Winston Churchill ウィンストンチャーチル首相と言葉。歴史は繰り返す? 180422(Sun)

ウィンストン・チャーチル Winston Churchill(1874 – 1965)

 

★学生時代に何度も読み返した。確か、「チャーチル首相の勇気」がテーマだった。

まだ倉庫に見つかるかも知れない。昨夜 「ヒットラーから世界を救った男」を見て 

当時のことを思い出した。改めてチャーチル首相の生誕から、当時世界中に植民地を

有した英国の近代史の中で、チャーチルは活躍した後 則ち 第1次世界戦争、ボーア戦争、

植民地だったインドの反乱で収める側の軍人として 活躍したのちの「第2次世界戦争」

となる。

 

★ 自分としては、関係国をすべて、何度も訪問した経験があり、各国の人々の顔が浮かん

でくる。複雑な想いにとらわれる。国々の大使のお顔も それぞれ 2~5人ぐらい思い出す。

 

★ とまれ 歴史は止まらない。また 繰り返すと思う。それぞれの時代の覇者。消えては 

現れ また消える。今度は どこの国なのだろう?? そうはさせないぞ!!との気持ちも

芽生える。

 

Winston Churchill – We Shall Never Surrender (Full Speech)

OOWK MEDIA  2014/07/02 に公開
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★ところで書斎を断捨離していて 偶然か 必然か ヒットラーの保存版の雑誌が出てきた。

第1次世界大戦の結果、ドイツは賠償金に苦しんで、ヒットラーの台頭を許した。

ヒットラーの幼少期から ウィーンでの生活。落ちこぼれ時代の不運な状態から 軍隊に

志願して 人生は 一変する。一番有能な伝令として 2度も、表彰されている。

その後 政治の世界にのめり込み、ヒットラーは 頭角を現わしていく。

途中 英国が 化学兵器を使い、悲惨な目にあったのは、なんとドイツ側だった。

 

憎しみが憎しみを生み 延々と憎しみの連鎖が続く。

Secrets of Leadership: Churchill

Dr Alan Brown  2014/11/14 に公開

This BBC film from 2002 is by Dr Andrew Roberts, and it offers a personal

analysis of  the skills and strategies used by Winston Churchill to win support

both from the military and the general population.

Uploaded for educational purposes only. Any advertisements are unbidden

by me. Comments are  welcome if they fully engage with the film’s arguments.

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★ さあ 様々な体験をされたチャーチルの肉声を聞いてみよう。どのような 時代の どういう

場面で 発された言葉なのだろう。状況を思い起こしながら 聴くと 聴きごたえがある。

私達の国 日本は 70年を超える時を経て 今日になった。これから 日本は どうなるのだろう??

一つ はっきりしていることは 自分の国は 自分で守る!!! と考えている。

当時の英国の国民のように。

 

 

 

イギリスの政治家。第二次世界大戦時に首相を務め、イギリスを勝利に導いた。

1953年に『第二次世界大戦回想録』でノーベル文学賞を受賞。BBCが2002年に行った「偉大な英国人」投票で1位に選ばれている。

Winston Churchill  (ウィンストン チャーチル)

Success is not final, failure is not fatal: it is the courage to continue that counts.

成功があがりでもなければ、失敗が終わりでもない。肝心なのは、続ける勇気である。

 

★当時は 今よりもっと階級社会だ。チャーチルは上流階級の出で、その役割を果たしたことになる。(山元)

 

DARKEST HOUR Trailer (2017) Gary Oldman Winston Churchill Movie New Trailer Buzz  

2017/07/13 に公開 チャンネル登録 82万

Darkest Hour Trailer – 2017 History Drama starring Lily James, Gary Oldman and Ben Mendelsohn

Subscribe for more: http://www.youtube.com/subscription_c… About Darkest Hour:

Within days of becoming Prime Minister, Winston Churchill must face his most turbulent and defining

trial: exploring a negotiated peace treaty with Nazi Germany, or standing firm to fight for the ideals,

liberty and freedom of a nation.

