今でも大きな影響力を 米国をはじめ 世界に与え続けている。新渡戸稲造さん。
心意気とご本が書かれた背景を知ると 人間として このように生きたいと切に思う。
生まれ育った環境。先輩諸氏の導きもあったと思いますが
何より 本人の飽くなき探求と 筆舌し難い猛烈な努力。類まれなる闘争心
人間としての何処までも深い優しさ。経歴なども半端でない日本を代表する
お方だ。 で昔から憧れの師とあおぐ大先輩のお一人。
翻って わが身の半生を反芻すると、こんな自分に 何が出来るだろう?
と思ってしまう。
だけど 一般ピープルとして 何か出来るのではと 年々想いが募って来た。
政府が中々出来にくいことは 自分たちが支えねばとの思いから 40歳の
頃 自分たちは 影の通産省。
闘志が燃えてくる。新渡戸稲造さんの「姿勢と生き方」に随分教えれて来た。
意思を継いで 現在の世の中で どのように生きれば良いのか??
これまでの私の74年間も模索の時を過ごし、今でも模索は続く。
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AAA. 戦後70周年「真の愛国心 ~武士道と新渡戸裁定~」
新渡戸シリーズ 第4弾 HiramekiTV 2014/02/11 チャンネル登録 1.1万
世界的ベストセラーとなった『武士道・BUSHIDO』の著者・新渡戸稲造。 第一次世界大戦後に設立された国際連盟では、その知識・教養をかわれ、国際連盟の事務次官に就任します。 オーランド諸島を巡っての領土紛争問題では、その解決に大いに貢献し、「新渡戸裁定」として、今も世界から賞賛を受けています。 新渡戸裁定とはどのようなものだったのか。現代にも通じる領土問題に、新渡戸稲造が出した答えとは。 そして、そこから見えてくる「真の愛国心」とは。 新渡戸稲造研究の第一人者・佐藤全弘氏に、その内容を語っていただきます。
111. 武士道(ぶしどう)は、日本の近世以降の封建社会における武士階級の倫理・道徳規範及び価値基準の根本をなす、体系化された思想一般をさし、広義には日本独自の常識的な考え方をさす。これといった厳密な定義は存在せず、時代は同じでも人により解釈は大きく異なる。また武士におけるルールブック的位置ではない思想である。一口に武士道と言っても千差万別であり、全く異なる部分が見られる。
武士道は江戸時代、支配階級である武士に文武両道の鍛錬と徹底責任を取るべきことが求められたことに始まる。狭義の武士道は、この「文武両道の鍛錬を欠かさず、自分の命を以って徹底責任をとる」という武士の考え方を示し、広義の武士道は、この考え方を常識とする日本独自の思想を示す。
なお、この武士道、という言葉は、新渡戸稲造の著書『武士道』で広まったものであり、「武士道」という言葉は明治33年(1900年)以前のいかなる辞書にも載っておらず、実際には江戸時代には一般的な言葉ではなかった、との指摘もある。
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新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日(文久2年8月8日) – 1933年(昭和8年)
Bushido: The Soul of Japan is, along with Hagakure by Yamamoto Tsunetomo (1659–1719), a study of the way of the samurai. A best-seller in its day, it was read by many influential foreigners, among them President Theodore Roosevelt, President John F. Kennedy and Robert Baden-Powell, the founder of the Boy Scouts.
Nitobe originally wrote Bushido: The Soul of Japan in English (1899), in Monterey, California, though according to the book’s preface it was written in Malvern, Pennsylvania. The book was not translated into Japanese until it had been popular in the English-speaking world for several years.
As Japan underwent deep transformations of its traditional lifestyle and military while becoming a modern nation, Nitobe engaged in an inquiry into the ethos (精神、気風)of his nation, and the result of his meditations was this seminal work(精霊書). A fine stylist in English, he wrote many books in that language, which earned him a place among the best known Japanese writers of his age.
