内村鑑三「代表的日本人」Kanzo Uchimura 「Japan and The Japanese」190403(

内村鑑三「代表的日本人」Kanzo Uchimura

「Japan and The Japanese」

内村鑑三の「代表的日本人」は、当時の世界が キリスト教的な信仰を絶対的に信奉する欧米社会にあって

キリスト教の教えとは程遠い「アメリカの現実世界」、「人種差別」、「黒人の奴隷社会」を見て この

矛盾に悩み、人間としてあるべき姿を、必死に模索する中で、

 

アンチテーゼのように、「人間としての在り方」から 東洋、日本の社会にも理想とする生き方も

同じように 崇高で、理想を追う姿勢を問うものではと 問題提議をしたように思う。

 

この為、当時の「代表的日本人」と思われる人々の生き様を活写して 世に問うた。

この中で 日本人の精神 生き方を広く 欧米社会に知らしめようとしたのだと思う。

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西郷隆盛~新日本の創設者、上杉鷹山~封建領主、二宮尊徳~農民聖者、中江藤樹~村の先生、日蓮上人~仏僧

5人の中に 日本人的な 素晴らしい生き方 キリスト教の神髄にも迫る生き方、姿勢、哲学は 決して

西洋世界に引けを取らない。

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私たち 現代に生きる日本人も 混迷や戦争が絶え間ない世界、貧困にあえぐ人々。

自己実現を目指して 志を高く、豊かな社会を目指して 平成の代表的日本人に

ひょっとしたら 何十年かしたら 誰かが 取り上げてくれるかも 知れなせんね。

どこかで バトンタッチをする人間社会。 

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★ 私は 足掛け 30年ぐらい 「私塾 山元学校」を継続しています。

長年 環境問題の解決に、一民間人が どこまで挑戦できるという実験を

繰り返しています。せっかくの人生。闘志を燃やして、楽しく生きたい。

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★ ところで、

「世界青少年志プレゼンテーション大会を主催する「志教育のメキキの会」

の特別顧問を拝命して、5年になりますが、今年の9月15日に 大きな志を

達成した社会人を 新たに「志大賞」者として 表彰させて頂くことになりました。

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実行委員長を拝命していて 8つの分野に分けて 候補者を探している処です。 

ぜひ 自薦他薦大歓迎なので 手を挙げて下さい。推薦させて頂きます。

宜しくお願いいたします。

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Japan and The Japanese (代表的日本人Representative Japanese) [訳]鈴木範久

1900年すなわち明治33年を挟んで約5年ごとに、明治文化を代表する3冊の英文の書物が日本人によって書かれた。いずれも大きなセンセーションをもたらした。こんな時期はその後の日本の近現代史に、まったくない。
その3冊とは、内村鑑三の代表的日本人、新渡戸稲造の武士道、岡倉天心の茶の本。さて 当時の時代背景や 世界の中の日本という立場から 書かれている。ざっと真髄を見て行こう。

いずれもさまざまな意味で、今日の誰も書きえない名著であり、このうち二人が、明治のみならず近現代を通じての日本のキリスト者を代表していることが、注目される。

なかでも内村鑑三のキリスト教は激越なもので、他の追随を許さない。それは、“Jesus”と“Japan”という「2つのJ」にまたがる異様な日本キリスト教というものであり、かつその著作は内村の代表作ともいうべき『羅馬書の研究』を頂点に、生涯の半分におよんだ個人雑誌「聖書之研究」などにも再三言及されたように、「日本人の生活信条の中にはキリスト教に匹敵するものがある」という基本モチーフを秘めたものだった。

本書の書名を、内村自身は最初は『日本及び日本人』と訳していた。それがいろいろの変節をへて『代表的日本人』となった。その変節は近代史や日本キリスト教史を研究する者には重要だが、ここでは省く。

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① 内村鑑三の“Japan and The Japanese”1861年3月23日生まれ(1894年34歳)、

内村の著書は日清戦争が始まったばかりの1894年で、内村が長らく極貧に喘いでいた34歳のときに書いた。この時期の内村は憑かれたように英文を書きまくっていて、日本の英文自伝の白眉ともいうべき“How I Become a Christian”(余は如何にして基督教徒となりしか)も書いていた。

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ついでに言えば、この「千夜千冊」の、この今日のぶんを書いているのは2001年3月15日なのだが、この時点で、ぼくにとっての内村鑑三は最も気になる日本人である。実はあまりに内村鑑三を感じすぎて、内村や新渡戸や植村正久や海老名弾正や、また有島武郎や志賀直哉や小山内薫や矢内原忠雄をぐらぐら動かした明治キリスト教というものそのものに、感染しつつある。この感染があまりに過度になれば、あるいはキリスト者を辞さない時がくるかもしれないと、本気でそう思うときもある。

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 さて、本書に扱われているのは5人の日本人である。キリスト教に埋没しつづけた内村がこの5人を選んだことは、今日の読者には意外な人選であろう。時代順には日蓮、中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山、西郷隆盛となる。これを内村は逆に並べて一冊とした。
なぜこの5人が代表的日本人なのかということは、それを述べようとするだけで、結局は内村の思想と行動のすべてを議論することになる。それは適わないので、エッセンシャルなところだけをつまむことにするが、まず一言でいうと、この5人は内村にとってはキリスト者なのである。このことについては、本書のドイツ語版のあとがきに内村自身がこんなことを書いている。

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稲盛和夫さんの序文が なるほどと思わせてくれる。見てみよう。

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一方 キリスト教精神や 日本の古来の歴史上の人物の生き様の中で 崇高な姿勢を

見出したが このことは 志を立て、社会に貢献する中で 自己実現を成した人々に

謙虚に学ぼうとしている。 

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内村鑑三の序文も 読んでみよう。

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ところで 堺屋太一さんも 竹内さんも 現代の代表的日本人というご本を

だされている。

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★竹内 均さんは その後の「代表的な日本人」(自己実現に成功した43人)

(目次では 39人となっている)

というご本を書かれている。竹内さんは 物理博士 理学博士 東大教授

で Newtonの初代編集長でもあり、技術的な側面からの独特の視点で書かれている。

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★ この映像は 3時間を超えるビデオだが 良く纏まっているので英語の勉強にもなる。

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近世における武士道の観念

宮本武蔵が槍でと戦う画(画:歌川国芳)。五輪書(1645年)

武士(さむらい)が発生した当初から、武士道の中核である「主君に対する倫理的な忠誠」の意識は高かったわけではない。なぜなら、中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、「奉公とは「御恩」の対価である」とする観念があったためである。この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」といった考え方は当時は主流ではなかった。体系付けられたいわゆる武士道とは言えず、未熟である。

江戸時代の元和年間(1615年 – 1624年)以降になると、儒教朱子学道徳でこの価値観を説明しようとする山鹿素行らによって、新たに士道の概念が確立された。これによって初めて、儒教的な倫理(「仁義」「忠孝」など)が、武士に要求される規範とされるようになったとされる。山鹿素行が提唱した士道論は、この後多くの武士道思想家に影響を与えることになる。

享保元年(1716年)頃、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠[4]佐賀藩山本常朝によって著される(筆記は田代陣基)。これには「無二無三」に主人に奉公す、といい観念的なものに留まる「」「」を批判するくだりや、普段から「常住死身に成る」「死習う」といったことが説かれていたが、藩政批判などもあったせいか禁書に付され広く読まれることは無かった。

幕末万延元年(1860年)、山岡鉄舟が『武士道』を著した。それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。

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明治時代以降の武士道の解釈

明治維新後、四民平等布告により、社会制度的な家制度が解体され、武士は事実上滅び去った。実際、明治15年(1882年)の「軍人勅諭」では、武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされた。ところが、日清戦争以降評価されるようになる。例えば井上哲次郎に代表される国家主義者たちは武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとした。

新渡戸はキリスト教徒の多いアメリカの現実(人種差別など)に衝撃を受け、同時にキリスト者の倫理観の高さに感銘を受けた。新渡戸は近代において人間が陥りやすい根っこにある個人主義に対して、封建時代の武士は(封建)社会全体への義務を負う存在として己を認識していたことを指摘している。無論これは新渡戸の考えである。同時に新渡戸にとって武士は国際社会において国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されていると説明するのに最適のモデルであったとするのが今日の一般的な見方である。そのため彼の考えを正当とされるよりも、批判がなされることもあった。