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★ サンドハースト王立陸軍士官学校で軽騎兵連隊に所属し、第二次キューバ独立戦争を観戦し、イギリス領インド

パシュトゥーン人反乱鎮圧戦、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍した。1900年のイギリス総選挙にオールダム

選挙区から保守党候補として初当選。

しかしジョゼフ・チェンバレン保護貿易論を主張すると、自由貿易主義者として反発し保守党から自由党へ移籍した。

ヘンリー・キャンベル=バナマン自由党政権が発足すると、植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人

融和政策や中国人奴隷問題の処理など英領南アフリカ問題に取り組んだ。

アスキス内閣では通商大臣・内務大臣に就任し、ロイド・ジョージとともに急進派として失業保険制度など社会改良

政策に尽力、この体験を通じて暴動やストライキ運動に直面し社会主義への敵意を強めた。

ドイツとの建艦競争が激化する中、海軍大臣に就任。第一次世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を

指導した。しかしアントワープ防衛やガリポリ上陸作戦で惨敗を喫し、辞任した。しかしロイド・ジョージ内閣

で軍需大臣として再入閣。

 

戦後は戦争大臣と航空大臣に就任し、ロシア革命を阻止すべく反共産主義戦争を主導し、赤軍のポーランド侵攻

撃退した。だが、首相は干渉戦争を快く思わず、植民地大臣への転任を命じられ、イギリス委任統治領イラク

パレスチナ政策、ユダヤ人のパレスチナ移民を推し進めた。

 

 

マクドナルド内閣に反社会主義の立場から自由党を離党し、保守党へ復党した。

スタンリー・ボールドウィン内閣では財務大臣を務め、新興国アメリカ日本の勃興で

イギリス貿易が弱体化する中、金本位制復帰を行ったが失敗し、労働党政権となった。

1930年代には停滞したが、インド自治政策やドイツナチ党への融和政策に反対した。

第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰したが、北欧戦で惨敗。

 

しかしこの惨敗の責任はチェンバレン首相に帰せられ、1940年に後任として首相職に就き、

1945年まで戦争を主導した。

 

西方電撃戦ギリシャ・イタリア戦争北アフリカ戦線でドイツ軍に敗北するが、

バトル・オブ・ブリテンでは、撃退に成功した。独ソ戦開始のためソ連と協力し、

またアメリカとも同盟関係となった。

 

しかし1941年12月以降の日本軍参戦後に、東方植民地である香港シンガポール

はじめとするマレー半島一帯のイギリス軍の相次ぐ陥落やインド洋からの放逐などの

失態を犯した上に、ドイツ軍によるトブルク陥落でイギリスの威信が傷付き、何とか

イギリスの植民地として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招いた。

 

1944年6月にノルマンディー上陸作戦で攻勢に転じたものの、1945年5月にドイツが

降伏すると労働党が挙国一致内閣を解消し、総選挙で保守党は惨敗した。第二次世界

大戦で戦勝国の地位を獲得した中、チャーチルは野党党首に落ちたものの冷戦下で

独自の反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。

 

イギリスはアメリカソ連に並ぶ戦勝国の地位を得たが、大戦終結後に労働党政権が

インド等の植民地を手放していくことを帝国主義の立場から批判し、植民地独立の阻止

に力を注いだが、大英帝国は植民地のほぼ全て、を失うこととなり、世界一の植民地大国

の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。

1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現し、東南アジア条約機構

(SEATO)参加など反共政策も進めた。1953年ノーベル文学賞受賞。

1955年アンソニー・イーデンに首相職を譲って政界から退いた。

 

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WE SHALL NEVER SURRENDER speech by Winston Churchill (We Shall Fight on the Beaches) Winston Churchill Speeches

