現代における陽明学。こんなにも凄い。学ぼう。170122(Sun)

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日曜日 林田先生の陽明学を ずっと 聴かせて頂いている。 人間 いかに行くべきか? いつでも新鮮なテーマなので。 もう一度原点に戻って 考えて見たい。

林田先生からのお便り:

恐縮です。山元先生に紹介して頂き、誠に光栄に存じます。

ビジネスと人間学としての陽明学は、一見すると無関係のように思えますが、実際はさにあらずで、人柄や人間的魅力が、ビジネス(経済)のみならず政治にも大きく影響している事実は、枚挙にいとまがありません。
今、思い出すだけでも、例えば「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、幼いころから陽明学を学んでいましたし、三菱財閥の創業者の岩崎弥太郎なども、その青年期に、奥宮慥斎、岡本寧甫という二人の陽明学者に師事していました。


総合商社・伊藤忠商事の祖・伊藤忠兵衛も、中江藤樹に私淑する陽明学者で教育者の真弓校長の影響を受けています。
近年では、京セラの稲盛和夫氏が折に触れて陽明学について語っておられますし、グロービス経営大学院の堀義人氏が、拙著『真説「陽明学」入門』を高く評価して下さったことは、やはりビジネスと陽明学の関係を語るにあたって、大いに注目すべき事だと思います。

 また、商人道の提唱者のように評価されている石田梅岩の心学が、中江藤樹の影響下にあったことは、もっと知られていいことだと思います。

陽明学は、人材育成、人格形成に役立つ人間学なのです。
我が国の国民の民度が高いことと、江戸初期以来、陽明学が学び続けられてきたこととは、決して無関係ではありません。中国や韓国と、日本との大きな違いは、「日本陽明学」にあるのです。 今では、中国でも、陽明学に注目するようになっています。
2015年12月には、拙著『真説「陽明学」入門』の英語版も刊行されました。ちなみに陽明学の一般書の英訳刊行は世界で初めてのことです。陽明学は、かつての禅学同様に、今後、段々と海外で注目を集めることになるでしょう。

Yōmei-gaku. Jap. term for the heterodox neo-Confucian teachings of Wang Yang-ming (Jap., Ō Yōmei, 1472–1529), also known as the School of Mind or Intuition. Nakae Tōju (1608–48) is considered the school’s founder in Japan, which also included the samurai reformer Kumazawa Banzan (1619–91). The school’s politically activist teachings attracted numerous followers during the Tokugawa (1600–1868) period’s final decades, including figures like Ōshio Chūsai (Heihachirō), Sakuma Shōzan, and Yoshida Shōin, whose students became leaders of the Meiji Restoration of 1868.

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さて 陽明学とは 何か? 林田明大先生から 頂いた 書き下ろしの原稿によれば:

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【幕末期の陽明学の信奉者】

幕末・明治維新期、我国では、陽明学者たちが大活躍をしました。明治初期にお雇い外

国人として来日したアメリカ人のウィリアム・エリオット・グリフィス

(1843~1928)は、

「新政府設立当時、明治大帝の周囲にあれほど多くの有力者がいたことは、確かに驚異

であった。・・・王陽明の哲学は、あまりにも進歩的であるために、シナでは深く根を

おろしたことはないが、日本では、私のいわゆる『55人の明治建設者』のことごとく

が、その信奉者であったと思う」(『キング11月号附録「明治大帝」』大日本雄弁会

講談社) などと語っています。

外国人でありながら、明治天皇との謁見を数回許されたほどのグリフィスです、多く

の明治政府の元勲達との交友がありましたので、その言葉には説得力があります。

幕末・維新期の陽明学者と言えば、ざっと思いつくだけでも、以下の人々をあげることができます。

  • 昌平黌の教授で『言志四録』の著者・佐藤一斎
  • 松下村塾で門人たちを育成した吉田松陰
  • 吉田松陰の高弟・高杉晋作
  • 吉田松陰の高弟で「禁門の変」で自刃した久坂玄瑞(くさか・げんずい)
  • 大久保利通と共に明治政府を樹立、日本の近代化に尽力した西郷隆盛
  • 山田方谷の高弟で長岡藩の藩政改革を手掛けた河井継之助(かわい・つぐのすけ)
  • 西郷隆盛が高く評価した福井藩士・橋本左内
  • 坂本龍馬の政治思想の師として知られ、福井藩で活躍した「維新十傑」の一人・横井