新渡戸を含めたものたちにとって日本の精神的土壌をどのように捉えるかは大きなテーマであり武士道はその内の検証の一つとされている。正宗白鳥は短編の評論『内村鑑三』(昭和25年(1950年))の中で、自分の青年期に出会った内村を心の琴線に触れる部分はあったが概してその「武士道」の根太さが大時代な分だけ醒めた視線で見ていたと率直に表現している。

武士道の思想的な核心について西部邁はこう述べている。

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新渡戸の『武士道』は1900年ちょうどのこと、漱石がロンドンに、栖鳳がパリに、川上音二郎と貞奴がニューヨークに向かっていた年である。新渡戸はここで日本の武士道がいかにキリスト教に似ているかを説きまくり、ただしそこには「愛」だけが欠けていると結論づけた。

武士道(ぶしどう)は、日本近世以降の封建社会における武士階級の倫理道徳規範及び価値基準の根本をなす、体系化された思想一般をさし、広義には日本独自の常識的な考え方をさす。これといった厳密な定義は存在せず、時代は同じでも人により解釈は大きく異なる。また武士におけるルールブック的位置ではない思想である。一口に武士道と言っても千差万別であり、全く異なる部分が見られる。

新渡戸稲造は現地の教育関係者との会話において日本における宗教的教育の欠落に突き当たった結果、1900年にアメリカ合衆国でBushido: The Soul of Japanを刊行した。本書はセオドア・ルーズベルトジョン・F・ケネディ大統領など政治家のほか、ボーイスカウト創立者のロバート・ベーデン=パウエルなど、多くの海外の読者を得て、明治41年(1908年)に『武士道』として桜井彦一郎(鴎村)が日本語訳を出版した。さらに、昭和13年(1938年)に新渡戸門下生の矢内原忠雄の訳により岩波文庫版が出版された。

『武士道』においては、外国人の妻にもわかるように文化における花の違いに触れたり19世紀末の哲学科学的思考を用いたりしながら、日本人は日本社会という枠の中でどのように生きたのかを説明している。島国の自然がどのようなもので日本独特の四季の移り変わりなどから影響を及ぼされた結果、日本人の精神的な土壌が武士の生活態度や信条というモデルケースから醸成された過程を分かりやすい構成と言葉で読者に伝えている。例えば、武士や多くの日本人は、自慢や傲慢を嫌い忠義を信条としたことに触れ、家族や身内のことでさえも愚妻や愚弟と呼ぶが、これらは自分自身と同一の存在として相手に対する謙譲の心の現れであって、この機微は外国人には理解できないものであろう、といったことを述べている。しかしこれは新渡戸独特の考えであり、彼の思想を批判する書も出されている。

写真の説明はありません。「新渡戸稲造画像」の画像検索結果

武士道は日本の発展にも重要な精神となった。武士道の精神を基本とした士魂商才という言葉も生まれ、拝金主義に陥りがちであった精神を戒め、さらに商才を発揮することで理想像である経営者となることを表すものであった。このような経営哲学・倫理は欧米でも戦後に発達し、帝王学に類似した学問も登場した。今日では企業の倫理が問われるようになっており、経営者や戦略における要素となっている。武士道などの精神は経営学系統の大学、高校において標語として採用している場合もある。

現在では国際化の進展に合わせて日本の武士道などの日本経営精神に対する必要性を挙げるものもいる。『武士道』の著者である新渡戸稲造も祖父が商人としての成功があったが、商業倫理に関する言葉を残している。他にも渋沢栄一は今後の時代に必要な武士道を説くなどと明治時代から大正デモクラシーにかけての日本の実業に関する精神が唱えられ、日本的経営に必要な背骨となった。

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天心の『茶の本』は、天心がボストン美術館の東洋部の顧問をしてからの著書で、45歳の1906年にニューヨークで刊行された。日露戦争の最中である。『東洋の理想』『日本の目覚め』につぐ3冊目の英文著書だった。
Okakura Kakuzo: The Book of Tea「岡倉天心画像」の画像検索結果
岡倉天心 著 Charles E.Tuttle Company 1977年 ハードカバー 函・帯付 英文 133ページ サイズ: 124×198mm 

1906年に岡倉天心(覚三)によって英文で書かれ、ニューヨークにおいて2か国語で出版された「茶の本」の英語版。ボストン美術館の中国・日本美術部に勤務していた時期に発表され、茶道の思想を伝えると共に、日本、東洋の文化を西洋社会に紹介した。Charles E.Tuttle Company版の本書は和紙があしらわれ、質感のある装丁です。 

★この原本を 日立造船に入社して堺工場にいる頃 海外船営業の課長 小澤 保さんから頂いた。以来 本棚に今もある。示唆に富んだご本だ。

★日本茶道を欧米に紹介する目的で、1906年(明治39年)、米国ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めていた天心が、ニューヨークの出版社から刊行した。茶道を仏教)、道教華道との関わりから広く捉え、日本人の美意識や文化を解説している。天心没後の1929年(昭和4年)に邦訳された。訳者は、天心の弟である岡倉由三郎の弟子である村岡博。

新渡戸稲造の『武士道』と並んで、明治期に日本人が英語で書いた著書として重要である。ジャポニズム日露戦争における勝利によって、日本への関心が高まったヨーロッパ各国(スウェーデンドイツフランススペインなど)でも翻訳された。世界的な名著を集めたペンギン・ブックス双書にも2016年に加えられた(著者名は本名のKakuzo Okamura)。邦訳も岩波文庫版が118刷56万部に達し(2019年初時点)、田中仙堂(大日本茶道学会会長)が解説書『岡倉天心「茶の本」を読む』(講談社学術文庫)を著している

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内村 鑑三
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67歳の内村鑑三(1928年5月)
個人情報
出生 1861年3月23日
日本の旗 武蔵国江戸小石川
(現:東京都文京区小石川)
死去 1930年3月28日(69歳没)
日本の旗 東京府豊多摩郡淀橋町柏木
(現:東京都新宿区
墓所 多磨霊園
国籍 日本の旗 日本
教派・教会名 メソジスト派無教会派
両親 父:内村宜之
母:ヤソ
配偶者 浅田タケ(離婚)
横浜加寿子(死別)
岡田静子
子供 次女:内村ルツ子
長男:内村祐之
職業 教師、作家、新聞記者、出版社経営者、キリスト教伝道者
出身校 東京英語学校
札幌農学校(農学士)
(現北海道大学農学部の前身)
米国・アマースト大学(理学士)

 

Why does Japan need Christianity? According to Uchimura Kanzo Valerie lastname 2014/12/08 

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内村鑑三 代表的日本人 岩波文庫 1894・1908~1995
     Kanzo Uchimura

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私は、宗教とは何かをキリスト教の宣教師より学んだのではありません。その前には日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の神髄を教えてくれたのであります。

何人もの藤樹が私どもの教師であり、何人もの鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの尊徳が私どもの農業指導者であり、また、何人もの西郷が私どもの政治家でありました。その人々により、召されてナザレの神の人にひれふす前の私が、形づくられていたのであります。

 もっともこれだけでは、この5人の日本人がキリスト者であるとは言っていない。5人を自分の宗教的先駆者だと見ているにすぎない。ところが『キリスト伝研究』(先駆者ヨハネの章)では、次のような説明があって、かれらとキリスト教とが深い絆でつなげられている。

