世界の先住民族 Indigenous peoples of the world 190102 (水)

写真の説明はありません。

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★出口会長からコメント:重要議題として審議をお願いします。 会員を募るのか、イベントに呼ぶのか、古代文字研究者、縄文関係者など、出口に何を期待するのかで、司会のトークやアンケートの内容が変わってきます。縄文の活動に具体的に弾みがつくようにやりましょう!よろしくお願いします!

★2/14のメキキユニバーシティ縄文編をあげさせてください。 300人近い人を集めたいと思ってます。 光さんは、明日、前から入っている別法人のミーティングで参加できませんが、縄文ワールド・ネットワークの発起人や賛同者を集める場として、光さんの持ち時間を使ってでも取り組みたいと言ってくれました。 皆さん、嬉しいではないですか! 明日は、よろしくお願いします。

★(今井さんコメント:縄文ロハスカフェは、地域の活性をテーマに、自治体と組して、地域交流の場所として、全国の縄文遺跡がある78カ所の自治体の集まりである縄文文化発信サポーターズにそれぞれの遺跡施設に、縄文集いの場、情報交換の場として、健康的で安全な材料を提供するLOHASなカフェとして提案したいと考えます。これは縄文ワールドネットワークの地域活性事業としたいと思いますが、如何でしょうか? この場所から縄文に触れて縄文に興味を持つキッカケになる場になればと思います。 それぞれの遺跡施設に提案したいと考えましたが、如何でしょうか?

★ (今井さんコメント)一番私たちに期待しているのは、縄文遺跡に観光客が訪れる手助けをすることです。 聖火台になり、かつアイヌが開会式に行進して、2020年に縄文が世界から注目されます。まず国内でこれを盛り上げたいというのが、全国78カ所の遺跡、縄文文化発信サポーターズの願いです。これに協力することが縄文ワールドネットワークの役割ては無いでしょうか?

★名取さんコメント: まずは78カ所を繋げ、情報発信のお手伝いをして信頼を得ることが大切かと。カフェは信頼を得た後の方がよいのではないでしょうか?

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000.(1) 世界先住民平和フォーラム (今井さんコメント:浦川さんに2020年の先住民平和会議の先導をして頂くようにお願いをしてまいりました。 7日に、実行委員会の設置を提案させて頂きたいと思います。 縄文ワールドネットワーク、目的に向けて船出の年です。)

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① 世界先住民平和フォーラムは、平和の祭典である東京オリンピックとパラリンピックの開催までの間、世界の先住民族の人権と基本的自由をテーマにしてそれぞれ固有のアートや音楽、芸術表現、さらには独自の文化に育まれて生まれた食文化などを体験する場であり、彼らとの出逢いを通した触れ合いの中で、先住民が共通して大切にしている「OneThird」のフィロソフィーを体現して、先住民族の存在を知って頂く場を創出します。

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② また同時に、先住民族の権利を向上させるために国や民族、言葉や宗教などを越えた人たちによるトークフォーラムを開催します。その目的は、彼らのアイデンティティーを理解し、先住民族の権利を守るために世界ががどうすべきかを一緒に考え、情報を交換しながら、その存在をリスペクトする人たちが増えることを目的にしています。世界中の言葉や宗教、異なる民族や人種の壁を越えて、一人でも多くの人々が手を結び合い、より平和な世界に寄与する活動へと発展させるための先住民平和宣言を発したいと考えています。

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③ 世界先住民族会議は、世界の先住民族による国際的連合体。 1975 年 10 月にカナダで開催された「第 1 回国際インディアン会議」の際に結成されました。本部はカナダのオタワに置かれ。a. 北アメリカインディアンやb. イヌイット (→エスキモー ) ,c. ラテンアメリ カのインディオ (→ラテンアメリカインディアン ) ,d. オーストラリア先住民 (アボリジニ) ,e. 日本のアイヌなど,先住民 族の政治的・経済的・社会的権利の保護,衰退しつつある固有文化の保持などを目的に活動を展開しており,「先住権」や先住民自身による「自決権」の確立を求めています。

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④ 2007 年、画期的な「先住民族の権利に関する宣言(Declaration on the Rights of Indigenous Peoples)」が総会によって採択され、文化、アイデンティティ、言語、雇用、健康、教育に対する権利を含め、先住民族の個人および集団の権利を規定して先住民族の制度、文化、伝統を維持、強化し、かつニーズと願望に従って開発を進める先住民族の権利を強調しています。

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⑤ また、先住民族に対する差別を禁止し、先住民族に関係するすべての事項について完全かつ効果的に参加できるようにする。それには、固有の生活様式を守り、かつ経済社会開発に対する自身のビジョンを追及する権利も含められます。

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A.北海道先住民「アイヌ」について詳しく解説!アイヌ語・子孫・差別の現状とは…25,838 回視聴  ハテナ見聞録

2018/04/09  北海道周辺で暮らしていたと言われる先住民、 「アイヌ民族」。 アイヌ民族を描いた漫画作品「ゴールデンカムイ」の影響で、 今アイヌ民族が話題となっています。 独自の文化、歴史的背景による迫害、差別… 現在にいたるまで、アイヌを守ろうとする活動が各地でおこなわれています。

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B.アイヌのイベントに坂本龍一氏を招待 LunaticEclipseAinu2

2015/01/06  チャンネル登録 59 <参照> 神々のうた 大地にふたたび アイヌ少女 知里幸恵の闘い / あるダムの履歴書:二風谷ダム / スコットランド 響き合うアイヌの心 / 先住民族サミット アイヌモシリ / アイヌとして生きる http://ima-ikiteiruhushigi.cocolog-ni…

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★備考(山元)先住民族の人たち。一番なじみの深いアイヌの人々。予言の民 ホピ族。アメリカインディアンその他の人たちの話は いつも興味深々。いつも深遠な言葉をお聴きして、原点に立ち返ることが出来るからだ。これまで様々な人たちとの交流があり、様々な知恵や生き方を教えて頂いた。お気にいりの本は 断捨離出来ずに何冊も捨てられない。(先住民族の一覧表は 一番下に記載)

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★備考(今井)縄文ワールドネットワークは、2020年に「人と自然と平和のための地球会議」の一環として、(世界先住民平和フォーラム)を、 北海道白老町のアイヌ象徴空間*ウポポイにて、世界先住民平和フォーラムの開催を目的として活動をスタートしました。日本から平和メッセージを世界に! 素晴らしい世界を共に創ろう!絶対に出来る。出来る。出来る。闘志を燃やそう!!

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C.『カムイと生きる』予告  C2[シーツー]予告&インタビュー動画 2012/05/11  登録 1.1万

映画紹介はシーツーWEB版 http://www.riverbook.com 1938年、北海道浦河町に生まれ、数少ないアイヌ民族としてその伝統や文化を伝えている浦川治造の人物像に迫り、その生き方を通して自然と人間の共存について考えるドキュメンタリー。 ★名古屋の公開は、6/16(土)→シネマスコーレにて

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D. 知里さんとアイヌ民族学者との出会い②=NIU=Ngo国際大学&Ngo未来大学院 

john clark 2017/09/23  チャンネル登録 6136

知里幸恵さんが アイヌに生まれたばかりに差別と偏見により毎日のようにイジメを受けつつも 一生懸命に勉強してガンバッたが 解消することは ありませんでした。 すっかりアイヌ民族への誇りや自信・勇気を失いかけた時 わさわざ東京からアイヌの町を訪問して—-知里さんの祖母の伝承を聞き取り記述する —–何度も聞いては 不明な点や その背景を—-尊敬の念や 共感の気持ちをもって とても感動しつつ—-情熱をもって真実を知ろうとする科学者の姿勢を 目撃した。

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なぜ アイヌ語・アイヌ文化に 関心を持つのか。 アイヌの文化は そんなに価値あるものかと金田一京助教授に聞くと 日本文化にない優れた深い精神的な内容を 持っていると情熱・感動・尊敬の念をも込めて語りました。 そして ぜひ 東京に来てアイヌ語と その日本語訳等の作業に協力してくれませんかと要請されました。  しかし 長期にわたる学校等のイジメなどにより心臓への負担もあり重い心臓病となり卒業しても東京へと出発できずにいました。

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その時 金田一教授からノートに記録をつけて下さいと郵便でノートが配達されました。 知里さんは 病気を患いながらも祖母にアイヌ民族の伝承などを聞いて記述し—-アイヌ語は Romajiで その日本語の訳と その背景にある内容・意味などをも添えて 分かりやすい日本語でノートに記し完成させて金田一教授へ郵送されました。

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まもなくして金田一教授から ぜひ 東京の自宅にてアイヌ民族の翻訳と埋もれた作品を完成させたいので来てほしいとの連絡を受けて上京することとなりました。 こうして 金田一教授の家でアイヌ民族の優れた文化を出版すべく心臓病と戦いながらの作業が スタートしました。・・・・詳しくは 動画資料をご覧になりながら 自主的な生涯学習等に ご活用下さいますよう よろしく お願い致します。

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E. アイヌモシリ ~アイヌ民族の誇り~215,713 回視聴  hokkaido 2012/11/14  登録 4185

アイヌの人たちへの理解を進めるため、現代のアイヌの姿をとおして、アイヌの視点に立ち、アイヌの人たちの歴史・文化・生活実態・アイデンティティ・先住民としての位置付けなどについて、ご覧いただけます。

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It’s A Good Day To Die  WapiskisiwMahihkan  2009/08/06

Photography by Edward S. Curtis,.. words and music by Robbie Robertson. インディアンの昔から 気に入っている本「明日は死ぬのに良い日だ」を何度繰り返して読んだことだろう。節目節目に書棚か倉庫にあるはず。何度探したことだろう。

 

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111. Indigenous peoples around the world still look to Māori for leadership and guidance

maraetv 2015/06/27  チャンネル登録 5516
Where does our future lie for things like te reo, culture and identity? Are we guilty of wallowing in our own problems – think kōhanga reo, Māori TV, Ture Whenua review, the Māori language review? Yet other indigenous groups are thriving by following our early revitalisation efforts. Potaka Maipi met up with a group of first nations manuhiri who still look to Māori as a guiding light.

 

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AAA 世界の先住民族/少数民族の声を聴こう。

カナダの先住民族

カナダの憲法では、3つのグループが明確な先住民族として認定されています。ファースト・ネーションズ(北米インディアン)、メティス(先住民とヨーロッパ人の両方を祖先とする人々)、イヌイット(北極地方の人々)の3グループです。

カナダにおける先住民の人口は約117万人で、全人口の約4%を占めています。この内訳は、約60%がファースト・ネーションズ、33%がメティス、4%がイヌイットです(2006年)。

カナダは10の州と3つの準州により構成されています。準州では徐々に地域住民による自治権の拡大が図られ、教育、保健など州とほぼ同様の権限が認められています。一方、経済基盤が脆弱であるなどの理由により、連邦政府への財政的依存度が高いのが特徴的です。

イヌイット

カナダには、世界のイヌイット(彼らのイヌクティトゥト語で”人々”を意味する)のおよそ4分の1が住んでいます。そのほとんどは大陸北岸沿いや東西 4000キロ、北極諸島に点在するおよそ40の小集落です。1960年代、イヌイットの人々を定住させる政策が実施されたため、季節により移動していた 人々が定住し、その生活は大きく変わりました。1970年代には、自治と土地請求権の確立をめざす運動が始まり、1993年にカナダ政府との間で土地請求 権合意が締結されました。これは、土地35万km2(うち3万6000km2は鉱業権を含む)、14年かけて支払われる140億カナダドル超の補償金、土 地・資源の管理運用に関する決定への参加保障をイヌイットに与えるものでした。この合意により1999年4月、旧ノースウェスト準州が分割され、新しくヌ ナブト準州が誕生しました。ヌナブトとは、イヌクティトゥト語で「私たちの土地」を意味し、人口の85%をイヌイットの人々が占めています。自治は実現し たものの、高い失業率、薬物・アルコール依存や自殺などが問題になっています。

カナダのイヌイットはまた、グリーンランド、アラスカ、ロシアのイヌイットと共に、北極全体に関わるさまざまな重要問題に対処する国際機関、イヌイット北極圏会議を組織しています。

カナダのオイルサンド

アルバータ州には、粘り気の強い油を含む砂岩であるオイルサンドが大量に堆積しています。この堆積物はアルバータ州の原油埋蔵量の大部分を占め、アサバス カ、コールド・レイク、ピース・リバーの3つの地域に点在します。2003年に米国エネルギー情報局が原油の確認埋蔵量にアルバータ州のオイルサンドを加 えるようになり、カナダはサウジアラビアに次ぐ世界第2位の産油国とされました。

オイルサンドから石油を生産するには、原油より手間もコストもかかりますが、近年技術が進歩し需要が増え、開発は加速しています。埋蔵しているとされる場 所は、かつてファースト・ネーションズのチペワイアン族やクリー族が狩猟生活を営み、ビーバーやミンクの毛皮を売って生計を立てていた土地でした。 1970年代以降、事前の通告も話し合いもないまま開発は進み、先住民族は長年抵抗を試みてきました。しかし、森を失った人々に新たな生活手段を与えるた め、現在、チペワイアン族の首長は地元の経済団体の会長も務め、オイルサンド業界に協力しています。しかし、オイルサンドが埋蔵している地域には、その他 にも多くの先住民族の居住地があります。環境汚染や発癌率が高まっているとの報告もあり、懸念されています。

ルビコンクリー

1970年代、カナダのアルバータ州は、大規模な石油とガス開発に関するプログラムを開始しました。それらの開発によりルビコンクリーの人々の健康、生き 方、文化が荒らされてきました。1990年、国連人権委員会がルビコンクリーの人々の基本的人権が侵害されているという結論を下し、解決の努力を求めてい ますが、進展はありません。

2008年10月10日、アルバータ州公益事業委員会は、彼らの領土に大規模な天然ガスパイプラインを建設する計画を承認しました。これはルビコンクリーの人々との間に何の協定もなしに進められました。

アムネスティ・インターナショナル・カナダ支部がニュースリリースを出し、カナダの首相もしくはアルバータ州首相宛の手紙書きを呼びかけるキャンペーンを行っています。

ルビコンクリーと日本の関わり

1988年、アルバータ州政府は、大昭和・丸紅インターナショナル社に、ルビコン族の伝統的な地域である100万ヘクタールを含む400万ヘクタールの賃 借権を認めました。同社が論争地域で伐採を続けたため、ルビコン族側は大昭和社(2003年、日本製紙が吸収)の国際的ボイコットを始めます。ボイコット 活動は大昭和社の製造したパッケージを使用していた、複数の企業に向けたものでした。NGO「ルビコンの友」は48の企業に受注先を変えさせることに成功 し、その結果、大昭和社は1400万ドルも販売高が減少したそうです。この対立は、同社がルビコンの地域について再確認し、ルビコンの友が大昭和社に対す るボイコット活動とその他の抗議行動を停止することに同意した2000年、収束しました。

同化政策

カナダのスティーブン・ハーパー首相は2008年6月11日、過去の同化政策について先住民族を「深く傷つけてきた」ことを認め、公式に謝罪しました。

1874年以来、国内に住む先住民族の子どもたちは、教会が運営する132の寄宿学校に強制的に入学させられてきました。「先住民族の文化や信仰は劣って いて適切ではない」という考えのもと、独自の文化や言語が禁止され、英語を話し、キリスト教を信じるよう強要されました。さらに、校長や教師に暴力や性的 虐待を振るわれたと証言する先住民族もいます。

カナダ政府は1970年代までこのような寄宿施設に対して、補助金を交付し続けていました。

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222. International Day of the World’s Indigenous Peoples (9 August 2018) United Nations  2018/08/08  チャンネル登録 33万

There are an estimated 370 million indigenous people in the world, living across 90 countries. August 9 is commemorated as the International Day of the World’s Indigenous Peoples in recognition of the first meeting of the United Nations Working Group on Indigenous Populations in Geneva in 1982.
Each year this day is celebrated around the world. A commemorative event is also organized at the United Nations Headquarters in New York by the Indigenous Peoples and Development Branch – Secretariat of the Permanent Forum on Indigenous Issues, which brings together indigenous peoples’ organizations, UN agencies, Member States, civil society, academia and the general public.
Join us in spreading the United Nations’ message on the protection and promotion of their rights and in commemorating International Day of the World’s Indigenous Peoples! Watch LIVE: http://webtv.un.org Learn more at http://bit.ly/idwip2018#UnitedNations#WeAreIndigenous#IndigenousDay

 

アフリカの先住民族

1994年に制定された憲法の多民族主義により、エチオピアは2つの特別州と民族の分布にもとづく9つの州に分けられています。しかし、 この州の分割により、森の民であるマジャン(Majang。民族集団を表す時にはマジャンギル)が住み続けていたエチオピア南西部の森は三つに分けられま した。このため、マジャンはガンベラ州からは連邦議会へ代表者を送る権利を持っていますが、その他の州ではその権利を持っていません。その結果、州内で多 数派の民族に比べて行政サービスは後回しになり、どこに学校や診療所、道路を作るか、高等教育を受けるための推薦枠を何人取れるか、といったようなこと で、実質的に不利な扱いをされています。

南部諸民族州の町テピは、1950年頃にマジャンの森をアムハラ(エチオピアの代表的民族)が開拓してできた町ですが、シェカチョー(テ ピより北に住んでいた民族)が代表権を持つイエキ行政区に組み込まれました。この地域がコーヒーやターメリックなどの市場価値を持つ多くの農産物の産地 だったためだと考えられています。

2002年3月、イエキ行政区の警察権を持つシェカチョーにより、テピ周辺のマジャンとシェコ(マジャンの南東に住む民族)が襲われまし た。人々は家の中に追いつめられて火を放たれ、マジャンは約20名の死者、シェコは数百名の死者を出しました。この時、警察はマジャンらを助けず、事件を 内々に処理しようとしました。

数か月後、この事件が海外に報じられてシェカチョーは非難され、同年8月、政府は加害者側の政治家などを処分しました。

2008年、マジャンが住んでいる森のかなりの面積をアブラヤシのプランテーションとして開発しようという計画があるとの情報が流れまし た。具体的な計画の内容は分かっていませんが、同様のプランテーションはエチオピア国内でいくつか計画されていて、マジャンの人たちは大きな不安を感じて います。