2017/06/03  “We Shall Fight on the Beaches” or “We Shall Never Surrender” is a famous historic speech delivered
by Winston Churchill to the House of Commons of the Parliament of the United Kingdom on June 4, 1940.
Churchill reflected on the disaster in France and rallied the British nation with his unshaken determination:
We shall go on to the end. We shall fight in France, we shall fight on the seas and oceans, we shall fight with
growing confidence and growing strength in the air,
we shall defend our island, whatever the cost may be. We shall fight on the beaches, we shall fight on the
landing grounds, we shall fight in the fields and in the streets, we shall fight in the hills; we shall never surrender!
“We Shall Never Surrender” was the second of three major speeches given around the period of the Battle
of France (the others two being “Blood, toil, tears, and sweat” speech of 13 May, and “This was their finest hour”
speech of 18 June).
Events developed dramatically over the five-week period, and although broadly similar in themes,
each speech addressed a different military and diplomatic context.

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがヨーロッパ全土で猛威を振るうなか、英国首相に就任したチャーチルが下した究極の決断とは。実話を基に描く感動の歴史エンターテインメント。ジョー・ライト監督、ゲイリー・オールドマン主演。

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は、2017年のイギリス映画。 首相に就任したばかりのウィンストン・チャーチルを主人公に、第二次世界大戦中の激動の時代を描いた。ジョー・ライト監督、ゲイリー・オールドマンがチャーチルを演じる。 ウィキペディア

ウィンストン・チャーチル

Winston Churchill
Sir Winston Churchill - 19086236948.jpg

チャーチル(1941年ユーサフ・カーシュ撮影)
生年月日 1874年11月30日
出生地 イギリスの旗 イギリス ウッドストック ブレナム宮殿
没年月日 1965年1月24日(90歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス ロンドン
出身校 ハーロー校
サンドハースト王立陸軍士官学校
前職 軍人従軍記者
所属政党 保守党1900年1904年
自由党1904年1924年
保守党(1924年1964年
称号 ガーター勲章士(KG)
メリット勲章(OM)
枢密顧問官(PC)
王立協会フェロー(FRS)
コンパニオンズ・オブ・オーナー勲章英語版(CH)
州副知事(DL)
配偶者 クレメンティーン・チャーチル
親族 第7代マールバラ公爵ジョン(祖父)
ランドルフ卿(父)
ランドルフ英語版(長男)
サイン Sir Winston Churchill signature.svg

在任期間 1940年5月10日 – 1945年7月26日[1]
1951年10月26日 – 1955年4月5日[2]
国王
女王
ジョージ6世
エリザベス2世

内閣 アスキス内閣(自由党)
チェンバレン内閣(保守党)
在任期間 1911年10月23日 – 1915年5月26日[3]
1939年9月3日 – 1940年5月10日[3]

内閣 第2次ボールドウィン内閣(保守党)
在任期間 1924年11月6日 – 1929年6月4日[3]

内閣 アスキス内閣(自由党)
在任期間 1910年2月14日 – 1911年10月[1]

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 オールダム選挙区英語版[4]
マンチェスター・ノース・ウェスト選挙区英語版[4]
ダンディー選挙区英語版[4]
エッピング選挙区英語版[4]
在任期間 1900年10月1日 – 1908年4月24日[4]

1908年5月9日 – 1922年11月15日[4]
1924年10月29日 – 1964年10月15日[4]


その他の職歴
イギリスの旗 保守党党首
1940年10月9日 – 1955年4月5日[5]
イギリスの旗 国防担当閣外大臣
1940年5月11日 – 1945年7月27日[6]
1951年10月28日 – 1952年3月1日[7]
イギリスの旗 植民地大臣
1921年2月14日 – 1922年10月19日[6]
イギリスの旗 戦争大臣英語版
1919年1月10日 – 1921年2月[3]
イギリスの旗 航空大臣英語版
1919年1月10日 – 1921年2月13日[3]
イギリスの旗 軍需大臣英語版
1917年7月17日 – 1919年1月10日[2]
イギリスの旗 ランカスター公領担当大臣英語版
1915年5月28日 – 1915年11月11日[8]
イギリスの旗 通商大臣英語版
1908年4月12日 – 1910年2月[6]
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1953年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:歴史や伝記の記述の熟達のみならず、高揚した人間の価値についての雄弁な庇護者であること

