七夕祭り関連で 7月7日に ほかに 何か行事があるのかと調べていたら、この日は 古代 相撲節会という行事がなされていたことに 気が付いた。 以下調べてみると 興味深い 歴史が相撲の世界であった。 相撲節会。 もっと盛んになればと思う。国技だし。
★その昔、大和当麻のタイマノケハヤは腕力が強く自慢していた。そこで 垂仁天皇が対抗する者を探していたところ、出雲のノミノスクネが推挙され 勝負した結果、ノミノスクネが勝ち、天皇に取り立てられたそうだ。
この対決が 古代宮廷で 七月七日に行われていた相撲節会(すまいのせちえ)の起源だという。また当時は 皇族が亡くなると 側近は殉死を迫られていた。垂仁天皇は これを快く思っていなかった。野見宿禰は 出雲から 土師部(はじべ)100人を呼んで 埴土をつかって人間の代わりに墓に埋める人形をつくり、天皇に献上したという。
天皇は 喜び 「埴輪」となずけた。この功績で野見宿彌は 土師臣(はじおみ)の姓を授かり、代々天皇家の葬儀を司る役職を与えられたという。七月七日は 七夕とだけ認識していたが このような 記念日が古代にあった。 相撲界は、今でもこの日を祝っているのだろうか?
相撲節会(すまいのせちえ):7月7日に国家儀礼として行われていた相撲節会を浪曲師
野見宿禰
野見宿禰(のみのすくね)は、土師氏の祖として『日本書紀』などに登場する人物である。阿陀勝、来日田維穂命の父。天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、第12代の出雲国造である鵜濡渟(宇迦都久怒)の子。またの名を襲髄命という。垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)(『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた。
また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった。第13代の出雲国造、襲髄命はこの野見宿禰のことである。播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬された。
ところで、埴輪創出についての考古学的な知見からは、記紀が語る上述のような伝説は史実ではないとされているが、こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとの説がある。それによると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないかとし、次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないかと見る。
そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないかと見、最後に火葬の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る神話として大事に伝承したものであろうと説く。もっとも以上の説の当否はともかくとして、少なくとも野見宿禰が祖先として土師氏に崇められたことは確かである。
後裔
土師氏の中には、姓を菅原に改めた氏があり、その菅原氏から公家の五条家が出たが、五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家となった。
野見宿禰に関係する主な神社
- 野見神社(愛知県豊田市野見山町)
- 土師の氏族の先祖である野見宿禰を祀っている。
- 片埜神社(大阪府枚方市)
- 社伝によれば、当麻蹴速に勝った野見宿禰が垂仁天皇から河内国を賜り、この神社を創祀したという。
- 石津神社(大阪府堺市堺区)
- 神社創建時の初代の神主。
- 神魂神社(島根県松江市)
- 伝承では、この神社の裏山にある岩を用いて修行したともいわれている。
- 菅原天満宮(島根県松江市)
- この神社の近くに野見宿禰の墳墓がある。
- 大野見宿禰命神社(鳥取県鳥取市)
その他、野見宿禰神社(兵庫県たつの市、東京都墨田区)や各地の野見神社で祀られ、当麻蹴速との相撲に因み、相撲の神として穴師坐兵主神社(奈良県桜井市)の摂社相撲神社などに祀られている。
脚注[編集]
野見宿禰(のみのすくね)は、土師氏の祖として『日本書紀』などに登場する人物である。阿陀勝、来日田維穂命の父。天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、第12代の出雲国造である鵜濡渟(宇迦都久怒)の子。またの名を襲髄命という[1]。垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)(『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた[2]。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった。第13代の出雲国造、襲髄命はこの野見宿禰のことである。播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬された。
