石田梅岩さんが 説かれている「諸行即修行」。 自分の仕事を 手を抜かずに
一生懸命 極めることが 道に通じるという考えかたで、社会人になってから この考え方に傾倒した。
江戸時代に 庶民の間に広まった。だから大工さんは ものづくりで 見えない部分も完璧に仕上げた。
素晴らしい仕事をすることで 「道」達すると。修行に修行を重ねた。 今日に至るまで その伝統は しっかり
伝わって 日本経済の原動力になったと思う。 欧州からの輸入品の重厚なテーブルを見せて頂いた
ことがある。
表面的に 素晴らしいものだが 裏を返すと とんでもない代物だった。手抜きもいいところ。
日本製品なら 裏を返しても 立派につくってあり 寸分たがいがなく ピカピカにカンナまで
かけているだろうにと、いやな気分がしたものだ。 そこに日本の生きる道があったのだと 実感した。
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どんな職業でも、その生業に勤勉に携わっていると、自らの人格が修業される、という考え方。
自分に起こる出来事や行いは、全て自らを鍛えるもの、となる。
仕事を自らの”成長の場””修行の場”と捉えている素晴らしい職業観だと感銘した。
近年弱まってきた気もするが、日本人の多くはやっぱり努力家だし勉強家だと思う。
それだけこの職業観は日本人に入り込んでいるものなのだろう。
田 梅岩(いしだ ばいがん、貞享2年9月15日(1685年10月12日) – 延享元年9月24日(1744年10月29日))は江戸時代の思想家、倫理学者。石門心学の開祖。名は興長。通称、勘平。
丹波国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市)に、百姓の次男として生まれる。1695年、11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て、その後一旦故郷へ帰る。1707年、23歳の時に再び奉公に出て働く。1727年に出逢った在家の仏教者小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始め、45歳の時、受講に際し紹介が一切不要で、かつ性別も問わない無料の講座を自宅の一室で開き[1]、後に「石門心学」と呼ばれる思想を説いた。すなわち「学問とは心を尽くし性を知る」として心が自然と一体になり秩序をかたちづくる性理の学としている。梅岩自身は自らを儒者と称し、その学問を「性学」と表現することもあったが、手島堵庵などの門弟たちによって「心学」の語が普及した。1744年、60歳で死去。
現在、京都府亀岡市の道の駅ガレリアかめおか内に石田梅岩記念施設「梅岩塾」が併設されている。
大阪府堺市堺区の菅原神社に座像が安置されている。また、橋上駅に改築された出身地のJR亀岡駅の改札前に、新造の座像が置かれている。
その思想の根底にあったのは、宋学の流れを汲む天命論である。同様の思想で石田に先行する鈴木正三の職分説が士農工商のうち商人の職分を巧く説明出来なかったのに対し、石田は長年の商家勤めから商業の本質を熟知しており、「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」という立場を打ち立てて、商人の支持を集めた。最盛期には、門人400名にのぼり、京都呉服商人の手島堵庵(1718年~1786年)をはじめ「松翁道話」を著した布施松翁(1725年~1784年)心学道話の最高峰とされる「鳩翁道話」の柴田鳩翁(1783年~1839年)このほかに・斎藤全門・大島有隣等優れた人材を輩出した。明治以降に心学の教えを引き継いだ実業家として知られた者に、野間清治らがいる[2]。倹約の奨励や富の蓄積を天命の実現と見る考え方はアメリカの社会学者ロバート・ニーリー・ベラーによってカルヴァン主義商業倫理の日本版とされ、日本の産業革命成功の原動力ともされた。
なお、「松下幸之助が石田梅岩に傾倒した」という俗説があるが、松下政経塾で学んだ宇佐美泰一郎(株式会社ニューポート代表取締役)による詳細な調査によって、これは明確に否定されている[3]。宇佐美によれば、松下が梅岩について発言したことは一度もなく、そもそも梅岩自体を「直接知らなかった」という。また、思想史学者の森田健司も「松下が石門心学に影響を受けたという事実を、私はまったく知りません。おそらく、梅岩の書を直接読んだことはないように思われます」[4]と述べている。
石門心学の再評価