マラゴリ / ケニア

18世紀、イギリスの植民地政府は、森の民であるマラゴリ(Maragoli)が住むケニア西部の約470haの広さの森を一方的に国有化しました。

1963年、ケニアはイギリスから独立しましたが、それまで白人の支配下で白人の屋敷の使用人やプランテーションの現場監督の役割を与え られていたマラゴリは「サーバント・トライブ」(使用人の部族)と呼ばれ、大臣や上級公務員の地位につける者はいませんでした。マラゴリの森の住人は土地 登記上、不法占拠者で、強制退去の対象となっています。

政府はケニアの森林資源を保護するため、レンジャーを設置して「部外者」が森へ立ち入ることを制限しました。また、森を観光資源として活用するため、野生動物の移入を図ったことで豹やハイエナが急増し、家畜や子どもが襲われる事件が相次ぎました。

1990年、害虫の異常発生により森林が大きな被害を受け、政府は駆除に失敗しました。

1992年、政府は許可証を発行した業者だけに被害地域に限った伐採を認めましたが、許可業者は被害にあっていない木も切り出し、無許可 業者らも伐採を始めました。住むところを追われた豹がマラゴリの村の人々を襲うようになり、豹を追い払うためにマラゴリ木々を切り倒さざるをえず、 1997年末までに森は消え、はげ山になってしまいました。

これに対して政府は国連や海外NGOなどとともに森の回復に乗り出し、地元に森林管理委員会を作りました。この委員会は実際には森の中に住んでいない地域の有力者が実権を握っていたため、マラゴリは彼らを政府の代弁者とみなして再植林の計画を拒否しました。

マラゴリは自然保護と資源管理のもとに押しつけられる森の国有化を拒否し、自分たちが耕作し居住する土地の登記を認めることを求めています。

オゴニ、ウグボロド / ナイジェリア

オゴニ(Ogoni)が暮らすニジェール・デルタはナイジェリアの石油産出地で、開発による環境破壊が進み、地表からガスの炎が噴き上 がっていて夜でも明るくなっています。マングローブ林や湿地帯を貫いてパイプラインや道路が敷かれた結果、魚の産卵場所は破壊され、水の流れが変わって漁 業と農業に大きな影響を与えています。シェル社は、石油が流出しても除去もせずに簡単な修理だけで済ませています。

1990年、オゴニ出身の作家、ケン・サロ・ウィワは、これらの問題に取り組むため、オゴニ民族生存運動(MOSOP)を設立し、政府とシェル社によるオゴニ地域の石油採掘に反対するキャンペーンを始めました。

1995年、政府はサロ・ウィワと仲間の活動家を、政府に協力的だったオゴニの指導者4人を殺させた疑いで逮捕しました。サロ・ウィワたちには死刑判決が下され、絞首刑になりました。彼らの逮捕と処刑は、石油開発の反対運動による政治的な理由だと考えられています。

また、2005年には、政府の特別部隊がウグボロド(Ugborodo)の居住地付近からシェブロン社のエスクラボス石油基地にいた抗議者に発砲し、1名の死者と数名の重傷者の被害が出ました。政府もシェブロン社も十分な医療の提供や負傷者の搬送を支援しませんでした。

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333. The Fascinatingly Mysterious Origins of the Ainu  510,913 回視聴 
TREY the Explainer   2018/03/18   チャンネル登録 31万
Hello! This is my first video on Human Diversity and evolution. In this video, I discuss quite a bit about ancient and prehistoric human migration and evolution into East Asian, specifically Japan. I examine the strange and somewhat mysterious case of the Ainu tribe and other members of Y-Haplogroup D, and in doing so break down what exactly happened in Asia during our prehistory.
Hope you enjoy! Sorry for the popping audio, its a new microphone and I’m still trying to figure things out. Background Music by Kevin Macleod

 

マレーシアの先住民族

急激な近代化を進めるマレーシアで、先住民族に対する人権侵害は多発しており、その多くは土地をめぐる問題です。80年代以降、政府や企業は先住民族の暮らしていた森林を伐採し、ダムやニュータウン、プランテーションなどを次々と開発し続けています。先住民族には慣習的土地利用権が州法によって認められていても、それは軽視され、政府や企業による開発が優先されています。先祖から受け継いだ生活基盤である森林が失われることは、土地が痩せ、食料源の減少、川の汚染や枯渇、病気の蔓延に繋がり、先住民族への影響は計り知れないものです。

1997年、スランゴール州で暮らしていたセノイ系マフリム族の住民約100世帯に対し、先住民族の集落としての土地登記が未了であるとし、政府系パーム油企業であるゴールデン・ホープ社が立ち退きを要求しました。同年、サラワク州バコン地区でプランテーション企業セガラカム社、プラナ社が進める慣習地での開発に反対してバリケード設置や抗議集会をしていたイバン族を、警察が令状なく大量に逮捕し、暴力をふるったり、銃撃したりしました。また、こうした開発反対運動のリーダーや参加者が誘拐されることもあります。

2007年、サラワク州のプナン族ケレサウ・ナーン氏が行方不明となり、2カ月後に彼の遺骨が発見されました。ナーン氏は、州政府と伐採 業者サムリン社によるサラワク州バラム北部の先住民族慣習地で森林伐採に反対して道路封鎖を主導した一人でした。彼の遺体には暴行を受けたと思われる傷痕がありました。サムリン社の関係者がナーン氏の息子の元を訪れ、彼の死は暴行によるものではないという書類にサインさせようとしましたが、息子がこれを拒んだため、サインを偽造したといわれています。

先住民族の土地をめぐる事例は多数あります。マレーシア国家人権委員会への申し立ての8割は土地問題ですが、先住民族からの土地所有権に関する申し立て1万件以上が未調査です。土地所有権の所在が明確になっていないこと、政府の一方的な告知(先住民族があまり購読しない新聞等)だけで所有権の変更がなされていることなどが対立の原因となっています。

国立公園の開発

サラワク州北部に位置するグヌン・ムル国立公園は2000年にユネスコ世界自然遺産に登録され、広大な熱帯雨林や巨大な洞窟群、多様な動物たちを見に、年間1万6000人以上の観光客が押し寄せています。しかし、国立公園化の過程でも先住民族への人権侵害が見られます。

この地域には、ブラワン族とプナン族が暮らしていました。しかし、国立公園としてこの地域を保護していくために、移動型の耕作生活や狩猟 生活を送っていた彼らは立ち退きを要求され、近隣の村に再定住させられました。1974年に保護地域に指定され、国立公園化が発表されて以来、彼らは自分たちの神聖な土地が破壊されることや、食糧確保が困難となることを危惧し、反対を続けてきました。それでも開発は進み、1993年には観光客誘致のための巨大リゾート(ロイヤル・ムル・リゾート)まで造成されました。1999年には、グヌン・ムル国立公園を世界自然遺産に登録する話が具体化した際には、先住民族であるブラワン族、プナン族は協議されるどころか、候補地となっていることすら知らされませんでした。その翌年、ロイヤル・ムル・リゾートでムル世界遺産会議が開催された際には、議事は全て英語で進められました。ブラワン族、プナン族も約30名が招待されていましたが、通訳がなかったため内容を理解できないまま会議は終了し、2000年11月、ムル国立公園は世界自然遺産に登録されました。

ダム建設

ダム建設も、先住民族を脅かす原因の一つです。1999年、スランゴール州北部に暮らす約1万人のトゥムアン族は、スンガイ・スランゴールダム建設に伴い、600ヘクタールの自然が破壊され、自分たちの村がダムの底に沈む不安から計画に反対していました。しかし、計画が実行される前に説明 を受けることはありませんでした。その後、州政府や企業と協議した結果、他村へ再定住させられることとなりました。

数あるダム建設の中でも、サラワク州の世界最大級の水力発電ダム建設画(バクン・ダム計画)は、提案された1980年代初期からずっと論争が続いています。この計画はマレーシア電力公社テナガ・ナショナル社が進めており、シンガポールの面積ほどの規模で、15の先住民族の村(1640世帯、約1万人)が立ち退き、他村へ再定住しなければなりませんでした。不況のため、1986年と1997年に工事が中断されましたが、現在、2009年末 の一部完成、2011年の本格運用を目標に建設が進んでいます。

しかし、サラワク州で暮らしていたプナン族、カヤン族、カジャン族、ウキット族、クニャー族は、事前にダム建設について何ら説明を受けな いまま、立ち退きを要求され、伝統的な生活を奪われました。彼らは再定住先について十分知らされないまま新住居の購入を契約させられ、再定住後の経済支援も十分なものではなく、食料や仕事も減少しました。この再定住は、工事が不況の影響で中断されていた1999年に行われたため、開発に対する不信感をあおりました。さらに2008年、2020年までに12基の水力発電ダムを建設することが明らかになりました。これで総電力量は7000メガワットとなり、これは2008年にサラワク州で生産された電力の6倍に相当します。

女性への暴力

マレーシアでは年間3000件以上の強かん事件が報告されています。しかし、全ての事件が報告されているわけではなく、この数字は実際の 10%程度と見られています。先住民族の女性や少女が被害者となったケースも数多くあります。2008年9月、サラワク州でプナン人の女性2人がマレー系 森林伐採労働者に強かんされました。労働者はその伐採地域でキャンプ生活をしており、酩酊状態でプナン人の村に現れ、住民たちを脅かしていたことがよくありました。「プナン人の女性は、日常的に森林伐採業者に性的虐待されている。学校が長期休暇に入ると、彼らは村にいる子どもを狙ってひんぱんに現れ、最悪の状況だ」と話す住民もいます。その翌月、マレーシア政府はこの事件の捜査を開始するとしましたが、警察の発表は起訴すべき事件はないというものでした。

先住民族の女性が強かんされた事件は、これまでも多々無視されてきました。1994年、プナン人の12歳の少女が強かんされた事件では、 スイスのNGOであるブルーノ・マンサー基金(BMF)が犯人逮捕に十分な情報を警察に提供しましたが、情報不十分として取り上げられませんでした。

先住民族の強かん事件では、メディアの扱いも問題となります。メディアはこうした事件を積極的に報道しません。さらに同年11月、サラワ ク州の地元紙ボルネオ・ポスト紙が「レイプ事件はBMFのでっちあげ」という記事を掲載しました。同紙は森林伐採業者KTS社が保有する新聞社であるた め、このような記事が載ったと考えられます。

強かん事件のほかにも、2007年にはバノン州で暮らしていた先住民族の若い女性12人が次々と行方不明になる事件が発生しました。外部の人間が若い女性に家政婦などの仕事を与えるといって連れ出し、その後、彼女たちと連絡が取れなくなったのです。先住民族の半数以上が貧困層といわれる現 状につけこんだ事件と考えられます。

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444. 日本そして世界へ ホピ族からのメッセージ   Miriam Delicado 2011/03/22  チャンネル登録 1.1万

これは、私たちの惑星の民が、ホピ族の人々の話しを聞く歴史的な瞬間になります。 ホピ族の長老たちは、日本の津波や地震災害に関し、 全世界にメッセージを公開しました。 彼らは、私たちの未来、そして、 人類がこの困難な時代を克服するための叡智を、このメッセージで伝えています。 公式表明文から ホピは今、バランスを失ったこの世界で危機に直面した日本の人々のために、 そして世界の人々のために祈っている。
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誰もが母なる地球の大きな変化の時のなかにおり、 今起きていることはすでにわれわれのエルダーによって以前から予言されていた。予言も、儀式も、地球のわれわれの聖なる大地が泣いていることを伝えている。 そして子供たちは、 彼らの未来のためにホピがいのちのバランスを回復してくれることを求めはじめている。 ホピとして、われわれは、 あなたがこの仲間に加わり、 母なる地球とすべてのいのちのバランスをとるための祈りの輪に加わることを求める。
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たくさんの祈りを とおして多くの良きハートと共に祈ることで、 われわれのエルダーたちが言っていたように、 この間に起きた出来事の衝撃を軽減することが出来ると信じてい る。 ダライ・ラマや世界の人々と共に、 日本と地球とすべてのいのちのために癒しを送るための祈りに、 われわれはホピとして加わる。この変化の時にあって、 世界のすべての人々に、 よりバランスのとれた生き方に戻ることを求める。 われわれのエルダーたちは、この幾多の変化のなかをいかに通り抜けるかについて、導きを与えてくれていた。 人類は今すべてのいのちが従うことになる細い道を選びつつあり、 われわれはいずれこの日が来ることを知っていた。

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ホピは言う。われわれがこの変化の時を通り抜けていけるための道はあると。 それは、地球を敬い、そのすべてのいのちを敬い、 母なる地球の上を優しく歩くことだと。 われわれのハートを未来に繋がるこの細い道の心とひとつにもう一度つなぎ直すことだと。 子供たちの未来の世代のすべてのいのちのために、庭で作物を育て、 それに水を与えることで、われらの聖なるいのちを敬い、 あなたのハートを母なる地球を讃えるホピに繋ぎ合わせてください。 カワク・ワ ロロマニ (ありがとう。未来に良きことが起こりますように) リー・ウェイン・ロアマイェステワ キクモングイ シュンゴパヴィ村チーフ ホピ・ネーション

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お問い合わせ:メール英語にてお願い致します。traditionalhopi@gmail.com なお、ホピの公式文章は こちらでご覧になれます。 http://native.way-nifty.com/native_he…

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アジア

モン族急激な近代化を進めるマレーシアで、先住民族に対する人権侵害は多発しており、その多くは土地をめぐる問題です。80年代以降、政府や企業は先住民族の暮らしていた森林を伐採し、ダムやニュータウン、プランテーションなどを次々と開発し続けています。先住民族には慣習的土地利用権が州法によって認められていても、それは軽視され、政府や企業による開発が優先されています。先祖から受け継いだ…もっと読むタイ国内の先住民族タイの人口約6000万人のうち、タイ族が約85%と圧倒的多数を占め、山岳民族とされる少数民族は全人口の約1.5%(約93万人)です。

 

主な少数民族として、カレン族、モン族、ラフ族、アカ族、ミェン族、ティン族、リス族、ルワ族、カム族、マラブリ族等が挙げられます。彼らの多くは、200年以上前から中国南部雲南付近から南下し、ミャンマーやラオスを経てタイ北部にたどりついたと見られています。もっと読むアイヌ民族アイヌ民族は近代以前には、本州最北端、北海道島、樺太、千島列島を生活圏として、交易、狩猟、漁労、粗放的農業などを営み、独自の社会・文化を発展させてきました。

 

日本列島の本州以南と、樺太やカムチャッカの北方諸民族社会とを交易で結び、交易のための商品生産活動と、交易によってもたらされた商品とを重要な要素として、アイヌ文化を形成してきたのです。もっと読むブラジルの先住民族1500年にポルトガル人にブラジルが「発見」された当時、トゥピやグアラニといった先住民族の人口は100万から300万人程度と推定されています。

 

しかし、その後の白人による虐殺や奴隷狩り、重労働、さらに疫病などにより少なくとも100近い民族が消滅し、現在の人口は20万人程とみられています。もっと読むウイグル人中国・西北部に新疆ウイグル自治区(Xinjiang Uighur Autonomous Region)という最大の自治区があります。ウイグル人はテュルク系の言語を使用し、大部分が中央アジアを中心に長い歴史を持つ、スンニ派のイスラム教徒です。もっと読むメキシコの先住民族メキシコは、人権擁護活動家にとって危険な国です。活動家たちは、日常的に脅迫や嫌がらせを受け、無実の罪による逮捕・起訴に苦しめられ。中には命を奪われる人もいます。

 

国連人権高等弁務官のメキシコ事務所は、2006年から2009年の間に、人権擁護活動家に対する128件もの人権侵害を報告しています。もっと読む

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★【NHK BS1 国際報道2018】~中国でウイグル族大量拘束! 今何が?~ 27,085 回視聴

kawichi 2018/08/29

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555.地球最後の秘境で起きた、聖書予言。Eden Media  2018/12/09  チャンネル登録 2.5万

11月17日、26歳のアメリカ人宣教師が世界最後の未接触地、#北センチネル島 で殺害される。果たして彼の死は、何を意味したのか? Original Production / On Point Preparedness https://www.youtube.com/watch?v=cFw0E…

 

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666.予言・オカルト・滅亡 8つの予言が的中率100%!?アメリカ先住民「ホピ族」の予言で世界滅亡を示唆?衝撃の第9番目の予言内容とは 世界の謎、不思議ニュースチャンネル 2016/10/05

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BBB. ① 国連、中国政府がウイグル人100万人拘束と批判BBC News Japan  2018/09/10  登録 4.9万 

中国政府が新疆ウイグル自治区でウイグル人を約100万人、テロ取り締まりを「口実」に拘束していると、国連は懸念を強めている。 国連人種差別撤廃委員会は8月末、最大100万人のウイグル人住民が刑事手続きのないまま、「再教育」を目的とした強制収容所に入れられているという指摘を報告した。

8月半ばにスイス・ジュネーブで開かれた同委員会の会合では、信頼できる報告をもとに中国政府が「ウイグル自治区を、大規模な収容キャンプのようにしてしまった」と委員たちが批判。これに対して中国政府は事実と異なると反発しているが、「宗教的過激派に染まった者」は「移住と再教育の支援を受ける」と珍しく認めた。

 

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BBB. ②【ニュース】中国のウイグル人弾圧について及川幸久氏が国連でスピーチ【ザ・ファクト2018 08 24】「THE FACT」 マスコミが報道しない「事実」を世界に伝える番組  2018/08/24   チャンネル登録 9万  

■主な内容■ ・国連で中国のウイグル人弾圧について及川幸久氏がスピーチ (00:21~) ・今週のチェケラッ ※沖縄県知事選について (39:28~) ・今週のニュース (42:30~) 8月6日から30日にかけてスイス・ジュネーヴで開催された 国連の人種差別撤廃委員会で、 中国のウイグル人弾圧が議題に上がりました。 この委員会の中で、民間NGOの代表として、 幸福実現党外務局長の及川幸久氏が意見を発表しました。 及川氏が国連で話した内容とは。 国連の委員と中国政府代表は どのようなやり取りを行ったのか。 及川氏に話を聞きました。 【出演者】 里村英一(幸福の科学広報局) 奥津貴之(ザ・ファクトプロデューサー) みなみ(アシスタント) 及川幸久(幸福実現党 外務局長)

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文学 哲学 科学 先住民

 

