縄文時代の環境づくり。★①植林★Jomon Afforestation 181222(土)

果奈毎美さんから 貴重なお話を教えてもらった。

★日本の豊かなブナ林は自然が作ったのでなく、人工的なんです。縄文人たちが天然を活用した治水事業として、植樹さしたからできたんです。技術が廃れると、米国式ダムみたいな力づくで自然を曲げる治水しかなくなるから、先生残してくれと、山里ベンチャープロジェクトで、熱心な森林組合の女性に言われました。

★縄文時代から植林が行われていた!! 啓 (Kei)

① まずは 日本の長い歴史を反芻してみよう。

 

★【衝撃】縄文時代の歴史的発見!!縄文文明は、小規模な集団がいくつも点在した文明!!世界最古の文明は縄文文明なのか?縄文時代 フルールちゃんねる 2017/12/22 に公開

 

② 縄文時代(じょうもんじだい)は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃[* 1]から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。

縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作や金属器の使用を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については、紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。沖縄県では貝塚時代前期に区分される。次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれる。東北北部から北海道では他地域に弥生文化が登場した後も縄文時代の生活様式が継承されたため、縄文時代の次の時代を続縄文時代と呼ぶ。

★【武田鉄矢】想像を超える縄文時代の文明!※驚愕の連続※ Keith Moneypenny

③ 日本は世界の主要国のうちで最も森林の多い国です。日本の国土に占める森林の割合は68%。これに対しアメリカは33%、ドイツ30%フランス24%、英国8%、中国16%。これは日本の気候に負うところも大きいが、自然にまかせたわけではなく、木材の伐採には常に植林を行って森林面積を保ってきたからです。また、肉食用の家畜を受け入れなかったのは、森を破壊しつくし再生を不可能にすることを防ぐ知恵だったのです。

そして、青森の三内丸山遺跡がブナやミズナラの天然林から、栗の林に変化したことから、縄文時代から植林のようなことをしていた跡がみれます。 弥生時代には水田を作ったが、背後には森を残し二次林を作って水田の水を供給する源としました。ヨーロッパでは森を伐採した後、畑にしたり牧場にしたため森林の回復はなかったのと、違いがあります。日本の森林は、ご先祖様達が維持し、守ってきた懸命な努力の賜であることを忘れてはならないのです。 「日本史の中の世界一」育鵬社より抜粋

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★中国の植林を友人たちが熱心にやっていた。千代田区倫理法人会の当時の仲間たちだ。私も感動して、その後 タイや、ラオス、中国、ケニアの植林を手伝って来た。中国の人々が立ち上がれば、奇跡が起こるだろう。10億人が動けば世界中が緑に覆われる。地球が呼吸を始めるだろう。

 

④ 木を植えた日本人の歴史 リンク より

●縄文時代
紀元前4500年頃
森林伐採の過程で食糧となるクリの木を残していった結果、クリ林が生まれる。(福井県鳥浜遺跡(とりはまいせき)、青森県山内丸山遺跡(さんないまるやまいせき))
紀元前3000年頃
優良果樹(ゆうりょうかじゅ)を選択的に残し、その幼樹(ようじゅ)を育成したと考えられている。(保護管理されたと思われる大型クリ 岡山県南方前池遺跡)
紀元前1000年頃
西日本において森林焼却による移住地造成(いじゅうちぞうせい)と焼き畑耕作が行われていたと考えられる。(福井県四筒遺跡の花粉分析)

●弥生時代
紀元前100年頃
農耕による栽培技術(さいばいぎじゅつ)の進展は、樹木にも及び果樹栽培(かじゅさいばい)が行われたと考えられている。(ウメ、モモ、アンズの栽培の可能性 山口県岡山遺跡(おかやまいせき))
100年
木材需要の増加で森林の伐採も多くなり、洪水が発生しやすくなってきた。

●古墳時代
300年
瀬戸内沿岸などで製塩(せいえん)が盛んになり、薪(まき)の需要が増大する。
583年(敏達12年)
造園技術とともに樹木の植栽技術(しょくさいぎじゅつ)があった。(奈良県明日香村の蘇我馬子邸跡(そがのうまこていあと)