He found in Bushido, the Way of the Warrior, the sources of the seven virtues most admired by his people:
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BBB. 世界中で読まれた「武士道」新渡戸稲造 シェード イントゥ 2017/10/26
チャンネル登録 3410
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逸話: 新渡戸稲造とフィンランド 「新渡戸君、6千億円かかった大芝居
(第一次世界大戦)だ。一つ見に行こうではないか」
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あの後藤新平の誘いに乗って新渡戸稲造が一緒に欧米の旅に出たのは大正8年(1919年)。この洋行が新渡戸の人生を大きく変える運命の旅になります。その頃フランスのパリでは、大戦後の平和条約とともに国際連盟が誕生していました。途中から参戦した日本は棚ぼた式に戦勝国になったので、事務次長のポストが割り当てられていました。
日本全権の西園寺公望や牧野伸顕(大久保利通の次男)らは、その人選に苦慮。「語学が堪能で、見識もあり、人格も素晴らしく、欧米人の中で仕事をしても遜色ない人物」というのが条件だったのです。
ちょうどそんな折、後藤や新渡戸らがパリに現れた。牧野は新渡戸を見て「ああ、ここに適任者がいた」と小さく叫んだそうです。後藤や友人たちの強い押しもあって一度は固辞していましたがついに新渡戸は事務次長の職につくことに。
(国際連盟時代の新渡戸稲造)
彼は国際連盟の事務次長として数多くの実績を残しました。ユネスコの前身となる国際知的協力委員会(ICIC)をアインシュタインやキュリー夫人などを委員に立ち上げて運営したこと、そして、スウェーデンとフィンランドの間にあるオーランド諸島の帰属問題を解決した「新渡戸裁定」がとくに有名です。両国の紛争の火種になっていたオーランド諸島。新渡戸裁定とは、この地域はフィンランドの自治領として最大限の自治を保証するとともに、スウェーデンに親近感を持っていた住民感情に配慮し、公用語はスウェーデン語とする、というのがその内容です。
新渡戸の決断から90年近くたったオーランドは、自治領としての恩恵を受けて自立した経済の発展を謳歌しています。新渡戸の裁定は、対立する二つの国の体面を保ち、オーランドの住民が妥協できる点を探った結果ですが、おかげでオーランド諸島はいまや平和モデルの島となり、領有権争いに悩む世界各国の視察団が来るまでになりました。住民は口々にこう言っています。「新渡戸さんをとても尊敬しているの。だって、彼がこの島を平和にしてくれたんだから」フィンランドが毎年桜祭りが行われるほど親日国なのは新渡戸が残した功績のおかげなのです。
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武士道「義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義」
- Gi (rectitude, justice, righteousness, integrity)
- Yuki (courage, valor, bravery)
- Jin (humanity, charity, benevolence)
- Rei (respect, courtesy, etiquette, civility)
- Makoto (honesty, sincerity)
- Meiyo (honor, dignity)
- Chugi (loyalty)
(1)rectitude,(義、直観・純潔)
(2) courage, (勇、勇気)
(3) benevolence (仁、慈悲)
(4) politeness,(礼、丁寧さ・礼儀正しさ)
(5) sincerity,(誠、誠意)
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CCC.日本初のイスラエル大使&パレスチナ大使 同時対談。2011年12月
Israel 2008~2012 H.E. Mr. Nissim BEN-SHETRIT,Ambassador, Israel
Palestine 2003 ~ today H.E.Mr. Waleed Siam, Ambassador, Palestine, Japan, now Dean of Arabic Diplomat Corp, Japan This Interview to both respectful Ambassadors led to Japan Mission Team organization and brought Private sector’s
Japan Mission Team (consists of 17 ~ 47 members) to both Countries, each five(5) days at first time.Japan Role in Israel & Palestine Japan Mission What can Japanese do ?
Japan Mission to Palestine and Israel, 4 times thanks to both Ambassadors.