1970年代頃からの環境問題への意識の高まりや、企業の不祥事が続く中、CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)ということが欧米を中心に盛んに言われるようになったが、そのような背景の中で「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するやうなこと多かるべし」「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」と、実にシンプルな言葉でCSRの本質的な精神を表現した石田梅岩の思想は、近江商人の「三方よし」の思想と並んで、「日本のCSRの原点」として脚光を浴びている。その思想もやはり営利活動を否定せず、倫理というよりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことを説いており、寄付や援助など本業以外での「社会貢献」を活動の中心とする欧米のCSRにはない特徴がある。
2011年(平成23年)には、梅岩の教えを広めるため、マスコット・キャラクター「しんがくん」が作られ[5]、着ぐるみによるイベント出演や関連グッズ開発が行なわれている。
人物・人柄[編集]
- 生まれつき理屈者で、幼年の頃より友に嫌われていたと語っており、そのため反骨心が強かったとされる[6]。
- 在野(民間研究者)上がりの学者である石田を無学で文字に疎いと批判した者に対し、「文字がなかった昔に、忠孝はなく、聖人はいなかったとでもいうのか。聖人の学問は行いを本とし、文字は枝葉なることを知るべし」といい、自ら徳に至る道を実行せず、ただ文字の瑣末にのみ拘泥しているのは「文字芸者という者なり」と痛烈に反論した[7]。
短歌
- 関連文献^ 「石田先生事蹟」、『石田梅岩全集(下)』収録、624-625ページ
- ^ 『世界をつくった八大聖人: 人類の教師たちのメッセージ』一条真也, PHP研究所, 2008
- ^ 研究報告「”松下幸之助が石田梅岩に傾倒した”という噂は果たして本当だろうか?」(2016年9月12日閲覧)
- ^ 森田健司 『なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?』 ディスカヴァー・トゥエンティワン 11ページ
- ^ キャラ決定「しんがくん」 石田梅岩の教えを広める 亀岡市民新聞、2011-08-29
- ^ 長部日出雄 『仏教と資本主義』 新潮新書 2004年 ISBN 4-10-610063-0 p.135.
- ^ 長部日出雄 『仏教と資本主義』 135ページ
- ^ 今昔秀歌百撰 55 井上雅夫撰
- 石川謙『石門心学史の研究』岩波書店、1942年
- 石田梅岩『都鄙問答』岩波文庫、1935年 ISBN 978-4-00-330111-1
- 石川謙『石田梅岩と「都鄙問答」』岩波新書、1968年
- 加藤周一編『日本の名著18 富永仲基 石田梅岩』中央公論社、1972年
- 柴田實監修・森田芳雄著『倹約斉家論のすすめ』 河出書房新社、1991年 ISBN 978-4-3092-4120-3
- 柴田實編『石田梅岩全集』全2巻 清文堂出版、1994年 ISBN 978-4-7924-0401-7
- 寺田一清『石田梅岩に学ぶ〜日常凡事に心を尽くす』致知出版社、1998年 ISBN 978-4-88474-546-2
- 平田雅彦『企業倫理とは何か〜石田梅岩に学ぶCSRの精神』PHP新書、2005年 ISBN 978-4-569-64214-7
- 山本七平『日本資本主義の精神』(ビジネス社)ISBN 4-8284-1266-2
- 森田健司『石門心学と近代―思想史学からの近接―』八千代出版、2012年 ISBN 978-4-8429-1576-0
- 森田健司『石田梅岩 峻厳なる町人道徳家の孤影』かもがわ出版、2015年 ISBN 978-4-7803-0768-9
- 森田健司『なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015年 ISBN 978-4-7993-1777-8
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松下幸之助の『商いのこころ』
第1話 業即信仰 【音声7分40秒】
まずはじめに、松下幸之助氏が、行きつけの散髪屋さんの、商売に対する徹
底した姿勢に共鳴、感動し、みずからのあり方を反省させられたという話から
お聞きいただきましょう。
私は、きょう朝、東京で散髪に行ったんであります。で、その散髪の主人公、銀座並木
通りの「米倉」という散髪屋でございますが、その時にいろいろその人から話を聞かし