●飛鳥時代
607年(推古15年)
法隆寺(ほうりゅうじ)が建造される。
676年(天武5年)
飛鳥川(あすかがわ)上流の草木採取(くさかりきこること)を禁じ、畿内(きない)山野の伐木を禁じる。森林伐採禁止令の最古の記録。
708年(和銅元年)
百姓の宅地周辺における20~30歩造林を許す。
722年(養老6年)
山野に焼き畑が広がる。
734年(天平6年)
「出雲国計会帳」の中の「桑漆帳」1巻が上進(じょうしん)される。(園地を上、中、下戸と差を付けそれぞれにクワは300根~100根以上、ウルシは100根~40根以上植えるように定められている。それらは貢納された)
749年(天平勝宝元年)
東大寺の建設開始。
759年(宝治3年)
諸国の駅路(えきろ)に果樹を植えさせる。

●平安時代
821年(弘仁12年)
大和の国司、大和一円にわたる潅田水辺の山林が持つ水源かん養、土砂崩壊(ほうかい)防止機能を発揮させる観点から水源の山林伐採を禁じる。(水源かん養林の初見)
866年(貞観8年)
常陸国鹿島神宮造営(ひたちのくにかしまじんぐうぞうえい)の材料とすべきスギ(4万株)、クリ(5700株)を近傍空閑(きんぼうくうかん)の地に植え、造宮備林とする。(まとまった林木植栽の記録としては、わか国最古)
955年(天暦9年)
阿波国里浦海岸(あわのくにさとうらかいがん)に風潮除を兼ねて魚つきの用に供するクロマツ林を仕立てる。(魚つき林の初見)

●鎌倉時代
1190年(建久元年)
熊野のスギが、土佐国幡多郡熊野神社(とさのくにはたぐんくまのじんじゃ)に移植される。
1261年(弘長元年)
大和のスギが、能登国珠州郡春日神社(のとのくにすずぐんかすがじんじゃ)に移植される。
1314年(正和3年)
仙台領内で紀州熊野産(きしゅうくまのさん)のスギ種子により苗木の養成が行われる。

●南北朝時代
1349年(貞和5年)
熊野のスギが、陸奥国江刺郡正法寺(むつのくにえさしぐんしょうほうじ)へ移植される。
1394年(応永元年)
京都北山において、初めてスギの台木をつくる。(白杉、北山丸太栽培の起源)

●室町時代
1469年(文明元年)
犬居町秋葉神社(いぬいまちあきはじんじゃ)社有林にスギ、ヒノキの植林。(天竜での人工造林の開始)
1501年(文亀元年)
奈良県吉野川上郡でスギの植林が始まる。(吉野での人工造林の開始) 1542年(天文11年)
武田信玄、甲斐国釜無川(かいのくにかまなしがわ)の左岸に霞堤(かすみてい)を築き植林する。
1550年(天文19年)
この頃から植林の奨励がなされ、山林の荒廃、洪水の害を防止し、開田事業を保護するため焼き畑を禁じる。

●安土桃山時代
1570年(元亀元年)
仙台藩、海岸一体に砂防林を創設。(以後各藩が海岸砂防林の造成に取り組む)
1573年(天正元年)
武蔵国高麗郡(むさしのくにこうらいぐん)、稚苗数万本を植え、かつ数十町歩の原野を新開して木を増殖する。
1600年(慶長5年)
紀州藩主徳川頼宣が尾鷲(おわせ)地方の人工造林の端緒を開く。

★縄文時代は「世界最古の土器文化」1万6500年前の土器片発見!!

おもしろ歴史雑学 2015/10/24 に公開

 