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<先住民1>

<北極圏>

アレウト族
Aleut)は、アラスカとカムチャツカの間にあるアリューシャン列島の先住民族である。自身の名称はウナンガンUnanga)。狩猟、武器の作成、ボートの組み立て、織物はアレウトの伝統的工芸の一つである。アレウトの祖先は氷河期に北東アジアから渡ってきたとされる。17世紀までに主にアザラシやラッコ漁で約25,000人が暮らし、大いに栄えた。

エスキモー
Eskimo)は、北極圏のシベリア極東部・アラスカ・カナダ北部・グリーンランドに至るまでのツンドラ地帯に住む先住民族グループである。雪や氷で造ったイグルー等に居住し、魚や海獣を捕って生計をたて、カヤックやイヌぞりによる移動生活を送る、というのが一般的なエスキモーの生活とされており、現在でも定住せずに移動生活をする者もいる。

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イヌピアト
(Inupiat) は、アラスカ州北部北極海沿岸地域に住む先住民族である。イヌピアト(イヌピアク)は彼らの自称で、「真の人間」という意味である。彼らの多くは、狩猟・漁業・捕鯨で生計を立てている。しかし近年では、原油などの鉱業の比率も増えている。

イヌイット
(Inuit) は、カナダ北部などの氷雪地帯に住む先住民族のエスキモー系諸民族の1つで、人種的には日本人と同じモンゴロイドである。エスキモー最大の民族である。カナダ北海岸の諸州であるユーコン準州、北西準州、ヌナヴト準州、ケベック州、ニューファンドランド州、アメリカ合衆国のアラスカ州、デンマーク領のグリーンランドに住む。

ユピク
Yup’ik) は、アラスカ州西南部のベーリング海沿岸地域や、ベーリング海を挟んだロシア極東最東部のチュクチ自治管区にかけて住む先住民族である。エスキモーを大きく分けた2つの民族のうち片方で、もう片方はイヌイットである。


<亜北極圏>

アトナ
(Ahtena=ice people)はアメリカ州の先住民族でアサバスカ語族に属する。 アラスカ州コッパー川の流域に住んでいる。

アティカメク
アメリカ州の先住民族でケベック州のセントモーリス谷に住む。アティカメクという名前は直訳すると「白い魚」で、AtikamekwあるいはAttikamekw、と綴る。現在の彼らの人口は約4500人を数える。農耕、漁業、採集の文化を持つ。

キャリアー
Carrier)はカナダ・インディアン部族のディネ族の一つで、ブリティッシュコロンビア州の中央内部に住んでいる。キャリアーというのは、彼らのセカニ名であるDakelh(ボートであちこちへ行く人々の意)を翻訳したもので、彼らは自身を「ダケル」(Dakelh、もしくは複数形でDakelhne)と名乗る。

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チペワイアン
Chipewyan)はカナダに住むインディアン部族、ディネ族のひとつである。マニトバ州やノースウェスト準州を含むハドソン湾周辺の北極圏地域に住んでいる。アルバータ州やサスカチュワン州に居住するグループもいる。

チルコーティン
Tsilkotin)は、カナダ・ブリティッシュコロンビア州内陸部に住む民族。 複数箇所の居留地に居住しており、人口は約3000人。

クリー
(Cree)は、北アメリカにおける先住民族、ファースト・ネーションの最大部族の一つ。カナダには主にオンタリオ州のスペリオル湖の北部・西部を中心に、マニトバ州、サスカチュワン州、アルバータ州、ノースウェスト準州、ケベック州に20万人が居住している。

グウィッチン
グウィッチン(Gwich’in)は、クッチン(Kutchin)とも言われるインディアン部族。アラスカからカナダにかけて先住するアサバスカ系語族で、彼らは現在カナダのユーコン准州および、アラスカ州北部の15の小さな村に、およそ7,000人程住んでいる。カナダでは彼らの共同体はファーストネーションと呼ばれている。

ハイダ族
(Haida)は主にカナダ・ブリティッシュコロンビア州に居住する先住民族(ファーストネーション)。一部はアメリカ合衆国アラスカ州にも居住区がある。ハイダ族の芸術と村落が残るスカン・グアイはユネスコ世界遺産に登録されている。その北にはグアイ・ハアナス国立公園もカナダ国定史跡として設けられている。

ディネ
Dene)とは、ナ・ディネ語族の南北アサバスカ語族を話す人達の自称である。「ヘアー・インディアン」(Dene)は、カナダの北西部の極北地帯から南西部にかけて先住するアサバスカ諸語を話す狩猟民である。

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ニスガ族
Nisga’a)は、カナダ太平洋岸、ブリティッシュコロンビア州北部のナス川流域に暮らす先住民。民族や一族の歴史、伝説、昔話、チーフなどの人物伝を伝えるためのトーテムポールを彫るカナダ太平洋岸先住民のひとつ。

オジブワ
(Ojibwa)は、アメリカ合衆国及びカナダの先住民族(インディアン)の部族である。アメリカ合衆国ではチェロキー族、ナヴァホ族に次いで3番目、北米全体でもクリー族に次いで4番目に大きい人口を持つ。チペワ族(Chippewa)としても知られる。

タギシュ
(Tagish)はアメリカ州の先住民族の一つで、アサバスカ語系ファースト・ネーション。 カナダ・ユーコン準州のタギシュ湖やマーシュ湖近辺に居住している。 太平洋岸地区からのトリンギット族との結婚も進み、タギシュ語はほぼ絶滅に近い。

トリンギット
Tlingitはインディアン部族の一つで、アラスカ、カナダの先住民族。アラスカからカナダのブリティッシュ・コロンビア、ユーコン川流域の太平洋沿岸の海と山に挟まれた環境に住み、発達した母系の狩猟採集社会を構築していた。


<北米>

アシニボイン
(Assiniboine)とはアメリカ北部からカナダ南部にかけて先住するインディアン部族である。「アシニボイン」は、チッペワ族の言葉で「熱した石で調理をする者たち」という意味。元々はダコタ・スー族に属していたが17世紀に関係が悪くなり、ダコタ族から分裂して逃げるようにモンタナ州北東部やカナダに移動して行った。

スー族
Sioux)はアメリカ合衆国北部中西部に先住するインディアン部族である、ダコタ族、ラコタ族、およびナコタ族の総称。「スー族」はアメリカ大平原に住む3氏族からなる部族連合であり、この部族連合ではそれぞれ「ラコタ語」、「ダコタ語」、「ナコタ語」という3つの方言が話される。アルゴンキン語族に属し、紀元前4000年頃にオハイオ州のオハイオ川流域でスー族が結成されたとされる。

カド
(Caddo)、またはカドーは、16世紀に現在の東テキサス、ルイジアナ州西部、アーカンソー州とオクラホマ州の南部に居住した、アメリカ南部インディアン(w:Southeastern tribes)のネーション、または部族の集団である。今日カドは、彼らの首都、オクラホマ州ビンジャーに集中して住んでおり、カド諸語の方言は単一の言語に収束している。

チカソー
Chickkasaw) は、アメリカ合衆国のインディアンの人々である。彼らの口伝の歴史によれば、部族はもともとミシシッピ川の西側に住んでいたが、ヨーロッパ人との最初の接触より前には東へ移動し、ミシシッピ川の東側に居住した。

クロウ族
Crow)とは北米大陸に住むインディアン部族。正式名は「アプサロケ族」(Absaroka、またはApsa´alooke)で、これは彼らの言葉で「カラスの人々」を意味する。かつてのクロウ族は、基本的に男は平原に出てバッファロー狩りをし、女は草の根や木の実などの採集をして暮らした。

クリー
(Cree)は、北アメリカにおける先住民族、ファースト・ネーションの最大部族の一つ。カナダには主にオンタリオ州のスペリオル湖の北部・西部を中心に、マニトバ州、サスカチュワン州、アルバータ州、ノースウェスト準州、ケベック州に20万人が居住している。

カイオワ
(Kiowa)とはアメリカ合衆国に先住するインディアン部族のひとつ。 「カイオワ」は、彼らの言葉で「優れし者たち」という意味。ブラックヒルズ近辺を領土としていた平原インディアンで、18世紀に西進してきたスー族によって、南部大平原へ追いやられた。現在も、ブラックヒルズのベアビュートは、カイオワ族にとって聖山である。

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MHA
MHA (Mandan, Hidatsa, and Arikara Nation) はインディアン部族の「マンダン族」、「ヒダーツァ族」、「アリカラ族」の近親三部族からなる自治体で、ノースダコタ州の「フォートベルトホールド保留地」にあり、「ミズーリ三大提携部族」と呼ばれる。

ヒダーツァ
(Hidatsa)とは、アメリカ合衆国ノースダコタ州の北部平原地帯に定住するインディアン部族である。「ヒダーツァ」は「ヤナギ」の意味。ヒダーツァ族の住居はアース・ロッジと呼ばれる土屋根の巨大なドーム型住居だった。 結合していたクロウ族から分離し、ミズーリ川の上の方に移動し、複数の農村を結成していた。

オマハ族
(Omaha) とはアメリカ中西部ネブラスカ州に先住するアメリカ・インディアン部族である。ネブラスカ州最大の町オマハはオマハ族から因んでいる。「オマハ」は、「風(または流れ)に立ち向かう者たち」という意味。「マハ族」ともいう。かつてのオマハ族は馬を駆り、狩猟と略奪をおこなう典型的な平原部族で、冬場は土屋根のアース・ロッジ(小屋)に、そして夏にはティピーで暮らしていた。

ウィチタ族
Wichita)はアメリカインディアン部族。カドー語族のウィチタ語を話した。19世紀にはアメリカ南部でもっとも人口の多い部族であった。「ウィチタ」は彼らの言葉で「人間」という意味。ウィチタは、顔と体に入れられた線と円の入れ墨で知られている。彼らは、目の回りに入れた入れ墨から、自らを「アライグマの目をした人」と呼んだ。

アパラチー
Apalachee)は、現在のアメリカ合衆国フロリダ州アパラチー郡に住んでいたインディアン部族。西暦1100年頃、アパラチー族はミシシッピ文化の影響を受けたフロリダの文化であるフォート・ウォルトン文化の一部であった現在のアパラチー郡で、農耕文化を築いていた。

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チェロキー
Cherokee))はインディアン部族。
「チェロキー」の語源はチョクトー族が交易に用いた単語で、「山(または洞窟)に住むもの」を意味する「Cha-La-Kee」、またはクリーク族の言葉で「判り難い言葉を話す人たち」の意とされる。16世紀、ヨーロッパ人が入植しはじめた頃には、北米大陸の東部から南東部にかけ、ミシシッピ川流域に住んでいた。

チョクトー
(Choctaw) 族は、もともとマスコギ語族の、米国南東部(ミシシッピ州、アラバマ州、ルイジアナ州)のインディアン部族である。チョクトー族は、ジャガイモ飢饉の間、飢饉の救援を提供したことによる寛大さでも有名である。

コウシャッタ
(Koasati)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州に先住するアメリカインディアン部族である。コウシャッタ族は伝統的に農耕民族であり、トウモロコシなどの栽培と併せ、狩猟採集を行っていた。カゴ製品の技術にも長けている。

ナチェズ
(Natchez)とはかつてアメリカ南部ミシシッピ州、ルイジアナ州のミシシッピ川下流域のナチェズ・ブラフ(Natchez Bluff)地方を中心に定住していたインディアン部族のひとつ。ナチェズ族は、ミシシッピ下流域の丘陵に祭祀センターを中心に村落を結成して定住していた。広義のミシシッピ文化のプラケメン文化に属し、エメラルド・マウンド(Emerald Mound)などの祭祀センターを築いていた。

モソペレア
Mosopelea、はかつてアメリカに定住していたアメリカ先住民族である。オフォ族とも呼ばれるモソペレア族は、アルゴンキン語族のスー族系に属していたとされる。アーカンソー州やミシシッピ州に定住していたが、オハイオ州南東部から1673年頃に移動したとされる。20世紀初頭に両方とも絶滅してしまったとされる。

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セミノール
(Seminole)は、もともとはフロリダ州のインディアンで、現在はその州とオクラホマ州に住んでいる。合衆国の2000年の国勢調査で, 12,431名の人々が人種的には単にインディアンで唯一セミノール部族に属していると報告されている。

パパゴ
Papagoとはアメリカインディアン部族のひとつ。アメリカ合衆国南西からメキシコ北西にかけて広がるソノラ砂漠が、元来の生活地。「パパゴ」の由来は、「パパ(豆)」+「オオタム(人々)」で、「豆の人々」という意味をコンキスタドールが採用したもの。そのためパパゴの多くはこれを拒絶し、代わりに「トホノ・オ=オダム」(Tohono O’odham、砂漠の民)という自称が用いられることが次第に増えてきている。

プエブロ
(Pueblo)は、メキシコ北部とアメリカ合衆国南西部、特にニューメキシコ州やアリゾナ州に残るインディアンの伝統的な共同体、集落を指し、またそこに住むインディアン(Pueblo People, またはpueblos)を集合的に呼んだ言葉。現在およそ35,000人のプエブロ・インディアンがいる。

パムンキー
(Pamunkey)とはアメリカ合衆国バージニア州に定住するアメリカインディアンの部族である。アルゴンキン語族を話しているためアルゴンキン諸族に属する。森で狩りをしたり、トウモロコシなどの農作物を栽培したりして暮らしていた。また陶器なども造る。パムンキー族はバージニア州のタイドウォーター(Tidewate)沿岸の平野に定住していた。

<北米>

ヤヒ
Yahi)とはアメリカのカリフォルニア州にかつて定住していたインディアン部族である。「ヤヒ」は、彼らの言葉で「人々」の意。1849年頃カリフォルニアの鉱山地区はゴールドラッシュの最中にあり、インディアンの土地が白人たちによって強奪されていった。

パサマクォディ
Passamaquoddy、とは北米大陸に定住するインディアン部族。「パサマクォディ」は「カキを採る人々」という意味。アメリカ東部メイン州を中心にカナダのニューブランズウィック州の森林及び山林地帯に定住する。

ピクォート
Pequot、とはアメリカ合衆国のコネチカット州のインディアン部族の一つ。イギリスから来た清教徒の入植者はピクォート族が住む近くに入植してきた。最初は平和な条約を結び、品物交換などしたりして平和に共存していたが、入植者はピクォート族が住むテリトリーにさらに入植していった。

プースタパック
Poospatuckとは北米のインディアン部族である。アメリカ合衆国ニューヨーク州ロングアイランドの南海岸に定住し、現在、ニューヨーク州サフォーク郡のロングアイランドにプースパチュック保留地(Reservation)がある。2000年の調査で保留地の人口は271人だった。

ポウハタン
Powhatan、は、アメリカインディアンの部族名である。またポウハタン族と連携した強力な合議制部族連邦の名前でもある。ポウハタン族はバージニア海岸地域の瀑布線から東に住んでいる。丈夫な木の枝を柱に、イグサおよび樹皮で覆った(ウィグワム)を家屋にして小さな集落に分かれていた。

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ソーク族
Sauk)は、インディアン部族(アメリカの先住民族)のひとつである。正式には「アサキワキ族(黄色い大地の人々)」といい、これがなまって「サキ族(saki)」、「サック族(sac)」、「ソーク族」などと呼ばれている。
*ソーク族の格言
私の前を歩くな、私が従うとは限らない。
私の後を歩くな、私が導くとは限らない。
私と共に歩け、私たちはひとつなのだから。

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レナペ
Lenni-Lenape )あるいはデラウェア族(Delaware)とは、アメリカ・インディアン部族である。「レナペ」は彼らの言葉で「真の人間」という意味。生き残った者はイギリス及びイギリスから独立したアメリカ政府のさらなる領地拡大により、西部に移動させられた。部族の多くの者はチェロキー族の連合に入り、独立した部族をなんとか保っていた。

ショーニー族
(Shawano)とは、北米のインディアン部族である。彼らはもともととオハイオ州、ウエストバージニア州、ケンタッキー州、ペンシルベニア州およびメリーランド州西部の地域に居住していた。今日、ショーニーネーションの大部分はまだオクラホマに居住している。

サスケハノック
Susquehannock、とはアメリカインディアンである。部族名のサスケハノックはアルゴンキン語の「サスケハナ」(Susquehanna=”濁った川”)に由来している。またコネストーガ族などとも呼ばれる。1608年イギリスの探検家ジョン・スミスがアメリカメリーランド州チェサピーク湾を訪れた時に、そこで2,000人ほどが暮らすサスケハノック族の村を発見及び遭遇した。スミスは彼らの体格を見た時、「巨人のようだった」と語っている。

イロコイ連邦*
Iroquois Confederacyは、北アメリカ・ニューヨーク州北部のオンタリオ湖南岸とカナダにまたがって保留地を領有する、6つのインディアン部族により構成される部族国家集団をいう。イロコイ連邦は、首長制を強制するBIAの監視・管理下にある「部族会議」に相当する組織を最初から持たず、アメリカ合衆国=BIAの干渉を一切拒否し、「調停者」の合議制による自治独立を実現している稀有なインディアン部族である。これはアメリカ合衆国政府が条約で保証している、保留地(Reservation)の本来の姿である。

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モホーク族
Mohawkとはインディアン(北アメリカの先住民族)の部族である。狩猟をし、トウモロコシやカボチャや豆を耕す農耕民族で 樹皮張りの長屋に住居していたため、「ロングハウスの人々」を意味したホーデノショーニー(Haudenosaunee)とも言われた。

プースタパック
Poospatuck、とは北米のインディアン部族である。アメリカ合衆国ニューヨーク州ロングアイランドの南海岸に定住し、現在、ニューヨーク州サフォーク郡のロングアイランドにプースパチュック保留地(Reservation)がある。2000年の調査で保留地の人口は271人だった。

ワンパノアグ
Wampanoag、とはアメリカのニューイングランドのマサチューセッツ州南東部に住むインディアン部族である。2000年現在のの人口統計では2336人となっている。他部族のインディアンや白人、黒人との混血者も多い。ワンパノアグ族の名は、「白人によるワンパノアグ族虐殺の歴史を忘れるな」との標語の下、白人にとって輝かしい記念の日である「ピルグリムファーザーズの上陸記念感謝祭」に対して同日にぶつけて行われる抗議運動、「全米哀悼の日」でも有名である。

ワッピンガー
Wappinger、とはアメリカ合衆国ニューヨーク周辺を領土としていたインディアン部族である。同州にワッピンガー族から名付いたワッピンガー町がある。1730年には数百人程度となった。19世紀に、残ったそれらの少数は条約でウィスコンシン州の土地に住み着いた。現在、ウィスコンシン州やニューヨーク州、ロードアイランド州に少数がコミュニティーを維持している。

