もう一度学んでみよう。五徳。190508

五徳とは。もう一度学んでみよう。

儒教の教えに『五徳』と呼ばれる言葉がある。

【五徳】

① 仁徳

心の優しさ。愛情。人を思いやる心。慈しみの心。

② 義徳

人助けの心。正義を貫く心。人道に従うこと、道理にかなうこと。
③ 礼徳

礼儀ただしさ。敬意を表す心。儀式、礼儀、作法、礼節。

④ 智徳

自ら学ぶ力。正しい判断を下せる能力。

⑤ 信徳

人をあざむかない。信頼される人。嘘を言わない。相手の言葉を疑わないこと。

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東洋の歴史から学ぶ ~時代を生き抜く知恵と思考~

五徳
東洋学では人間の本能を五種類(守備、攻撃、伝達、習得、引力)に分類している。人間は個人の場合と集団の場合では本能の現われ方が異なる。人間は集団で生活するので、集団の結束を乱さない仕方で本能を発揮しなければならない。その方法を「五徳」(仁義智礼信)という表現で伝えているが、それは人生で自己の目的を達成するための原理原則を教えている。

仁徳:守るということは物事を変化させないことである。個人で守るには頑固さを必要とする。頑固とは決して考え方を変えないことで、人の話に動かされたら守ることはできなくなる。しかし集団で守るには和合性が必要となる。それは善とも悪とも仲良くすることで、一方を排斥したとき守りは崩れることになる。誰とでも協力し合う精神が「仁」である。これは思い遣りや心の温かさを意味している。ちなみに『医は仁術なり』という言葉があるが、「人の命を守ろうとする医術は仁徳を第一にせよ」という意味である。

義徳:守りの反対に位置する攻撃の本質は動いて変化することである。危ないと思えば一目散に逃げることも攻撃である。東洋史観学の格言に『まじめ人間の攻撃は国を滅ぼす。まじめは守りに良し』というのがあるが至言である。個人で攻撃する場合は闘争心が最大の武器となる。しかし集団で攻撃する場合に必要なのは「義」である。大義名分がなくて攻撃を仕掛ければ暴徒になってしまう。国家が戦争へ向かうときは国民に対し見事な大義名分を掲げるものであるが、戦争反対をとなえるだけでは流れに抵抗することはできない。大義名分を崩すことが軍略となる。

礼徳:自分の意見や考え方を相手方に伝えようとすれば、行為は自己主張であっても精神は中庸でなければならない。心を中庸に置き自己主張をする方法が「礼」である。それは礼儀礼節というレールに自己主張を乗せて相手の心の中へ送り込むのである。自分の考え方や思いを相手に理解して欲しかったら、礼儀礼節に従った表現が一番早道なのである。礼儀礼節は人間同士の間に存在するだけではない。家を建てる場合の地鎮祭、登山者のための山開きなど、すべてが自然界に対する礼儀礼節であり、人間の意志を自然界に理解してもらうための行事なのである。

智徳:個人が学ぶには先達を必要とする。自己流に学んだら我流の知恵になってしまう。伝統を完全に習得した後に、自分なりの新しいものを創造することができる。それに対し、集団(組織)で学ぶ場合に必要なものは改革の精神である。集団が伝統のみに価値を置くならば発展は止まってしまう。しかし個人も集団もすべてが改革にぬりつぶされるなら、先人が作り上げてきた知恵の流れが破壊され、何代か後にその民族は崩壊することになる。国家や民族の知恵は長い歴史と伝統の中で伝承されるもので、その流れに沿った変革が大事なのである。伝統を重んじながら改革を心がけ、習得と創造を繰り返していくところに智徳の真髄がある。

信徳:信徳の基本にあるものは、他から好かれたいという引力本能である。それは仁徳、礼徳、義徳、智徳の四徳をバランスよく発揮することによって、二次的に備わるものである。日常生活の中でとらえれば信頼や信用であり、指導者にとっては不可欠の条件である。

以上、五徳を単独で表す場合の解釈は「端論」と呼ばれる。人間は自分に与えられた最も多い本能エネルギーを燃焼させることが生きがいや人生の発展につながるのである。それに対し、すべての本能をバランスよく表すことを説くのが「幹論」である。東洋史観学では『人の下に位する者は端論に従い処世術とせよ。人の上に立ち集団や国を指導する者は幹論をもって旨とすべし』といって活用の指針にしている。


<著者プロフィール>
鴇田 正春(ときた まさはる)氏
情報化推進国民会議委員。
元青山学院大学教授 1961年、早稲田大学理工学部卒。
日本I.B.M専務取締役、顧問。関東学園大学経済学部教授兼経営学科長(99年―03年)、法政大学大学院社会科学研究科客員教授(01年―03)、青山学院大学大学院国際マネジメント研究科教授。05年定年退職。現在に至る。