●江戸時代
1618年(元和4年)
長岡藩主牧野田忠晴、水野尾林(御水林)を設定する。(水源かん養保安林制度の初まり)
1626年(寛永3年)
萩藩、20年毎に伐採する輪伐法を取り入れた「番組山」制度を導入。
1631年(寛永8年)
青梅・西川近辺の入会論争が始まる。
1642年(寛永19年)
幕府が代官に「木苗などを植えるべき場所には木苗を植え申すべきこと」と造林命令を出す。
1643年(寛永20年)
幕府、御林奉行は代官所をして御林地元村々に植樹を命じ、耕地山野への植樹を申しつける。
1661年(寛文元年)
幕府、諸藩は林産資源保続のため御林(下草はもちろん枯れ枝まで採集を禁じた森林)を設ける。
諸産業が勃興(ぼっこう)し始め、木材採取が盛んになり、民間林業が出現し始める。
1697年(元禄年)
仙台藩、陸前国気仙郡(りくぜんのくにけせんぐん)の百姓半兵衛に熊野スギの実をわたし、私費で65万坪にスギを植林させる。
1702年(元禄
年)
津軽藩主津軽信政、外浜の明山へスギ苗4万本植え付ける。
蟻須賀藩、造林と共に天然林の撫育(ぶいく)と植栽、実蒔を命じる。
1716年(享保元年)
日田地方(ひたちほう)にスギの山挿し始まる。
1764年(明和元年)
挿スギ、挿ヒノキ造林についての具体的な仕法を通達する。(幕府による造林技術指導の始まり)
1782年(天明2年)
武蔵国秩父郡(むさしのくにちちぶぐん)の吉田栗右衛門、山林中八畝の雑木を皆伐(かいばつ)してスギ苗2300本を植栽する。
播磨国多可郡(はりまのくにたかぐん)の山口治右衛門、雑木林を伐採してスギ、ヒノキの苗6000本を植える。
1824年(文政7年)
日向国飫肥藩(ひゅうがのくにおびはん)、スギ苗102万5000本を植林する。
1826年(文政9年)
鳥取藩、「諸木増殖仕法」を制定。苗木を支給し、地主と植林者の分収形態を認める。保安植林を集落総出で行わせる。
1836年(天保7年)
伊勢国飯南郡波瀬村(いせのくにいいなんぐんはせむら)の田中彦左衛門が、飢饉(ききん)に窮していた民に代償を問わずに食料を買い与えた。民はその美徳を感じて30町歩を造林した。(天保飢饉林)

明治時代

1868年(明治元年)
旧幕府領地ヲ直隷ト為スノ令が布告され、徳川支配の旧幕府領地・森林原野はすべて朝廷の御料となる。官地官林設定の発端。
1869年(明治2年)
プロシア人のガルトネルが、箱館にブナを植林。(七重村にガルトネル・ブナ林として現存)
1878年(明治11年)
長野県で継続的なカラマツ造林の開始。
1879年(明治12年)
オランダ人土木技師デレーケが報告書のなかで「治水は治山なり」を述べる。
1886年(明治19年)
金原明善(きんぱらめいぜん)が造林事業に着手。天竜水源地にスギ、ヒノキ229万本を挿苗する。
1893年(明治26年)
山林局、1895年から30年間の国有林における造林計画(12万5000町歩)を立案。
1895年(明治28年)
ノースロップ博士が来日。「アーバーデイ(愛林日)」の精神を説く。
明治政府が学校林設置の訓令を出し、11月3日(明治天皇誕生日)を「学校植栽日」とする。
1897年(明治30年)
最初の森林に関する一般法である森林法が公布される。
1898年(明治31年)
本多静六林学博士の提唱により、4月3日(神武天皇祭)が植栽日となる。
1899年(明治32年)
国有林野特別経営事業(不要国有林野を払い下げた代金を積み立てて国有林を造林などで改良整備する事業)始まる。
1900年(明治33年)
西日本の痩悪地にヒノキの造林が盛んになる。
1908年(明治41年)
宮城県、岐阜県が我が国最初の県行造林を実施。

大正時代

1912年(大正元年)
奥羽本線磐越線(おううほんせんばんえつせん)に雪崩防止林が初めて造成される。
1920年(大正9年)
明治神宮竣工。(全国からの献木数9万5559本、これを含めた林苑立木12万2572本)
公有林野官行造林始まる。