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キカプー
(Kickapoo)は、アルゴンキン語族系のアメリカインディアン部族のひとつで、壮大な移住の歴史を持つ。キカプーはもともと五大湖周辺のミシガン州のエリアにいた。ソーク族(Sauk)やフォックス族(Fox)と共通の起源を持つ。現在アメリカ合衆国には、カンザス州キカプー(the Kickapoo of Kansas)、オクラホマ州キカプー(the Kickapoo of Oklahoma)、テキサス州キカプー伝統部族(the Kickapoo Traditional Tribe of Texas)の、3つの認定部族が残っている。メキシコのコアウイラ州にもうひとつの一団がいて、アリゾナ州にも、現在連邦政府認定を求めている大きな集団がいる。

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ネズ・パース
アメリカのアイダホ州を中心に、ワシントン州、オレゴン州北東部、モンタナ州などのロッキー山脈付近のコロンビア高原の高原地帯に定住し、ネ・ペルセ国立歴史公園(Nez Perce National Historical Park) 内に住み、幾つか保留地(Reservation)がある。

スコーコミッシュ
Skokomish、とはアメリカ・インディアン部族である。アメリカ合衆国ワシントン州西部のメイソン郡オリンピック半島の木が生い茂るスコーコミッシュ川沿いにあるフットカナルの保留地(Reservation)に定住している。農業や漁業(鮭は部族の主な主産物である)などをしなが暮らし、セイリッシュ語系のトァナ話を話す部族である。

マカ族
Makahアメリカインディアンの部族である。彼ら自身は「クェネトチェチャト(岬の人)」と自称する。アメリカの太平洋の北西海岸、ワシントン州のオリンピック半島に定住し、アルゴンキン語族のワカシ語族に属するマカ語を話す。現在、マカ語は長老など高齢の人しか話せないが、最近ではマカ族の若者が祖先代々の言語を維持するよう努力している。

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アラパホ
Arapahoe)は、北アメリカに先住するインディアン部族である。元々はミシシッピ川より東部、ミネソタ州北部のレッドリバーバレー流域の森林地帯でトウモロコシやカボチャ、豆などを栽培しながら暮らしていたが、白人入植の影響で、18世紀にそこから南西に移動し、ノースダコタ州及びサウスダコタ州の平原地帯を領域とした。

シャイアン族
Cheyenne)とは、アメリカ合衆国のインディアン部族の一つ。ワイオミング州の州都シャイアンはシャイアン族に因んでいる。もともと、今で言うワイオミング州からコロラド州までの平原地帯を領域とし、ティピーを使ってバッファローなど野生動物を追う、移動型の狩猟生活を営んでいた典型的な平原の騎馬民族である。

コマンチェ
Comanche)は、歴史的にコマンチェリアと呼ばれる範囲に住んでいたインディアン部族である。その範囲は、現在のニューメキシコ州東部、コロラド州南部、カンザス州南部、オクラホマ州全域、テキサス州の北部と南部の大部分にわたる。コマンチで最も偉大な指導者は、コマンチと白人女との混血のクアナ酋長である。母の姓をつけ「クアナ・パーカー」と呼ばれるが、クアナはこの白人の呼び名を非常に嫌い、「クアナ(薫り高いという意味)」とのみ自称した。

カランカワ
(Karankawa)は、現在絶滅したアメリカ合衆国のインディアン部族で、初期のテキサス州の歴史において登場する。カランカワという言葉は、一般的に共通の方言と文化を持つ、このテキサスのインディアン部族の集団を指す。

アパッチ族
(Apache)は、6つの文化的に関連のあるアメリカ・インディアン部族の総称。もともとアパッチは、南部大平原でバッファローなどを狩る平原部族だったが、コマンチ族の南下によって徐々に南西部へ追いやられ、リパン・アパッチと、カイオワ族と同盟を組んだカイオワ・アパッチのみが平原部に残り、あとの支族は乾燥したアリゾナ州の南東域とメキシコ南西域を移動する略奪部族となった。

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マンダン
(Mandan) とは北米大陸のインディアン部族である。1837年の天然痘による壊滅前までは、「人間」という意味の「ヌマカキ」、または「メチュタハンケ」と自称した。「マンダン」と併せ、ダコタ・スー族の言葉で「マワタニ」とも呼ばれる。かつてのマンダン族の生活は、厳しい冬場に備えてトウモロコシを中心とした農作物を栽培し、男は平原でバッファロー狩りをするというものだった。

オジブワ
(Ojibwa)は、アメリカ合衆国及びカナダの先住民族(インディアン)の部族である。アメリカ合衆国ではチェロキー族、ナヴァホ族に次いで3番目、北米全体でもクリー族に次いで4番目に大きい人口を持つ。チペワ族(Chippewa)としても知られる。10万人ほどがアメリカ合衆国のミシガン州からウィスコンシン州、ミネソタ州、モンタナ州にかけての北部に居住し、約76,000人ほどがカナダのオンタリオ州からブリティッシュコロンビア州に居住する。

ポンカ
(Ponca)、またはポンカラ族とは北米大陸の北部平原地方に先住するインディアン部族である。現在2500人ほどがアメリカ合衆国のネブラスカ州とオクラホマ州に定住している。オクラホマ州には同族名から因んだポンカ市がある。

アラバマ族
Albaamaha)は、アメリカ南東部のインディアン部族。アラバマ語は、アラバマ族と文化を共有していたクリーク族(ムスコギー族)とチョクトー族の言語でもあるマスコギ語族のひとつ。彼らはクリーク連合のメンバーである。アラバマ族の本土はアラバマ川上流にある。

アタカパ
(Attacapan)は、アメリカ南東部文化の複数のインディアン部族の連合体で、メキシコ湾沿岸に住む部族の共通言語を持つ。「イシャク(Ishak)」とも名乗り、これは「人間」という意味である。彼らが支配した領域はテキサス州のトリニティ川とガルヴェストン湾から、ルイジアナ州のバイユー・テシュとヴァーミリオン湾まで広がる。彼らは小さな獲物を狩り、魚類、根、液果類、貝類を食し、作物も植えた。

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チカホミニ
(Chickahominy Tribe)、またはチッカホミニー族とはアメリカ合衆国東部バージニア州に定住するインディアンの部族で、チカホミニとは部族言葉で「COARSE POUND CORN PEOPLE」(粗い地上のトウモロコシの人々)を意味する。略称は、CIED。

クリーク族
Creek)とは、アメリカ南東部に先住するインディアン部族。本来はマスコギー(マスコギ、またはムスコギー)(Muscogee/Muskogee)と自称する。彼らの伝統的なスペルでは”Mvskoke”である。初期の歴史上のクリーク族は、おそらくテネシー川流域のミシシッピ文化(Mississippian culture)の末裔で、ジョージア南部のウティナヒカ(Utinahica)に関連していた。

ラムビー
Lumbee)とはアメリカ合衆国ノースカロライナ州に定住し、バージニア州にも定住するアメリカインディアンの部族で、アメリカ東部では9番目に多い最大の部族の一つでもある。ノースカロライナ州の森林地帯に定住し、森で狩猟や農業などして暮らしていた。ロブソン郡沿いを流れるカンバー川とも呼ばれるラムビー川は部族名に由来している。

チェロエンホカ
(Cheroenhaka)、またはノットウェイ族(Nottoway)、ノッタウェイ族(Nottaway)とはアメリカ合衆国のバージニア州などに先住するインディアン部族である。「ノットウェイ」は、アルゴンキン語で「まむし」という意味。彼ら自身の自称は「チェロエンホカ」で、これは「流れの分岐点」という意味。

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ホピ族
(Hopi)は、アメリカ・インディアンの部族のひとつ。「ホピ」とは彼らの言葉で「平和の民」という意味である。主にアリゾナ州北部の6,000km2の保留地(Reservation)に住んでいる。彼らの保留地はナバホ族の保留地に周囲を囲まれている。西方のサンフランシスコピークの近くの聖なる山に住んでいる、「カチナ」という数百に上る精霊群を守護とする。

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科学010203
<先住民1>

 

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作曲家 演奏家 指揮者 画家
文学 哲学 科学 先住民

 

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科学010203
<先住民2>

<日本・ロシア>

アイヌ
日本とロシアにまたがる北方先住民族である。ウタリはアイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない。アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。

ウィルタ
UILTA民族は、樺太(中部以北)の先住民族で、ツングース系である。アイヌからはオロッコ (Orokko) と呼ばれた。本来の言語はツングース諸語の系統であるウィルタ語である。樺太では中部・北部に暮らし、シベリアのツングース系諸族と交流をもったほか、樺太中部のニヴフ、南部のアイヌとも交易をしていたらしい。

ニヴフ
Nivkhi)は、樺太中部以北及び対岸のアムール川下流域に住む少数民族。古くはギリヤーク、Gilyak(ロシア語での複数形はGilyaki)と呼ばれた。アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ウィルタ語の属するツングース諸語ともアイヌ語とも系統を異にする固有の言語ニヴフ語を持つ。

琉球民族
旧琉球王国の領域であった沖縄県の沖縄諸島と先島諸島、そして鹿児島県奄美群島に住む人々の言語、生活習慣、歴史的経緯から、独自の一民族であると定義した場合、それを指していう。

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台湾原住民
17世紀頃に福建人が移民して来る以前から居住していた、台湾の先住民族の呼称。台湾では現在、平地原住民と山地原住民に分けられており、両者の変化はこの10年は小さく、山地原住民が52.9%である。


<中国>

アチャン族
中国の少数民族の一つ。2000年の第5次全国人口普査統計では人口は33,936人で、中国政府が公認する56の民族の中で39番目に多い。

イ族
中国の少数民族の一つ。2000年の第5次全国人口普査統計では人口は7,762,286人で、中国政府が公認する56の民族の中で8番目に多い。イ族は中国西部の古羌の子孫である。古羌は、チベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれる。

ウイグル
4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家及びその後裔とも20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している[3]。人口は約1千万人。

ウズベク
西トルキスタン南部、ホラズム地方からフェルガナ地方にかけてに広がって居住し、中央アジアで最大の人口を抱えるテュルク系民族。ウズベクを率いたシャイバーニー朝が16世紀はじめに南下、ティムール朝を滅ぼしてトランスオクシアナ周辺に定住して以来、ウズベクとは西トルキスタン南部に住むテュルク系遊牧民のことを指した。

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エヴェンキ
ツングース系民族の一つで、主にロシア国内のシベリア連邦管区にあるエヴェンキ自治管区に居住する。ほか、ロシア国内ではサハ共和国などにも居住し、中国国内でも興安嶺山脈周辺の内モンゴル自治区・黒竜江省などに居住している。民族を代表する生業は狩猟とトナカイ遊牧で、狩猟では皮革採取や肉・内臓の食用のために鹿類、テンなどが捕獲の対象である。

オロチョン族
アルタイ諸語のツングース系の言葉を話す民族(ツングース系民族)。主に北東アジアの興安嶺山脈周辺で中国領内の内モンゴル自治区、その近隣のロシア領内に居住する。人口は約7千人。もともとは狩猟をしながら移動していたが、現在は定住化が進んでいる。

回族
中国の少数民族の一つで、中国最大のムスリム(イスラム教徒)民族集団である。回族とされる人々は、言語・形質等は漢民族(漢族)と同じだが、イスラム教(イスラーム)を信仰する。中国全土に広く散らばって住んでおり、人口は2000年の時点で約980万人で、中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。

カザフ
中央アジア西北部のカザフステップに広がって居住するテュルク系民族。カザフスタンにおよそ800万人が住んで同国人口の半数を占める他、中国の新疆ウイグル自治区北西部に約130万人が住む。

キルギス人
主にキルギス共和国を中心として中央アジアに分布するテュルク系民族。自称はクルグズ。キルギス共和国の約260万人のほか、周辺の旧ソビエト連邦諸国や中国の新疆ウイグル自治区などにも数十万人が住み、中国55少数民族のひとつに数えられる。

高山族
広義には、台湾原住民の総称、狭義には台湾原住民のうち漢化(漢人化、漢文化化)しなかった部族の総称。漢化が進んだものは平埔族と呼ばれる。台湾原住民のうち、山地や東海岸や離島に居住し、漢人への同化が進まなかった民族を指す総称だが、現在はほとんど用いられない。人口は約50万人。

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コーラオ族
商代、周代から西漢の頃には百濮、東漢から南北朝期には濮、僚と呼ばれ、隋唐代以降各時代で葛僚、仡?と民族の名前が変遷している。コーラオ族にはオリジナルの仡?語(タイ・カダイ語族カダイ語群)があるが文字はない。現在、コーラオ語を話す人は千人ほどしかいない。

サラール族
テュルク系民族で、少数民族の一つである。イスラム教を信仰し、2000年の第5次全国人口普査統計では人口は104,503人で、中国政府が公認する56の民族の中で36番目に多い。サラール族は中央アジアのサマルカンドから移住してきたオグズ族がチベット人、漢人、回族と混交した結果に形成された。

ジーヌオ族
主に雲南省のシーサンパンナ・タイ族自治州景洪市基諾(ジーヌオ)郷とその近隣の山間部に分布する。2000年の第5次全国人口普査統計では人口は20,899人で、中国政府が公認する56の民族の中で44番目に多い。

シェ族
シェ族は福建省における最多の少数民族である。また、浙江省、江西省、広東省、安徽省にも居住している。独自の言語を保持する人々は広東省に数百人居るだけであるが、彼らは自分たちを「Hone」と呼んでいる。

シベ族
ツングース系の少数民族。ヌルハチがその支配する土地を満洲と名乗った当時の、女真族の一支族であるシベ(錫伯)氏族を起源とする人々。2000年の人口調査ではシボ族人口は188,824人で、中華人民共和国政府が公認する56の民族の中では31番目に多い。

ジン族
中国国内に居住するキン族。中国語では「京族」と表記する。主に広西チワン族自治区防城港市東興市江平鎮の山心、万尾、巫頭等の小島やその付近の地域に居住する。 2000年の第5次全国人口普査統計では人口は22,517人で、中国政府が公認する56の民族の中で43番目に多い。

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スイ族
中華人民共和国貴州省、広西省からベトナムにかけて住む少数民族。自称は「アイ・スイ」(「水辺の人」の意)。他民族との交流が古くから盛んで、特に漢族との接触により中国語を使う若者が増え、スイ語を話さなくなった地域もある。女性の鮮やかな青い民族衣装、銅鼓、11月の端節の祭りでの競馬、歌垣などが特徴。

タジク人
タジキスタンを中心に、アフガニスタン北部、ウズベキスタン東部、中国領新疆ウイグル自治区の西部などに居住するイラン系民族を指す近現代的民族区分。もともとは中世から近世にかけての中央アジアやイラン高原といった中央ユーラシアの乾燥地帯において、住民を2つのグループに大別しタージーク(タジク)とテュルクと呼んでいたことに由来する。

タタール人
おもにロシア・CIS諸国(旧ソ連)に居住するテュルク系民族。タタールという名は、もともとキプチャク・ハン国支配期のロシア人によって東方・南方の草原地帯に住むモンゴル帝国のモンゴル系・テュルク系の人々を漠然と指す民族名称であったのが、ロシア帝国の拡大とともにロシア支配下の旧キプチャク・ハン国系のテュルク系ムスリム(イスラム教徒)の人々を指す語に転じ、やがて自称としても用いられるようになったものである。

タイ族
タイ・カダイ語族のうち南西タイ語(South-Western Tai、タイ語やラーオ語等)を母語とする人のこと。タイ族の発祥はアルタイ山脈の麓あたりとされており、年代を経るにつれて南下をしていることが分かっている。

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ダウール族
アルタイ系で、モンゴル系の民族。中国領内の内モンゴル自治区北部のホロンバイル市、黒竜江省等が元来の居住地であり、また清代の乾隆年間(18世紀後半)には新疆に駐屯兵が派遣され、その末裔数千人が旧駐屯地(現在のタルバガタイ地区)に分布している。人口は約13万2千人。

チベット民族
主としてユーラシア大陸中央部のチベット高原上に分布するモンゴロイド系の民族。チベット民族はチベット高原一体に分布し、シナ・チベット語族チベット・ビルマ語派のチベット語を用いる。7世紀、国王ソンツェンガムポの命によってインドに派遣されたトンミ・サムボータによって作られたという伝承を持つ独自の表音文字(チベット文字)を持つ。

チャン族
中華人民共和国の少数民族のひとつ。人口は約30.6万人(2000年)。チャン族(羌族)はシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属するチャン語(英語版)を話す、チベット系の民族である。

朝鮮族
中国の民族識別工作に由来し、少数民族の一つと定義されている。中国の国籍を所有し、かつ中国戸籍法に基づく戸籍上の民族欄に”朝鮮”と記載(登記)されていることが朝鮮族と見なす条件である。

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チワン族
主に中国南部やベトナム北部に住居する原住民族である。中国では広西チワン族自治区中西部や雲南省南西部、広東省東部、貴州省南部、湖南省南部などの山間部に約1,854万人(2010年の第6回全国人口調査統計による)が住み、中国最大の少数民族となっている。

チンプオ族
主にミャンマーのカチン州、中華人民共和国雲南省に住む民族。水田耕作、焼畑耕作を主とするミャンマーのカチン州およびシャン州、中国雲南省、インドのアッサム州などに分布するチベット・ビルマ語族。広義にはマル族、ラシ族、アツィ族などを含めた諸民族の総称としても用いられる。

トゥ族
中国のモンゴル系少数民族。中国政府が認定する民族である。人口の大半は青海省・甘粛省全般に居住している。人口は中国政府が2000年に行った国勢調査で約24.1万人。トゥ族は古来モンゴルに居住していた民族である。しかし1227年にチンギス・カン率いるモンゴル帝国が中国西北部に栄えた西夏王朝を征服し、モンゴル帝国領地となった現在の青海省・甘粛省に居住するようになった。

トゥチャ族
中華人民共和国が公認した55の少数民族のひとつで、主に湖南省、湖北省、重慶直轄市(旧四川省)の交界地帯に住む。人口約600万人、言語はシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属する。長く漢族と交わって暮らしてきたため、現在ではトゥチャ語を母語とする者は約7万人程度とされ、ほとんどが中国語を母語としている。