UCHIMURA PROJECT   slweworld  2016/09/01

Selected readings from Kanzo Uchimura’s writtings, read by Samuel Lee. My vision and goal is to keep Kanzo Uchimura’s legacy alive among the western people. My name is Samuel Lee, and I a great fan of Kanzo Uchimura. A website has been created for Uchimura especially in English language. www.uchimurakanzo.net.
I have also written three books on Christianity in Japan for further information see www.projectjapan.org Please note that just like for Uchimura, English is not my mother tongue, so if in my readings I make a mistake, I humbly ask you to see it through… Uchimura Kanzo (1861–1930) is one of the most prominent Japanese Christian thinkers, the world has ever known.
He was born in a Samurai family during the ending years of the Tokugawa period in 1861. Later, during the Meiji Period, Japan’s modernization era, he studies at the Sapporo Agricultural School, the current Hokkaido University. During his years at agricultural school from 1878–81, he gave his life to Jesus Christ.
After his conversion experience and his intense studies of the Holy Scriptures, Uchimura Kanzo gradually was con- fronted with a very difficult reality: the Western missionaries did not only brought Christianity to Japan, but also their own cultures in the name of Christianity. He saw that Christianity brought by Westerners carried Western cultural agenda with it.
This itself was not the major problem to Uchimura Kanzo, what bothered him the most was in fact the arrogance and pride in some Western missionaries. Uchimura often men- tioned that not one single nation has even been saved entirely by foreign missionaries. He mentioned that on contrary, missionaries destroyed countries instead of building them.
From Mexico’s Montezuma and Peruvian Incan empires, Christianity’s course has been absorption, destruction, and, in some cases even annihilation. Western Christendom, he mentioned kills non-Christian countries by introducing rum and whisky, and tobacco; by its many foul diseases.
Uchimura Kanzo said that a Roman Catholicism is only good for the Roman culture, and Anglican Christianity emerged from English culture, and a Lutheran emerged from Germany and German culture. Why then not have to have a Japanese Christianity that is fully compatible to both Japan and Jesus. And I would say we have European Christianity in all its variations, why not African Christianity with all its col- orful variations? Or Asian or Indian?
Therefore Uchimura Kanzo became a promoter of independent church, free from control and financial bondage to the headquarters that are run by those outside Japan. Later Uchimura Kanzo’s ideas were crystallized into a movement called “Non-Church” movement, or Mukyukai. Uchimura Kanzo did not believe in the organized Church. Uchimura Kanzo was often hated by the Japanese, because of his love for Jesus.
He was misunderstood the Christians, because of his passion for Japan. Uchimura said: “I love two Js and no third; one is Jesus, and the other is Japan. I do not know which I love more, Jesus or Japan. I am hated by my country- men for Jesus’ sake as foreign belief, and I am disliked by foreign missionaries for Japan’s sake as national and narrow. Even if I lose all my friends, I cannot lose Jesus and Japan… Jesus and Japan;
my faith is not a circle with one center; it is an ellipse with two centers. My heart and mind revolve around the two dear names. And I know that one strengthens the other; Jesus strengthens and purifies my love for Japan; and Japan clar- ifies and objectives my love for Jesus. Were it not for the two, I would become a mere dreamer, a fanatic, an amorphous uni- versal man.”
After more than a century, the ideas of Uchimura Kanzo are living again. It is interesting to know that the idea of the Non-Church movement fits in our current times of history. Further, Uchimura Kanzo was a promoter of nature. He saw the beauty of nature as part of Gods creation, and he urged the need of caring for the nature. Often nature played an important role in Uchimura’s expression of faith both in his theological writings and in his poetry.
The love for nature was of course not the case with his contemporary Western Christianity, which was promoting capitalism and free market economy that lead eventually to the catastrophic climate change and erosion of the earth. Uchimura Kanzo influenced many Japanese political figures as well as well known writers, among them the writers Masamune Hakucho, Mushanokoji Saneatsu, and Arimisha Takeo, who in 1910 founded the influential Shirakaba “White Birch”, a journal that served as a vehicle for their humanitarian ideals.
Uchimura Kanzo is only one example of many other Japanese theologians and Christians of his time. Toyohiko Kagawa (1888–1960), for example. If the Western Christians would have offered their listening ears to these great men, the face of Christianity was very different than what it is today, especially in Japan. In Solidarity with Uchimura Kanzo, Samuel Lee

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 其意味に於て純潔なる儒教と公正なる神道とはキリストの福音の善き準備であった。伊藤仁斎、中江藤樹、本居宣長、平田篤胤等は日本に於て幾分にてもバプテスマのヨハネの役目を務めた者である

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 内村にとっては、仁斎・宣長・篤胤も中江藤樹と同様のヨハネなのである。おそらくいまどきこんなことを言えば、暴論あるいは無知として笑われるに決まっている。

しかし、内村はこの見方を生涯にわたって捨てようとはしなかった。頑固といえば頑固すぎるほどの男、まさにその通りだが、しかし内村にはひとつのJ(イエス)を、もうひとつのJ(日本)に重ねる使命が滾(たぎ)っていた。「私は2つのJを愛する。

 

第3のものはない。私はすべての友を失なうとも、イエスと日本を失なうことはない」という有名な宣言にあるように、内村は自分自身のためにも日蓮や藤樹や西郷をキリスト者の魂をもつ日本人に見立てる必要があったのである。
では、そのような見方をして、内村は何をしたかったのか。西洋に育ったキリスト教を非制度化したかった。キリスト教に真の自由をもたらしたかった。そのうえで日本的キリスト教を打ち立て、非武装日本をつくりたかった。つまりは、日本人の魂が解放される国をつくりたかったのだ。

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 内村鑑三は国粋主義者だったのか。たしかに、そう見える。つねに武士の魂を褒め称えた。『代表的日本人』で西郷を称揚するにあたって、朝鮮との関係を見誤っているのも、そのひとつのあらわれである。けれども、内村はこうも書いた。

「武士道はたしかに立派であります。それでもやはり、この世の一道徳に過ぎないのであります。その道徳はスパルタの道徳、またはストア派の信仰と同じものです。武士道では、人を回心させ、その人を新しい被造者、赦された罪人とすることは決してできないのであります」。

内村鑑三は世界主義者だったのか。たしかに、そうも見える。内村はつねに日本を世界の動向とともに見た。そこには「太平洋の両岸の中国とカリフォルニアがほとんど同時に開かれて、ここに世界の両端を結ぶために日本を開く必要が生じた」という見方を原点にもっていた。

しかし一方で、内村はサムライの精神をもって世界に対峙しつづけようとした。『代表的日本人』の「あとがき」にはこんな文章がある。「たとえ、この世の全キリスト教信徒が反対側に立ち、バール・マモンこれぞわが神と唱えようとも、神の恩恵により真のサムライの子である私は、こちら側に立ち言い張るでありましょう。いな、主なる神のみわが神なり、と」。

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 これでは内村は矛盾していると言われても仕方がない。実際にも、内村にはナショナリズムとグローバリズムが混じっている。混じっているだけではなく、それが交互に出て、交互に闘っている。それは明治キリスト教に共通する特質でもあるが、内村においてはそれが激しく露出した。

ところが、内村は晩年になるにしたがって、この矛盾を葛藤のままに強靭な意志で濃縮していった。そしてついには「小国主義」を唱えるにいたったのである。これが内村の凄いところだった。愛国者・内村は日本を「小さな政府」にしたかったのだ。そして、そういう日本を「ボーダーランド・ステイト」と呼んだ。

そう、境界国である。かくて「日本の天職は」と内村は書いた、「日本が日本を境界国としての小国にすることなのである」と。これは日本という国の天職なのである、と。

こんな発想は、内村鑑三を除いては、なかなか生まれない。今日の日本人にもちょっとやそっとでは言えない発想である。さらに内村はそのためには日本が世界史上の宗教改革の「やりなおし」を引き受けるべきなのではないかとさえ、考えた。
むろんここには、日本を世界の舞台の主人公として活躍させたいという愛国の情がある。それはそうなのだが、そのためにむしろ小国となって、境界者としての勤めをはたすべきであると考えたその道筋には、われわれがすっかり忘れてきた方針というものが芽生えていたのでもある。

代表的日本人とは、内村鑑三だったのである。

参考¶内村鑑三を読むには岩波書店の『全集』12巻および『著作集』40巻がある。最近、ぼくはこの40巻を入手した。が、岩波文庫には、本書のほかに『余は如何に基督教信徒となりしか』『後世への最大遺物デンマルク国の話』『基督信徒のなぐさめ』『内村鑑三所感集』などがあり、最初に入るならこのあたりが最適。評伝としては、小原信の『評伝内村鑑三』(中公叢書)がまあまあの評判だったが、これは前半生のみでおわったため、これをさらに充実させた『内村鑑三の生涯』(PHP研究所)が全生涯を描いた。読みやすい。「日本の名著」第38巻(中央公論社)、「近代日本思想大系」第6巻(筑摩書房)、「現代日本思想大系」第5巻(筑摩書房)にも、内村鑑三集と長い解説がある。後者の解説は亀井勝一郎。そのほか、ぼくには意外におもしろかったのが正宗白鳥の『内村鑑三』(講談社文芸文庫)である。また、小山内薫の『背教者』は師の内村に対する敬愛を背教者と堕した自分の身から綴った長編小説で、アンドレ・ジッドの同名小説に匹敵するものがある。このあたりの日本人は、いずれも「抱いて普遍、離して普遍」を知っていた。