昭和時代

1929年(昭和4年)
造林推奨規則が公布される。(初めて私有林まで補助対象を拡大した)
1933年(昭和8年)
大日本山林会会長和田国次郎氏、農林次官石黒忠篤氏、山林局長村上竜太郎氏らにより、毎年4月2日から4日までの3日間を「愛林日」とし、全国一斉に愛林行事を催すことを提唱。
1934年(昭和9年)
第一回愛林日に、日本最初の中央植樹行事が茨城県の鬼が作国有林で行われる。
1945年(昭和20年)
東京大空襲により中央植樹行事は中止される。
1947年(昭和22年)
林業六団体によって「森林愛護連盟(徳川宗敬会長)」が結成され、4月4日に皇太子殿下(現天皇陛下)を迎えて愛林日植栽行事が復活する。
1948年(昭和23年)
東京都青梅市に天皇皇后両陛下を迎えて記念植樹行事を行う。以来記念植樹行事には両陛下を迎えることが恒例となる。
「緑の週間(4月1日~7日)」が設けられる。
1950年(昭和25年)
緑化運動推進母体として「国土緑化推進委員会」が結成される。
愛林日の中央記念植樹行事は「植樹行事及び国土緑化大会」と呼称される。
「緑の羽根募金」が開始される。
「全日本学校植樹コンクール」の実施を開始する。
国土緑化運動ポスター原画と標語の募集を開始する。
1957年(昭和32年)
根釧原野の一角に約1万haのカラマツ林を造成するパイロットフォレストを開始する。
1958年(昭和33年)
分収造林(ぶんしゅうぞうりん)特別措置法公布。
1960年(昭和35年)
「グリーンスカウト運動」を提唱し、青少年による緑化運動組織(後の緑の少年団)が誕生する。
1961年(昭和36年)
森林開発公団造林を開始。(官行造林も継承)
1964年(昭和39年)
林業基本法が分布される。
1966年(昭和41年)
「県の木」が制定される。
1967年(昭和42年)
国土緑化推進委員会が社団法人化される。
1970年(昭和45年)
植樹行事及び国土緑化大会から「全国植樹祭」に名称を変更される。
1977年(昭和52年)
皇太子同妃殿下を迎えて第1回「全国育樹祭」が開催される。
1983年(昭和58年)
分収育林(ぶんしゅういくりん)制度、森林整備法人の法制化が始まる。
1984年(昭和59年)
21世紀の森林づくり委員会が設置される。
1986年(昭和61年)
21世紀の森林づくり委員会が「国民参加の森林づくり」を提言する。
1988年(昭和63年)
社団法人国土緑化推進委員会が社団法人国土緑化推進機構に名称を変更する。
「緑と水の森林基金」が創設される。

平成時代

1989年(平成元年)
「みどりの日(4月29日)」が制定され、国民の休日となる。
緑の週間が4月23日からの一週間となる。
1995年(平成7年)
緑の羽根募金が「緑の募金」に法制化される。

⑤ 我が国でも、長い歴史の中で人々の暮らしと森林や木材とが深く密接にかかわりをもってきた。貴重な資料だ。

先人たちは、森林から得られる木材を種々の道具や身の回りの日用品、住居や燃料等、身近な場面で様々な用途に使ってきた。しかも、用途に応じて樹種を使い分けるなど木材の特性を巧みに活かし、また、木材を無駄なく利用してきた。さらに、木炭、うるし、樹皮、竹材等も同様に暮らしの中で活用してきた。このように、我が国では生活の中で木を有効に使っていく「木の文化」がはぐくまれてきたといえよう。加えて、きのこ類、木の実、山菜、更には下草や落葉、落枝も人々の暮らしに大きな役割を果たしてきた。

一方、木材を得るために、過度の伐採が行われ、森林の荒廃もしばしば起こった。細長い日本列島は、一部の平野部を除いて地形は急峻であり、地質ももろい。気候的には、梅雨期や台風期に集中する傾向にある。また、河川は短く勾配が急なことから、降雨等として陸地にもたらされる水は短期間に海まで流下しやすい。

このような条件下の国土で暮らしてきた先人たちは、森林の荒廃や消失によって、降雨時に地表が削られ土砂が大量に流出したり、河川の流量が不安定になったりすることに繰り返し悩まされ、森林を守り再生させることの重要性を理解し、そのための努力を続けてきた。

今日、我が国の国土の7割近くが、なお森林として維持され、先進国の中でも極めて高い森林率となっているのは、森林の生育に適した気候や開発が困難な急峻な地形といった自然条件に加え、こうした先人たちの努力があったことによるということができる。

(1)我が国における森林の利用と保全

(先史時代における森林と木材の利用)

人々が狩猟や漁労、採集により生活していたとされる縄文時代の日本列島では、石斧(おの)による樹木の伐採や木材の加工が行われ、木材の柱を立てた竪穴式住居が用いられ、水上の移動には丸木舟が使われていたと考えられている。もちろん、土器を製作するための燃料にも木材が使われていた。このような当時の様子は、遺跡からの出土品等から知ることができる。

例えば、縄文時代中期の大規模集落とされる青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡からは、多数の住居跡が発見され、クリが建材として、また、クリやクルミの堅果は食料として利用されていたことが明らかにされた。地中に残された花粉によれば、重要な食料であったクリを栽培していたと推定されている。