てもらったんです。その話のうちの一つにですね、こういうことがありました。
「松下さんね、私はこの間、ある会がありまして、その会に行って自分は話をしまし
た。その記念に、その会員に、ふろしきを配ったんです。そのふろしきにこういうこ
とを書いたんだ」と。「どういうこと書いたんですか」と言うと、「業即信仰」と書
いたと言うんですね。これをみなに配って、それで自分はその説明をしておいた。
非常にみな喜んでくれたんだというような話であります。
「それは非常にいいことですね。まあ具体的に言うと、どういうことですかと言うと、
「自分の業に信仰を持て」ということなんです。「まあいろいろ信仰ということは、
非常に大事である。仏教の教えるところである。まあ信仰は一番大事なものであると、
こういうように自分も教えられている。しかし、そういう点から自分は、自分の業に
信仰を持たないかん。業即信仰である。こういうようにまあ、自分は考えて、私は、
自分の業に信仰を持つということは、自分の仕事を認めてくださるお客様、利用して
くださるお客様、これが仏さんである、これが神さんである。業即信仰は、自分の
お得意さんを神さんとも仏さんとも拝んで、それに信仰するということに通ずるんで
すよ。
これやったら商売は、もうめったにまちがいはございません、必ずうまくいきます。
これは散髪屋だけやのうてもですね、あなたの会社でもですね、どのお店でもですね、
その店の店主なり社員の方が業即信仰であるというようになられたならばですね、ま
ちがいないと自分は信じたから、そういうことをふろしきに書いて、その説明をして
みなにあげたんです。当時集まっておった多くの人が、いいこと聞かしてもらったと、
まあいうことで喜んでくれたんです」という話を聞いたんです。
で、私は、ほんとうはこの歳になるまで信仰というものにつきまして、深いものを持っ
ておりません。実際において信仰というほどの内容については、みなさんに申しあげる
何ものもないんであります。しかし、本日うけたまわったことから .多少感じますとです
ね、やはり信仰というものは、何としても非常に大事なもんである。大きな心の支えで
ある。神様を信仰する、仏様を信仰する、そういう信仰心のないものは決してまっとう
な人間生活というものはできるもんではないということを考えられます。で、そうい
えることはいいが、即、手短にですね、自分の仕事を信仰するということが、非常に
手っ取り早くていいんだという意味の話を、その方がされるんであります。
で、私は、そういう話聞いて、私自身が仕事に信仰を持っているか、業即信仰の心境に
なっておるかどうかということを考えてみますると、はっきりと業即信仰というような
境地に行ききってないと思うんであります。まあそういうところに商売をしていく上に
迷いがあったり、いろいろ思案に余ることがございます。これは当然そうであったろう
と思うんであります。
しかし、きょうは散髪屋さんに教えられたんでありますが、これは散髪屋さんの声とい
うよりも、神の声と聞いた方がいい。この人の体験を通じて感じたことを言われたんで
ありますけれども、それは神の声かもしれない。あるいは仏さんの声かもしれない。
何よりも自分の職業に信仰を持ってやれ、そして客を大事に扱え、それ以外に幸せの道
はないと、そういうようなことに徹していくならばですね、やがて神さんも仏さんもで
すね、いろいろこれを助けてくれるだろう。
きょうは散髪屋へ行きまして、まあ非常にそういうことを教えられました。みなさんに
おかれましでもですね、あるいはそれ以上徹したものをお持ちになっておられるかも知
れませんが、みなさんの毎日お仕事をしておられるその仕事にみなさんが信仰をお持ち
になる、というような状態になられたならばですね、私はその散髪屋さんが多くの人を
育て、そしておおむね成功さしておられるような業績をあげておられることを考えてみ
ますると、みなさんのその態度からいろいろの人が育っていくんやないかと思います。
みなさん自身も育て、かつ部下の方、同僚の方をば、いい道に導いていくという乙とに
なるんやないかと思います。
〈昭和43(1967)年1月22日 松下電器社員への話〉
【解説】
お得意先を神様とも仏様とも拝んで大切にし、自分の職業に信仰を持って徹
底して打ち込むならば、商売というものは必ずうまくいくものだ、という散髪
屋さんの信念に、松下幸之助氏は、自分は果たしてそれほどの境地にまで達し
ているだろうか、と反省させられたというのです。
お互いが自分の商売そのものを、信仰するというほどに大事にするならば、
