渋沢栄一 Eiichi Shibusawa, the Great. 人間は生き物170421(金)

渋沢栄一さんから 一番 驚かされたこと。

パリの第一回 万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随員として御勘定陸軍付調役でフランスへと渡航される途中 汽車が建設中のスエズ運河のそばを通った時のお話だとおもう。

これが 本当に必要な仕事の在り方では なかろうか?と 感動されたようだ。
渋沢栄一さんは、大勢の人たちからお金を集め「会社という仕組み」をつくれる。個人ではできない大きな事業も企画実行できると悟った。

パリで銀行家から 多くの人々から集めた資金を賢い経営者に貸す。大きな事業をすれば、儲けた利益がみんな、社会に還元されると悟った。

事業を起こすための会社。会社に大きな仕事をさせる為の資金集め、会社に貸す「商業銀行」の仕組み。 その後の活躍は ご存じのとおり。

随分 渋沢栄一さんは 神話を創られた。 私たち日本人の誇り。論語とそろばん。

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私は 渋沢栄一さんが 物事をみて類推する視点と 即行動することに、大きな示唆を頂いたような気がする。物の見方。大きなヒント。自分が自分の主人公。そして行動を起こす。

そうしないと世の中は何も変わらない。

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スケールは100億分の1にも満たないが この視点、発想と行動力は 人生の中で 活かせるはずだろう。 さて私自身の来し方は、仕方なく、あるいは喜び勇んで、異なる産業を歩いてきた。パリ万博にヒントを得たのだとおもうが 14もの産業で国際展示会を打ち上げて来た。

業界全体の地位の向上、社会への貢献。 色々な実験を繰り返した。

中には 業界の人たち自身が 3流と自覚した人たちもいらっしゃる。いやそんなに卑下することはないですよ。気が付かれていないようですが、 もう皆さんの業界は 日本の産業界だけでなく、世界一にすでに なっています。

気づいていないのですか?? ご一緒に証明しませんか?

視点をちょっと変えれば 業界全体の売上は 4倍になります。いや5倍になります。と言い放った。

で、本当に Make it happen にする為 闘志を燃やし続け、寸暇を惜しみ、要領がわるいので 会社に良く寝泊まりしてきた。フラフラ。飛蚊症にも悩まされた。100匹近い蚊が目の前をざーっと飛び回る。いつもトイレに駆け込み、が~と 20分 寝込んだ。

 

天命 ミッションに突き動かされ、自分なりに頑張り続けた日々は10年以上になったと傲慢に思うこともあったが、未だに 大したことは何もやっていない。年齢とともに 来し方の頑張りは 大したことでは無かったなと。目指すところも 変わってきて 情けない気持ちも湧いてくる。

小さな神話づくり 中くらいの神話づくり 大きな神話づくり

周りの状況も厳しくなるのは毎回だが、渋沢さんの場合は パリから帰国したら幕府はつぶれていた。 逆境につぐ 逆境 辛酸をなめたのではと憶測する。

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私もしかり。人間は動物だ。このままでは 死んでしまうと意を決して 休養をとり、体をいたわる大切さを実感した。何も考えずに家人と欧州を 1か月ぐらい歩き回って英気を取り戻したことがある。 もう一度 この旅をそろそろしないと・・まずいなあと 最近 また自覚し始めた。

 

我が家の娘たち 花たちに救われているが やはり 旅をして まだ見ていない景色。とびっきりの笑顔、世界の達人に会いたい。 英気を養ってから 挑戦を続ければいいんだ。

 

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日1840年3月16日) – 昭和6年(1931年11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本武士幕臣)、官僚実業家第一国立銀行東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、

 

「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。正二位勲一等子爵雅号に青淵(せいえん)。

 

音声しかないけど 城山三郎さんのお声を聞きくと渋沢栄一さんの姿が浮かび上がってくる。

生い立ち

 渋沢栄一の生家 

左:1866年、右:1867年

天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・渋沢市郎右衛門元助、母・エイの長男として生まれた。幼名は栄二郎[1]。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。

 

14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったといわれる。

 

徳川慶喜の家臣・幕臣として

一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。

 

19歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。

 

その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。しかし、惇忠の弟・尾高長七郎の懸命な説得により中止する。

 

親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取って京都に出るが、八月十八日の政変直後で勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる

 

 

主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随員として御勘定陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。

 

各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受ける。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーである。

 

帰国後もその交友は続き、アレクサンダーは弟のハインリヒと共に後に明治政府に勤めた渋沢に対して日本赤十字社設立など度々協力をするようになる。

 

なお フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている。

パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港に帰国した。

 

 

大蔵省出仕〜実業家時代

大蔵省時代

帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、

 

明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。

 

大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。

 

しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官した。明治8年(1875年)、商法講習所を設立する。

 

 

退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。

 

また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。

第一国立銀行ほか、東京瓦斯東京海上火災保険王子製紙(現王子製紙日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、

 

帝国ホテル秩父鉄道京阪電気鉄道東京証券取引所キリンビールサッポロビール東洋紡績大日本製糖明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。

 

 

若い頃は頑迷なナショナリストだったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ

 

日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社共同通信社の起源となった。

 

渋沢が三井高福岩崎弥太郎安田善次郎住友友純古河市兵衛大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。

 

「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。

 

渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあったが、これは死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、

 

ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。

 

他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。 1931年 死去。

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