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内村 鑑三(うちむら かんぞう、万延2年2月13日1861年3月23日)- 昭和5年(1930年3月28日[1])は、日本キリスト教思想家文学者伝道者聖書学者福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」の著者でもある。

幼少期

内村鑑三居宅跡

万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる[2][3]。 慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。

明治4年(1871年)の廃藩置県により、高崎藩知事の大河内輝声は罷免された。父も県小参事を免ぜられ隠居した。高崎で白井という人より手習いを受けた後、大河内輝声の創立した英学校に入り、小泉という教師より初めて英語を教えられ、英語に勤しむようになった。

明治6年(1873年)に単身で上京して、有馬学校英語科に入学した。この時の同級生に後の日本銀行総裁の三島弥太郎がいる。有馬学校で1年学んだ後、東京外国語学校の下等第四級に編入した。この時の同級生に、末松謙澄天野為之佐藤昌介らがいた。後の首相・加藤高明は一級に在籍していた。この学校で教師のM・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。在学中、一年だけ病気のために休学し、杉田玄端から治療を受けた。一年遅れたことにより、新渡戸稲造宮部金吾と同級になる。この三人は終生にわたって親交を結ぶことになった。その頃初めて英文講読で『旧約聖書』の聖書物語に触れた。

内村鑑三らが第三学年の時の札幌農学校の校舎、一番手前が寄宿舎

札幌農学校時代

札幌農学校の入学直後の、内村、新渡戸、宮部など二期生たち

明治10年(1877年)4月に東京英語学校東京大学予備門と改称されて、東京英語学校を終了すれば東京大学への進学が認められることになった。しかし、内村が入学して3年後の明治9年(1876年)、北海道開拓に携わる技術者を養成する目的で札幌農学校が創立された。内村は、北海道開拓使の役人の演説と官費生の特典に心を動かされて、経済上の理由もあり、札幌農学校への入学を決意する[4]。 札幌へ旅立つ前に、東京ので1ヶ月の合宿をした。その時、東京大学予備門時代の同級・新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグループを結成した。

新渡戸稲造、宮部金吾と共に札幌農学校時代

内村ら第二期生が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークら、お雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教改宗していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。内村はヨナタンというクリスチャンネームを自ら付けた。当時札幌には教会がなかったので、彼らは牧師の役を交代で務めた。そうして毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いていた。改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。

明治11年(1878年6月2日には、アメリカ・メソジスト教会M.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を札幌バンドという。

札幌農学校の札幌バンドの青年たち

在学中、内村は水産学を専攻し明治14年(1881年)7月、札幌農学校を農学士として首席で卒業した[5]。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。卒業後、宮部は札幌農学校で教鞭を取るために東京大学に行き、新渡戸も農学校で教鞭を取ることになったが、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に南2条西6丁目の古い家屋を購入して、札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立する。また、明治14年(1881年1)0月に結成された札幌YMCAの副会長になった。

1883年 弟三回全国基督信徒大親睦会。前から2列目左から5人目が内村鑑三、隣は新島襄

明治15年(1882年)に開拓使が廃止されると、札幌県御用係になり、漁業調査と水産学の研究を行った。ほどなく伝道者になるために県に辞職願を提出した。同年6月に辞職願は受理された。その後、津田仙学農社農学校の教師になり、12月からは農商務省の役人として水産課に勤め、日本産魚類目録の作成に従事した。同月の第三回全国キリスト信徒親睦会には、札幌教会代表で有名な演説を行った。

最初の結婚・離婚

明治16年(1883年)夏に安中教会を訪問した時に知り合った浅田タケと、両親の反対を押し切って明治17年(1884年)3月28日に結婚した。しかし、半年後には破局して離婚した。原因はタケの異性関係の疑惑とも言われている

内村と藤田九三郎の設計により1883年に竣工した札幌独立教会

アメリカ留学時代

浅田タケとの結婚が破局した後、両親と友人の勧めにしたがって、明治17年(1884年)に私費でアメリカに渡り、11月24日にサンフランシスコに到着する。拝金主義人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。渡米後に何のあても持っていなかった内村は、メリマン・ハリス夫人によりミデヤの叔父の家を紹介された。ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のエルウィンの養護施設を尋ねた時に、医師である院長のI.N.カーリンと出会い、そこの知的障害児養護学校で看護人として勤務することになる。

1885年(明治18年)6月にカーリンはワシントンD.C.の全米慈善矯正会議に出席する際に内村を同行した。ワシントンで大統領グロバー・クリーブランドに面会している。ワシントン滞在中に終生の友である、D・C・ベルと出会った。

この時期、札幌農学校同期の新渡戸稲造また、佐伯理一郎とともにフィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒のウィスター・モリスと親交を持つ。

この頃、日本にいた浅田タケは4月15日、女児ノブを出産した。タケはそのことで手紙で復縁を迫った。タケに洗礼を授けた新島襄も内村に説得したがきっぱりと断った。

現在のアマースト大学

内村はペンシルベニア大学で医学と生物学を学び医者になる道を考えていた。カーリン夫人はユニテリアンでハーヴァード大学で学ぶことを勧めたが、米国滞在中の新島襄の勧めで、9月に新島の母校でもあるマサチューセッツ州アマーストアマースト大学に選科生として3年に編入し、新島の恩師J・H・シーリーの下で伝道者になる道を選んだ。

アマースト大学最終学年の内村鑑三(1887年)

在学中、アマースト大学の総長であり牧師でもあるシーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験した。1887年(明治20年)に同大学を卒業し、Bachelor of Science(理学士)の学位を受ける。続けてシーリーの勧めで、コネチカット州ハートフォード神学校英語版に入学するが、神学教育に失望し、1888年(明治21年)1月まで学業を続けたが退学。神学の学位は得ないまま、5月に帰国。

教員時代

在米中に新潟県北越学館への教頭としての招聘が一度あったが内村は断り、帰国後に新島襄の仲介で契約が成立し、明治21年(1888年)6月6日に館主・加藤勝弥約定書を交わした。新島によると独立心の強い内村は新潟行きに難色を示し、正教頭ではなく、仮教頭で赴任した。北越学館ではエレミヤ書を講義し、土曜日には講演会を開き、ルターについて講義した。就任一ヶ月後に、宣教師の運営方針に反発する見解を表明、宣教師たちも内村の下で働くことを拒否し辞職を通告して、学生を巻き込んでの学館紛争になった。調停のために、新島襄は横井時雄を派遣するが効果はなく、成瀬仁蔵は内村と激しく対立して、意見書を著し辞職を迫った。孤立した内村は赴任後わずか4ヶ月で辞職した。

戦いに敗れて東京に戻った内村は植村正久の一番町教会(現、日本基督教団富士見町教会)で説教したり、東洋英和学校明治女学校水産伝習所などで教鞭を執る。東洋英和学校では山路愛山が内村の「万国史」の教えを受けた。明治22年(1889年)7月31日に旧高崎藩士の横浜恕の娘・かずと結婚した。

不敬事件

第一高等中学校(1894年に旧制第一高等学校へ改名)本館の1902年以前の建物

明治23年(1890年)から、植村正久の一番町教会の長老・木村駿吉の推薦により、第一高等中学校(現・東京大学教養学部千葉大学医学部薬学部)の嘱託教員となった[10]

教育敕語

明治24年(1891年1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。

事態の悪化に驚いた木下校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼した。内村はそれに同意したが、悪性の流感にかかっており本人が行けなかったので、代わりに木下駿吉が行った。しかし、マスコミがこの事件を大きく取り上げ、「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝した。そうして、事件はキリスト教と国体の問題へ進展した。

内村は悪性の流感により病床にあり、意識不明の状態だったが、2月に本人に知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱された。これがいわゆる「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。