小楠(よこい・しょうなん)

  • 当時、東アジア一と言われた佐賀藩の西洋近代化に手腕を発揮した佐賀藩主・鍋島直

正(なべしま・なおまさ。閑叟)

  • 「北海道開拓の父」と呼ばれた佐賀藩士・島義勇(しま・よしたけ)
  • 備中松山藩の藩政改革に手腕を発揮した山田方谷(ほうこく)
  • 慶応4年、「討薩檄」を書いて薩摩の横暴を批判、やがてその活動が明治政府ににら

まれ、政府転覆の不穏分子として処刑された。漢詩人として知られる雲井龍雄

  • 中江兆民の師として知られる、土佐陽明学の開祖・奥宮慥斎(おくのみや・ぞうさい

)(奥宮健之の父)

  • 佐藤一斎の門人で、横井小楠が高く評価した広島藩士・吉村秋陽
  • 官途に就くことを嫌い、郷里の但馬に青渓書院を開いて人材育成に努めた池田草庵
  • 維新後、私塾を開いて人材育成に努めた岩国藩士・東沢瀉(ひがし・たくしゃ)
  • 吉田松陰とも親しく交友した肥前平戸藩士・葉山左内
  • 安岡正篤の師・岡村閑翁(かんおう)
  • 尊王攘夷を主張する志士として活躍。西郷隆盛が高く評価、維新後は奈良県知事をつ

とめた春日潜庵

  • 勤王の志士としても活躍した漢詩人・梁川星巌(やながわ・せいがん)
  • 葛飾北斎のスポンサーとして知られる信濃国高井郡小布施村(幕府領・松代藩)の豪

農商で儒者・浮世絵師・高井鴻山(こうざん)

  • 久坂玄瑞らと禁門の変を起こし、敗れて山崎天王山で自刃した尊攘派の志士・真木保

臣(まき・やすおみ)

 

  • 明治3年、東京集議院門前に征韓論議反対論の「時弊十条」の建白書をかかげ割腹し

た薩摩藩士・横山安武(森有礼の実兄)

  • 尊攘の志士で、維新後は堺県知事、宮内省御用掛などをつとめた豊後岡藩士・小河一

敏(おごう・かずとし)

  • 西郷隆盛の信頼を得ていた名古屋藩士で、維新後は名古屋藩大惨事となった田宮如雲
  • 陽明学を奉じた軍人・広瀬武夫の父として知られる豊後岡藩士・広瀬重武
  • 尊攘派の志士で、吉田松陰らを教えた儒学者・森田節斎
  • 備中庭瀬藩の藩医、後に儒者をつとめた森田節斎の実弟・森田月瀬(もりた・げつら

い。葆庵)

  • 土佐藩の開成館、維新後は土佐商会に勤務。三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎
  • 「道徳経済合一説」を主張した実業家で、「道徳ある経営」を実践しているとしてド

ラッカーが絶賛した「日本資本主義の父」渋沢栄一

  • 佐藤一斎に師事。後に一斎の養子となり、維新後は神奈川県藤沢市で私塾・耕余塾を

開き人材育成に努めた元・姫路藩士の小笠原東陽

ところで、陽明学と言えば、すぐに「行動哲学だ」「革命哲学だ」などと言って、口

角泡を飛ばす勢いの血気盛んな人がいますが、それは一面的な評価でしかありません。

 