この散髪屋さんのように人も育ち、商売もうまくいって、幸せへの道もひらけ
てくるだろうというわけですが、その点、みなさんの場合はどうでしょう。み
ずからの仕事、商売に、どれほどの思いを持って打ち込んでいるか、あらため
てふりかえってみてはいかがでしょうか。
信仰を持つことは、人間生活をしていく上において非常に大事である。が、
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石門心学(せきもんしんがく)は、日本の江戸時代中期の思想家・石田梅岩(1685年 – 1744年)を開祖とする倫理学の一派で、平民のための平易で実践的な道徳教のことである[1]。単に、心学ともいう。さまざまな宗教・思想の真理を材料にして、身近な例を使ってわかりやすく忠孝信義を説いた[1]。当初は都市部を中心に広まり、次第に農村部や武士まで普及するようになった。江戸時代後期に大流行し、全国的に広まった。しかし、明治期に衰退した。
一般民衆への道話(どうわ)の講釈と心学者たちの修業(会輔)の場となったのが、心学講舎と呼ばれる施設である。明和2年(1765年)に手島堵庵が五楽舎を開いたのが最初である。最盛期には全国に180カ所以上の心学講舎があった。
名前の由来[ソースを編集]
石田梅岩門下の手島堵庵が大成したことから当初「手島学」と呼ばれていたが、松平定信が手島の弟子・中沢道二の道話を「心の学び」と言ったことから「心学」と呼ばれるようになった[1]。しかし、陽明学でも「心学」という用語を使うことから混同を避けるために「石門心学」と呼ばれたが、いつしか略されて「心学」が一般的呼称になった[1]。
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日本を創った12人/堺屋太一 (私の愛読書)
前編に聖徳太子、光源氏、源頼朝、織田信長、石田光成、徳川家康の6人。
後編に梅田梅岩、大久保利通、渋沢栄一、マッカーサー、池田勇人、松下幸之助の6人で12人となっています。
聖徳太子
『後編』
梅田梅岩
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★木に学べ
2008年05月07日
木に学べ―法隆寺・薬師寺の美/西岡常一
これを単なる仏教建築に関する本だと思ったら大間違い。ものづくりをする集団をまとめる棟梁として、木のこと、人のこと、そして、神や仏のこと。すべてにおいて学ぶものがあります。「棟梁は、木のクセ見抜いて、それを適材適所に使う」ことと語る西岡さんは、また「木のクセをうまく組むためには人の心を組まなあきません」とも言います。
ふつうの大工と宮大工の違いを「仕事とは『仕える事』と書くんですわな。塔を建てることに仕えたてまつるということです。もうけとは違います。そんだけの違いです」と語る棟梁は、「アニミズムすぎるくらいがほんとうのアフォーダンスでは?」で紹介した中世の庭づくりの技術書である『作庭記』に書かれた「石の乞わんに従え」という言葉そのままに、木と話をし、木のクセを活かして、さらにそれを組む人のクセを活かす方法を知っていました。
しかし、それは「自分が偉いんではない」、「遠い祖先からの恩恵を受けている」と語った西岡さんは1995年に86歳で亡くなっています。それから、すでに13年。僕らは「遠い祖先からの恩恵を受けている」んでしょうか? また、受けようとしているのでしょうか?
技術と技法
ヒノキという木があったから、法隆寺も薬師寺も1300年もった、と西岡さんは言います。その法隆寺や薬師寺に使われているヒノキは樹齢1000年を超えるものだそうです。ヒノキもすごいが、ヒノキという木が優れた木であることを知っていた飛鳥の人もすごいと西岡さんは言います。それが時代が下がって鎌倉時代くらいになると修理にケヤキを使うようになってしまいます。ケヤキだと時間が経つとそっくりかえってしまったりする。
「木をクセで組んでないということや。自然から離れていったんや」と西岡さんは聞き手に法隆寺を案内しながら語ります。
技術というもんは、自然の法則を人間の力で征服しようちゅうものですわな。私らの言うのは、技術やなしに技法ですわ。自然の生命の法則のまま活かして使うという考え方や。だから技術といわず技法というんや。
西岡常一『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』
技術と技法。明らかに前者と後者では生命や自然のすごさに対する理解度が違います。いまだに台風もつくれなければ天気予報もできないのに、なんで「自然の法則を人間の力で征服しよう」なんてほうに賭けちゃうのかしら?