加寿子の死

不敬事件の直後、内村を支えた横井時雄

妻かずは、夫に代わって抗議者を引き受けたが、流感で倒れてしまった。かずは2ヶ月の病臥の後に、4月19日に死去した。

不敬事件と伴侶の死で憔悴しきった内村は札幌に行き、新渡戸稲造と宮部金吾の元で1ヶ月すごした後、帰京した。そして、本郷教会の横井時雄が内村を支え、教会でエレミヤ書の講義をさせたり、『基督教新聞』に執筆の場を与えたりした。明治25年(1892年)1月より、横井時雄の世話で、日本組合基督教会の京橋の講義所の説教者になった。その後、組合教会の総会にも出席している。不敬事件で教員の道を閉ざされた内村は伝道者の道を本格的に歩み始めた。同年の夏に、千葉県君津郡竹岡村に滞在した。一ヶ月間熱心に伝道して、8月25日に天羽キリスト教会(竹岡美以教会)が設立されることになった。

千葉から帰るとすぐに、泰西学館、高等英学校(現:桃山学院高等学校)、熊本英学校名古屋英和学校(現:名古屋高等学校)と教壇に立ち、一時期は京都にも住んだ。

静子との再婚

『基督信徒の慰』刊行の頃の内村鑑三(1893年)

明治25年(1892年)のクリスマスに京都の旧岡崎藩士で判事の岡田透の娘・静子と結婚した。この頃、帝国大学文科大学教授の井上哲次郎によって「不敬事件」の論争が再燃した。明治26年(1893年)になると、井上の所論をめぐりキリスト教会はもとより、仏教界、思想界、学会、教育界、ジャーナリズム界で大論争が巻き起こった。内村は井上の記す「不敬事件」に事実誤認を指摘して反論したが、国家主義的な時流により、世論は井上に味方した。

この流浪・窮乏の時代とも呼べる時期に、内村は、『基督信徒の慰』、『求安録』、『余は如何にして基督信徒となりし乎』( How I Became a Christian) を初め、多くの著作・論説を発表した。

熊本英学校時代の内村と妻静子(1893年)

明治26年(1893年)4月に熊本英学校の教師として赴任し7月まで務め、その後は京都に住んだ。京都に帰る途中で、須磨で開かれたキリスト教青年会第6回夏季学校に講師として出席した。横井時雄と共に講演し、内村は日本教会論を語った。この論は、翌年2月に発行された『基督信徒の慰』にも記されている。

京都では、便利堂の中村弥左衛門と弥二郎が経済的に内村を支えた。明治27年(1894年)の箱根でのキリスト教青年会第7回夏季学校では「後世への最大遺物」を行う。これが、便利堂によって明治30年(1897年)に刊行されている。森敦はこの本を非常に愛読していたという。

不遇だった京都時代を助けたのは徳富蘇峰だった。蘇峰のおかげで、『国民之友』に文を発表し生活を支え、文名を上げることができた。『国民之友』の編集の国木田独歩も、内村に感銘を受けた一人である。国木田は、明治29年(1896年)に妻を亡くした際アメリカ行きを思い立ち、内村に手紙で相談している。

新聞記者時代

『万朝報』英文欄主筆の頃の内村鑑三(1897年)

明治30年(1897年)に黒岩涙香が名古屋にいる内村を訪ねて朝報社への入社を懇請した。内村はためらいつつも黒岩の説得に答えて朝報社に入社した。同社発行の新聞『萬朝報』英文欄主筆となった。一高時代の教え子山県五十雄らと共に、通算二百数十篇の文章を書いた。この文章は外国人系新聞からマークされ、松井広吉ら日本人にも愛読された。同年3月16日には、英文欄にて足尾銅山の鉱毒問題を取り上げた。

翌明治31年(1898年)5月22日には黒岩の熱心な慰留にもかかわらず朝報社を退社した。そして、同年6月10日より、山県悌三郎を社主として、『東京独立雑誌』を創刊し主筆となりジャーナリストとして独立した。坂井義三郎佐藤迷羊西川光二郎佐伯好郎中村諦梁らが編集者になり、大島正健松村介石留岡幸助元田作之進田岡嶺雲、山県五十雄、駒井権之助らが寄稿した。内村の論評に対して、高山樗牛が雑誌『太陽』で公開質問状を発表した。

明治32年(1899年)6月、女子独立学校の校長に就任したことで、角筈の敷地内に居を移し、東京独立雑誌の発行所も角筈に移った。しかし、明治33年(1900年)7月5日に内村の問題により突如、廃刊されることになり、同社は解散した。その後旧社員は『東京評論』を創刊して、深刻な敵対関係になった。

『聖書之研究』時代

角筈で行われた第三回夏期講談会の集合写真、前から二列目中央が内村鑑三(1902年夏)

『東京独立雑誌』の廃刊直後に、すでに誌上で参加募集していた第一回夏期講談会を、旧社員らの反対にもかかわらず、自分の責任により独立女子学校で行った。内村を始め、留岡幸助、松村介石、大島正健らが講師になった。小山内薫青山士荻原碌山井口喜源治西沢勇志智倉橋惣三武藤長蔵森本慶三小林洋吉らが参加した。参加者により、上田小諸独立倶楽部が結成されると、各地で伝道を始めた。内村は8月に群馬県を訪れて、上田を拠点にキリスト教の伝道活動をしようとしたが断念し、同年10月より、日本で最初の聖書雑誌である『聖書之研究』を創刊した。聖書之研究は内村の死まで続けられたライフワークになった。聖書之研究を創刊する一ヶ月前9月より、生活のために万朝報の客員として復帰し、今度は日本語の文章を寄稿した。『聖書之研究』創刊号で生徒を募集して10月に聖書研究所を発足させる。この時期から自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れる。それらは、25人定員の角筈聖書研究会になる。その中の、熱心な12名は角筈12人組と呼ばれた。明治34年(1901年)3月には『聖書之研究』の読者の交通機関を目的に月刊の『無教会』を発刊した。

足尾銅山鉱毒問題

足尾銅山鉱毒問題の運動の中心人物田中正造

明治34年(1901年)4月21日に、栃木県足利の友愛義団に招かれて、巌本善治木下尚江と共に講演した。翌日4月22日に、木下尚江と共に、初めて足尾を訪れた。足尾の鉱毒の被害を激しさを知って驚いた内村は、帰京すると『万朝報』に記事を書いた。これが、『鉱毒地遊記』である。その中で、鉱毒問題の原因を経営者・古河市兵衛の起こした人災であると言った。

5月21日には、東京神田の東京キリスト教青年会会館津田仙を座長にして足尾鉱毒問題の『同情者』の会が開かれ、田中正造が説明をした。その結果、鉱毒調査有志会が結成され内村と巌本善治が調査員に選ばれた。6月21日より、有志会の調査が、内村を主査、田中正造が案内役として始まった。そして、11月に調査会の弟一回報告が内村、巌本善治、田中弘之高木政勝の連名で出された。

札幌を訪れた内村鑑三(1901年10月)

また、7月20日に内村は黒岩涙香、堺利彦幸徳秋水天城安政円城寺清斯波貞吉、山県五十雄らが発起人なり社会改良を目的とする理想団を結成した。夏には、第二回夏期講談会が開かれ、巌本善治が講師になり、小山内薫、志賀直哉、倉橋惣三浅野猶三郎斎藤宗次郎に加えて、足尾鉱毒被害地の田中正造の片腕の永島与八らが出席した。

11月1日には東京キリスト教青年会館で足尾鉱毒演説会に、内村は巌本善治、安部磯雄、木下尚江、島田三郎と共に出席した。内村は、鉱毒問題が色慾問題であることを説いた。11月29日には桐生教会の訪問途中で佐野駅で降りて、被害地を再び訪問する。12月10日には田中正造の明治天皇直訴事件が起こり、そのような中で12月12日に再び東京キリスト教青年会館で巌本、黒岩、幸徳伝次郎(秋水)、佐治実然三宅雄二郎らと足尾鉱毒演説会を開いた。内村は古河市兵衛にポーコを加えよと叫んだ。12月27日には、田村直臣を委員長、安部磯雄を監督委員として、約800人の学生によって鉱毒被害視察旅行が行われ、内村、木下らも同行した。

しかし、明治35年(1902年)になると、4月2日の鉱毒問題解決演説会に出席した以外は、運動への参加が消極的になり、聖書研究へ沈潜していくことになる。3月10日の理想団晩餐会の席上でも、社会の改良法をめぐり、「内村が個人、安倍が社会と個人」と発言し、安倍磯雄との違いを述べた。