また、福井県の鳥浜(とりはま)貝塚等、同じ縄文時代の遺跡から出土する木製品をみると、水に強く加工しやすいスギの丸木舟、きめの細かなトチノキの鉢や盆のように、用途に応じて樹類が選択され、中には表面に漆が塗られた木の器や櫛もみられる。これらは、当時、既に樹種による木材の特性の違いが認識され的確に使い分けられていたことや、樹脂により木材の耐久性を高める技術も知られていたことを物語っている。

さらに、三内丸山遺跡や鳥浜貝塚で注目すべきことは、出土品の年代の幅が広く、極めて長期にわたって大規模な集落が継続していたとみられることである。三内丸山遺跡では、紀元前3500年頃から、一つの集落がおよそ1,500年間もの間、連続して存在したと考えられている。

このように、縄文時代には、森の恵みを持続的に活用していく生活が営まれていた様子をうかがい知ることができる。

(食料の確保と森林)

縄文期には主食だったと考えられているクリ、クルミやトチ、ナラ等の堅果類は、保存しやすいという特性から、江戸期や明治以降にも穀類と同様に貯蔵され、飢饉の際の非常食となっていた。もちろん、ワラビやゼンマイ等の山菜類、食用のきのこ類等は、現在でも季節の味覚や各地の特産品としても重要な食材である。

さらに、このような森林の恵みは、人間だけのものではなく、人間が食用としないものも含めて、森林に棲む動物たちを養う栄養源でもある。森林に生息するこれらの鳥獣を人間が狩猟の対象とし、食料や毛皮等を利用できたのも森林からの恩恵ということができる。

焼畑耕作は、森林や原野を伐開して焼き払い、その灰を肥料として数年間にわたり作物を栽培し、地力が衰えると別の場所に移動する耕作の方法である。縄文末期には既に焼畑耕作が始められたと考えられ、長い間、山間部での収穫を支える耕作法として、戦後までごく普通に行われていた。

弥生時代に入って本格的に普及し始めた水稲の栽培には、鋤(すき)、鍬(くわ)、田下駄(たげた)等の農具、水田の畦(あぜ)やかんがい用の水路を造るための矢板等にスギ等の木材が多く利用された。

また、水田による稲作には、豊富な水が必要となる。各地に水田が広がっていくにつれ、安定的に水を得るためには、森林の存在が重要であることについて、経験を通じ認識が深まっていったと考えられる。

さらに、水田の生産力を保つため、森林や原野の落葉や草を有機質肥料として利用するようにもなっていった。

(住居や大型建築物と森林、木材の利用)

弥生時代には、住居は、森林の近くよりも水稲栽培を行う平地に造られるようになった。また、この時期の遺跡では、住居跡のほか高床式の倉庫とみられる遺構も見られ、通気性の高い校倉の採用など木材の加工技術も高度になった。

7世紀の飛鳥時代になると、大和地方を中心に寺院や宮殿など大規模な木造建築物が多く建造されるようになった。現存する世界最古の木造建築物である法隆寺や世界最大級の木造建築である東大寺大仏殿は、当時の建築技術の高さを示している。

しかし、こうした寺院の建築や藤原京(694年遷都)、平城京(710年遷都)の造営に伴い、大型の木造建築物の建造が盛んに行われるようになると、ヒノキ等建築に用いられる優良材が、また大仏の鋳造に当たっては木炭が、それぞれ大量に使われることとなり、周辺の森林に伐採が集中することとなった。

既に676年には、我が国初とされる飛鳥川上流の南淵山(みなぶちやま)、細川山(ほそかわやま)(奈良県)の森林伐採を禁じる命令が出されたとの記録があり、当時の森林荒廃を物語っている。また、飛鳥地方の周辺では、次第に良質な木材を得ることができなくなり、湖南(こなん)地域(滋賀県)、伊賀(いが)(三重県)、丹波(たんば)(京都府)等、遠方から木材を運ぶようになったとされている。この後、さらに時代を下ると、畿内地方だけでなく各地で寺院等の建築が進められるようになり、森林の大量伐採も各地に広がっていった。

(燃料等としての森林、木材の利用)

燃やすという木材の利用形態は、人類が火を使うようになって以来続いている。炊事や暖房用の薪や炭は、日常生活になくてはならない存在であった。

奈良時代以降「山川藪沢(さんせんそうたく)の利は公私これを共にする」といった命令が度々出されているように、燃料や肥料用の草、落葉、薪などの採取の対象となった森林は、公的な利用と私的な利用とが分かれておらず、農民は比較的自由に利用することができた。一方、これらの採取が盛んに行われると森林の荒廃も見られるようになった。このため、例えば、集落単位で、採取に使うかごの大きさや採取できる期間、一戸当たりの採取することが許される人数を決めるなど、農民たちが森林の利用を自主的に制限することで、森林の利用と保全の両立を図ろうとする知恵が生まれてきた。こうした自主的な利用制限の方法は「山仕法(やましほう)」と呼ばれ、このような村落による共同利用形態は「入会(いりあい)」と呼ばれた。