大塩平八郎や吉田松陰や高杉晋作や河井継之助、さらにはその晩年に「革命哲学とし

ての陽明学」というエッセイを書いた三島由紀夫らのイメージから、陽明学は革命哲学

だという理解をする人が多いようですが、私に言わせれば、陽明学のバイブルと称され

ている王陽明の言行録の『伝習録』をきちんと読んでいない人の意見に過ぎません。

幕末・維新期は、内憂外患の動乱期であり、陽明学者ではなくても、多くの人々が政

治の時代を生きていたのです。

 

特筆すべきは、備中松山(岡山県高梁市)藩士・山田方谷のことです。

方谷と言えば、拙著『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』に書かせて

頂きましたが、「貧乏板倉(藩主の名前が板倉勝静)」とまで言われた備中松山藩の

財政を立て直したことで知られています。

 

「山田方谷自身は陽明学者だったが、彼は陽明学の持つ危険性も承知しており、弟子

には先に朱子学を学ばせ、センスの良いものにのみ、陽明学を教えた」

などという意見もありますが、確かにそういう時期もありましたが、方谷の陽明学

理解が深まったからでしょうは、その晩年には、相手が誰であれ、最初から陽明学を

教えるようになっています。

山田方谷の陽明学の師は、新見藩儒者の丸川松陰と昌平黌の教授・佐藤一斎でした。

佐藤一斎は昌平黌の儒官として、立場上朱子学を教えていましたが、自分の私塾では、

陽明学を教えていました。

 

そして、西郷隆盛の愛読書として知られる佐藤一斎の代表作でエッセイ集『言志四録

(げんししろく)』は、大塩平八郎の『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』と共に、

幕末の志士たちに大きな影響を与えました。

 

【日本における5度の陽明学ブーム】

陽明学ブームは、「日本陽明学の祖」の中江藤樹(1608~48)とその弟子たちに

よる江戸初期のそれが最初でした。藤樹の二大高弟の熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん)と

淵岡山(ふち・こうざん)のそれぞれの門人たちが活躍し、日本一の書家・北島雪山、そ

の門人でやはり日本一の書家とうたわれた細井広沢(こうたく)らが輩出しました。

 

続いて、今では「陽明学中興の祖」と称される三輪執斎(1669~1744)とその

一派によるブームがありました。

江戸後期(幕末・維新期)になって、佐藤一斎とその門人たち、大塩平八郎の門人たち

によるブームが起きます。吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、横井小楠、山田方谷、雲井龍

雄、西郷隆盛といった人々が登場しました。

 

そして、明治末から昭和初期にかけて、4度目のブームを迎えました。この4度目のブ

ームは、幕末・維新期をはるかに上回る、我国始まって以来の大ブームでした。

主な立役者は、幕末の陽明学者・東沢瀉(ひがし・たくしゃ)の息子の東敬治(正堂)

でした。東敬治は、渋沢栄一らに呼びかけて「陽明学会」を主幹し、雑誌『陽明学』を主

宰し、陽明学関連の本を刊行しました。(東洋大学名誉教授・吉田公平『王陽明「伝習録

」を読む』『日本における陽明学』参照)

 

そして、第2次大戦後に、5度目のブームが起きます。芸術家・北大路魯山人(きたお

じろさんじん)の育ての親として知られる細野燕台(ほその・えんだい)と、「自民党政

治家のアドバイザー」などと称された安岡正篤(やすおか・まさひろ)がけん引しました

その後、1970年の三島由紀夫の割腹自殺を契機に、次第に陽明学は右翼の学問だと

の評価が定着し、大手マスコミは陽明学に触れなくなって今日に至っています。誠に残念

で、もったいないことだと思います。

何故なら、陽明学とは、心を陶冶する、つまり心を強くし人格を向上させるための自己

修養の教えなのですから。

 

【細野燕台(1872~1961)】

明治~昭和時代の商人、茶人、陽明学者。本名は申三。生地の金沢で家業の油屋をつぐ

。後に、鎌倉の移住。古美術に精通し、のちに骨董(こっとう)業をいとなむ。茶(煎茶

道)や書でも一家をなした。無名時代の北大路魯山人(きたおおじ・ろさんじん)に味覚

と陶芸について教える。犬養毅や松永安左ェ門などとも交友し、三越百貨店の美術部の

顧問なども務めた。最後の弟子と言われる日本画家・伊東深水は、燕台の肖像画「酔燕

台翁」を描いている。享年89歳。

詳しくは、北村正枝『雅遊人 -細野燕台の生涯』(里文出版)参照のこと。

 