トーアン族
ミャンマーのシャン州から中国の雲南省にかけて住む民族。ミャンマーではビルマ語名の「パラウン族」と呼ばれる。中国では「パラウン」の音訳で「崩?族」(beng long zu)と呼称していたが、1985年に「德昂族」と改称された。

トーロン族
中国の漢族・チベット族系の少数民族。中国政府に認定されている民族である。人口の大半は雲南省怒江リス族自治州貢山トーロン族ヌー族自治県のサルウィン川河口に居住している。人口は約7500人にも満たない小さな民族であるが、古来中国に存在していた民族である。

ドンシャン族
中国政府によって認定された55個の少数民族の一つ、サルタ(撒爾塔;Sarta)と自称している。イスラム教を信仰し、2000年の人口調査で人口が513,805人。ドンシャン族の服装は町によって異なっていて、男は大抵褐色を帯びた黒色の服、女はイスラムの伝統的なドレスを着用している。

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トン族
人口はおおよそ二百五十万人程度で貴州省・広西壮族自治区・湖南省の比較的環境のいい山間部から河谷平野部にかけて居住し、とくに貴州省には?族全人口の過半数の百四十万人近い?族が住んでいて、近年は観光地としても注目されている。

ナシ族
雲南省北部を中心に、四川省南部やチベット自治区東部の茫康県にも一部分布する。民族自治区域としては地級市である麗江市に所属する玉竜ナシ族自治県があるが、麗江市の中心部である古城区にも多く居住している。2000年の人口調査では中国内のナシ族人口は308,389人であった。

ヌー族
中国の少数民族のひとつ。怒族とも書き、どぞくとも読む。主に雲南省に住み、人口は約2万8000人(2000年)。チベット・ビルマ語派のヌー語(怒語)を用いるが、周囲との差が激しく、碧江県、福貢県、蘭坪県などと通じない。独自の文字がなく、ほとんど中国語(漢字)を用いる。

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ハニ族
中華人民共和国の少数民族のひとつ。中国語では「哈尼族」と表記する。主に雲南省西南部、紅河西側の哀牢山区にある新平、鎮源、墨江、元江、紅河、元陽、緑春、金平、江城などの県に住む。2000年の人口調査によれば、ハニ族人口は1,439,673人であった。ミャンマー、タイ、ラオスにおいてはアカ族(英語版)の名で知られている。

バオアン族
中華人民共和国に居住するモンゴル系民族、中国政府によって認定された55個の少数民族の一つである。バオアン族は元代から明代にかけて青海に駐屯し、同治帝の治世時(1862年 – 1874年)に甘粛に定住し始めたムスリムのモンゴル兵士の末裔だと考えられている。

プーラン族
中華人民共和国雲南省に住む少数民族。人口は約9.2万人(2000年)。居住地は穏やかな気候と豊富な降水量に恵まれ、11月の乾季にプーアル茶を栽培している。森林には原生林やサクラ、アブラギリ、クルミのほか、高品質の木、薬草もある。家は木と竹で造られ、床や家具は竹で造られる。

プイ族
中華人民共和国、ベトナムに住む少数民族。ベトナムではハザン省、ラオカイ省に分布している。

プミ族
中華人民共和国の少数民族のひとつ。中国語では「普米族」と表記する。主に雲南省の蘭坪、維西、麗江市永勝などの県に住む。言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派チャン諸語に属するプミ語を使用する。プミ語は南と北で2つの方言に分かれ、その差は大きい。

ペー族
中国雲南省大理ペー族自治州を中心に住む民族。2000年の統計では人口1,858,063人。内、約124万人はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派のペー語を話し、残りは主に中国語を使用している。雲南省以外では、貴州省畢節地区、四川省西昌市、湖南省桑植県、ミャンマー北部などにも分布している。

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ナナイ
ツングース系の民族。分布は主にアムール川(黒竜江)流域で、ロシア国内に約1万人で、中国国内にも居住している。2004年人口調査時の中国国内人口は約4640人。55の少数民族の一つとして認定されている。河川でのサケ・マス漁などの漁労が民族の特徴的な生業で、中国ではキャビア採取のためなどのチョウザメ漁も行う。シャーマニズムを信仰し、生活の一部が観光化されてもいる。

マオナン族
中華人民共和国の少数民族のひとつ。中国語では「毛南族」と表記する。主に広西チワン族自治区北西部の環江県の上南、中南、下南の山間部、および河池、南丹、宜山、都安などの地区に分布している。

満州民族
満洲(中国東北部、沿海州など)に発祥したツングース系民族。古くは女真族といった。17世紀に現在の中国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。同系のツングース民族にオロチョン、ウィルタ、ナナイ、エヴェンキ、シボがある。中国の少数民族では、チワン族回族に次ぐ人口である。

ミャオ族
中国の国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。中国では55の少数民族の一つである。山間盆地や斜面に集落を営む山地民である。焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、棚田を巧妙に作って水稲稲作を行う定着した人々がいる。

ムーラオ族
中華人民共和国広西チワン族自治区に住む少数民族。特に羅城モーラオ族自治県、忻城県、宜州市、柳城県、都安ヤオ族自治県、環江マオナン族自治県、河池市に居住する。人口は約20.7万人。

メンパ族
チベット系の民族のこと。主にチベット自治区の墨脱、林芝、錯那などに居住する。一部はメド地区に住んでいる。メンパ族はチベット族同様、チベット仏教を厚く信仰しており、ラマ僧として出家する人も多い。これまでに第6世ダライニフマ・ツァンヤンギャムツォなど高僧を出したこともある。

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モンゴル族
中華人民共和国が、国民を民族識別工作によって民族別に区分した際、領内のモンゴル系の諸集団の多くを包含して成立させたカテゴリー。 ダグール族、トゥー族のように、伝統的に自身をモンゴルの一員と認識していながら、蒙古族とは別個の民族として識別されてしまった例もある。55の少数民族の1つとして位置づけられている。

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ヤオ族
中国湖南省から雲南省、東南アジア北部の主に山地に広く住む中国の少数民族である。自称はIu Mien。道教の神である盤古を信仰し、宗教指導者は漢字を用いる。古代中国の王女と犬の間に生まれた12姓のヤオ族を始祖とするという民族の伝承を有し、この伝承が史記に取り入れられ、後に日本に伝わって南総里見八犬伝に取り入れられたとされている。

ユグル族
テュルク・モンゴル系民族、中国政府によって認定された55個の少数民族の一つ。2000年の人口調査で人口が13,719人。モンゴル語群に属する東部ユグル語を使うユグル族は13世紀に中国の北部を侵略していたモンゴル人の一団の末裔と思われる。ユグル族は最終には1696年、康熙帝の治世に清朝に取り込まれた。

ラフ族
東南アジアに暮らす少数民族グループのひとつ。中華人民共和国の公式に認定されている56の少数民族のうちのひとつで、雲南省に45万人が暮らすと言われている。ミャンマーに15万人暮らす。タイには10万人が暮らし、6ある山岳民族のうちのひとつである。ラオスに1万人。ベトナムでは1500人が暮らし、54の民族グループのうちのひとつ。

リー族
中国の少数民族のひとつ。その約90%以上が海南島に住む。現在は人口124.8万。黎語を話し、1957年に黎語ラテン文字化方案が考案された。古くより漢族との交流があり、中国語に通ずる者も多い。「鬼神」と呼ばれる精霊的存在へのアニミズム信仰を持ち、旧暦3月3日「三月三」と呼ばれる豊穣を祈る祭礼を行う。粥など米類を主食とするが、特色のある料理として、竹筒に米を入れて作る竹筒飯などがある。

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リス族
中華人民共和国が公認する56の民族の中で21番目の人口を持つ民族である。リス族は自然崇拝の原始宗教を信仰していたが、近代になって西方宣教師の布教によりキリスト教に入信する者が増えた。リス族は独自の華麗な民族衣装を着用しており、その色彩によって白リス、黒リス、花リスに分けられる。

ローバ族
主に中華人民共和国チベット自治区、山南地区、ニンティ地区やインド北東部の少数民族のひとつ。ロパ族とも和訳される。全人口は中国国家民族事務委員会発表では1980年代頃は約30万人であったが、現在は約60万人としている。

オロス族
中華人民共和国のロシア系住民の内、「オロス族(ロシア族)」の民族籍がある者。55の中国の少数民族の一つ。17世紀後半、アルバジン人の先祖となるコサックたちが北京などに初めて到来した。19世紀から20世紀初頭にかけて、イリ・カザフ自治州とアルグン市、海林県、嫩江流域にベロクリニツキー派、礼拝堂派、ネートフツィ等の古儀式派が移住した。

ワ族
中国南部から東南アジア北部の山間部に分布するアウストロアジア語族(南アジア語族)モン・クメール語派の少数民族。カンボジア人のように皮膚の色は黒い。竹で作った高床住居に住み、男性は黒いターバンで頭を包む。自称を「アワ」といい、近年まで首狩りの風習があった。

 

<カリブ>

アラワク族
(Arawak)とは、南米ボリビアの北西部やペルーのモンクーナヤ地方、スリナムとガイアナおよびアマゾン下流域などに定住するインディアンで、アラワク語を話す。スペイン人による新大陸侵入以来、アラワク族は急激にその数を減じて行った。特に、西インド諸島に定住していたアラワク族は、敵対していたカリブ族やヨーロッパ人の侵攻などにより、民族としての滅亡への道を辿る。

タイノ族
(Taino) は、アラワク族語系に属するキューバ、イスパニョーラ島(ハイチとドミニカ共和国)、プエルトリコ、そしてジャマイカを含む大アンティル諸島とバハマ諸島の、クリストファー・コロンブス到着以前から先住するインディアン部族である。南アメリカのアラワク族が航海してきたものと見られる。

シボネイ
Ciboney、は、西インド諸島に定住していたインディオである。南米からカヌーで西インド諸島の島々からフロリダ半島に渡って来たシボネイ族はアラワク諸族に属し、フロリダ半島、キューバ、ハイチや他の一部のカリブの島々に定住し、主に洞窟で暮らし魚を獲りながら自給自足して暮らしていた。

カリブ族
Caribs、カリナゴ族、Kalinagoとも言う)とは南アメリカを原住地とするカリブ語系のインディオである。西インド諸島は小アンティル諸島の島嶼カリブ、中米カリブ海沿岸のブラック・カリブ、コロンビア、南アメリカのベネズエラ、ガイアナ、スリナム、仏領ギアナ、ブラジルに散在する大陸カリブの3つに区分される。

ナソ族
パナマ・コスタリカの民族の一つである。テリベ族と呼ばれることもある。人口はパナマに約二千人、コスタリカに数百人いると見られる。インディアンの一つで君主制を現在も続けている。近年まで3もしくは4世代前のナソ族は珍しいことに自治生活を送っていた。氏族や屋敷ごとに散らばり、世界から地理的にほぼ孤立していたナソ族は語法と一族の制度をとおして自給自足文化が発展し育成された。

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<中米>

アステカ*
Aztecaとは1428年頃から1521年まで北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。伝説によればアステカ人はアストラン(英語版)の地を出発し、狩猟などを行いながらメキシコ中央高原をさまよっていた。やがてテツココ、アスカポツァルコ、クルワカン、シャルトカン、オトンパンなどの都市国家が存在するメキシコ盆地に辿りつき、テスココ湖湖畔に定住した。

チョチョ族
Chocho)は、メキシコに住む民族。メキシコ、オアハカ州北部、ミシュテカアルタ一帯に住む。雨がまれにしか降らず、降れば豪雨になる土地であるが、極めて多くの野菜類を栽培している。主食はトウモロコシ。チョチョ族の作るヤシの葉の帽子は、美術的に高く評価されている。

ワベ族
Huave)は、メキシコに住む民族。メキシコ、テワンテペク地峡に近いチアパス州の太平洋岸に住んでいる。ワベ族の住む一帯の海岸部は塩水潟、マングローブの茂る沼沢および森林で、内陸部は草地と砂漠性の雑木林である。地勢が多様であるため、経済生活は地域によって異なる。

イチャテコ族
Ixcatec)は、メキシコに住む少数民族。メキシコ、オアハカ州北部の高山地帯に住んでいる。富の程度に応じて、瓦ぶきの石造りの家あるいはヤシぶきの小屋に住む。農業を生業とし、主食であるトウモロコシ、豆類、カボチャのほか、マゲイ(アガーベ属に属する多肉質の植物)、マドロニャにつく虫、ハチミツを食べる。

レンカ族
レンカ族はメソアメリカのチブチャ語族系先住民で、中米ホンジュラス西部の高地、エルサルバドル東部に暮らす。現在10万人がホンジュラスに、3万7千人がエルサルバドルで生活している。スペイン人による征服初期、レンカの人々による激しい抵抗は10年続いたが、首長レンピラの死とともに終結した。しかしながら彼らの言い伝えによると、レンカ族の血は途絶えることなく、どこか違う場所で違うときに復活するとのことである。

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マヤ人
メキシコ南部から中央アメリカ北部にかけての地域に居住するアメリカ州の先住民族である。ただし、”マヤ”というまとまった一つの民族として存在しているわけではなく、文化と言語の一部を共有する、異なる多くの集団、社会、エスニックグループを総称したもので、それぞれは彼ら自身の伝統、文化、歴史的なアイデンティティを保持している。

この地域に居住しているマヤ人の人口は、21世紀初頭では700万人と推定されている。グアテマラ、メキシコ南部とユカタン半島、ベリーズ、エルサルバドル、それにホンジュラス西部に大きな共同体が存在しており、今も古代の文化が多く継承され残っている。

イシル族
Ixil)は、グアテマラに住む部族でマヤ系民族である。グアテマラ、イシェコ渓谷北西の高地に住んでいる。家は一室の石造住宅で、畑地の諸方に散在している。いちおうカトリック教徒とされているが、実際には現地に伝わる神々を信仰している。土着の神の中では「山々のあるじたち」が最も重要とされている。

マサテコ族
Mazatec)は、メキシコに住む民族。メキシコ、オアハカ州のプエブラ州、ベラクルス両州に接する一帯に住む。海面とほぼ同位の平野部から高山地帯に及ぶ広い範囲に暮らす。インディオ社会としては例外的に共同作業に重きを置き、必要ならば役員から一般部族民とも義務として協力する。

ミシュテカ
(Mixteca)はメソアメリカの先住民で、メキシコのオアハカ州、ゲレーロ州、プエブラ州を合わせてラ・ミステカとして知られる地方に住む。ミシュテカ諸語はオト・マンゲ語族の中の大きな分派である。先コロンブス期、ミシュテカはメソアメリカの主要な文明の1つだった。ミシュテカの重要な古代の中心地にはティラントンゴの古都に加え、アチウトラ、クイラパン、ワフアパン、ミトラ、トラシアコ、トゥトゥテペック、フストラワカおよびユクニュダウィの遺跡が含まれる。

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オルメカ*
(Olmeca)とは、紀元前1200年頃から紀元前後にかけ、先古典期のメソアメリカで栄えた文化、文明である。アメリカ大陸で最も初期に生まれた文明であり、その後のメソアメリカ文明の母体となったことから、「母なる文明」と呼ばれる。オルメカとは、ナワトル語で「ゴムの国の人」を意味し、スペイン植民地時代にメキシコ湾岸の住民を指した言葉である。巨石や宝石を加工する技術を持ち、ジャガー信仰などの宗教性も有していた。

ポポルカ族
Popoluca)は、メキシコに住む民族。メキシコ、テワンテペク地峡の東端、ベラクルス州南部のメキシコ湾岸に住んでいる。居住地一帯はカシ、ヤシの森林に富む肥沃な丘陵地帯と、サバンナの低地地帯からなる。

ラビナル族
Rabinal)は、グアテマラに住む民族。グアテマラ中西部高地に住んでいる。ラビナル族が住む一帯は、草地と樹木に富む乾冷な土地である。たいがいの家には蒸し風呂がある。蒸し風呂は石積みの小さいもので、這って出入りする戸が一ヶ所ついている。病気治療に効果があると信じられている。

テオティワカン*
(Teotihuacan)とは、メキシコシティ北東約50キロの地点にあり、紀元前2世紀から6世紀まで存在した、テオティワカン文明の中心となった巨大な宗教都市遺跡。当時のアメリカ大陸では最大規模を誇っていた。テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されている。

テキストラテコ族
Tequistlatec)は、メキシコに住む民族。メキシコ、オアハカ州中南部、南シエラマドレ山中に住む。家は2室からなり、各部屋に別々の家族が住むのが普通である。経済は農業を基盤としているが、畜産、狩猟の役割も無視できない。主食はトウモロコシ粉で作るトルティーヤ、ヒョウタン、インゲンマメ、マゲイ。

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トルテカ帝国
メソアメリカ(メキシコ)に、テオティワカン崩壊後、チチメカ侵入前までに存在したと考えられてきた伝承上の帝国。トルテカ帝国の存立したとされる時期は、年代で言えば7世紀頃~12世紀頃に当たるが、12世紀とされるチチメカ侵入を11世紀に置く研究者もいる。テスカトリポカとトピルツィン・ケツァルコアトルの伝説などで知られるこの帝国は、メキシコ中央高原を支配したとされた。

トリケ族
Trique)は、メキシコに住む少数民族。メキシコ、オアハカ州の山地、森林に住んでいる。一室住居の密集した町に住むのがほとんどである。山地のトリケ族は、広々とした放牧場に家を建てて暮らす。農業と、野ブタ、シカ、ハト、ウサギ、リスの狩猟によって生活している。主食はトウモロコシ、豆類。また、ある種のクモ、アリ、カエル、カブトムシの類、バッタも食べる。

サポテカ文明*
メキシコ南部、オアハカ州のモンテ=アルバンを中心として栄えていたとされる文明。その開始時期については、先古典期前期末のサン=ホセ=モゴテのティエラ=ラルガス相(Tierra Largas;1400B.C.~1150B.C.)の時期と考えられる。石碑3号に刻まれた犠牲にささげられた捕虜の名前の「一の地震」は、現在のところ確認可能なメソアメリカ最古の文字の使用例であるとともに、最古の260日暦の使用例であることで知られる。サン=ホセ=モゴテは、500B.C.頃放棄されたと考えられる。

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ソケ族
Zoque)は、メキシコに住む民族。メキシコ、チアパス州西部、トゥストラグチエレスの町からタバスコ州に至る帯状の地域に住む。隣接部族のミヘ族の住む土地より低く、起伏も少ない。一部には瓦ぶきの丸太小屋に住むものもいるが、大部分のソケ族は草ぶき屋根の小屋で暮らす。