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一般社団法人 縄文ワールドネットワーク 新規に立ち上げた。
Report to Minister, Mr. Yoshiaki Harada, Minister of
Environment Ministry (原田義昭環境大臣)
(1) We have reported the progress of our activities till today to H.E. Mr.Yoshiaki Harada,
Minister of Environment Ministry, who has given the wonderful speech at the special
forum by our newly established ” Foundation of Jomon World Network “
at the Japan Assembly house hall on 30th January, 2019. and we will promote
our activities with support by Environment Ministry and other Ministries soon
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He also delved into the other indigenous traditions of Japan, such as Buddhism, Shintoism, Confucianism and the moral guidelines handed down over hundreds of years by Japan’s samurai and sages. Nitobe sought similarities and contrasts by citing the shapers of European and American thought and civilization going back to the Romans, the Greeks and Biblical times.
He found a close resemblance between the samurai ethos of what he called Bushido and the spirit of medieval chivalryand the ethos of ancient Greece, as observed in books such as the Iliad of Homer.
誰もが天才を超える塾 山元雅信
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武士道
「義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義」からなる道徳。
当時の食事は一汁一菜が基本の質素なもので、多くの使用人をかかえる武士屋敷でも献立にさほど違いはなかった。武士たちにとって贅沢は人格に悪影響を与えるもっとも恐れるべきものだと考えられていた。
刀は武士の魂、たとえ飢え死にしても売るわけにはいかない。武士道は刀をその力と武勇の象徴とした。幼少のころから刀の使い方を教えられる。まずは木刀から始まり、15歳で元服すると真剣を携帯しての行動を許される。その時彼が自覚するのは自尊心と、危険な凶器を往来で持ち歩くことに対する責任感である。
左から 国分さん エジプト大使 ザヒ・ハワス博士(JWN特別顧問)、山元雅信
エジプト・アラブ共和国大使アイマン・アリ・カーメル 閣下 His Excellency
Mr. Ayman Aly KAMEL Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary of
the Arab Republic of Egypt.
★現在 ザヒ・ハワス博士と 超古代遺跡ネットワークWorld Super Ancient Ruins
Networkを設立準備中。同時に各国大使館に 働きかける。
We have started with Egypt Embassy and we like all Embassies staying in Japan
to join this organization.
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HE. Mr. Manlio Cadelo, Ambassador, Republic of San Marino, Delegation head of the delegation
to Japan, who has kindly accepted to become Honorary Adviser of Foundation Japan Jomon World