【三島由紀夫(1925~70)】

作家。ただし、三島は王陽明の『伝習録』を直接読んでいる形跡はなく「日本陽明学」

の系譜からの影響を受けた。三島は井上哲次郎の『王陽明の哲学の心髄骨子』を読んで

いる。その晩年の4、5年間に、安岡正篤の講義を聞くなどして陽明学を研究し、死の

数ヶ月前に、エッセイ『革命哲学としての陽明学』(1970年9月)を発表している

。(「ウィキペディア」参照)

 

【安岡正篤(1898~1983)】

『戦後初期における自民党のフィクサー、陽明学者。今日、陽明学のイメージを「帝王

学」にしてしまった点で、本来は「心学」である陽明学イメージを変えた(歪めた)と

いう意味で、功罪がある。』とウィキペディアにあるが、同感。

安岡が生きた時代は、共産主義運動真っ盛りの時期で、反共産主義運動に尽力せざる

を得ず、それ故、その陽明学理解はおのずと政治哲学化したと言っていい。

Abstract “Japanese Yomeigaku” refers to a social movement in Japan in the late 19th century in the name of WANG Yang-ming. The movement had complicated causes and lots of academic fiction. Although “Yomeigaku” literally means “the study of Yang-ming”, we have to make a distinction between Japanese Yomeigaku as a social movement and the study of Yang-ming as the study of WANG Yang-ming’s philosophy, which has flourished after the World War II in Japan.

★20年前に 山元学校で 陽明学の話をして頂いた 林田明大先生。 今年の1月17日(火曜日) 第184回 山元学校にお越し頂いて 私たち現代に生きる日本人に 必要な 考え方を再度 ご講義頂いた。 世界のリーダーが 改めて勉強し直している陽明学。 歴史を紐解くと 日本の歴史上の人物も 大きな影響を受けていることがわかる。

グロービスの学校で 教材として 使われていて 多くの若者が 学ぶようになった。また ここの学校に留学生が たくさん いらっしゃるが なんと彼らが 英語に翻訳して出版して 同じく教材として学んでいるという。 中国の要人も読まれているらしい。

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林田さんからのお便り

1月9日にいただいたお便りがある。とても参考になるのでシェアさせて頂きます。

★あけましておめでとうございます。
来る17日に、光栄なことに、お話をさせて頂けることになりました、作家・陽明学研究家の林田明大です。
実は、かれこれ20年ほど前に、一度お話を指せて頂いたことがございます。

 このことは、拙著『真説「陽明学」入門』にも書かせて頂いていることですが、明治天皇に近づく事の出来た数少ない外国人のひとりで、王陽明の哲学の研究にも熱心だった米人のお雇い教師W・E・グリフィスのことにも触れるべきでしょう。
勿論、ドラッカーが絶賛した「日本資本主義の父」渋沢栄一も陽明学の信奉者でした。

W・E・グリフィス:
『私のいわゆる「55人の明治創設者」のことごとくが王陽明哲学の信奉者であった』(キング11月号・附録『明治大帝』大日本雄弁会講談社、昭和2年)

 

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グロービスの堀 義人さんのお話。

日本人・アジア人・地球人 リーダー論に通ずる陽明学、心の陶冶を学ぶ

僕が最も影響を受けた思想が、陽明学と密教である。

僕が密教に興味を持ったきっかけは、尊敬する起業家である斑目力昿氏(ネミック・ラムダ=現TDKラムダ=の創業者)との出会いだ。斑目氏は高野山大学で学び、僧侶の資格を持つユニークな起業家だ。20年ほど前に、斑目氏と高野山の宿坊に泊まり、密教思想に触れる機会を直々に頂いた。その後、真言密教を大成した空海の著書や空海に関する書物を、僕は乱読し続けた。