非戦論

日露戦争中の内村の父宜之と息子祐之(1905年1月)

日清戦争は支持していた内村だったが[11]、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになる。6月24日に東京帝国大学戸水寛人ら7人の教授が開戦を唱える建議書を提出し、それが公表されると、同月6月に『戦争廃止論』を萬朝報に発表した。萬朝報も当初は非戦論が社論であったが、明治36年(1903年10月8日、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じると、内村は幸徳秋水、堺枯川と共に萬朝報を離れることとなった[12]

萬朝報退社後も、『聖書之研究』を通じて非戦論を掲げていたが、明治37年(1904年)2月には日露開戦にいたった。戦争中は、日本メソジスト教会本多庸一や日本組合教会の小崎弘道らキリスト教の多数派が主戦論に傾いて積極的に戦争に協力したが、非戦論は内村や柏木義円などのきわめて少数であった。内村はキリスト者の間でも孤立していたものの、明治37年(1904年)のクリスマスを迎えた内村が、クリスマスは平和主義者の日であって「主戦論者はこの日を守る資格を有せず」と述べたことについては、中里介山が内村の言葉に拍手喝采を送り、半年後に『新希望』(『聖書之研究』の改題)に「予が懺悔」という文を寄せている。

なお、戦争反対を強く訴えた内村だったが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言した。弟子の斎藤宗次郎が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村がわざわざ岩手県花巻の斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させている。この言動は「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める、無教会平和主義者の教理(「戦争自体に直面したときの無抵抗」)に基づいている。内村は「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、弟子に兵役を避けないよう呼びかけた。また、「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じた。そして内村は「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げるとともに、若きキリスト教兵役者へは、個人の救いとしての「身体の復活」と社会の救いとしての「キリストの再臨」の信仰に固く立つよう勧めた。

以上の内村の非戦論思想における、「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現は、あらゆる暴力と破壊に対する抗議を表明すると同時に、「不義の戦争時において兵役を受容する」という行動原理を明確にした。

教友会の結成

『聖書之研究』第百号記念感謝会(1908年6月)

1904年11月に精神障害を患っていた母親が死去する。すると、弟の達三郎が、母親を死に至らしめたのは内村であると責め始め、母親の葬儀では内村に妨害と侮辱を加えた。この争いは、『東京パック』の北沢楽天の風刺画で取り上げられ、兄弟間の骨肉の争いは世間に知られることになった。

この騒動をきっかけに、内村は自身の肉親よりもキリスト者との交流を求めるようになり、角筈聖書研究会が再開され、聖書之研究の読者組織である教友会の結成を呼びかけるようになった。東京の角筈に最初の教友会が設立され、新潟の柏崎大鹿三条、長野県では上田、小諸、東穂高、千葉県では鳴浜、栃木県では宇都宮、岩手県では花巻に結成された。そして明治39年(1906年)の夏には、新潟県柏崎で夏期懇談会を開き、明治40年(1907年)に夏には千葉県鳴浜で同じ懇談会を開催して、全国から教友が参加した。

幻の改訳聖書

改訳作業を行った東京基督教青年会館

1888年(明治21年)に明治元訳聖書が刊行されから、改訳を求める声が絶えなかった。そこで、警醒社がスポンサーになり、聖書の改訳を試みた。1905年(明治38年)5月11日東京基督教青年会館で改訳のための最初の会合が開かれ内村に植村正久小崎弘道を加えた当時のキリスト教界の著名人と、新進気鋭の聖書学者柏井園を加えた4名が集まった。そして、翌週5月18日から毎週1回の毎週木曜日に集まり明治元訳聖書の改訂作業をすることになった。最初に『ヨハネ伝』から改訳事業を始めた。7月6日には『ヨハネ伝』の3章まで進んだが、内村が業同作業に不満を覚えて、辞意を表明する。翌週7月13日の会合の次から夏休みになる。夏休み明けて9月14日に再開するが、小崎が渡米していたので、日本にいた内村と植村と柏井の3人で会合を持つ。しかし、内村は、11月6日付けで植村に脱退の手紙を送る。翌1月10日に改めて内村は、3人に病気を理由に辞退届を送り事実上改訳会は空中分解した。

社会主義批判

また、教友会の結成が進み始めた頃より、内村は社会主義者に距離を置くようになった。明治40年(1907年)2月には『基督教と社会主義』を小型の「角筈パムフレット」として刊行し、キリスト者と社会主義者との差を明確にした。明治41年(1908年)には社会主義者福田英子の聖書研究会への出席を拒絶している。

内村は年を経るごとに、社会主義をさらに明確に批判していくようになり、大正4年(1915年)には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。

内村はキリスト者の立場から、他階級への抑圧を繰り返す社会主義の本質的欺瞞を指摘するとともに、後の社会主義思想の退潮を予言する、厳しい批判の言葉を残しているが、これらの言論をロシア革命以前から発していたことは注目に値する。そして内村の社会主義批判の姿勢は、矢内原忠雄ら内村の後継者の一部にも引き継がれることとなった

柏木時代

柏木の自宅前での内村家(1910年)

柏木の自宅の書斎での内村鑑三(1912年)

明治40年(1907年)11月、内村一家は角筈から淀橋町の柏木に移った。内村の感化された実業家の今井樟太郎の未亡人ノブの寄付により同年末に内村の活動のための建物を建設し、それが今井館と呼ばれるようになり、無教会主義キリスト教の本拠になった。明治41年(1908年)6月に『聖書之研究』第百号の祝いを兼ねて、今井館の開会式を行った。

明治42年(1909年)秋には、第一高等学校の校長・新渡戸稲造のもとで読書会グループを形成していた学生たちが、新渡戸の推薦状をもって、内村の弟子に入門した。この一団は内村によって柏会と命名された。10月29日に第一回明の会合を行った。岩永裕吉金井清川西実三黒崎幸吉沢田廉三膳桂之助高木八尺田中耕太郎田島道治塚本虎二鶴見祐輔前田多門三谷隆正森戸辰男藤井武らがメンバーになった。柏会が結成された二年後の明治43年(1911年)秋に『聖書之研究』で、読者であれば誰でも聖書研究会に出席しても良いと広告された。そして、同年10月1日に矢内原忠雄坂田祐らが出席した。矢内原は柏会に入し、坂田は南原繁と別の会を作り、明治45年(1912年)1月30日に、白雨会として発足した。

18歳で夭折した娘ルツ子(1912年)

明治44年(1911年)の春頃より、女学校を卒業した娘のルツ子が原因不明の病のために病床に就くことになった。東洋宣教会の教師・笹尾鉄三郎に信仰の導きを依頼した。内村は看病で聖書研究の準備ができなかった、その頃に『デンマルク国の話』が語られ、学生たちに感化を与えた。内村夫妻の不眠不休の看病にもかかわらず、明治45年(1912年)1月12日にルツ子は18歳で夭折した。

柏木の今井館聖書講堂での内村鑑三の講演(1914年)

柏会は大正5年(1916年)10月に解散して、藤井武、黒岩幸吉、塚本虎二、江原万里金沢常雄、矢内原忠雄、三谷隆正、三谷隆信、前田多門らが、純信仰的集団のエマオ会を創設した。

これらの会は、大正7年(1918年)から内村が再臨運動を始めると発展解消して、同年9月15日に内村以下82名からなる柏木兄弟団になった。しかし、その4ヶ月後には、門下の医者によりサマリヤ会ができ、大正12年(1923年)12月には足洗会という愛の交わりの集会が生まれた。これは、内村の死後も続き戦後「霊交会」という名前になり長く続くことになる。

再臨運動時代

御殿場での内村鑑三(1917年8月)

明治45年(1912年)の娘ルツ子の病死とアメリカ在住のアメリカ人の友人ベルの手紙での感化によって、内村の再臨信仰は形成された。大正6年(1917年)に宗教改革四百年記念講演会が成功に終わったことに励まされ、無教会の特徴である閉鎖的な集会の方針を変えて、大々的な集会を開催する方針になった。大正7年(1918年)より再臨運動を開始した。内村は再臨信仰において一致できるならば誰とでも協力したが、その一人が日本ホーリネス教会の監督中田重治である。もともと中田の設立したホーリネス教会は、主要教理の四重の福音の一つとして再臨を強調していた。