Network.
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(1)義
人間としての正しい道、正義を指すものであり、武士道のもっとも厳格な徳目である。
時は戦国時代。越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は当時の有力な戦国大名だった。両者はともに天下統一を目指しぶつかりあうライバルである。そしてもうひとり、上杉謙信と同じく武田信玄と対立していた今川氏真は、武田領内へ商人が往来するルートを断った。1567年の塩留めである。領土に海のない甲斐国では死活問題である。苦しむ信玄にある日、謙信から手紙が届いた。
「私が信玄殿と戦っているのは弓矢の上であって、米や塩で戦っているわけではない。今後塩が必要ならわが国から供給しましょう」敵に塩を送る。この諺は義を重んじる上杉謙信のエピソードが元になったとされる。
義は体に例えるなら骨である。骨がなければ首も正しく胴体の上につかず手も足も動かない。つまり、たとえ才能や学問があったとしても、義の精神がなければ、武士ではない。
武士にとってお金などは二の次である。打算や損得から離れ、自分が正しいと信じる道を貫くことが武士の正しい姿とされた。武士はとにかく銭勘定を嫌った。銭勘定はつまり損得を追求する行為だからである。だから商売は商人たちにまかせて、上位の身分である武士たちは人々の模範となる生き方を追求した。打算や損得を超越し、自分が正しいと信じる道を貫く。武士道の中心となる良心の掟、これが義の精神である。
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(2) 勇
勇とは、義を貫くための勇気のこと。勇気といっても、わざと危険を冒して討ち死にすれば単なる犬死にである。武士道ではこれを匹夫の勇と呼びさげすんだ。
勇気とは恐れるべきこととそうでないことがわかることだ。—-哲学者プラトン
本当の勇気とは生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬことである。—-徳川光圀
武士は幼少のころから匹夫の勇と、真の勇気「大勇」の区別を学ぶ。冬の寒空の中肉体をさらさせたり、処刑場の恐ろしい光景を見に行かせた。
武士にとって犬死にはつまらない行為だが、自分が間違いないと思うことに対してはためらうことなく命をかけて戦わなければならなかった。勇をまっとうするためには肉体的強さが不可欠なのだ。義の精神をいくら机の上で学んでも、自分より強い暴漢に怯えて実行できなければ無意味である。武士たちは精神修行と同時に肉体を鍛えた。文と武の両立、つまり文武両道を追求していた。
義をみてざるは勇なきなり。勇とは勇気、正義を敢然と貫く実行力である。
若者たちの勉強会 鴻鵠塾
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(3) 仁
仁とは、人としての思いやり、他者への憐れみの心のこと。
武士の情けには、仁の精神が内在している。弱き者や負けた者を見捨てない心、高潔で厳格な義と勇を男性的な徳とするならば、仁は女性的なやさしさ、母のような徳。
義に過ぐれば堅くなる、仁に過ぐれば弱くなる。—-伊達政宗
仁の力を疑うものは、薪についた大火を茶碗一杯の水で消せなかったと言って、水で火は消せなかったと思うようなものである。—-孟子 他者への思いやりを忘れてはならない。仁の精神は、人の上に立つ者の必須項目である。
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(4)礼
仁の精神を育て、他者の気持ちを尊重することから生まれる謙虚さがつまり礼の根源である。
礼とは他者に対する優しさを型として表したものである。日本では古来よりお辞儀の仕方、歩き方など、きめ細かな規範がつくられかつ学ばれていた。食事の作法は学問となり、茶の湯は儀式を越え芸術となった。茶の湯の作法は初心者にとって退屈なものだが、この定められた方法が結局時間と手間を省く最上の方法であることを発見する。礼儀作法はさまざまな流派が存在しているが、心で肉体をコントロールし心を磨くという点において目的はひとつである。
度をすぎた礼はもはやまやかしである。—-伊達政宗
礼の作法も、気持ちがこもっていなければ型をなぞっただけの、わざとらしいものになるということだ。「つまらないものですが…」贈り物をするとき日本人がその品物の値打ちを軽く表現することに対して、アメリカ人は強い違和感を感じるようだ。
① 贈り物をするときのアメリカ人の論理はこうである。この品物は素晴らしいものです。そうでなければあなたにあげられません。粗末なものをあげるなんて、あなたに対して失礼ですからね。
② これに対して、日本人の論理はこうである。