また、我が国では、農具等に用いる鉄は、たたら製鉄によって精錬されていた。たたら製鉄は、砂鉄等の鉄鉱原料を木炭を用いて鉄に還元させる製鉄法である。中国地方のように、たたら製鉄が盛んに行われていた地方においては、このために大量の木炭が必要となった。瀬戸内海沿岸等で行われた製塩や、各地で盛んになった陶磁器を製作する窯業においても、木材は燃料として欠かすことのできない存在であった。

木材に匹敵する燃料が他にない中で、これらの産業のために木材を供給した森林では、その再生能力を超えた伐採が繰り返されることとなった。

(近世都市の発達と森林、木材)

安土桃山時代になると、大きな都市が造られるようになり、大量の木材が消費された。また、江戸時代になると、人口の集中した江戸や大坂等の大都市では大火が頻発するようになった。江戸(東京)では、明暦3年から明治14年までの224年間に、大火( 注 )が93件も繰り返し発生したとされる。大火に伴う建築用の木材需要の増大から、全国各地で森林伐採が行われるようになった。当時の木材運搬の方法は、河川による流送が中心であり、消費地までの水運の便に左右されたことから、木材を商品として生産できる「林業地」は自ずと限られた。やがて、海運航路が発達したこともあり、大都市での木材需要が伸びるにつれて、各地で森林の伐採が盛んに行われ、木材を取引することにより富を得る商人も現れた。

注:火元から焼けどまり線までの直線距離が長さ15町(およそ1.6km)以上に達した火災

一方、良質の木材資源に恵まれていた地域の中には、全山が伐採された「尽山(つきやま)」と呼ばれる森林が見られるようになったところもあり、森林を管理していた各藩は危機感をもった。このため、森林資源を保護することの重要さが認識されるようになり、あらかじめ定めた森林の伐採を禁じる「留山(とめやま)」制度や、「停止木(ちょうじぼく)」として定めた特定の樹種の伐採を禁止したり、制限したりする「留木(とめき)」制度が各地で定められた。

植林についての歴史を見ると、万葉集に人の植えた杉が詠まれており、また、平安時代になると、まとまった植林が行われたという記録がある。室町時代から江戸時代には、吉野(よしの)(奈良県)、尾鷲(おわせ)(三重県)、飫肥(おび)(宮崎県)等各地で木材を得るための産業的な植林が本格的に始められるようになった。

また、森林の果たす様々な役割が認識されるようになり、江戸時代には、例えば、河川に沿って、その氾濫に備える水害防備のための森林整備や、上流の土砂流出の防止のための植林、強風や砂がもたらす害を抑える海岸防砂林の造成等が各地で盛んに行われるようになった。

さらに、森林を一度に伐り尽くすのではなく、その再生能力に応じて持続的に木材等の生産物を得ていこうとする考え方も現れた。例えば、20年育った薪炭林を伐採して利用する場合、森林を20の区画に分け、ある年にはその1か所だけを伐ることとすれば、毎年伐採を続けても最初に伐採した箇所に戻るまでに20年間かかり、その箇所は既に20年育った森林になっている。このような方法で、安定的な伐採量を得られるように管理された森林は、「番山(ばんやま)」、「順伐山(じゅんぎりやま)」等と呼ばれ、土佐藩、秋田藩等をはじめ各地でみられるようになった。

このように、我が国では木材を様々な場面に使う生活文化をもちながら、森林の利用と保全とのバランスをとり、森林の荒廃をくい止める努力が払われてきた。

(明治以降の近代化と森林、木材)

明治以降になると、我が国は急速に西欧の文明を取り入れ、近代化を進めた。木材の利用についても、建築用はもちろん、例えば、工事の足場や杭、鉱山の坑木、電柱、鉄道の枕木、貨物の梱包、造船材料、桟橋等の各種装置・施設、紙に加工されるパルプの原料等、近代産業の発展に伴って様々な用途に木材が使われた。