中田重治、木村清松らと再臨運動を始めた頃(1918年頃)

中田と内村は同じ柏木に住んでいた、それまで交流がなかったが、近所で発生した火災をきっかけに交流を持つようになる。互いに再臨信仰への使命も持っていることを知り、急速に接近して協力するようになった。それに、組合教会の巡回伝道者の木村清松と話し合い再臨運動を始めることになった。さらに、アメリカ留学から帰国したばかりの平出慶一武本喜代蔵自由メソジスト河辺貞吉聖公会藤本寿作らなどが加わり、超教派の運動として、再臨運動は展開された。運動は、当初東京や関西を中心に再臨講演会をもっていたが、後に北海道から岡山にまで及び、多くの聴衆が出席した。各地の教会に熱烈な信仰復興が起こり、キリスト教界に大きな影響を与えたが、大正8年(1919年)6月には海老名弾正らを中心に基督再臨反対演説会が開かれるなど、キリスト教会内部での反対運動も大きかった。キリスト教界に賛否両論の議論を生んだ運動は、明確な決着を見ずに、ほぼ2年で終息した。しかし、内村は生涯復活信仰を捨てなかった。

晩年

大正11年(1922年)10月世界伝道協賛会を創設して、世界の伝道事業に貢献する組織を作った。協賛会は毎月一回開かれて、世界の伝道のために祈り、献金が捧げられた。そして、同年暮れには、中国台湾南洋諸島の伝道を援助するために送金された。

大正12年(1923年)7月7日に、自分の後継者と期待していた元弟子の有島武郎が、人妻の波多野秋子と心中した。これを聞いた内村は『萬朝報』に「背教者としての有島武郎氏」という文章を載せた。死の原因を「コスミック・ソロー(宇宙の苦悶)」であるとのべ、激しい怒りを表明した。同年9月1日の関東大震災では長野県沓掛に滞在中で震災を逃れたが、2日に帰京した。内村の家族には被害がなかった。しかし、かれが心血を注いで福音を語った「霊的戦闘のアリーナ」であった衛生会講堂を失った。

内村の聖書講演会(1924年6月15日)

大正13年(1924年)、同年に米国で可決された、排日法案に反対するために、絶交状態にあった徳富蘇峰と和解して、『国民新聞』に何度も排日反対の文を掲載した。また、植村正久や小崎弘道ら教会指導者と「対米問題」について議論を重ねた。

内村鑑三と孫の写真(1926年3月)

大正15年(1926年)には、内村聖書研究会からアルベルト・シュヴァイツァーに送金された。昭和2年(1927年)には、シュヴァイツァー後援会を設けて、事業を積極的に支援した。

札幌農学校の仲間とハリスの墓参(1926年6月)

昭和3年(1928年)6月2日の受洗50周年記念に同期生の新渡戸稲造、広井勇、一期生の伊藤一隆大島正健らと一緒に青山墓地のハリスの墓参りをした。同年7月から9月にかけて、北海道帝国大学の教授として札幌に赴任していた祐之一家と共に札幌伝道を行った。無牧になっていたメソジスト派の札幌独立キリスト教会で説教をし、伝道を助けた[15]。 伝道を終了するにあたって同教会の教務顧問に就任した。この頃から内村は体調を崩し始めた。

内村の既存の教会に協力的な行動に対して反発した塚本虎二らと、無教会主義の考えにおいて対立するようになった。昭和4年(1929年)暮れに、塚本らとの対立は激化して、分離することになった。これが原因で、内村はさらに病状を悪化させた。最晩年に師事したのが、大塚久雄であった。

今井館の前に立つ晩年の内村鑑三

昭和5年(1930年)1月20日に、柏木の聖書講堂で「パウロの武士道」について述べたのが公の場に出た最後であった。3月26日の内村の古希感謝祝賀会には本人は出席できず、長男祐之が挨拶した。翌々日、3月28日朝に「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」との言葉を最後に昏睡状態に陥り、午前8時51分に家族に見守られて死去した

4月6日に内村の遺言により、内村聖書研究会は解散式を行い、「聖書之研究」は第357号をもって廃刊になった。

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内村鑑三「代表的日本人」

日本が欧米列強に肩を並べようと近代化に邁進していた明治時代。日本の精神性の深さを世界に知らしめようと、英語で出版された名著があります。内村鑑三著「代表的日本人」。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮という五人の歴史上の人物の生き方を通して書かれた日本人論です。「武士道」「茶の本」と並んで、三大日本人論の一冊に数えられています。

著者の内村鑑三(1861-1930)は、宗教家、思想家として聖書研究を行い、既存のキリスト教派によらない「無教会主義」を唱えた人物。当時の日本は、鎖国を解いてからわずか50年ほどで日清・日露戦争を勝ち抜き、世界から注目を集めていました。しかし、まだまだ偏見が根強く「盲目的な忠誠心」「極端な愛国心」が特徴の民族との一面的な捉え方がなされており、内村は、真の日本人の精神性を海外に伝える必要性を痛感していました。そこで、内村は、欧米人にもわかりやすいよう、聖書の言葉を引用したり、西洋の歴史上の人物を引き合いに出したりしながら、日本人の精神のありようを生き生きと描き出したのです。

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しかし、この著書は単なる海外向けの日本人論であるにとどまりません。取り上げた日本人たちの生き方の中に「人間を超えた超越的なものへのまなざし」「人生のゆるぎない座標軸の源」を見出し、日本に、キリスト教文明に勝るとも劣らない深い精神性が存在することを証だてました。さらには、西洋文明の根底的な批判や、それを安易に取り入れて本来のよさを失いつつある近代日本への警告も各所に込められています。この本は、単なる人物伝ではなく、哲学、文明論のようなスケールの大きな洞察がなされた著作でもあるのです。

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番組では、批評家の若松英輔さんを講師に招き、現代的な視点から「代表的日本人」を解説。現代に通じるメッセージを読み解き、価値感が混迷する中で座標軸を見失いがちな私達の現代人が、よりよく生きるための指針を学んでいきます。

筧利夫さんからのメッセージ

  • 内村鑑三「代表的日本人」の朗読を担当した筧利夫です。今から100年以上も前に、英語で日本人のことをこんな風に伝えようとしていた人がいたことに驚きました。息の長い文章が多いので、「どこで切るのか」ということを意識して朗読しました。日本人のことが西洋の人たちに興味深く伝わるよう工夫がされていることが文章の端々から伝わってきます。そんな内村の思いが少しでも伝ればうれしいです。

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内村鑑三の『後世への最大遺物』 その1

 

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近代日本を代表する思想家・内村鑑三。主著の一つ「代表的日本人」は日本の精神性の深さを世界に知らしめようと英語で出版した名著だ。とりわけ「西郷隆盛」の章には内村自身の思想が色濃く反映している。明治維新の立役者であり勇猛果敢さが強調される西郷だが、実は、徹底して「待つ人」だった。真に必要に迫られなければ自ら動かない。しかし一度内心からの促しを感じたなら、躊躇することなく決断し動く。それこそが西郷という人物の真髄だった。それは、折にふれて、「自己をはるかに超えた存在」と魂の会話を続け、そこに照らして自らの生き方を問い続けた「敬天愛人」という信条から発するものだった。第一回は、西郷隆盛の生き方を通して、無私に生きるときに開かれる強さや自己を超えた大きな存在に寄り添う生き方の意味を考える。

 

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代表的日本人」には、試練を好機ととらえることで、偉大な改革を成し遂げた日本人が描かれている。米沢藩主・上杉鷹山と農民聖者・二宮尊徳だ。上杉鷹山は、まず自らが変わることで、誰もが不可能と考えた米沢藩の財政を立て直した。「民の声は天の声」という姿勢を貫き、領民に尽くした鷹山の誠意が人々の心をゆり動かした結果である。一方、二宮尊徳は「自然はその法に従うものに豊かに報いる」との信念のもと、どんな荒んだ民の心にも誠意をもって向き合い、道徳的な力を引き出そうとした。その結果、途方もない公共事業を次々と成し遂げていった。第二回は、上杉鷹山と二宮尊徳の生き方を通して、試練を好機に変えていく「誠意」の大事さを学んでいく。