あなたは立派なかたです。私の気持ちを受け取ってください。この程度の品を最高のものだと言ったら、立派なあなたに失礼ですが。アメリカ人は贈り物そのものに心を向けているのに対し、日本人は贈る気持ちのほうに心を向けている。相手を思う気持ちは共通しているのだ。
山元学校
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(5)誠
誠とは文字通り、言ったことを成すこと。「武士に二言なし」という言葉は、武士道の徳目のひとつ、誠から生まれた。武士にとってウソをつくことやごまかしは、臆病な行為とみなされた。武士たちは銭勘定を嫌い、誠の精神に基づき証文さえもつくらない。
士農工商、この身分制度は、知恵ある序列だった。貴族を商業からしめ出すことは、権力者に富を集中さえないためのすばらしい政策である。—-モンテスキュー 富の道が名誉の道ではない、侍たちはそれを知って名誉の道にこだわった。
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(6)名誉
侍の妻たちは立派だった。金よりも名誉を重んじる夫のために、笠や提灯作りの内職で家計を支えた。女は武士の主君に対する忠義心と同じくらいの思いで家を守り、身を清く保った。それを内助の功という。
名誉の観念は外聞や面目などの言葉で表されるが、裏を返せばすべて「恥」を知ることである。「恥ずかしいことをするな」「対面を汚すな」「人に笑われるぞ」武士の間では羞恥心を知ることを幼少の教育においてまずはじめに行われた。
恥は道徳意識の基本であり、武士道における名誉とは、人としての美学を追究するための基本の徳である。しかし侍は恥を恐れるあまり、病的ないきすぎに陥ることもあった。取るに足らないことに腹をたてることこそ、武士にとって恥ずかしい行為である。
人の一生は重荷を負って行くが如し 急ぐべからず 堪忍は無事長久の基 己を責めて人を責むべからず。—-徳川家康
負けるが勝ちという言葉がある。私は人を殺すのが嫌いで、ひとりも殺したことがないよ。人に斬られてもこちらは斬らぬという覚悟だった。なに蚤や虱だと思えばいいのさ。チクリチクリと刺してもただ痒いだけだ。生命に関わりはしないよ。—-勝海舟
戦わずして勝つ、血を見ない勝利こそ最善の勝利。武士の究極の理想は平和である。武士道の名誉とは、名を尊び、自分に恥じない高潔な生き方を貫くことである。武士たちはどう美しく死ぬかを追求したが、それは同時になんのために生きるか、という哲学に帰着する。
一般社団法人 縄文ワールドネットワーク 山元は副理事長
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(7)忠義
これまでの徳目は儒教思想に基づいたもので、あらゆる階級の人々にもあてはまるが、これは武士唯一の特殊な徳目。
忠義とは主君に対する絶対的な従順のことである。一見その本質は日本の封建社会が生み出した政治理念にも見えるが、共通の考え方が海外にもあった。
個人は国を担う国家の一部として生まれてくるのだ。—-アリストテレス
あなたは今まで国家に生まれて教育されてきたのに、自分が国家の家来ではないと国家に向かって言えるのか。—-ソクラテス
西洋の個人主義においては主君に対して個人と別々の利害が認められているが、武士道において個人・家族そして広くは組織・国家の利害は一体のものである。
主君の命令は絶対だったが、武士は主君の奴隷ではなかった。主君の間違った考えに対して本物の武士たちは命をかけて己の気持ちを訴えた。忠義とは強制ではなく、自発的なものである。武士たちはあくまで己の正義に値するものに対して忠義を誓ったのだ。
山元学校 2次会
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萌芽 侍 1860年。 写真: フェリーチェ・ベアト.
「武道」、「家訓」、「戦陣訓」、および「武家故実」を参照「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物は、江戸時代初期に成立し、原本が武田家臣春日虎綱(高坂昌信)の口述記とされる『甲陽軍鑑』である。ここでの武士道は、個人的な戦闘者の生存術としての武士道であり、武名を高めることにより自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いている。
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎の遺した家訓に表れているように、自己を高く評価してくれる主君を探して浪人することも肯定している。また、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」という朝倉宗滴の言葉に象徴されるように、卑怯の謗りを受けてでも戦いに勝つことこそが肝要であるという冷厳な哲学をも内包しているのが特徴.