 

出生

父・ランドルフ卿

母・ジャネット・ジェローム

ランドルフ・チャーチルは、第7代マールバラ公爵ジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチルの三男で

1874年春にマールバラ公爵家の領地であるウッドストック選挙区から出馬して庶民院議員に初当選した保守党

政治家であった。母ジャネット・ジェローム(愛称ジェニー)はアメリカ人投機家レナード・ジェロームの次女だった

1873年8月12日にワイト島カウズ英語版に停泊したイギリス商船上のパーティーでジャネットとランドルフ卿

は知り合い、3日後に婚約した。ランドルフ卿の父ははじめ身分が違うと反対していたが、ジェローム家が金持ち

であることから結局了承し、二人は1874年4月にパリのイギリス大使館で結婚しロンドンで暮らした

チャーチルが生まれた祖父の居城ブレナム宮殿

1874年11月30日午前1時30分頃、父母の長男がオックスフォードシャーウッドストックにあるマールバラ公爵

家自邸のブレナム宮殿で生まれる。この日は聖アンドリューの日であり、ブレナム宮殿でマールバラ公爵主催

の舞踏会が予定されていた。結婚して7カ月半で長男を儲けたのだった。スペンサー=チャーチル家の伝統で

代父(祖父レナード・ジェローム)の名前をミドルネームとしてもらい、ウィンストン・レナードと

名付けられた(以下、チャーチルと表記)。

チャーチルは12月27日にブレナム宮殿内の礼拝堂で洗礼を受けた。新年を迎えるとランドルフ卿一家は

ロンドンの自邸へ帰り、乳母エリザベス・エヴェレストが養育したヴィクトリア朝の上流階級では子供の

養育は乳母に任せ、親と子供はほとんど関わりを持たず、時々顔を見るだけという関係であることが多かった。

チャーチルの両親の場合、政界と社交界での活動が忙しかったので特にその傾向が強かった

アイルランドでの幼少期

7歳の頃のチャーチル(アイルランド・ダブリン)

1876年にランドルフ卿は兄ブランドフォード侯爵ジョージ皇太子エドワード・アルバート(後の英国王エドワード7世)