明治期後半には、それまで窯業や製塩、たたら製鉄などのために燃料材の採取が繰り返された地方に加え、近代工業の発展に伴う製紙原料、工業燃料、炭鉱坑木等木材需要の増加から、各地の森林は荒廃が深刻になっていった。明治期後半の5万分の1の地形図をもとに当時の国土利用の様子を見ると、国土のほぼ3分の2を占める森林や農業的利用が行われる土地のほかに、過度の伐採の結果生じた荒野状の荒れ地が国土面積の1割程度を占めていた。明治30年に「森林法」が制定される際には、当時、降雨時にはげ山から土砂が流出し、川を埋めるなどの災害が続発したことも踏まえ、水源のかん養や土砂崩壊防止などの目的のため伐採を制限する保安林の制度が発足した。また、明治32年から大正11年までの間は、当時の農商務省所管国有林において無立木状態の荒廃地への植林等を積極的に進める「国有林野特別経営事業」が行われた。さらに、明治44年からは、森林を再生し荒廃地を復旧するための対策(後の治山事業のもととなる対策)が行われるようになった。

また、大正4年からは、学術研究、貴重な動植物の保護、風致の維持等のために区域を定めて森林の伐採制限等を行う「保護林」制度が国有林に設けられた。

このように、森林の利用と保全とのバランスを取りながらその恩恵を末永く享受するためには、植林等により積極的に森林を回復、再生させていく取組も本格的に必要となり、そのための努力が重ねられていった。

(第2次世界大戦とその後の高度経済成長)

第2次世界大戦の時期には、鉄や石油等の資源に乏しい我が国では、国内で生産できる資源がことごとく徴用の対象とされ、森林も次々に伐採されていった。また、航空機燃料用としてクロマツから松根油(しょうこんゆ)等が採取され、海岸の松林も伐採の危機にさらされた。

戦後の我が国は、主要な都市が戦災を受け、食料も物資も欠乏する中で、復興のために大量の木材を必要としたことから、我が国の森林は戦後も大量に伐採され、大きく荒廃した。このため、治山事業による崩壊地等の復旧、造林事業による放置された伐採跡地への植林等が進められたほか、緑化意識を高揚する全国植樹祭が始められた。戦後、伐採跡地への植林が一応完了するには、昭和31年まで10年以上の年月を要した。

昭和30年代には、本格的な経済の高度成長が進む中で、木材需要は建築用材、パルプ用材を中心に急速に増大し、木材需給はひっ迫した。

このため、木材の価格安定対策として、木材の増産や木材利用の合理化対策が進められたほか、木材の輸入が段階的に自由化され、昭和39年には丸太、製材、合単板等が全て自由化された。森林資源の面では、将来の木材供給能力を高めるため、天然林や原野を対象として、成長が速く経済的価値も見込めた針葉樹人工林に転換する拡大造林施策が積極的に進められた。それまで山村地域の農閑期の収入源として薪炭を供給した広葉樹林は、薪炭需要が急減する一方、広葉樹がパルプ用原料になったこともあり、次々に人工林に転換され、従来人工造林が普及していなかった地域でも、拡大造林が活発に進められていった。また、森林所有者による造林が十分進まないところは、地域の実情に応じ、地方公共団体により設立された造林(林業)公社と林地の所有者との分収方式での植林も行われた。

これらの結果、昭和32年当時およそ570万haであった人工林面積は、昭和60年代には1,000万haを超えるに至った。

(2)我が国における「木の文化」

我が国では、森林から得られる木材について、その特性を活かしつつ、様々な用途に無駄なく利用する文化がはぐくまれてきた。身近に入手できる木材は、軽くて丈夫であり、加工しやすい。また、湿度を調節し、断熱性が高く、独特のぬくもりを感じさせる点で、石材や煉瓦、金属等とは大きく異なる性質をもつ。いうまでもなく、木材は昔から住居、道具、日用品、船、神社仏閣、城郭、橋等の建造物、そのほか数え切れないほど多くの用途に利用されてきた。

(建築物)

我が国の家屋は、木と土と紙によって造られてきたといわれる。地域や時代によって様式に違いはあるが、伝統的には木材の柱や梁などの骨組みとなる構造を組みあげ、これらで荷重を支える木造軸組工法が定着してきた。

法隆寺、東大寺等の世界に誇る木造建築をもつ我が国では、重要文化財に指定された建造物の9割は木造であり、このうち国宝に指定された建造物は全て木造である。また、一般の建築においても、地域に応じて適材を適所に用いることで木の特性を活かしながら、気候や風土、生活習慣に根ざした家屋が造られてきた。