これらは主に、武士としての生き方に関わるものであり、あくまでも各家々の家訓であって、家臣としての処世術にも等しいものである。普遍的に語られる道徳大系としてのいわゆる「武士道」とは趣が異なる。 武士道は江戸時代には武道ともいわれたがこれはのちに武術を指すようになった。
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DDD. BUSHIDO: SOUL OF JAPAN – Full AudioBook – Inazo Nitobe
205 回視聴 AudioBookBin 2014/07/16
発展と深化
道徳大系としての武士道は主君に忠誠し、親孝行して、弱き者を助け、名誉を重んじよという思想、ひいては「家名の存続」という儒教的態度が底流に流れているものが多く、それは江戸期に思想的隆盛を迎え、武士道として体系付けられるに至る。しかし無論、儒教思想がそのまま取り入れられた訳ではなく、儒学の中では『四書』の一つとして重要視されている『孟子』を、国体にそぐわないものであると評価する思想家は多い。
この辺りに、山岡鉄舟が言うような武士道の武士道たる所以があるものと言える。また、思想が実際の行動に顕現させられていたのが、武士道としての大きな特徴である。
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EEE. 音声で聴く 「新渡戸稲造の名言」20話
15,596 回視聴 Information Factory 2014/08/02 チャンネル登録 1798
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山鹿素行
江戸時代の安定期に山鹿素行は「職分論」の思想へ傾いていく。武士がなぜ存在するのかを突き詰めて考えた山鹿の結論は武士は身分という制度ではなく自分が(封建)社会全体への責任を負う立場であると定義をすることで武士となり、(封建)社会全体への倫理を担うとするものであった。例えば朱子学は、人間は自分の所属する共同体へ義務を負うとした。この共同体で最上のものは国家である。国家を動かすシステムは幕藩体制でありこれはそのまま武士階級の倫理を意味している。
山鹿はこれに対し人間は確かに国家に属しているが武士に(封建)社会全体への義務を負わせることを選んだ存在も確かにいるとした。これは人間でもなく、社会でもない。人間は自ら倫理を担うものであり、社会は倫理に基づいて人間が実践をする場である。国家という制度のように目には見えないが武士を動かしたそれを山鹿は天とした。そのうえで自らが所属する共同体への倫理と天からあたえられた倫理が衝突した場合に武士は天倫を選択すると考えた。
幕府は山鹿を処罰した。山鹿は朱子学を批判したが、制度により共同体がつくられ所属する人間に倫理を担わせると考えるのは現実には学校や会社という制度で今日も生きており、逆に山鹿の考え方は少数派となっている。
海賊テレビ 収録
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思想としての武士道
近世における武士道の観念
武士(さむらい)が発生した当初から、武士道の中核である「主君に対する倫理的な忠誠」の意識は高かったわけではない。なぜなら、中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、「奉公とは「御恩」の対価である」とする観念があったためである。この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」といった考え方は当時は主流ではなかった。体系付けられたいわゆる武士道とは言えず、未熟である。
江戸時代の元和年間(1615年 – 1624年)以降になると、儒教の朱子学の道徳でこの価値観を説明しようとする山鹿素行らによって、新たに士道の概念が確立された。これによって初めて、儒教的な倫理(「仁義」「忠孝」など)が、武士に要求される規範とされるようになったとされる[3]。山鹿素行が提唱した士道論は、この後多くの武士道思想家に影響を与えることになる。
享保元年(1716年)頃、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠』[4]が佐賀藩の山本常朝によって著される(筆記は田代陣基)。これには「無二無三」に主人に奉公す、といい観念的なものに留まる「忠」「義」を批判するくだりや、普段から「常住死身に成る」「死習う」といったことが説かれていたが、藩政批判などもあったせいか禁書に付され広く読まれることは無かった。
幕末の万延元年(1860年)、山岡鉄舟が『武士道』を著した。それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。
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明治時代以降の武士道の解釈