の愛人争いに首を突っ込んで、皇太子の不興を買い、皇太子から決闘を申し込まれるまでの事態となり、イギリス社交界

における立場を失った

仲裁した首相・保守党党首ベンジャミン・ディズレーリからほとぼりが冷めるまでイングランド外にいるよう勧められた

ランドルフ卿は、アイルランド総督に任命された父マールバラ公の秘書として妻や2歳の息子を伴って1877年1月9日

アイルランドに赴任した

アイルランドにおいては公爵夫妻はダブリンフェニックス・パークの総督官邸、ランドルフ卿一家はその近くの

リトル・ラトラで暮らした。チャーチルにとってアイルランドは「記憶している最初の場所」であったと回顧録で書いている

アイルランドでも引き続き乳母エヴェレストが養育にあたっていた[29][30]。チャーチルは乳母を「ウーマニ」と呼んで慕い、

8歳になるまで彼女の側から離れることはほとんどなかった。チャーチルは後年まで彼女の写真を自室に飾り、

「思慮のないところに感情はない(他人に冷淡な者は知能が弱い)」という彼女の言葉を謹言にしたという

またこの頃から家庭教師が付けられるようになったが、チャーチルは幼少期から勉強が嫌いだったという

1879年の大飢饉後、アイルランドの政治情勢は不穏になり、アイルランド独立を目指す秘密結社フェニアン

暴力活動が盛んになっていった。そのため乳母エヴェレストもチャーチルが総督の孫として狙われるのではと

常に気を揉んだという

1880年2月4日、弟ジョン・ストレンジがダブリンで生まれる。ランドルフ卿の子供はチャーチルとこの

ジョン・ストレンジの二人のみである[36][37]。チャーチルは基本的にこの弟と仲良く育った。ただチャーチルが

幼いころに集めていた1500個のおもちゃの兵隊で弟と遊ぶ時、白人兵士はチャーチルが独占し、弟には

わずかな黒人兵士しか与えなかったという。チャーチルは黒人兵士のおもちゃに小石をぶつけたり、

溺れさせたりし、弟の黒人軍隊が蹴散らされて終わるというのがお約束だった。

この直後に1880年イギリス総選挙があり、ランドルフ卿もウッドストック選挙区から再選すべく、

一家そろってイングランドに帰国し、再選を果たした。しかし保守党は大敗し、ディズレーリ内閣

は総辞職し、マールバラ公もアイルランド総督職を辞した

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学生生活

聖ジョージ・スクール

1884年のチャーチル

1882年、8歳を目前にしたチャーチルは、父の決定でバークシャー州アスコットの聖ジョージ・

スクール入学した。

チャーチルは落ちこぼれだった。成績は全教科で最下位、体力もなく、遊びも得意なわけではなく、

クラスメイトからも嫌われているという問題児で、校長からもよく鞭打ちに処された。チャーチル

自身もこの学校には良い思い出がなく、悲惨な生活をさせられたと回顧している

 

 

1884年夏、乳母がチャーチルの身体に鞭で打たれた跡を見つけて、母ジャネットの判断で

退学した。アメリカ人である母はイギリス上流階級のサディスティックな教育方法に慣れて

おらず、鞭打ちのような教育方法を嫌悪していたという

 

 

ブライトン寄宿学校

つづいてブライトンにある名もなき寄宿学校に入学した[49][50]。この学校は聖ジョージ・

スクールと比べれば居心地が良かったらしく、「そこには私がこれまでの学校生活で味わった

ことのない、親切と共感があった。」と回顧している

この頃には父ランドルフ卿が保守党の中でも著名な政治家の一人になっていたので、

その七光りでチヤホヤされるようになったことも影響しているとされる

チャーチルは巷で自分の父が「グラッドストン首相のライバル」などと大政治家視されている

のを聞いて嬉しくなり、この頃から政治に関心を持つようになった。学校でも「ノンポリはバカな

のだろう」などと公言していた。

 

成績は、品行はクラス最低だが、英語、古典、図画、フランス語はクラスで7番目から8番目

ぐらいだった乗馬水泳に熱中し、作文にも関心をもった

父ランドルフ卿は1886年成立のソールズベリー侯爵内閣で大蔵大臣庶民院院内総務に就任し、

次期首相の地位を固めた。ところが同年のうちにソールズベリー侯爵に見限られる形で辞職、

事実上失脚することとなった

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ハーロー校

弟ジョン・ストレンジ(左)、母ジャネット(中央)、チャーチル(右)、1889年

1888年3月、パブリック・スクールハーロー校の入試を受けた。試験の出来はいまいちで、

苦手なラテン語にいたっては氏名記入欄以外、白紙答案で提出していたが、元大蔵大臣

ランドルフ卿の息子であるため、校長の判断で合格した。

ただしクラスは最も落ちこぼれのクラスに入れられた。スペンサー=チャーチル家は

伝統的にイートン校に入学することが多いが、チャーチルは病弱だったため、

テムズ川の影響で湿気がひどいイートン校は避けたとされる

 

 

ハーロー校での成績は悪かった[57][60]。無くし物が多く、遅刻が多く、突然勉強し

始めたかと思うと全くやらなくなるという気分のムラが激しかったという

ハーロー校でも校長から二回鞭打ちの刑に処された。また当時のハーロー校では

下級生は上級生に雑用として仕えなければならなかったが、チャーチルは上級生に

反抗的だったため、上級生からもしばしば鞭打ちの刑に処されたという

 

 