また、各地に残る古い農家や町家には、個性豊かな地域の生活の様子が反映されている。こうした木造家屋は、地域の景観や町並みのシンボルとなっていることも多く、民家の保存、再生等の取組が各地で見られるようになっている。

在来の建築工法で用いられる木材は、柱や天井、床の間等、目に触れる形で使われることが多いため、表面に現れる木目、木材の色、節の有無、杢(もく)と呼ばれる独特の紋様等、見た目の美しさや希少性に対する愛着意識が生まれ、鑑賞価値の高い、いわゆる銘木が珍重されてきた。こうした木材の化粧性を重視する慣習は、木材の取引や評価に大きく影響を与えてきた。

近年、都市化の進行、建築工法の多様化、高層住宅の増加、和室の減少等、住環境をめぐる状況の変化はめまぐるしく、木材の使われ方にも大きな変化が見られるが、木造住宅に対する需要には、依然、根強いものがある。また、木造の公共施設や地元の木材を使用した住宅づくりなど、改めて木の良さが見直され、木にこだわった建築を進める動きも各地でみられる。

(日用品、道具類)

日用品にも木材が使われるものは多い。毎日の食事に関係する椀や箸、まな板、容器である樽、桶のほか、机、戸棚等の家具・調度品、下駄、梯子、各種の手工具の柄など数え出せばきりがない。

我が国での伝統的な木工加工技法には、ろくろを使って椀や鉢をつくる挽物(ひきもの)、板材を組み合わせてつくる指物(さしもの)、ヒノキ、スギ等の薄板を曲げる曲物(まげもの)、のみや小刀で木を彫り盆や皿をつくる刳物(くりもの)がある。伝統的工芸品に指定された品目の中にも木工品、漆器等が多く含まれており、各地で昔から生活に根ざして製作されてきた実用品に木が上手に使われている。

スポーツ用具や楽器も木材と関係が深い。バット、ラケット、ゴルフヘッドや太鼓、木琴、管楽器、琴、琵琶、バイオリン、ピアノ等、木材は様々な姿で活用されている。

こうした木製品には、材の耐水性を活かしたヒノキの風呂、湿気や熱を通しにくく、寸法に狂いを生じにくいキリの箪笥(たんす)、ねばり強いアオダモで作られるバットというように、用途に応じて適した樹種が使われる。

また、目的に応じて木目の向きを使い分けている例に、スギ等の針葉樹から造られる桶と樽の違いが挙げられる。例えば、すし桶の場合には、米飯の余分な水分を吸湿し、使用後も乾きが早いよう、側面の板に柾目(まさめ)材が用いられる。柾目材は、丸太の年輪に対し直角方向に、丸太の外側から中心に向けてとられる板で、木目は板の表から裏を貫く向きに平行に並ぶ。これに対し、和樽では、湿気や水分を通しにくくするため、丸太の年輪方向に沿って板にされ、木目が曲線状に現れる板目(いため)材が用いられる。

このように、木の使い方には、生活の知恵や食文化につながる工夫も見られる。

(紙製品)

木材の大きな用途に、紙がある。紙は、原料の植物繊維をたたきほぐすなどして、水に分散させたパルプを漉きあげ、乾かして作るもので、中国で発明され、製法が世界に広がっていった。我が国では、コウゾやミツマタ、ガンピ等の樹皮から漉きあげる和紙が各地で作られてきた。

木材からパルプが作られるようになったのは、19世紀になってからである。我が国でも明治期以降、洋紙製造が盛んに行われるようになった。

今日、新聞紙や雑誌をはじめとする印刷・情報用紙、段ボールや紙袋等の包装資材、紙容器、ティッシュペーパーや紙おむつ等の衛生用品など、紙は日常生活に欠かせない。紙と樹脂を組み合わせることで、プリント配線基板や機械部品に加工されるなど、用途も多岐にわたっている。

紙・パルプの原料は、最初は針葉樹であったが、第二次世界大戦後は針葉樹とともに広葉樹も多く利用されるようになった。森林から立木を伐採し丸太を生産する際には、全てが製材用材になるわけではなく、太さや形質の点で製材用に向かない丸太もでてくる。こうした低質材や製材工場の残材、廃材等がチップ化されてパルプ用原料とされてきた。また、回収された古紙もパルプ原料とされているほか、近年はパルプ原料の海外への依存が高まっている。