明治維新後、四民平等布告により、社会制度的な家制度が解体され、武士は事実上滅び去った。実際、明治15年(1882年)の「軍人勅諭」では、武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされた。ところが、日清戦争以降評価されるようになる。例えば井上哲次郎に代表される国家主義者たちは武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとした。
新渡戸はキリスト教徒の多いアメリカの現実(人種差別など)に衝撃を受け、同時にキリスト者の倫理観の高さに感銘を受けた。新渡戸は近代において人間が陥りやすい根っこにある個人主義に対して、封建時代の武士は(封建)社会全体への義務を負う存在として己を認識していたことを指摘している。無論これは新渡戸の考えである。
同時に新渡戸にとって武士は国際社会において国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されていると説明するのに最適のモデルであったとするのが今日の一般的な見方である。そのため彼の考えを正当とされるよりも、批判がなされることもあった。
新渡戸を含めたものたちにとって日本の精神的土壌をどのように捉えるかは大きなテーマであり武士道はその内の検証の一つとされている。正宗白鳥は短編の評論『内村鑑三』(昭和25年(1950年))の中で、自分の青年期に出会った内村を心の琴線に触れる部分はあったが概してその「武士道」の根太さが大時代な分だけ醒めた視線で見ていたと率直に表現している。
志大賞 実行委員会 実行委員長拝命。
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武士道の思想的な核心について西部邁はこう述べている。
「自死」を生における企投(きとう)のプログラムに組み込まないなら、生そのものがニヒリズムの温床となる。そのことは山本常朝の『葉隠』においてすでに指摘されていた。武士道の思想的な核心は、自死を生の展望のなかに包摂(ほうせつ)することによってニヒリズムの根を絶とうとするところにある。
「人間的条件の限界内にとどまることを敵視する(神学的な)形而上学から脱け出し、人間的な“より善く”の探究を(宗教的な)至高善の名において誹謗(ひぼう)するあの不幸な意識を一掃し、死そのものをではなく死ぬことを定められたすべてのものを虚無だと言い捨てるニヒリズムの遺恨の根を枯(か)らすこと」(モーリス・パンゲ)、それが自死の選択である。
— 西部邁 『虚無の構造』 中央公論新社〈中公文庫〉、2013年、
新渡戸稲造の『武士道』
新渡戸稲造は現地の教育関係者との会話において日本における宗教的教育の欠落に突き当たった結果、1900年にアメリカ合衆国でBushido: The Soul of Japan[5][6]を刊行した。本書はセオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディ大統領など政治家のほか、ボーイスカウト創立者のロバート・ベーデン=パウエルなど、多くの海外の読者を得て、明治41年(1908年)に『武士道』[7]として桜井彦一郎(鴎村)が日本語訳を出版した。さらに、昭和13年(1938年)に新渡戸門下生の矢内原忠雄の訳により岩波文庫版[8]が出版された。
『武士道』においては、外国人の妻にもわかるように文化における花の違いに触れたり19世紀末の哲学や科学的思考を用いたりしながら、日本人は日本社会という枠の中でどのように生きたのかを説明している。島国の自然がどのようなもので日本独特の四季の移り変わりなどから影響を及ぼされた結果、日本人の精神的な土壌が武士の生活態度や信条というモデルケースから醸成された過程を分かりやすい構成と言葉で読者に伝えている。
例えば、武士や多くの日本人は、自慢や傲慢を嫌い忠義を信条としたことに触れ、家族や身内のことでさえも愚妻や愚弟と呼ぶが、これらは自分自身と同一の存在として相手に対する謙譲の心の現れであって、この機微は外国人には理解できないものであろう、といったことを述べている。しかしこれは新渡戸独特の考えであり、彼の思想を批判する書も出されている。
山元学校 2次会
近現代における武士道
武士道は日本の発展にも重要な精神となった。武士道の精神を基本とした士魂商才という言葉も生まれ、拝金主義に陥りがちであった精神を戒め、さらに商才を発揮することで理想像である経営者となることを表すものであった。このような経営哲学・倫理は欧米でも戦後に発達し、帝王学に類似した学問も登場した。今日では企業の倫理が問われるようになっており、経営者や戦略における要素となっている。武士道などの精神は経営学系統の大学、高校において標語として採用している場合もある。
現在では国際化の進展に合わせて日本の武士道などの日本経営精神に対する必要性を挙げるものもいる。『武士道』の著者である新渡戸稲造も祖父が商人としての成功があったが、商業倫理に関する言葉を残している。他にも渋沢栄一は今後の時代に必要な武士道を説くなどと明治時代から大正デモクラシーにかけての日本の実業に関する精神が唱えられ、日本的経営に必要な背骨となった。
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