<アンデス>

ケチュア
Quichua)は、かつてインカ帝国(タワンティンスーユ)を興したことで知られるインディオ。また、この民族が用いている言語。現在では、ボリビア、ペルー、エクアドル、チリ北部、コロンビア南部など、主に南米大陸各国で1300万人が使用している。ボリビアとペルーでは公用語の一つになっている。過去にはインカ帝国において公用語であった。

アイマラ
Aymara)は、南アメリカのボリビア、ペルーやチリのアンデス地域に住む先住民族、インディオの一部族。ボリビア、ペルーのチチカカ湖周辺、およびチリやアルゼンチンの一部に住む。人口はおよそ300万人といわれている。アイマラ語を話す。いずれにせよ、歴史上、確実にアイマラ族がチチカカ湖沿岸に現れるのは、ティワナク社会崩壊後の紀元後13世紀頃からである。この時期には、アイマラ諸王国(ルパカ、パカヘ、コリャなど)がチチカカ湖沿岸に割拠していたといわれている。


<アマゾン>

ヒバロ族
Jibaro)はアマゾン川上流に住む少数民族。サンチアゴ川上流のウンツリ、同河川下流のツム、およびパスタサ川のアチュアラの3族に分類される。全体の人口は不明であるが、1960年時で14000人前後。「ヒバロ」という言葉はスペインによる統治時代には「野蛮人」の意味を持っており、シュアール(ヒバロ)族はこの呼び名を蔑称と見なしている。

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グアラニー族
(Guaranies) とは、アメリカ州の先住民族の一つで、主にパラナ川からパラグアイ川にかけてのラ・プラタ地域(現在の地域でアルゼンチン、ボリビア東部、パラグアイ、ウルグアイ)と、ブラジルに住んでいたが、純粋な民族としてはほとんど絶滅し、グアラニー語を話せる者の多くはメスティーソになっている。

マプチェ族
Mapuche、は、チリ中南部からアルゼンチン南部に住むアメリカ州の先住民族。民族名は、彼らが話すマプチェ語で「大地」(Mapu)に生きる「人々」(Che)を意味する。マプチェ族は、南アメリカ南部を支配し、インカ帝国やスペインの侵略に対し長く抵抗を続けた民族として知られている。

チャルーア族
(Charrua,チャルーア)とは現在のアルゼンチン北東部のリトラル地方、ブラジル南部、そしてとりわけウルグアイに住んでいたインディオの部族である。当初は狩猟民であり、漁労と採集により生計を立てていた。大きな建築物を建てることはなく、最後までテントで暮らしていた。

ヤノマミ族
Yanomami)はアマゾンの熱帯雨林からオリノコ川にかけてひろく居住している南米の先住民族の一部族。狩猟と採集を主な生活手段にしている。「ヤノマミ」とはヤノマミ語で「人間」という意味である。

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<マレーシア>

ダヤク族
Dyak)は、ボルネオ島に居住するプロト・マレー系原住民の総称。関連民族毎に細分化され、カヤン・ダヤク、クニャー・ダヤク、ヌガジュ・ダヤク、海ダヤク、陸ダヤクなどと複合名称として用いられることが多い。

オラン・アスリ
(Orang Asli) は、マレー半島の先住民族。18の民族からなり、17の民族はマレーシア(約9万人)に、1の民族はインドネシアに主な居住地区を持ち、身分制による階級社会が残存している。約6万年前にアフリカから渡ってきたものと推定されている。


<太平洋諸島>

チャモロ人
(Chamorro) は、ミクロネシアのマリアナ諸島の先住民。チャモロは、スペイン語の「刈り上げた」とか「はげ」という意味を表す言葉である。チャモロ以前は、外部に対してはタオタオ・タノ(土地の人)と自称していた。17世紀以前は4万人から6万人の人口を保持していたが、1710年の人口調査ではグアム島とロタ島の人口は3539人に激減していた。人口激減の背景には、スペイン人による殺戮や、天然痘などの疫病があるとされている。

カナカ族
カナカ族 (Kanakas) とは、ミクロネシア、マーシャル諸島、パラオ等の島々の住民を一般的に呼ぶ俗称。ポリネシア語で「人」あるいは「男」を意味する「タガタ」が音韻変化によりカナカとなった。

チャモロ人
(Chamorro) は、ミクロネシアのマリアナ諸島の先住民。チャモロは、スペイン語の「刈り上げた」とか「はげ」という意味を表す言葉である。チャモロ以前は、外部に対してはタオタオ・タノ(土地の人)と自称していた。

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パプア人
主としてニューギニア島の西部と南部と内陸部に住む先住民族である。ニューギニア島からニューカレドニアにいたる島々の内陸部にも住む。


<オーストラリア>

アボリジニ
(Aborigine)は、狩猟採集生活を営んでいたオーストラリア大陸と周辺島嶼の先住民。”aborigine”とは、英語において日本語の原住民に当たる言葉であったが[1]、先住民という概念が広がるにつれオーストラリア先住民という意味合いで使われることが多くなった。


<ニューウジーランド>

マオリ
アオテアロア(ニュージーランド)にイギリス人が入植する前から先住していた人々である。形質的・文化的にはポリネシア人の一派をなす。考古学的には、ポリネシア地域のクック諸島またはタヒチが起源とされ、9世紀から10世紀頃までにアオテアロアに移住し、狩猟採集生活を送る。


<スペイン>

バスク人
vascos, とは、系統不明の民族で、イベリア半島のバスク地方に分布する。古代の時点でローマから自治を許され、中世から近世にはバスク人の王(イニゴ・アリスタ)の末裔達がイベリアの並み居る王家を継承するなど権勢を誇った。

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カタルーニャ人
(Catalans)は、インド・ヨーロッパ語族に属する民族で、イベリア半島のカタルーニャ地方に分布する。カタラン人、カタロニア人とも。文脈により以下の定義を有す。

ガリシア人
(Pobo galego)は、イベリア半島のガリシア地方に出自を持つエスニック集団で、スペインの他地方とは、言語、文化、習慣、伝統が異なる。その主要な言語は俗ラテン語に由来するガリシア語である。

アンダルシア人
(Andalusian people)は、インド・ヨーロッパ語族に属するエスニックグループで、イベリア半島のアンダルシア地方に分布する。彼らが民族なのかカスティーリャ人の一勢力なのかは議論が続けられており、取り分けアンダルシア方言を言語とするかどうかについて激しい意見が交わされている。


<フランス>

コルシカ人
Corsican people)はインド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する民族で、主にコルシカ島に分布する。

ブルトン人
Bretoned)は、フランス、ブルターニュ地方に主として暮らすケルト系民族のこと。彼らの先祖は4世紀から6世紀にかけてグレートブリテン島南西部から移住してきたブリトン人である。

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<イギリス>

ウェールズ人
Welsh people、ウェールズ語: Cymry)は、ウェールズ国民、またはウェールズを父祖の土地とする民族のこと。

スコットランド人
Scots fowk)は、スコットランド国民、またはスコットランドを父祖の土地とする民族のこと。現代的な用法では、スコットランド人またはスコッツは、言語、文化、家族の先祖または遺伝的起源がスコットランド内にある者を指すため使われる。

アイルランド人
アイルランド島を舞台に形成され、現在西ヨーロッパ、特にアイルランドに居住するケルト系民族をさす。


<ヨーロッパ>

ロマ
ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。

チャーンゴー人
マジャル人(ハンガリー人)の民族集団のひとつ。本来起源的にはトランシルヴァニア域内に居住していたハンガリー人たちが外に出て行き定住したと考えられることからこのように呼ばれるようになったと思われる。

サーミ人
スカンジナビア半島北部ラップランド及びロシア北部コラ半島に居住する少数民族。フィン・ウゴル系。サーミ語を話すが、ほとんどがスウェーデン語、フィンランド語、ロシア語、ノルウェー語なども話すバイリンガルである。

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<オーストラリア>

アボリジニ
(Aborigine)は、狩猟採集生活を営んでいたオーストラリア大陸と周辺島嶼の先住民。”aborigine”とは、英語において日本語の原住民に当たる言葉であったが、先住民という概念が広がるにつれオーストラリア先住民という意味合いで使われることが多くなった。


<ニュージーランド>

マオリ
アオテアロア(ニュージーランド)にイギリス人が入植する前から先住していた人々である。形質的・文化的にはポリネシア人の一派をなす。考古学的には、ポリネシア地域のクック諸島またはタヒチが起源とされ、9世紀から10世紀頃までにアオテアロアに移住し、狩猟採集生活を送る。


<アフリカ>

コイコイ人
Khoikhoi)は、南アフリカ共和国からナミビアの、海岸線から高原地帯、カラハリ砂漠などに居住している民族である。以前は「ホッテントット」と呼ばれていた。

マサイ族
ケニア南部からタンザニア北部一帯の先住民である。ナイル系のマー語(マサイ語)を話す。「マサイ」とは、「マー語を話す人」という意味だという。

サン人
San)は、南部アフリカのカラハリ砂漠に住む狩猟採集民族である。砂漠に住む狩猟採集民族は大変少なく現在ではこのサン人ぐらいしかいない。

ベルベル人
北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。

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<先住民3>

<先住民・先住民族由縁の著名人>

クアウテモック
(Cuauhtemoc, 1495年頃 – 1525年2月28日)は、アステカの第11代の君主(トラトアニ、在位1520年 – 1521年)。名の意味は「急降下する鷲」。エルナン・コルテスと戦った第9代の君主モクテスマ2世の従兄弟にあたる。1521年、エルナン・コルテスがアステカの首都テノチティトランを包囲すると、3ヶ月の攻防戦に耐えて勇敢に立ち向かったが、8月13日、脱出を試みる途中にスペイン軍に捕らえられて降伏し、アステカは滅んだ。

クアウテモックはコルテスの短刀を指さして自分を殺すように言ったが、コルテスは彼を殺さず、勇者として手厚くもてなした。しかしそれは始めのうちだけで、黄金の場所をつきとめるためにコルテスは彼を拷問にかけた。

ラウタロ
(Lautaro)とはマプーチェ族の軍事指導者であり、アラウコ戦争においてスペイン人と戦った主要な人物である。チリの征服を進めていた征服者、ペドロ・デ・バルディビアの捕虜になり、馬丁を務めていたものの、隙を見て脱走するとマプーチェ族を糾合し、スペイン人との戦いを指導した。チリに建設されたいくつものスペインの植民都市を破壊し、1552年にはバルディビアを打ち破って捕虜にし、拷問にかけて殺害した。その後ラウタロは戦死するが、カウポリカンらの優秀な指導者によってアラウコ戦争は継続されることとなった。

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ハイアワサ
Hiawatha、は、16世紀のモホーク族インディアンの男性戦士、調停者。デガナウィダとともにカユーガ族、モホーク族、オナイダ族、オノンダーガ族、セネカ族の5つの部族をまとめ上げ、「イロコイ連邦」を成立させた英雄である。指導者、首長ではない。インディアンのチーフ(酋長)とは調停者のことであり、「ピースメーカー」と呼ばれることもある。アメリカ北東部のインディアン国家は「ロングハウス」という議会場で「会議の火」を囲んで酋長たちが合議を行い、すべての物事を決定する完全民主主義社会であり、現在も議会制で運営されている。ハイアワサとデガナウィダはその功績によって、とくに「グレート・ピースメーカー」と呼ばれている。

マサソイト
マサソイト(Massasoit、別名「黄色い羽」を意味するオウサムクイン、OusaMequin 1581年 – 1661年)とはアメリカ・インディアンのワンパノアグ族の酋長。マサソイトはアメリカ最初期のイギリス人入植者であるピルグリムファーザーズに食糧を与え、彼らを救ったワンパノアグ族の酋長として知られる。イギリスから来たピューリタン(清教徒)のピルグリムファーザーズ一団は、ワンパノアグ族の住む村付近にプリマスの集落地を建設し入植した。

しかし白人入植者達は馴れない土地での環境に苦しみ、病気や寒さ、飢えなどで約半数近くが死んだ。そこへ付近に住むマサソイト酋長を始めとするワンパノアグ族がピルグリムファーザーズにトウモロコシを始めとする農作物の栽培方法を教え彼らを飢えから救った。「すべてを共有する」というインディアンの文化に従って、ワンパノアグ族は白人たちに惜しみなく食糧を与え、これを助けたのである。

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ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ
(Jose Gabriel Condorcanqui Noguera、1742年3月19日 – 1781年5月18日)、またの名をトゥパク・アマル2世は、植民地時代ペルーにおける反乱事件の指導者である。コンドルカンキは、インカ帝国の都であったクスコ南方140kmほどに位置するティンタ郡のクラカ(村長のようなもの)の家に生まれた(出生を1740年3月24日とする資料もある)。

彼はインカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルの末裔と自称し、その確認を求めてリマのアウディエンシア(最高司法院)に訴え出たこともあった。当時スペイン植民地当局の先住民に対する抑圧と収奪は非常に激しく、それに対する反乱も各地で頻発していた。コンドルカンキも、植民地支配に対する反感を次第に募らせていったものと推測できる。

トゥパク・カタリ
(Tupac Katari : 1750年 – 1781年11月15日)は、アルト・ペルー(現ボリビア)においてスペイン統治政権に反旗を翻したアイマラ先住民族(インディオ)の指導者である。18世紀末に起こったこのインディオの蜂起は、地理的な広がりが最も大きく、最も多く支持されたものであった。植民地統治政権はその鎮圧に2年を要した。
ボリビアにおいて彼は現在に至るまで先住民族の英雄として語り継がれており、先住民族の権利拡大運動を行なう人はしばしば「カタリスタ」(Katarista: カタリ主義者の意)と呼ばれることがある。

テクムセ
Tecumseh 1768年? – 1813年10月5日)は、アメリカインディアンのショーニー族の戦士、または酋長で、白人への植民地抵抗運動のシンボル的人物。名前のアメリカでの発音表記は「Tekooms?」(テクームセ)で、これはショーニー族の言葉で「流れ星」、または「天空を横切る豹」、「待ち伏せしている豹」を意味する。

1806年、テクムセはショーニー族の土地への白人入植者の侵入に抗議して、以下のように宣言した。白人たち(the white man)による侵略というこの悪を阻止する、唯一無二の方法は、インディアンが一致団結して、土地に対する共通の、しかも平等な権利を主張することしかない。土地というものは、かつて分割されたことなどなかったのだ。それは我々インディアンたち全員のものだ。

サカガウィア
Sacajawea、1788年? – 1812年12月20日?1884年?)は、ショーショーニー族インディアンの女性。名前の正式な発音、綴り字はよく分かっていない。16歳のときに赤子を背負いながら、ルイスとクラーク遠征隊に同行した。この探検で重要な役割を果たし、白人に寄与した「良いインディアン」として、アメリカ合衆国建国神話の重要な人物であり、硬貨の肖像にもなっている。

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ベニート・フアレス
(Benito Pablo Juarez Garci´a, 1806年3月21日 – 1872年7月18日)は、先住民族から選出された初のメキシコ大統領で、2度(1861年 – 1863年および1867年 – 1872年)大統領を務めた。フアレスは最も偉大で敬愛されるメキシコの指導者であり、「建国の父」とたたえられており、20ペソ紙幣に肖像が使用されている。

ジェロニモ
(Geronimo、本名:Goyathlay、1829年6月16日 – 1909年2月17日)はアメリカインディアン、アパッチ族のシャーマン、対白人抵抗戦である「アパッチ戦争」に身を投じた戦士。なお、部族の酋長と誤解されている例も多いが、実は酋長ではなく部族の「指導者」でもない。メキシコ軍に家族が虐殺されたのを機に、アパッチ族の戦士たちとともに対白人のゲリラ戦に従事した。ちなみに戦士集団だったアパッチ族には「酋長に戦士が服従する」という義務も風習もない。戦士は結束はしてもすべて個人行動で動くものであって、戦士たちはジェロニモ個人を慕って抵抗戦をともにしたのである。

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クレイジー・ホース
(Crazy Horse (Tasunka witko) , 1840年? – 1877年9月5日?)は、インディアン部族のラコタ・スー族の一支族、オグララ族に属するパヤブヤ族の戦士。しばしば誤解されるが、酋長ではない。タシュンケウィトコ、通称クレイジー・ホースは1840年頃に、現在のサウスダコタにあるベア・ビュット近くのベル・フーシェ川のそばで生まれた。

彼の服装はいつも必要最小限で、彼を描いた映画や絵画にあるように、派手な羽根冠をつけて戦に出るようなことは一度もなかったとハンプやヒー・ドッグ、ブラック・エルクら近しい者たちは揃って証言している。「常に弱きものを助け、分け与えよ」との啓示を受け、生涯それを実行した。そのために、彼は部族の中の弱い立場の人たちから熱烈に愛された。


ローゼン
(Lozen、1840年代? – 1887年?)は、アメリカインディアンのチリカウア・アパッチ族チヘンネ部族 (Chihenne band) の女性戦士・祈祷師。チリカウア・アパッチ族の酋長ヴィクトリオ (Victorio) の妹。ローゼンの名前はヴィクトリオがアパッチ語で「小さな妹」と呼んでいたことに由来する。本名は不明。1876年、アメリカ合衆国の騎兵隊が保留地(Reservation)として残されていたオホ・カリエンテに侵入し、アパッチ族の虐殺をおこなった。ローゼンは殺されそうになった甥(ヴィクトリオの息子)を救ったが、多くの同胞を失った。これ以降、連邦政府との関係は悪化し、チリカウア・アパッチ族はアリゾナへ強制移住させられたため、ヴィクトリオ、ローゼンらはオホ・カリエンテへ帰還、潜伏しゲリラ戦を開始した。

ルイ・リエル
Louis “David” Riel, 1844年10月22日 – 1885年11月16日)はカナダの政治家で、プレーリー地区のメティのリーダーである。リエルはカナダ政府に対しノースウェスト準州に基盤を置くメティの権利、文化保護を求め二つの反乱を主導したが、この反乱は次第にカナダ全土に勢力を拡大していった。レッドリヴァー居留地は、名目上ハドソン湾会社によって経営されたルパートランド内の共同生活体であり、その主な居住者はカナダ先住民及びクリー族、オジブウェー族、ソルトー族、フランス系、スコットランド系、イギリス系の混血からなる民族すなわちメティであった。