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「代表的日本人」には、「考えること」「信じること」というそれぞれの方法で、ゆるぎない信念を貫き通した人物たちも描かれている。儒学者・中江藤樹と、仏教者・日蓮だ。中江藤樹は「道は永遠から生ず」との信念を生涯つらぬき、たとえ藩主が訪ねてこようとも子供たちへの講義を中断することなく待たせた。また道に反することであれば最も尊敬する母親の意見も聞き入れなかった。一方、日蓮は、若き日、膨大な仏典を読む中で出会った「依法不依人(法に依って人に依らず)」を生涯の座標軸に据え、「法華経」に殉ずる生き方を貫いた。その信念はいかなる権力の脅しにも屈せず、死罪、流罪をも精神の力ではねのけた。第三回は、中江藤樹と日蓮の生き方から、真摯に考えぬき真摯に信じぬいたからこそ得られる「ゆるぎない座標軸」の大切さを学んでいく。

 

 

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「人がどう生きたか」こそが人から人へと伝えられるものであり、それが魂のリレーとなっていく…「代表的日本人」に込められたもう一つのテーマは、内村の有名な講演「後世への最大遺物」と通じあっており、一緒に読み解いていくとその本質がわかっていくと、若松英輔さんはいう。内村にとって生きるとは、自己実現の道程というよりも「後世」に生まれる未知の他者が歩く道を準備することだった。逆に私たちは、何を受け継ごうかと考えて世界を見るとき、はじめて自身に準備されている「遺物」の豊かさに気づくことができる。第四回は「代表的日本人」と「後世への最大遺物」をつないで読み解くことで、内村が私たちに何を遺し伝えようとしたのかを深く考えていく。

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内村鑑三」を生き生きと甦らせたい

内村鑑三「代表的日本人」はずっと心にひっかかっていた名著でした。ですが、そこに込められたメッセージの強烈さ、文明論的なスケールの大きさ、宗教観の奥深さを感じるにつけ、「これは並大抵の解説では誤解を与えかねない」……と取り上げることに慎重になっていました。かくいう私自身も、どうしても理解しきれない、もやもやした部分もあって、企画を書きあぐねていました。

そんなとき、偶然手にとったのが、若松英輔さんの「内村鑑三をよむ」という本でした。一読、これまで頭を覆っていた靄のようなものがすーっと晴れていきました。内村鑑三という存在が、現代に、生き生きと臨場感をもって甦ってくる……といったらよいのでしょうか? 私の記憶の中にある、教科書等に掲載されている内村鑑三の解説は、セピア色ですでに黴臭くなった過去の人といったイメージだったのですが、その内村が、いきなり私の耳元で語りかけてくれている……といった印象をもったものです。

こんな生き生きとした内村鑑三像が番組を通じて浮かび上がれば……という強い思いをもち、若松さんの事務所を訪ねました。打ち合わせは、本当に知的興奮にあふれるもので、私自身、内村鑑三や「代表的日本人」についての印象を次々に一新させられたことを今でも思い出します。

実はもう一つ、今回の企画の腹案で、私個人も高校時代に読んで大きな影響を受けた「後世への最大遺物」という内村鑑三の講演録をなんとか合わせて番組に盛り込みたいという思いがありました。ただ、「代表的日本人」と「後世への最大遺物」には、何か通底するテーマがあると直観はしていたのですが、これがまたうまく言葉にできない状況でした。ところが、この二つの「名著」をつなぐ見事な読み解きも、若松さんが提示してくださいました。

今回の番組制作は、講師の若松さんとともに、「読む」という行為の可能性の豊かさを、あらためて痛切に感じることができた稀有な体験でした。視聴者の皆さんが、同じような感動と興奮を味わっていただけけたらうれしいです。

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内村鑑三の名言

内村鑑三のプロフィール

内村鑑三

内村 鑑三(うちむら かんぞう/1861年3月23日-1930年3月28日/男性)は、武蔵国江戸出身の思想家文学者伝道者聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づいて日本独自の無教会主義を唱えたほか、キリスト教者の立場から非戦論を強く展開。社会主義者との関係も深かったが、後年には社会主義も否定する立場をとっており、「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である」とし、社会主義は国と国との戦争が無くなるだけで、階級と階級の間に争闘が絶えることはないとした。また、木村清松や中田重治らとともに再臨運動(プロテスタントの超教派運動)を展開し、キリスト教界に賛否両論の議論を生んだ。(参考文献・出典:ウィキペディア+Amazon.co.jp書籍紹介情報)

著作

主な著作に『代表的日本人/Representative Men of Japan(「Japan and Japanese」の改訂版)』『基督信徒のなぐさめ(処女作)』『求安録』『地人論(旧題:地理学考)』『後世への最大遺物(講演録)』『余は如何にして基督信徒となりし乎(How I Became a Christian)』『デンマルク国の話(講演録)』『キリスト教問答』などがある。

内村鑑三の名言集

人生にとって
一番の幸福とは何か?

それは自分の天職を知って
これを実行に
移すことである。

喜びの声を発すれば
喜びの人となり

悲しみの声を発すれば
悲しみの人となる。

一日は
貴い一生である。

これを
空費してはならない。

後世へ遺すべき物は
お金、事業、思想もあるが

誰にでもできる
最大遺物とは

勇ましく高尚なる
生涯である。

自己に頼りなさい。
他人に頼ってはいけません。

本業に集中しなさい。
そうしればおのずと
事業は発展していきます。

<原文>

本を固うすべし。
然らば事業は
自ら発展すべし。

成功本位の米国主義に
ならう必要はない。

誠実本位の日本主義に
のっとりなさい。

急ぐべからず。
何事もあせらずに
ゆっくり行きなさい。

雇人は、
兄弟と思いなさい。

客人は、
家族として扱いなさい。

誠実から得た信用は
最大の財産となる。

清潔、整頓、堅実を
主としなさい。

もし全世界を
手中に収めようとも

そのために自分の魂を
失ってしまえば
一体何の意味があろう。

人生の目的は
金銭を得ることではない。
品性を完成することである。

※「地球の名言」では読者の方が読みやすく・わかりやすくするために、一部の名言に当サイト独自の中略(前・後略含む)・翻訳・要約・意訳等を施しています。そのため、他の名言サイト様とは表現が異なる場合がありますのでご了承ください。

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人の生涯は、罪を犯しつつ死を前に望む恐怖の生涯である。罪の苦悶と死の恐怖と、この二つは、人が墓までたずさへゆくべき道づれである。

内村鑑三 「ロマ書の研究」


信仰は信仰に由て維持する能はず、信仰は労働に由てのみ能く維持するを得べし、信仰は根にして労働は枝なり。

内村鑑三 「所感十年」


婦人を遇するの道は、その高貴なる品性をはげますにあり、その賎劣なる虚栄心に訴ふるにあらず。

内村鑑三 「独立宣言」


家庭は日本人最大多数に取りては幸福なる処ではなくして忍耐の所である。

内村鑑三 「所感十年」


恐るべき者は宗教家にあらず、彼等は時代の子なり、神の僕に非ず、彼等は時代の思潮に逆ひて何事をも為し得る者に非ず。

内村鑑三 「所感十年」


恐るべき者は政治家にあらず、彼等は権力の阿従者なり。正義の主張者に非ず、彼等は権力の命令に抗して何事をも存し得る者に非ず。

内村鑑三 「所感十年」


恐るべき者は新聞記者にあらず、彼等は時勢の従属なり、其指導者にあらず、彼等は時勢の要求に反して何事をも語り得る者に非ず。

内村鑑三 「所感十年」


愛に恐怖なし、最上の道徳たればなり。愛に疑惑なし。最大の真理たればなり。愛に束縛なし、真箇の自由なればなり。

内村鑑三 「所感十年」


政治に野心がある、好策がある、結党がある、政治は清浄を愛し、潔白を求むる者の入らんと欲する所ではない。

内村鑑三 「所感十年」


真の愛は悪に対する憎悪を十分にふくむものである。仮面的の愛または浅き愛は、悪を憎むことを知らない。けれども深き真なる愛は、かくあることはできないのである。

内村鑑三 「ロマ書の研究」


自然の自然は自然なり。自然主義者の自然は不自然なり

内村鑑三 「聖書之研究」