負担になっていたカンボジアのヘン=サムリン政権への軍事的・経済的支援を打ち切るという方針転換に結びつく。またシハヌークは三派連合政府でのポル=ポト派との体質の違いに嫌気がさし、ヘン=サムリン政権に接近するようになった。
カンボジア和平協定の成立
1989年の東西冷戦の終結は、カンボジア和平に決定的な影響を与え、1991年10月、パリでカンボジア和平協定が調印された。和平交渉では、ポル=ポト派の扱いが最もするどい対立点となったが、最終的にはポル=ポト派も合意するという形で決着した。
同意事項には各派の兵力の削減もあったが、ポル=ポト派は守らず、なおもタイ国境付近でゲリラ活動を続けた。しかし、ASEAN諸国などの国際世論は和平実現を後押ししたため、あくまで実力での解決を主張したポル=ポト派は次第に孤立し、中国からの支援もなくなり、戦闘力は急速に低下した。
ポル=ポト派の消滅
カンボジアをめぐる国際情勢の変化について行けなかったポル=ポト派はジャングルの中で孤立し、脱落する党員が続出していった。96年にはポル=ポト派実力者と目されていたイエン=サリが離脱、シハヌークから恩赦を与えられた。
翌年には猜疑心に駆られたポル=ポトは、和平を主張したソン=セン一家を虐殺、かえってそれが反発を受け、参謀総長タ=モクによって拘束され、失脚するという事件が起こった。ポル=ポトは98年4月に病死したとされるが、その死因には不審な点が多い。さらに同年、ヌオン=チアとキュー=サンファンが投降、99年には参謀総長タ=モクも投降して、ポル=ポト派は消滅した。<このあたり、山田寛『ポル=ポト<革命>史』2004 講談社選書メティエ などによる>
Episode ポル=ポトの死
1998年、ポル=ポトはジャングルで死んだ。死因は心臓発作と伝えられたが、奇妙なことに普段はもう真っ白だったポル=ポトの髪が真っ黒になっていた。変装してタイに逃亡するため、妻に髪を染めさせていたところ、小屋の近くに政府軍の発射した砲弾が落下し、ショックで死んだのだ、というった情報も流れた。
2002年にタイの軍部が言明したことによると検死結果によれば毒殺されたか,服毒自殺したに違いない、という。ポル=ポトに黙って死んでもらい、すべてをその責任にしたいと他の幹部が考えたのか、遺体は死の翌日、あっというまに火葬にされてしまった。<山田寛『ポル=ポト<革命>史』2004 講談社選書メティエ p.176-177>
ポル=ポト派裁判
2003年、ポル=ポト派幹部を裁く特別法廷が開催することが決まった。裁判のありかたをめぐって紛糾したが、特別法廷は国際法廷ではなく「国連が支援するカンボジアの国内法廷」という形をとって開廷されることで決着がついた。その間、2004年にはシハヌーク国王が退位した。またポル=ポト死後の最高実力者と見なされていたタ=モク参謀総長も病死、裁判は時間との競争になった。
ようやく2007年、当局は旧ポル=ポト派の主要メンバーの五人の生き残り、ヌオン=チア元人民代表会議議長、イエン=サリ元副首相、キュー=サンファン元国家幹部会議長、イエン=チリト元社会問題相(イエン=サリ夫人)、カン=ケ=イウ政治犯収容所長を逮捕し、起訴した。大量虐殺に直接かかわったとされる政治犯収容所長の裁判が分離して行われ、終身刑が確定した。
2010年9月にヌオン=チア以下の4幹部に大量虐殺や人道の罪で起訴されたが、被告の高齢化などで審理は進んでいない。
特別法廷は、国際法廷ではなく、被告をポル=ポト派5名に限定し、対象期間もポル=ポト政権の3年8ヶ月の範囲だけとすることによって、カンボジア内乱の全過程に直接、間接に関わった外国の責任は問われることなく終わるであろう
。<舟越美夏『人はなぜ人を殺したのか ポル=ポト派かたる』2013 毎日新聞社 p.14-18,p202>
ポル=ポト派の弁明
ポル=ポト派のメンバーは今、自分たちが行ったことをどう“総括”しているのだろうか。肝心ののポル=ポトの発言を聞くことはできなくなってしまったが、特別法廷を控えて弁明の機会を待つ被告たちに直接インタビューを試みたジャーナリストの伝える彼らの発言のいくつかを拾ってみよう。
・ナンバー2であったヌオン=チア ……私たちは力を尽くした
「カンボジアの真の独立こそが、私の目的だった。だが、われわれの統治機関(3年8ヶ月)は短く、経済計画を成し遂げられなかった。このことについては申し訳ないと思っているし、敵のために多くの人が死んだことは残念だ。だが、カンボジアの真の独立を守るため私は力を尽くした。私は間違っていなかった。われわれは正しかったのだ。われわれが革命を成功させたのは、多くの人が支持したからに他ならない。」<p.27>
・イエン=サリ(ポル=ポトの義弟。外交責任者)……私たちは有頂天だった
「われわれは有頂天になっていたんだ。ロン=ノル政権を倒し、その後ろ盾だった世界最強の米軍に勝ったのだとね。自信過剰になって、世界の誰にもできなかったことでも実現可能なのだと思うようになってしまった。誰の忠告も聞き入れなくなった。結局、それが敗北につながったんだ。」<p.59>
・キュー=サンファン(元国家幹部会議長)……私のような知識人は・・・
「私は知識人として、民主カンプチア政権時代の前も後も、人々から尊敬されてきた。それはカンボジアの人に聞いてもらえば分かることだ。・・・(インタビューに答えて)」<p.73>
「私には、重要な決定をする権限はまったくありませんでした。私は最近まで、虐殺や強制移住についての決定がいつなされたのか、まったく知りませんでした。・・・私は実際に起こっていることも把握できない愚か者でした。それは私の誤りです。(後に出された公開書簡で)」<p.86-88>
このように、責任逃れの弁明がほとんどであった。そのほかこの書は、ポル=ポトの秘書やヌオン=チアの妻、ポル=ポト派に家族を虐殺された通信社の同僚チャン=クリスナーなどからの聞き取りをもとに、興味深いポル=ポト政権分析の書となっている。<舟越美夏『人はなぜ人を殺したのか ポル=ポト派かたる』2013 毎日新聞社>
以上。