陽明学に出会ったきっかけは、内村鑑三の「代表的日本人」を読んだことだ。この本に出てくる西郷隆盛と中江藤樹の2人の偉人に影響を与えたのが陽明学だ。その後、陽明学と名がつく本を可能な限り読破した。当時、僕は30代前半でグロービスを起業して間もない頃だった。

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陽明学の代表的な教えが「心即理」と「知行合一」である。僕の解釈は、とてもシンプルだ。「心=理」、「知=行」であり、仮に「理」と「知」とを同じものと捉えると、心=理・知=行とイコールで結ばれる。つまり、心のあり方がそのまま思考となり、行動に表れるのだ。

思考と行動が違うと、言行不一致となり、信用を失う。心で思ったことと頭で考えたことが違うと、心と頭が解離した状態となり、心にストレスが生じる。心・思考・行動の一致が最も重要となる。その全ての起点となるのが、「心のあり方」だ。陽明学は、心学とも呼ばれ、心を陶冶することを勧めている。

しかし、陽明学の始祖である王陽明が「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」と唱えたように、心を律することは難しい。そもそも、自らの心を認識することすら、とても難しいのだ。僕自身、自らの心のありようが分からずに、部屋の隅っこでうつむきながら、悩んだ時期もあった。ヒントを与えてくれたのが、陽明学と密教だった。自らの「心」が察知できないのは、「欲望」と「頭の作用」という2つの邪魔ものがあったからだ。

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名声欲や金銭欲、権力欲などの欲望があると、「お金をもうけたいから」「有名になりたいから」「権力が欲しいから」という理由で、自らが心で欲しているものではなく、欲望に流されてしまいがちになる。

一方、頭の作用が強過ぎると、自分の心を、頭で誘導しがちになる。受験戦争を繰り広げて、「良い大学に入り、良い会社に入ることが幸せだ」と頭から信じていると、本当の幸せを見失うのと同じ道理である。

心はほのかな光しか発していない。欲望と頭の作用がギラギラと光り覆い隠してしまうから心が見えにくくなるのだ。心を察知するには、その2つの邪魔ものを除去する必要がある。」

 

欲望をそぎ落とし、頭の作用を止めるのに役に立ったのが、密教の思想だ。座禅などを通して、空(くう)の状態になることで、欲望をそぎ落とし、頭の作用を止められる。

心を察知できれば、心を陶冶できる。心の中の恐れ、怒り、ねたみ、不安など悪い心を打ち払い、希望に満ち、明るく、前向きな善い思いを心に満たし、心を強くできる。心を陶冶することを日々の業務の中で意識して行い続ける。すると心・思考・行動が一致し始め、心即理、知行合一を実行できるようになる。

密教と陽明学の教えは、僕の「心のあり方」のよりどころとなった。良い教えは、可能な限り多くの人に教えたい。密教は宗教的教えなので、経営大学院では教えにくい。だが、陽明学は可能だ。グロービスでは、「真説『陽明学』入門」(林田明大著)を経営学修士(MBA)学生の必読書として定めている。

陽明学の教えにより、心が陶冶された良きリーダーが日本から数多く輩出されることを心より願っている。

※この記事は日経産業新聞で2017年1月13日に掲載されたものです。
日本経済新聞社の許諾の元、転載しています。

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★石田梅岩の心学を思い出した。 なにがしかの参考になればと ネットから拾ったお話。

石門心学(せきもんしんがく)は、日本江戸時代中期の思想家・石田梅岩1685年1744年)を開祖とする倫理学の一派で、平民のための平易で実践的な道徳教のことである[1]。単に、心学ともいう。さまざまな宗教・思想の真理を材料にして、身近な例を使ってわかりやすく忠孝信義を説いた。当初は都市部を中心に広まり、次第に農村部や武士まで普及するようになった。江戸時代後期に大流行し、全国的に広まった。