しかしチャーチルはこの学校の軍事教練の授業が好きであり、射撃やフェンシング

水泳も得意だった。また落ちこぼれクラスに入れられたおかげで難しい古典は免除され、

英語だけやればいいことになったので逆に英語力を特化して伸ばすことができた

「ハーローヴィアン」という校内雑誌に投書したり、詩も書くようにもなり、文章の才

能を磨いていった

 

当時のハーロー校にはサンドハースト王立陸軍士官学校への進学を目指す「軍人コース」

があり、劣等生は大抵ここに進んだ。ランドルフ卿も成績の悪い息子チャーチルは

軍人コースに入れるしかないと考えていた

チャーチルが子供部屋でおもちゃの兵隊を配置に付かせて遊んでいる時に父が部屋

に入って来て「陸軍に入る気はないか」と聞き、それに対してチャーチルがイエス

と答えたことで最終的に進路が決まった

 

しかしサンドハースト王立陸軍士官学校も入試で多少の数学の知識を要求したため、

ハーロー校在学中にチャーチルが二度受けた入試はともに不合格だった]。校長の薦めで

チャーチルはサンドハースト陸軍学校入試用の予備校に入学した。

出題内容や傾向をかなり正確に分析してくれる予備校であり、チャーチルによれば

「生まれつきのバカでない限り、ここに入れば誰でもサンドハースト王立陸軍士官学校

に合格できる」予備校だった。

サンドハースト王立陸軍士官学校

1895年2月、第4女王所有軽騎兵連隊に入隊したチャーチル

18歳の時の1893年6月、サンドハースト王立陸軍士官学校の入試に三度目の挑戦をして合格した。

しかし成績は良くなかったので、父が希望していた歩兵科の士官候補生にはなれず、騎兵科の

士官候補生になった。騎兵将校はポロ用の馬などの費用がかかり、そのため騎兵将校は人気が

なく成績が悪い者が騎兵に配属されていた

 

 

こうして幼時から軍隊に憧れていたチャーチルはヴィクトリア女王の軍隊の軍人となった

数学や古典に悩まされることはなくなり、地形学、戦略、戦術、地図、戦史、軍法、軍政

など興味ある分野の学習に集中することができるようになった。とりわけアメリカ独立戦争

普仏戦争に強い興味を持った

 

 

ただしこの頃、父の家計はかなり苦しくなっており、チャーチルに十分な仕送りはできなく

なっていた。そのためチャーチルも馬のことで随分苦労し、将来の将校としての給料を

担保に借金して馬を賃借りしている

 

1894年12月に130人中20位という好成績で士官学校を卒業し、オールダーショット駐留

の軽騎兵第4連隊に配属された

 

 

父の死

父ランドルフ卿は梅毒に罹り、健康状態は数年前から悪化し続けていた。ランドルフ卿は

1894年6月に最後の思い出作りでジャネットとともにアメリカ日本などの諸外国、

また英領香港、英領シンガポール、英領ラングーンなどアジアのイギリス植民地を歴訪

する世界旅行に出た。この両親不在の間にチャーチルは医者から父の詳しい病状を

聞き出し、父が助かる見込みがないことを知らされたという。父は帰国直後の1895年1月24日

45歳で死去し、首相ら大物政治家が列席した。チャーチルは「父と同志になりたいという夢、

つまり議会入りして父の傍らで父を助けたいという夢は終わった。

私に残された道は父の思い出を大切にし、父の意志を継ぐことだけだった」と書いている

父の死によって家長となったチャーチルは、逼迫したチャーチル家の家計をしょって立

たねばならなくなった。父が晩年にロスチャイルド家から融資を受けて購入していた

南アフリカ金鉱株は南アフリカ景気で20倍に高騰したが、しかし相続した借金の返済に充てられた

同年7月には乳母エヴェレストも死去し、チャーチルは「私の20年の人生で最も親密な友人だった」

と評して悲しんだ彼女の葬儀はチャーチルが一切を手配した

 

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軍人として