ファン・デ・ディオス・フィリベルト
(Juan de Dios Filiberto, 1885年5月8日 – 1964年11月11日)は、タンゴの作曲家。「フアン・デ・ディオス・フィリベルト」と表記している文献もある。1885年5月8日、ブエノスアイレスのボカ地区(La Boca)に生まれる。イタリア移民三世(イタリア系アルゼンチン人)であり、先住民のマプーチェの血も受け継いでいる。9歳から学校に通わず働き出した。若い頃に、無政府主義系の労働組合運動に参加したりしていた。

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ロスト・バード
(Lost Bird, zintkala nuni, 1890年 – 1920年)はアメリカ・インディアンのラコタ・スー族の女性で、ウーンデッド・ニーの虐殺の生き残りの赤ん坊だった人物。スー族の言葉では「ジトカラ・ヌニ(失われた鳥)」。1890年、現在のサウスダコタ州で生まれた。この時期、平原のインディアンは保留地(Reservation)に押し込められ、生業の狩猟を禁止された上に白人管理官のサボタージュで食糧が供給されず、飢餓状態となっていた。こうした中、パイユート族のウォヴォカを教祖とするゴースト・ダンスがスー族ら平原部族の間で熱狂的に広まっていった。「ゴースト・ダンスを踊れば、白人の銃弾が身体を通さなくなる」という教義をアメリカ政府は警戒し、これを徹底的に武力弾圧していた。

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ルフィーノ・タマヨ
(Rufino Tamayo、1899年8月26日 – 1991年6月24日)は、メキシコの画家。1899年8月26日、オアハカ州フアレスの、メキシコ先住民のサポテク系の家に生まれる。1911年、メキシコシティの伯母のところで育つ。1917年、国立造形芸術学校(Escuela Nacional de Artes Plasticas)に入学する。そこで、印象主義やキュービズムそしてフォービズムの画法を学ぶ。1979年、故郷のオアハカで、「ルティーノ・タマヨ美術館」(Museo Rufino Tamayo)が設立される。

マリア・トールチーフ
(Maria Tallchief, 1925年1月24日 – )は、アメリカ・オクラホマ州フェアファックス出身のバレエダンサー。本名はエリザベス・メアリー・トール・チーフ(Elizabeth Marie Tall Chief)。父はアメリカ・インディアンのオーセージ族酋長、母はスコットランドとアイルランドの血を引く白人だった。幼少時代にカトリックの学校に通い、のちに一家はビヴァリーヒルズに移住した。

そこでマリアは、ブロニスラヴァ・ニジンスカの元で5年間学んだ。ニジンスカのバレエ哲学が彼女の基礎をつくったという。『夜眠るとき、バレリーナのように眠りなさい。通りでバスを待っているときも、バレリーナのように立つのよ』と教えられたと後に語っている。

ロバート・ラウシェンバーグ
(Robert Milton Ernest Rauschenberg, 1925年10月22日 – 2008年5月12日)は、20世紀のアメリカの美術家。ジャスパー・ジョーンズとともにアメリカにおけるネオダダの代表的な作家として活躍した。のちのポップ・アートの隆盛にも重要な役割を果たしたことでも知られる。1925年、テキサス州ポート・アーサーに生まれた。父親はドイツ系アメリカ人とチェロキー族インディアンの混血、母親はイングランド系アメリカ人。

アルマンド・マンサネーロ
(Armando Manzanero, 1935年12月7日 – )は、メキシコ出身のポピュラー音楽の作曲家・歌手。「アドロ」の作曲家として有名である。1935年12月7日に、メキシコのユカタン州メリダに生まれる。先住民のマヤ人の子孫としているサイトもある[1]。1965年の、アメリカ合衆国のマイアミのフェスティバル・デ・ラ・カンシォン(Festival de la Cancio´n)で、”Cuando Estoy Contigo” (意味:二人でいるとき)で第一位をとる。1967年に、””Adoro” (アドロ)を発表するが、この曲は、日本では、グラシェラ・スサーナの歌として有名になり、イージーリスニングの曲としても有名である。

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メルセデス・ソーサ
(Haydee Mercedes Sosa, 1935年7月9日 – 2009年10月4日)はアルゼンチン・フォルクローレの女性歌手である。北西部のトゥクマンで貧しい労働者の家庭に生まれる。15歳の時にラジオ局のコンテストに優勝して二ヶ月の出演契約を結ぶが、ディレクターがフォルクローレをバカにしたことに怒って喧嘩して帰ってきてしまった、というエピソードが知られている。

その後、首都ブエノスアイレスに出て様々な職を転々としたのち、1960年代半ば、30歳頃に歌手として世に出る。1973年、作詞のフェリックス・ルナ、作曲のアリエル・ラミレスと組んで、アルゼンチン史上の8人の女性(7人のアルゼンチン人と1人のボリビア人)を歌ったアルバム「アルヘンティーナの女(Mujeres argentinas)」を発表、フォルクローレ史上に不朽の名を残す。


ジミ・ヘンドリックス
(James Marshall Hendrix、1942年11月27日 – 1970年9月18日)は、アメリカ合衆国のミュージシャン、ギタリスト。黒人の父親とインディアンの母親との間に生まれたブラック・インディアンである。純血のチェロキー族だった父方の祖母ノラ・ヘンドリックスから、幼少期のヘンドリックスはチェロキー族の昔話を教えられたという。

多くのブルースやロックのミュージシャンと同様、ヘンドリックスもレコードなどを聴いて、独学でギター演奏を学んだ(父アルの談話)。父アルは庭師の仕事をしていたが、生活は貧しかった。ヘンドリックスが15歳の頃ギターに興味を示したため、アルは当時のアパートの家主の息子から古いアコースティックギターを5ドルで買い取り、ヘンドリックスに与えた。これがギターとの最初の出会いだった。

ジェシ・エド・デイヴィス
(Jesse Ed Davis)(1944年9月21日 – 1988年6月22日、43歳死去)は、アメリカ合衆国オクラホマ州ノーマン生まれのロック・ギタリスト、シンガー。本名Jesse Edwin Davis Ⅲ。コマンチ族の父とカイオワ族の母を持つ、生粋のインディアン。スワンプ・ロックを代表する名ギタリストで、特にスライド・ギターが印象的。音楽好きの両親の影響で、3歳の頃にピアノ、6歳の頃にヴァイオリンを始める。少年時代、エルヴィス・プレスリーやジミー・リード等に影響を受け、本格的にギターを始める。

イシ
Ishi, 1860年頃? – 1916年3月25日)は、アメリカ・カリフォルニア州に先住していたヤヒ族インディアンの最後のひとりである。イシは生涯の多くを欧米人社会から全く隔絶されて暮らした生粋の「野生のインディアン」のひとりだった。ヨーロッパ人と接触する以前のヤヒ族人口は3000人弱であったと推定され、カリフォルニア北部の丘陵地帯で3000~4000年前と変わらぬ原始的な生活を営んでいた。

マリー・スミス・ジョーンズ
(Marie Smith Jones, 1918年5月14日 – 2008年1月21日)は、アラスカ中南部でかつて話されていたイヤック語の最後の話者。ジョーンズの死去により、イヤック語は死語となった。ジョーンズは1918年5月、アラスカ州コルドバで生まれた。彼女は最後の純血のイヤック族でもあり、イヤック族の名誉首長であった。その後、ジョーンズは政治に関して活発になり、国連で二度、平和と固有言語の問題について演説した。


ティナ・ターナー
(Tina Turner、1939年11月26日 – )は、アフリカ系アメリカ人の女性歌手、女優、作家。チェロキーと黒人の混血歌手。旧姓名はアンナ・メイ・ブロック。後に夫となるアイク・ターナーに見出され、1960年にアイク&ティナ・ターナーとしてデビュー。野性的でパワフルな歌唱と激しいステージングで人気を博し、R&B界で多くのヒットを飛ばす。1971年には、CCRのカバー曲「プラウド・メアリー」がポップチャートでも大ヒットする。

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リタ・クーリッジ
(Rita Coolidge、1945年5月1日 – )は、アメリカ合衆国テネシー州出身の女性歌手。アメリカ・インディアンのチェロキー族の血を引く。幼い頃からゴスペルに親しみ、1960年代末期から本格的にプロの歌手として活動。1969年の暮れには、デラニー&ボニーのツアーに帯同。このツアーには、エリック・クラプトンも参加していた。

1970年にはジョー・コッカーのアメリカ・ツアーでバック・コーラスを担当。この時、リタにスポットを当てたコーナーで、レオン・ラッセル作の楽曲「スーパースター」を歌っており、その様子はコッカーのライヴ・アルバム『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』(1970年)にも収録された。

ブライアン・アキパ
(Bryan Akipa) はアメリカ、ダコタ・スー族の伝統のインディアンフルート(ネイティブ・アメリカン・フルート)のフルート奏者で、独学でネイティブアメリカンフルートのメーカーを立ち上げ、フルートにダコタ・スー族伝統の木彫を削る木彫師でもある。

サウスダコタ州北東部のスー族の支族、シセトン・ワーペトン・ダコタの保留地で生まれた。青年期にニューメキシコ州サンタフェのインディアン美術学校のインステュート・オブ・アメリカン・アーツ(IAIA)で学び、サウスダコタ州のヴァーミリオンのサウスダコタ州大学でインディアン絵画の第一人者でもあるオスカー・ハウの元で絵画を学んだ。

ヴァル・キルマー
(Val Kilmer, 1959年12月31日 – )は、アメリカ合衆国の俳優。カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。母からスウェーデンの、父からドイツ、アイルランド、ネイティブアメリカンのチェロキー族の血を引く。幼少の頃に両親が離婚し、ニューメキシコ州に移り住んで祖父母に育てられた。最年少の17歳で名門ジュリアード音楽院演劇科に入学し、後に著名な俳優となるケヴィン・スペイシーらと共に演劇を学び、数々の舞台に出演。

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ジョン・オキセンダイン
(John W. Oxendine、1962年4月30日-)はアメリカ合衆国は、ジョージア州出身の政治家で、同州の保険長官及び安全消防委員、弁護士。所属政党は共和党。1962年4月30日にラムビー族(ノースカロライナ州最大のネイティブアメリカンの部族)の血を引く、裁判官の父ジェームズ・W・オキセンダインと母ルイーズ・オキセンダインとの間で、テネシー州ナッシュビルで生まれ、5歳時から、ジョージア州タッカーで育つ。

リヴ・タイラー
Liv Rundgren Tyler, 1977年7月1日 – )は、アメリカ合衆国の女優。父親はロックバンド、エアロスミスのボーカルのスティーヴン・タイラー。母親はモデルのビビ・ビュエル。ニューヨーク州ニューヨークで生まれ、メイン州ポートランドで育つ。母ビビ・ビュエルはドイツ系アメリカ人、父のスティーヴン・タイラーはイタリア系とウクライナ系ユダヤ人(当時はロシア)とインディアンのチェロキー族の血筋。

アリーヤ
Aaliyah Dana Haughton, 1979年1月16日 – 2001年8月25日)は、アメリカ合衆国ニューヨークブルックリン出身の歌手、女優。「アリーヤ」とはスワヒリ語で「最高の存在」という意味。アフリカ系アメリカ人とアメリカインディアンの両親のもとで1979年にブルックリンで生まれ、5歳のころにデトロイトに移る。6歳で『アニー』の舞台に孤児役として立ち、ニューヨークを中心に9歳から芸能活動を始める。11歳の頃はラスベガスでショーをこなしていた。

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ビヨンセ
(Beyonce Giselle Knowles, 1981年9月4日 – )は、アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン出身のシンガーソングライター、音楽プロデューサー。デスティニーズ・チャイルド初期からのメンバーで、グループではリードボーカル、プロデューサーも兼ねた。身長170cm。その美貌は多くの女性達からの羨望を受け、トミー・ヒルフィガーの香水「トゥルースター」をプロデュースしたりと、いつしか知名度はデスティニーズ・チャイルドを超えた。アフリカ系アメリカ人のマシュー・ノウルズ(Matthew Knowles)とルイジアナ・クレオールの祖先(アメリカインディアン、フランス人の血を引く)を持つティナ(Tina)との間に、長女として生まれた。

ソランジュ
(Solange Piaget Knowles、1986年6月24日)はアメリカ合衆国テキサス州ヒューストン出身の女性シンガーソングライター、女優、モデル。アフリカ系アメリカ人のマシュー・ノウルズ(Matthew Knowles)とルイジアナ・クレオールの祖先(アメリカインディアンの血を引く)を持つティナ(Tina Knowles)との間に次女として生まれる。

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ジョジョ
(JoJo、本名:ジョアンナ・レヴェック (Joanna Levesque)、1990年12月20日 – )はアメリカ合衆国のポップ/R&Bシンガー・ソングライター、音楽プロデューサー、女優。1990年にバーモント州のBrattleboroで生まれる。イングランド、ポーランド、スコットランド、フランス、(母親はアイルランド人とアメリカインディアンのハーフ)の血を引いている。

マイリー・サイラス
(Miley Ray Cyrus, 1992年11月23日 – )は、アメリカ合衆国出身の歌手、女優。父はカントリー歌手のビリー・レイ・サイラス。出生名はデスティニー・ホープ・サイラス。身長168cm。米People誌の最も美しい100人の内の一人に選ばれ、Forbes誌の有名人100では2500万ドルを稼ぎ35位だった。2009年には29位に上がった。「ハンナ・モンタナ」は社会現象になるほどの人気を誇った。自毛は栗色で、2012年半ばまでは、ゴージャスなスーパーロングであった。

 

ミーガン・フォックス
(Megan Fox, 1986年5月16日 – 、は、アメリカ合衆国の女優、ファッションモデル。テネシー州ロックウッドにて、アメリカインディアン・フランス・アイルランドの血を引く両親の間に生まれる。姉、妹、弟がいる。両親は離婚しており、実母と継父によって育てられた。セクシーな女優として有名であるが、それと同時に彼女は論争の的となる過激な発言でも知られる。雑誌「マキシム」のインタビューで自分はドラッグをやっていない数少ない俳優の1人であると語った。

<先住民・先住民族由縁の著名人>

アトゥエイ
(Hatuey、生年不詳 – 1512年2月2日)とは西インド諸島に定住していた原住民アラワク語族に属するタイノ族の伝説な首長。イスパニョーラ島(現ハイチ、ドミニカ共和国辺り)出身だが、キューバでスペイン征服者に対して最初に決然たる反逆運動をした人物である。しかしアトゥエイは仲間に裏切られ、ベラスケスはアトゥエイを捕まえ反逆の罪に罰し火刑にした。

火刑の際、木に縛り付けられたアトゥエイは、スペイン人神父ラス・カサスから「悔い改めキリスト教に改宗すれば天国に行ける」と説かれ、キリスト教への改宗をするよう勧められる。アトゥエイは「天国にはどんな人がいるか?」とカサス神父にたずね、「キリスト教徒なら誰でも行ける」と聞かされた時、「お前達、みんないるのなら、そんな所に死んでまで行かなければならないとしたら、キリスト教徒になりたいとは思わない」とキリスト教の改宗に死ぬまで断乎拒否した。アトゥエイの死は、キューバで最初の独立のための苦悩の殉教者として色んな伝説を生んだ。


グアイカイプロ
(Guaicaipuro、生年不明 – 1568年)は、16世紀の南アメリカ北部でスペイン軍の侵攻に対して戦ったインディオの指導者である。現在のベネズエラ、カラカス南方にいたテケス人の指導者で、ひとたびはスペイン人を撃退し、周辺諸部族を糾合して大連合を作ったが、再度の侵攻に対して敗れて死んだ。最終的に敗れたものの、ベネズエラのインディオの中では顕著な善戦を示した。インディオ抵抗の代表者としてベネズエラ史に記され、その名はグアイカイプロ市に冠された。

デガナウィダ
Dekanawida、1550年頃-1600年)はインディアンの酋長(調停者)。指導者、首長ではない。デガナウィダは和平のために湖の南へと旅をした。彼はあちこちで和平の呼びかけを行い、湖の東にあるモホーク族の村でハイアワサと出会った。ハイアワサは村でも強力な戦士であり、人食いでもあったが、戦いに虚しさを感じ、眠れない夜を過ごしていた。ハイアワサは家族を集め、デガナウィダの話を聞くことにした。デガナウィダはこう話し始めた。「私は、天空の大精霊の酋長の良き知らせとともに来ました。国同士の戦いは終わらなければなりません。良き精霊は、人間たちが血を流し合うことを決して望んでいません。」

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ポカホンタス
(Pocahontas、1595年頃 – 1617年) はアメリカインディアン・ポウハタン族 (Powhatan) の女性。ポカホンタスの生前の唯一の肖像画は1616年、オランダ生まれの版画家サイモン・ヴァンダーパッセ (Simon Van de Passe) により制作された。西洋の服を着せられているが、彼女のアメリカインディアンとしての個性は強く残っており、銅版画からは彼女の強い個性を感じることができる。

メタコメット
Metacomet、1639年 – 1676年8月12日)とはアメリカ・インディアンのワンパノアグ族の酋長で、メタコム(Metacom)あるいは、白人からフィリップ王(King Philip’s)とも呼ばれた。メタコメットは酋長(調停者)として申し分のない働きをした。飢えや病気で苦しんでいた「ピルグリムファーザーズ」(プリマスに入植したイギリス白人)に食糧を与えてその命を救った、有名なワンパノアグ族のマサソイト酋長の次男であり、メタコメット本人も1621年にピルグリムファーザーズと友人になった。

オブワンディヤグ
Chief Pontiac、1720年 – 1769年4月20日)は、カナダとアメリカ合衆国に原住するオタワ族インディアンの酋長。ポンティアクの戦争(1763年-1764年)でイギリス人入植者に対する反乱に関わった事で知られる。フレンチ・インディアン戦争にも関与したと言われている。ミシガン州にポンティアック市がある他、デトロイトにある自動車メーカー、ゼネラルモーターズが製造・販売していた乗用車のブランドの一つポンティアックなどは彼の名から因んでいる。

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ジョセフ・ブラント
Joseph Brant、本名タイエンダネギー(Thayendanegea)1742年頃 – 1807年11月24日)は、モホーク族インディアンの酋長、アメリカ独立戦争中のイギリス軍の士官。タイエンダネギー(ブラント)は当時のインディアンではおそらく最も知られた存在であった。ブラントは、ジョージ・ワシントンやイギリス王ジョージ3世など、当時の多くの著名な人と会ったことがあった。