Shingaku (心学, lit. “heart learning”) or Sekimon-shingaku (石門心学) is a Japanese religious movement, founded by Ishida Baigan and further developed by Teshima Toan, which was especially influential during the Tokugawa period. Shingaku has been characterized as coming from a Neo-Confucian tradition, integrating principles from Zen Buddhism and Shinto. (Chang 2010) It has been speculated, Shingaku was one of the cultural foundations for Japan’s industrialization. (Sawada, 1993; Bellah, 1957)

心学とは

テーマ:

渡部昇一氏の心に響く言葉より…

講談社を創業した野間清治が、ある民衆教育団体の主催する講演会を聞きに行ったときのことである。

そこにはあらゆる職業、あらゆる地位の男女の聴衆がいた。

大学生も小学生もいた。

紳士もいたし、粗末な身なりの労働者もいた。

富める者も貧しき者も、学者も無学者もみんなが座っていた。

講演する人も、いろいろな階層を代表するようにさまざまだった。

しかし、有名な実業家が立って話すと、サラリーマンや大人は熱心に聴くけれど、子供や学生は退屈した顔をしている。

大学教授の講演はインテリ層には受けているが、老人、婦人の頭の上は通り越しているようだ。

野間は講演をずうっと聴いていたが、全聴衆を引きつけるような人はいまだ登場していなかった。

やがて演壇に有名な僧侶が立った。

彼が二言三言話すと満場がしんとなって、小さい子供までがその言葉を聞き逃すまいと一所懸命聴いている様子だった。

その僧侶は、たとえ話や逸話を使いながら仏教の教えを面白おかしく話していた。

野間は「これだ!」と思った。

万人向けの雑誌を創る鍵はここにあるとひらめいたのである。

たとえ話や逸話ならば誰でも聞く。

これこそまさに江戸時代の「心学(しんがく)」の本領である。

「心学」というのは特定の人に話すわけではなく、教える人が

「自分の家に話を聞きにきなさい。

誰でもかまいません。

武士でも町人でも、老人でも子供でも女でもかまいませんよ」

といって集めて、面白い話、たとえ話、みんなが納得すること、道歌などを聴かせていたのである。

つまり、いつの時代であれ、すべての人が話を聴くのは、たとえ話、偉い人の逸話などの面白いもので、しかも為になる話だったということなのである。

思想史の中では軽視されているといっていいが、日本を変える大きな力となったものに「心学」がある。

江戸時代に発達した心学は、仏教であろうが神道であろうが、儒教であろうが、心を磨く材料になるものはどんどん使えばいいと考えるユニークな思想であった。

この心学こそが、日本で生まれた真に日本的な思想であると私は思っている。

心学が最も大切にするのは「自分の心を磨く」ということであって、そのための材料になるものであればなんでも構わないから取り上げる。

宗教のように「最初に教義ありき」ではなく、「最初に心ありき」なのである。

つまり、心学は普通の宗教とは逆に人間中心であって、そうであればこそ、どんな偉大な宗教の思想も自分を磨くための材料になってしまうのである。

人間の心が銅の鏡であるとすれば、仏教も儒教も神道も、それを磨く「磨き砂」となるわけである。

このような心学の考え方は、日本の江戸時代が生んだ「人間主義」の思想といっていいと私は思っている。

『「仕事の達人」の哲学』致知出版社

石田梅岩は、江戸時代に「石門心学」と呼ばれる思想を打ち立てた人だ。
当時、「士農工商」の封建社会の中で、商売の尊さや、利の大切さを教える梅岩の教えは画期的だった。
聴講料は無料、出入り自由、女性もOKの講義は、「勤勉・誠実・正直」の精神を伝えたという。

多くの人に伝えるには、分かりやすくなければならない。

たとえ話や、逸話や、体験談、など、誰もがあたかも情景が目に浮かぶような話をする人は、わかりやすく、ストンと腹に落ちる。
落語や講談がその最たるものだ。
落語の寄席に長く通った人に、講演が上手な人が多いのもうなずける話だ。
心を磨く大切さを教える「心学」は、どんなに時代が変わろうと大切だ。
 
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