「自然の法則を人間の力で征服しよう」とする技術だと、建物の梁をまっすぐにしたり、格子に使われる木材の形を揃えてきれいに見せようとしたりします。しかし、自然に育った木には強いものもあれば弱いものもある。すべてを一律に組んでしまったら弱いところからダメになります。「適材適所」。弱い木はそれなりのところに使うし、格子の木材も無理やり形を揃えたりはしません。
それは人に対してもおなじで、
昔は、親方が見習いを親から預かりますと、どんなアホでも5年でだめなら10年かかっても、ちゃんとしてあげようとします。おまえはこの仕事にむかないからやめたほうがいいなんてことはいいません。
西岡常一『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』
という姿勢になります。
あるものを無理やり形を整えたり捻じ曲げたりというように「人間の力で征服」するという発想ではなく、「自然の生命の法則のまま活かして使うという考え方」だから、あるもののそのままの長所やクセを知って「適材適所」でそれを活かそうとするんですね。人間も型にはめようとしてそれができないと「お前はだめだ」というんじゃなくて、相手のクセを知ったうえで根気よく伸ばしてあげる。結果的にはじめは鈍感の人が伸びるというから考えさせられます。
ゆっくりと時間をかけるということ
民家の柱になる木1本育てるのにも60年かかるそうです。しかし、いまの木造建築では25年しかもたないといいます。それを在来工法でやれば200年はもつと西岡さんは言っています。100年もつコンクリートとか言ってますが、話になりませんよね。
古代の建築物を調べていくと、古代ほど優秀ですな。木の生命と自然の命とを考えてやっていますな。それが新しくなるに従って、木の生命より寸法というふうになってくる。
西岡常一『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』
薬師寺の再建をする際、西岡さんは台湾までヒノキを買いに行ったそうです。樹齢1000年を超えるヒノキがもう日本にはなくて最長で450年だそうです。台湾のヒノキは当時で2000年を超えるものがあったそうです。そりゃ、2000年も生きるヒノキの命の力を信じたほうがいいですわ。アホな頭をひねって計算のみで考えたやわなコンクリートや鉄を使うよりは。
ただ、鉄もいまのものはすぐにだめになるそうですが、古来のたたら踏みで砂鉄を溶かしてつくった飛鳥の鉄なら1000年以上もつといいます。法隆寺に使われている釘も飛鳥時代のものは打ち直せば使えるが、鎌倉時代以降はもうだめで、現在の釘なんかは10年たつと頭のところがもげてしまうそうです。
瓦もおなじで昔のものは天日乾燥して芯まで乾いたところで、ようやく焼成したそうです。その焼成も薪をつくってじっくり低温で長時間焼きました。「ほんまに賢いゆうのはどういうこと?」で紹介した僕の穴窯で焼かれた急須とおなじです。いまのものは熱風乾燥で表面だけ乾かして、ガスや電気で短時間で焼きます。とうぜん中が生乾きの状態で焼くので空気が膨らんで小さな穴ができてしまう。どっちが丈夫かは考えるまでもないですね。
形がよくて、安ければいいということですからな。形だけで、安ければいいというのは、堂や塔だけではなく、民家でも同じです。昔はよけいにかかったというのが自慢でした。(中略)昔だったらお金をたくさん使うて作ったら「元を入れたな」と感心しよったのだけれども、今は反対で安いのが自慢ですわ。住宅も使い捨てです。自分一代だけがもてばいいということです。
西岡常一『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』
作る側も使う側も、いまのことしか見えなくなっていて、せいぜい20年、30年先のことしか考えられなくなっているし、実際には下手すれば買う・売るときのことしか考えていないのでしょう。
似非エコロジー
薪での焼成ということに関しては、ちょっと話が逸れますが「ほんまに賢いゆうのはどういうこと?」のはてブのコメントに<「1度の焼成に10トン以上の薪が使われて焼かれ」っていうのはいくらいいもので長持ちするとしても近代の環境問題的にどうか、ってのはあると思う。>というものがありましたが、明らかにイメージだけで言ってますよね。
そもそも薪に使われる木っていうのは再生可能な材料で、計画的に伐採すれば、日本という恵まれた環境であれば伐った分だけ育てることが可能です。伽藍建築に使うような樹齢1000年の木じゃどうにもなりませんが、薪や住宅用に用いる木ならコントロールもできなくはありません。それを使って10年、20年以上ももつ日用品をつくるのであれば、使い捨てのものを使うのに再生不可能なガスや石油を大量に消費するのと比較してどれだけ環境にやさしいか。育てられる分だけ使う発想です。それができた文明とそうでない文明の運命が大きく分かれた歴史はジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』もいっしょに読んで勉強したほうがいいですよ。