タイエンダネギー(ブラント)は今日のオハイオ州アクロンの近く、カヤホガ川の堤にあるオハイオ領土カヤホガで生まれた。折りしも狩の季節であり、モホーク族がその地に移動してきていた。ブラントはタイエンダネギーと名づけられた。

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レッド・クラウド
赤い空(Makhpiya Luta、1822年 – 1909年12月10日)は北米インディアン・オグララスー族の部族員である。しばしば誤解されるが、酋長ではない。戦争指導者でもない。生まれたときに空が真っ赤に焼けていたので、「マアピヤ・ルタ(赤い空)」と名づけられた。「空」が「雲(クラウド)」になっているのは、白人が誤訳したためである。ラコタスー族に属するオグララ族のなかの、「イテシカ族」の名門の生まれ。レッド・クラウドは白人によって「スー族の大指導者」に祭り上げられた人物である。が、そもそもスー族には部族すべてを統括するような「大酋長」など存在しない。

ラナルド・マクドナルド
(Ranald MacDonald, 1824年2月3日 – 1894年8月5日)は、アメリカ人。日本初のネイティブスピーカーの英語教師。オレゴン・カントリーのアストリア砦(英語版)(現アストリア (オレゴン州))でスコットランド系の父親と、アメリカインディアンチヌーク族(英語版)の母親の間に生まれる。子供の頃、音吉と出会い、インディアンの親戚に自分達のルーツは日本人だと教えられて信じ、日本にあこがれた。1848年、捕鯨船員となり、船が日本近海に来た6月27日(グレゴリオ暦)、単身でボートで日本に上陸を試みた。


シッティング・ブル
(Sitting Bull)、本名タタンカ・イヨタケ(Tatanka Iyotake)、(1831年 – 1890年12月15日)は、アメリカインディアンのラコタ・スー族のオグララ族に属するハンクパパ族の戦士、呪術師。 しばしば誤解されるが酋長、族長、指導者ではない。ハンクパパ族を始め、スー族は白人の侵略に断固として立ち向かい、合衆国から絶滅対象部族となった。米軍とスー族・シャイアン族の戦いでも目覚ましい戦いぶりを見せ、翌1867年にはチャンテ・チンザ(ストロング・ハート戦士団)の中心戦士となった。彼はこのとき、こう述べている。

「昔の戦士たちはもういない。 私自身が勇気を出す」シッティング・ブルはのちに、白人に「インディアンの戦士」についてこう語っている。「我々にとっての戦士とは、お前さんたちが考えるような、ただ戦う者ではない。本来誰にも他人の命をとる権利はないのだから、戦士とは、我々のためにあり、他者のために犠牲となる者だ。その使命は、歳取った者やかよわき者、自分を守れない人々や将来ある子供たちに注意を払い、守りぬくことにあるのだ。」

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クアナ・パーカー
Quanah Parker、1840年代後半-1911年2月23日)は、19世紀後半のアメリカ・インディアンの指導者である。コマンチェ族インディアン酋長ペタ・ノコナとヨーロッパ系アメリカ人女性シンシア・アン・パーカーの息子であり、クァハディ・コマンチェ族最後の酋長になった。クアナ・パーカーはネイティブ・アメリカン教会運動の最初の偉大な指導者達の一人とされている。


ヘンリー・ベリー・ローリー
(Henry Berry Lowrie、1844年-1874年?(1872年の沼地での戦いで消息を絶つ))とはアメリカノースカロライナ州出身のアウトロー。良く組織された集団を率いて、1864年から1874年の10年間、公民権や個人の自由、インディアン(ラムビー族やタスカローラ族)の先住民としての民族自決のため、森で連合国(南軍)の義勇軍に抵抗して戦った。(ローリー戦争)((Lowry War))。ロビンフットの様な生き様から、インディアンのラムビー族やタスカローラ族から”インディアン・ロビンフット”(又は”ラムビー・ロビンフット”)とも呼ばれ、ノースカロライナ州では英雄的存在である。


ツー・ムーンズ
(Two Moons、1847年-1917年)は、北米インディアンシャイアン族の戦士。正式な名前は、イシャイニシュス(Ishaynishus、二つの月)である。北部シャイアン族の、「狐戦士団」の戦士の一人だった。父親はアリカラ族のキャリーズ・ザ・オッター。1970年代における、平原部族の合衆国に対する抵抗戦で活躍した戦士。イシャイニシュスのバンドは1877年に合衆国に降伏し、保留地への強制移住を受け入れた。イシャイニシュスは退屈な保留地生活を選ばず、かつての宿敵ネルソン・マイルズ将軍のもとでインディアン斥候を務めた。

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チャールズ・カーティス
Charles Curtis、1860年1月25日 – 1936年2月8日)は、アメリカ合衆国の政治家。カンザス州選出の下院・上院議員で、第31代アメリカ合衆国副大統領になった。カーティスの祖先はアメリカインディアンで、母親はカンサ族であった。彼はカンサ族居留地で幼年期を過ごし、アメリカ合衆国で二番目に高い地位に就いたヨーロッパ人の祖先を持たない最初の人物である。

フベンティーノ・ローサス
(Juventino Rosas Cadenas, 1868年1月25日 – 1894年7月9日)はメキシコの作曲家・ヴァイオリニスト、バンドマスター。グヮナタフヮート州サンタ・クルス・デ・ガレアナにおいて、貧しい先住民のオトミ族に生れる。7歳から、教会の鐘つきから街路でのフィドル演奏にいたるまで、ありとあらゆる音楽関係の仕事に就いて生計を立てる。10代前半で、有名な歌手アンヘラ・パラルタの伴奏者を務めるようになった。

国立音楽院に2度入学して一時的に学んだものの、たいていは独学であった。その後オーケストラやブラスバンドを率いて、国際的な演奏旅行を行なった。最も有名な作品は、ワルツ『波濤を越えて “Sobre las Olas”』である。この古典的なワルツは、『ドナウ河のさざ波』とともにしばしばウィンナ・ワルツと混同されているが、最初に出版されたのは、1884年にルイジアナ州ニューオーリンズで、ローサスが有名なメキシコのバンドとともに、同地の万博に参加していた時期のことだった。

ジム・ソープ
Jim” Thorpe, 1888年5月28日 – 1953年3月28日)は、陸上競技、野球、アメリカンフットボールなどで幅広く活躍したアメリカのスポーツ選手。サック&フォックス族インディアンで、部族員としての名は「輝ける道」を意味するワ・サ・ハク(Wa-Tho-Huk)という。

1912年のストックホルムオリンピック陸上競技では走幅跳、走高跳、五種競技、十種競技の4種目に出場した。7月7日、最初の種目五種競技に出場、走幅跳は7m07cmで1位、やり投46m71cmで3位、200m22秒9で1位、円盤投35m57cmで1位、1500m4分44秒8で1位と圧倒的な成績で優勝した。


ミゲル・アンヘル・アストゥリアス
(Miguel Angel Asturias, 1899年10月19日 – 1974年6月9日。ミゲル・アンヘル・アストリアスとも)は、グアテマラの小説家。キューバのアレホ・カルペンティエルと共に魔術的リアリズムの担い手となり、その後のラテンアメリカ文学ブームの先導者となった。判事でインディオの血をひく父と、教師をしていたインディオの母との間のメスティソとして生まれる。両親は独裁者エストラーダ・カブレラに反抗したために職を追われ、ミゲルが5歳の時に祖父の住む田舎に移り、現地のインディオ達や母から伝説や様々な話を聞いて育つ。

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フリーダ・カーロ
マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロン(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderon、1907年7月6日 – 1954年7月13日)は、メキシコの画家。インディヘニスモの代表的美術作家。 メキシコの現代絵画を代表する画家であり、民族芸術の第一人者としても数えられる。フリーダは1907年7月6日、メキシコシティの近郊にあるコヨアカンで父ギリェルモ・カーロと母マティルデ・カルデロン=イ=ゴンザレスの三女として生まれた。

アタウアルパ・ユパンキ
(Atahualpa Yupanqui, 1908年1月31日 – 1992年5月23日)はアルゼンチンのフォルクローレのギタリスト、歌手、作家である。本名エクトル・ロベルト・チャベーロ(He´ctor Roberto Chavero)、でアタウアルパ・ユパンキの名はインカ帝国歴代の皇帝2人の名をつなぎ合わせたものである。

ブエノスアイレス州ペルガミーノで鉄道員の家庭に生まれ、のち父親の転勤によって北西部のトゥクマンに移る。父はケチュア系先住民の血を受け継ぎ、母親はバスク系移民。1929年、処女作「インディオの小径」(Caminito del indio)でデビューし、1930-40年代に多くの作品を発表するが、その活動が反政府的と目されて1950年代初頭にはヨーロッパへの亡命を余儀なくされたこともある。

マイケル・フォレスト
(Michael Forest、Michael Forrest、1929年4月17日 – )は、アメリカ合衆国の俳優、声優。ノースダコタ州ハーヴェイ出身、ワシントン州シアトル育ち。ラコタ族及びオジブワ族の血を引く。1968年から1978年まではローマを活動の拠点とし、ヨーロッパの映画作品に出演した。1979年にアメリカに帰国。ロサンゼルスで映画に出演した後、ニューヨークに移り舞台を中心に活動。後に再びロサンゼルスに活動の拠点を移し、俳優・声優として活動している。

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ジェームス・ブラウン
(James Joseph Brown, Jr., 1933年5月3日 – 2006年12月25日)は、アメリカ合衆国のソウルミュージックシンガー・音楽プロデューサー・エンターテイナー。通称JB。彼の父はアパッチ族インディアンで、母はアフリカ系黒人アメリカ人と、アジア人の系統であり、彼は日系人及び日本人のクオーターと自称していた。幼少時は、綿花詰みの手伝いや下町での靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝をさらうほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。


マリオ・バルガス・リョサ
(Jorge Mario Pedro Vargas Llosa, 1936年3月28日 – )は、ペルーの小説家。アレキパ出身。ラテンアメリカ文学の代表的な作家でありジャーナリスト、エッセイストでもある。主な作品に『都会と犬ども』『緑の家』『世界終末戦争』など。1976年から1979年、国際ペンクラブ会長。

2010年ノーベル文学賞を受賞。1936年、ペルー南部のアレキパに生まれる。生活のためにさまざまな職業につきながらリマの国立サンマルコス大学にて法律、文学を学ぶ。1958年よりスペインのマドリード・コンプルテンセ大学に入学、同大学で博士号を取得した後はパリに渡りAFP通信社などで働いた。

チャック・ノリス
Chuck Norris, 1940年3月10日 – )は、アメリカ合衆国オクラホマ州出身の武道家、俳優、映画製作者、作家、政治評論家、実業家、社会運動家。界プロフェッショナル空手選手権ミドル級チャンピオンに輝き、6年間タイトルを保持し無敗のまま競技生活を終える。生涯戦績は195戦183勝10敗2分[4][5]。貧しい労働者階級からスーパースターへと成功したことで知られている。父親の祖父がアイルランドからの移民で祖母はチェロキー・インディアン。

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ロビー・ロバートソン
(Robbie Robertson、1943年7月5日-)は、カナダ出身のギタリスト、シンガーソングライター。ザ・バンドのメンバーとして活動した後、1987年にソロ・デビューを果たす。オンタリオ州トロント生まれ。父はユダヤ人、母はモホーク族インディアン。幼くしてギャングだった父が殺され、ロビーは貧しい環境の中、母親の手で育てられる。7歳のときにギターを覚えやがてロックンロールに熱中し地元のアマチュアバンドでファッツ・ドミノなどの作品に触れる。


シェール
(Cher, 1946年5月20日 – )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州エルセントロ出身の歌手・女優。アカデミー賞とグラミー賞という映画界と音楽界の頂点の賞を手中に収めた。父親はアルメニア系、母親はチェロキー・インディアン。1998年にヨーロッパで先行してリリースしたシングル「Believe」が大ヒット。その後、各国で1位を記録した。このヒットを受け”Believe”は米国でも1位を獲得し、世界を席捲した。


グラハム・グリーン
(Graham Greene, 1952年6月22日 – )は、カナダのオンタリオ州出身の俳優。オナイダ族出身。舞台俳優としてトロントやイギリスで活躍。1983年に映画デビューしたが、アカデミー助演男優賞にノミネートされた1990年の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』が最もよく知られている。

オプラ・ウィンフリー
(Oprah Gail Winfrey, 1954年1月29日 – )は、アメリカ合衆国の俳優、テレビ番組の司会者兼プロデューサー、慈善家である。司会を務める番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』はアメリカのトーク番組史上最高の番組であると評価され、多数の賞を受賞している。彼女が独自に行ったテストの結果によると、彼女の血筋は89%はブラックアフリカ人で、8%はアメリカインディアンで、3%が東アジア人の系統らしい。

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ケビン・コスナー
(Kevin Michael Costner, 1955年1月18日 – )は、米国の映画俳優、映画監督・映画プロデューサー。1987年、『アンタッチャブル』の主演に抜擢され、ショーン・コネリーやロバート・デ・ニーロを相手に正義感溢れる主人公を演じる。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』はインディアンに関した作品であったが、自身もチェロキー族インディアン、ドイツ、アイルランドの混血である。

リゴベルタ・メンチュウ
(Rigoberta Menchu Tum, 1959年1月9日キチェ県チメール – )はグアテマラのマヤ系先住民族の1つキチェの人権活動家・実業家である。1992年にノーベル平和賞、1998年にアストゥリアス皇太子賞国際協力部門を受賞した。幼少期から不正、差別、人種差別、グアテマラの極貧状態で生きる何十万もしくは何百万人もの先住民に対する搾取の事実を痛切に感じていた。軍と準軍組織により、両親、兄弟、共同体のメンバーが暗殺されている。1991年、メンチュウは先住民族の権利に関する国際連合宣言を協議する作業部会に加わった。

エボ・モラレス
(Juan Evo Morales Aima, 1959年10月26日 – )は、ボリビアの政治家であり、社会主義運動党 (Movimiento al Socialismo : MAS) を率いる。2005年12月18日の選挙で大統領に当選した(任期は2006年1月22日より)。ボリビア史上初めての先住民出身の大統領である。

オルロ県でアイマラの農家に生まれた。最終学歴は中学卒であり、本人は「人生という大学で学んだ」としている。17歳で兵役に就いた他、様々な職を転々とした後、コチャバンバ県チャパレに移住し、コカの栽培農家となる(ボリビアにおいてはコカの栽培は合法である)。

クエンティン・タランティーノ
Quentin Jerome Tarantino, 1963年3月27日 – )は、アメリカ合衆国の映画監督。1990年代前半、入り組んだプロットと犯罪と暴力の姿を描いた作品で一躍脚光を浴びた。脚本も書き、自身の作品に俳優として出演もする。アカデミー脚本賞とカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞している。タランティーノの父はイタリア系アメリカ人、母親はアイルランド系アメリカ人でチェロキー族の血も引いていた。母親は僅か16歳で未婚のままタランティーノを生んだ。

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ジョニー・デップ
Johnny Depp, 1963年6月9日 – )は、アメリカ合衆国の俳優、ミュージシャン。フランス人、アイルランド人、ドイツ人、チェロキー族の血を引く。クリーク族の血を引いているとも言われている。「The Kids」をリードギタリストとして率い、イギー・ポップの前座も務めた。バンドは商業的に成功を収め、さらに活動を本格化させるべくロサンゼルスに活動拠点を移し「Six Gun Method」と改名し様々なバンドとコラボレーションを行った。

シャーマン・アレクシー
(Sherman Joseph Alexie, Jr.,1966年10月7日 - )は、アメリカ人詩人、小説家、脚本家、映画監督である。1966年、アメリカワシントン州のスポケーンインディアン居留地の中にある町ウェルピニットで生まれた。スポケーン族とクール・ダレン族の血を引く。高校生の時、よりよい教育を受けるために居留地外のリアーダン高校に転校した。奨学金を受けてゴンザーガ大学に進学し、2年後にワシントン州立大学で学んだ。初めは医師になるためにメディカル・スクールへの進学を志望していたが、解剖学の授業で何度も気絶したため進路を変更せざるを得なくなった。

アダム・ビーチ
(Adam Beach、1971年-)はカナダ出身の俳優。ソルトー族の生まれ。子供の時に別々の事故で相次いで両親を亡くし、2人の兄と共に叔父と叔母に育てられる 。 若い頃からバンド活動や演劇に携わり、1990年にカナダのテレビでデビュー。1998年、 インディアンの青年を演じた『スモーク・シグナルズ』で知られるようになる。

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アンジェリーナ・ジョリー
Angelina Jolie,1975年6月4日 – )は、アメリカ合衆国の女優、映画プロデューサー、ファッションモデル及びUNHCR親善大使。愛称は「アンジー」である。カリフォルニア州ロサンゼルス出身。父はスロバキアおよびドイツ系アメリカ人俳優のジョン・ヴォイトで母はフランス系カナダ人とイロコイ族(ワイアンドット族)の血をひく女優のミシェリーヌ・ベルトラン。

ジェシカ・ビール
(Jessica Claire Biel, 1982年3月3日 – )は、アメリカ合衆国の女優。ミネソタ州イーリーで生まれ、コロラド州ボールダーで育つ。父親のジョンは起業家、母親のキンバリーは主婦。1985年生まれの弟ジャスティンがいる。ドイツ人・フランス人・イングランド人、インディアン(チョクトー族)の血を引く。

マンディ・ムーア
Mandy Moore、1984年4月10日 – )はアメリカ合衆国のポップス歌手・女優。父方からアイルランド人とチェロキー族インディアンの、母方からイングランド人とユダヤ人の血を引く。2001年、『プリティ・プリンセス』で映画デビュー。青春映画などに積極的に出演し、特に2002年に出演した『ウォーク・トゥ・リメンバー』は世界中でスマッシュヒットした。 また背の高さを活かしてファッションモデルとしても人気である。

 

ヴァネッサ・ハジェンズ
(Vanessa Hudgens, 1988年12月14日 – )は、アメリカ合衆国の 女優、歌手、アイドル。身長157cm。カリフォルニア州サリナスで、父グレッグと母ジーナの下に長女として生まれる。フィリピン人、中国人、スペイン人、アイルランド人、アメリカインディアンなど、様々な人種の血を引いている。8歳の頃からダンス、ピアノ、ボイストレーニングのレッスンを受けてきた。

 

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