ところで、埴輪創出についての考古学的な知見からは、記紀が語る上述のような伝説は史実ではないとされているが、こうした伝説も土師氏と葬送儀礼との関係から生まれたものであろうとの説がある。それによると、まずその名前は、葬送儀礼の一環としての古墳の築営に際して、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定ということが考えられ、「野」の中から墳丘を築くべき地を「見」定めることから「野見」という称が考案されたのではないかとし、次に相撲については、古墳という巨大な造形物を目の当たりにした人々が、これを神業と見て、その任にあたった土師氏の祖先はさぞかし大力であったろうとの観念に基づくものではないかと見る。そして、土師氏が古墳造営を含めた葬送儀礼全般に関わったことから、これを死の国と観想された出雲国に結びつけ、その祖先をあるいは出雲出身としたり、あるいは都と出雲の中間である播磨国に葬られたとしたのではないかと見、最後に火葬の普及などの変遷を経て古墳時代が終焉を迎える頃、その技術が不要とされた土師氏が、自らの祖先の功業を語る神話として大事に伝承したものであろうと説く。もっとも以上の説の当否はともかくとして、少なくとも野見宿禰が祖先として土師氏に崇められたことは確かである。
後裔 土師氏の中には、姓を菅原に改めた氏があり、その菅原氏から公家の五条家が出たが、五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家となった。
野見宿禰に関係する主な神社
- 野見神社(愛知県豊田市野見山町)
- 土師の氏族の先祖である野見宿禰を祀っている。
- 片埜神社(大阪府枚方市)
- 社伝によれば、当麻蹴速に勝った野見宿禰が垂仁天皇から河内国を賜り、この神社を創祀したという。
- 石津神社(大阪府堺市堺区)
- 神社創建時の初代の神主。
- 神魂神社(島根県松江市)
- 伝承では、この神社の裏山にある岩を用いて修行したともいわれている。
- 菅原天満宮(島根県松江市)
- この神社の近くに野見宿禰の墳墓がある。
- 大野見宿禰命神社(鳥取県鳥取市)
その他、野見宿禰神社(兵庫県たつの市、東京都墨田区)や各地の野見神社で祀られ、当麻蹴速との相撲に因み、相撲の神として穴師坐兵主神社(奈良県桜井市)の摂社相撲神社などに祀られている。
脚注
- ^ 『出雲国造伝統略』
- ^ 『日本紀』垂仁天皇7年条
- ^ 『日本紀』垂仁天皇32年条。なお、垂仁天皇の漢風諡号である「垂仁(仁を垂れる)」は、この殉死を廃止したとの説話に因むものである。
- ^ 『出雲国造伝統略』。この説によれば、土師氏のみならず出雲氏(出雲国造)の祖先でもあることになる。
- ^ 『播磨風土記』揖保郡立野条。
- ^ 詳しくは埴輪の項目を参照。
- ^ 西郷「ノミノスクネ考」。
★相撲節会を 調べてみたら :
世界大百科事典内の相撲節会の言及
【行司】より
【野見宿禰】より
【弓取式】より
相撲節会
相撲節会(すまひのせちえ)とは、奈良・平安時代にかけて行われた宮中の年中行事。射礼や騎射(後に競馬)と並んで「三度節」とも呼ばれた。
記紀にも相撲に関する記事が多く見られ、相撲自体は古くから行われていることは確実であるが、相撲節会の最古の記録は『宮中行事秘事』などに伝えられる聖武天皇の神亀3年(726年)に諸国より相撲人(今日の力士)が貢進されというものであると考えられている。これは正史の『続日本紀』には載っていないものの、2年後の神亀5年4月25日(728年6月5日)条に騎射・相撲に参加する者の貢進の停滞に関する記事があること、更に同書養老3年7月4日(719年7月25日)条に相撲司の前身であるとされる抜出司設置の記事が見られることからこの前後の成立であると考えられている。
天平年間に入ると、七夕の節会と融合して7月7日に行われるようになった。平安時代には相撲司と呼ばれる親王を別当とした臨時の役職が設置されるようになった。だが、天長元年7月7日(824年8月5日)に平城上皇が崩御したのを機に節会が7月16日に期日変更されてからは次第に衰微した。後に光孝天皇が相撲を奨励するなど再興の動きも見られたが、平安時代中期以後は相撲召合と呼ばれて規模が縮小されるようになり、近衛府が事実上の主催するようになった。保元3年(1158年)と承安4年7月27日(1174年8月26日)[1]に散発的に行われたのを最後に廃絶することになった。
相撲人は本来、近衛府・兵衛府の官人及び白生(見習い)が中心で諸国から貢進された相撲人がこれを補う形であったが、後に諸国からの貢進で賄われる様になり、抜手(優勝者)は近衛府・兵衛府などで採用されたり、帰国後、在庁官人などに登用されたりした。なお、諸国に対して中央から相撲人貢進を促すために派遣された使者を相撲使と呼称した。