それにね、環境問題って明らかに大量生産・大量消費のはじまった近現代の問題ってことを忘れてないでしょうか? イメージだけで似非エコロジーに陥らないようにしないとね。
僕らは古代からだんだんアホになってるんでしょうか? 「もののけ姫」で人語を解する猪神・乙事主さまが、一族がみんな小型化し、人語が理解できなくなってしまうことを嘆くシーンがありますが、それを思い出しますね。
別に必ずしもいいものばかりを使う必要はないけど、いいものと悪いもの区別もできない感性のなさがいけません。別にここでいう感性はいわゆるセンスがいいとかそういうのじゃないですよ。自然の力と人工物の力を比べて、この場・このシーンではどちらを採用するのが適切かを判断するための正しい見方をするための感性です。
自然というものを理解さえすれば誰でもできますわ
もうけを考えずに、神や仏に仕えるものとして伽藍を建てる宮大工の棟梁の仕事というのは、やはりなり手がなく、それゆえ、西岡さんは「最後の宮大工」といわれるのです。
日本には仰山木造建築がありますな。そうした建築物の修理をしてる人や新しく堂や塔を知作ってる人も仰山おります。しかしですな、みんな技術者ですのや。技能者がおりませんのや。仕事をする人がおらん。
西岡常一『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』
指導者がいないわけでもない。学ぼうとする人がいないわけでもない。ただ、技能者が育つ環境がないのだそうです。技能者は実際に伽藍を建てたり解体するなかでしか育つことができないのですけど、その「仕事」がコンスタントにはないそうです。西岡さん自身は昭和の20年にもおよんだ法隆寺の解体、修復の仕事が実に多くを学ぶことができたといっています。ただ、そういう仕事が頻繁にあるわけではない。法隆寺にしても、薬師寺にしても、今後200~300年はそういう大規模な解体・修復の必要はありません。そうなると、技能者が育つ環境はないわけです。
しかし、そんな西岡さんは、こんな風に言うんですね。
それでもなんでっせ。建てるものがなくても、飛鳥の技法みたいなものはなくなりません。今の電子工業のようなむずかしいもんと違いますさかいな。自然というものを理解さえすれば誰でもできますわ。
西岡常一『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』
読んでいて、この言葉がすごく印象的でした。
そして、最近になってようやく僕もこういう言葉の意味がわかるようになってきたのかなと思います。ようは頭で見るのではなく、直観で見るということが大切なんですね。知識や記号の集積としてものを見るのではなく、目の前の事物のありのままの姿、動きを見るのだと思います。そんなの本当は誰でもできることです。頭でっかちに考えずに、頭でわかろうとせずに、見たまんまを素直に受け入れられるようになれれば、いいだけなんですね。
僕もようやく絵などを見る場合に、頭で見ようとするのでなく、自然に描かれたままに見ることができるようになってきました。そうすると見えるものがまるで違うことにも気づきはじめています。ようは自分も対象もしょせん自然のなかの一部なわけです。その自然の法則に従って、どう見えるかにこだわればいいんです。それも一回で判断するんじゃなく、ゆっくり時間をかけて見ればいいだけです。
対象と一体化することで変われる
西岡さんは法隆寺や薬師寺の修復・再建の際に、学者と数々の論争をしたそうです。学者の様式論に対して、西岡さんは木を知る大工の立場から、そんな形はありえない、そんな組み方では長く持たないと戦ったそうです。ものの見方が大きく違うんですね。とうぜん見方が違えば見えるものは違います。
ただ、西岡さんのような見方は知識を詰め込むようなものと違って「自然というものを理解さえすれば誰でもできる」ものなんですね。対象を頭でわかろうとしたり、わかった気になったりして、対象をどうにかねじ伏せようとか征服しようとか考えるから、おかしくなるんだと思います。そうではなく対象のなかにあるものを発見したら、自分もそれと一体化することです。相手の言葉を聞いたら、自分もそのままそれに一体化することです。それをやたらと頭で他人の言ったことをこねくり回して批判めいたことばかり考えるから、いつまで経っても自分が変われないんですね。
変われないということは何もわかるようにならないということです。わかろうとすればかわれるのです。そして、何を信じているかという哲学そのものが行動を規定するのです。これは「日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで/土橋寛」でも書いたことですね。
僕なんかまだまだ近視もいいところですが、そういう見方はなかなか教えようと思っても、ただ口で教えるだけではどうにもならないというのがわかります。実際に自分でやらせながら、その人それぞれのクセを活かして、成長を助けてあげるということしかできないのでしょう。
でも、そういう棟梁が生きにくい時代なんですね、いまは。