Arafat, Yasser Palestine History   160516

パレスチナに来ている。アラファト議長の国連演説が 話題となり もう一度聞きたくなった。

パレスチナの苦悩についても 再度 調べた。 少しでも 平和と繁栄の回廊プロジェクトを通じて

良い方向にもって行こう・・・ 今回のプロジェクトに 磨きをかけよう。 Game Changeが出来るかもしれない。

幾つかの貴重な映像が 見つかった。過去に見たことのあるものが多いが、 もう一度 改めて 反芻してみよう。

1 面積 約6,020平方キロメートル(西岸地区5,655平方キロメートル 三重県と同程度。

     ガザ地区365平方キロメートル 東京23区の約6割)

2 パレスチナ人総人口(2014年推定、パレスチナ中央統計局(PCBS))

約1,210万人 (1)西岸・ガザ地区の人口:約455万人 (西岸地区 約279万人 ガザ地区 約176万人) 
       (2)イスラエルのパレスチナ人口:約150万人 
       (3)上記地域以外のパレスチナ人口:約590万人

(注)UNRWA資料(2014年)によるパレスチナ難民数:約549万人

(西岸92.5万人、ガザ132万人、ヨルダン218万人、シリア56.4万人、レバノン48万人)

3 本部 ラマッラ(西岸地区)

4 人種・民族 アラブ人

5 言語 アラビア語

6 宗教 イスラム教(92%)、キリスト教(7%)、その他(1%)

7 略史

  • (1)1947年国連総会はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分裂する決議を採択。イスラエルは1948年独立を宣言、1967年第三次中東戦争によりイスラエルが西岸・ガザを占領。
  • (2)1993年のオスロ合意等に基づき、1995年からパレスチナ自治政府(PA)が西岸及びガザで自治を実施。
  • (3)2004年11月、アラファト・パレスチナ解放機構(PLO)議長死去。2005年1月の大統領選挙でアッバース首相(当時)が大統領に就任。
  • (4)2006年1月の立法評議会選挙において、ハマスが過半数の議席を獲得。07年3月、サウジアラビアの仲介でパレスチナ諸派間の挙国一致内閣が成立したが、07年6月、ハマスは武力でガザ地区を掌握。
  • (5)2012年11月、パレスチナは国連の非加盟オブザーバー国家の地位獲得に係る国連総会決議案を提出し採択(我が国は賛成)。
  • (6)2014年4月、ファタハ率いるPLOとハマスが内閣改造や選挙実施で合意。同年6月、ハムダッラー首相が新内閣を組閣。

政治体制・内政

1 政府

  • 大統領:マフムード・アッバース(PLO議長を兼任)
  • 首相 :ラーミー・ハムダッラー

2 議会

パレスチナ立法評議会(PLC:Palestinian Legislative Council 132名。)

3 内政

  • (1)【大統領】2004年11月にアラファトPLO議長・パレスチナ自治政府(PA)長官が逝去したことを受け、2005 年1月、PA長官(現在の呼称は大統領)選挙が実施され、アッバース氏が就任し(PLO議長も兼任)、現在に至る。
  • (2)【議会】2006年1月、パレスチナ立法議会(PLC)選挙でイスラム原理主義組織であるハマスが過半数の議席を獲得。しかし、その後のパレスチナ内部の対立、ハマスの武力によるガザ掌握(2007年)等を受け、事実上、西岸とガザが分裂状態となり、PLCは現在に至るまで停止状態。
  • (3)【政府】2014年6月にハムダッラー首相を首班とし、テクノクラートからなる国民合意内閣が発足。2015年7月、アッバース大統領の委任を受けたハムダッラー首相は閣僚の一部を交代・追加した改造内閣を発足させるも、ハマスは合意違反として反発。

経済

1 産業割合(パレスチナ中央統計局(PCBS)2014)

農・漁業(3.8%)、 工業(14.5%)、建設業(7.2%)、小売業・貿易(17.3%)、金融・仲介(3.7%)、公共・防衛(13.0%)、サービス業(20.6%)、運輸・通信業(1.6%)、(2014年GDPに占める割合、PCBS)

2 名目GDP

約127億ドル(2014年 IMF推定)

3 1人当たりGDP(GDP per capita

約2,801ドル(2014年 IMF推定)

4 実質GDP成長率

-0.4%(2014年 IMF推定)

5 物価上昇率

1.7%(2014年 IMF推定)

6 失業率

24%(2013年 IMF推定)

7 総貿易額

  • 輸出 約23億ドル(2014年推定、IMF)
  • 輸入 約78億ドル(2014年推定、IMF)

8 貿易品目

  • 輸出品 セメント、石灰岩、オリーブなど
  • 輸入品 石油・石油製品、穀物、非金属鉱物製品など

9 貿易相手国

イスラエル(71.6%)

10 通貨

自国通貨なし
(イスラエル・シェケル)

11 為替レート

1シェケル=約32円(2015年8月)

12 経済概況

  • (1)1967年以降、イスラエルの占領下にあった西岸・ガザ地域へは、同地域境界をイスラエル側が管理していたことから他国との通商は困難で、イスラエル経済への依存が進み、パレスチナの経済関連団体や金融機関は未発達なまま経済的自立性が失われた。
  • (2)1993年以降の和平プロセスの進展に伴い、ドナー国・国際機関による対パレスチナ経済支援が進むが、2000年9月末以来、イスラエル・パレスチナ間の衝突及びそれに伴うイスラエルによる自治区封鎖、移動の制限等により、パレスチナ経済は大きな打撃を受けている。
  • (3)実質経済成長率は、2011年までは二桁台が続くも2013年には全体で2.8%と大幅に低下、2014年にはガザ紛争と経済封鎖により、-0.4%と2006年以来初めてのマイナス成長となった。特にガザの失業率は43%にものぼり、若者を中心に住民は大きな不満を抱えている。

経済協力

1 主要援助国

米国、EU、ドイツ、ノルウェー、英国、日本、カナダ、フランス、アラブ首長国連邦(2011-12年、OECD-DAC)

2 我が国の援助(1993~2014年度までの累積)

計約16億ドル

3 主なプロジェクト(2014年度)

(1)無償資金協力
(ア)食糧援助:9.7億円(UNRWA:6.3億円、WFP経由:3.4億円)
(イ)ノンプロジェクト無償:10億円
(ウ)日本NGO連携無償資金協力:1.2億円
(2)技協協力
調査団派遣、技術協力プロジェクト、専門家派遣、研修員受入、機材供与など主な技プロ案件
(ア)「ジェリコ農産加工団地のためのPIEFZA機能強化プロジェクト」
(イ)「ヨルダン渓谷地域高付加価値型農業普及改善プロジェクト」
ARAFAT, YASSER
ヤーセル・アラファト(1929-2004)ヤーセル・アラファト

1929年8月4日にカイロで生まれた。正式名は、ムハンマド・アブドゥル・ラハマン・アブドゥル・ラウフ・アラファト・アルクドゥワ・アルフセイニである。
主にカイロで、短い間であるがエルサレムで育った。1948年にはパレスチナのマフティ防衛軍の戦いに参加した。1956年、カイロ大学工学部を卒業。エジプトのカイロにパレスチナ学生連合(GUPS)を創設し、1952年から1957年まで委員長を務めた。1956年にはパレスチナ卒業者連合の議長となった。スエズ運河危機においてはエジプト軍に志願し戦った。同年末にはクウェートに移り、翌年(アブ・ジハードと共に)ファタハの前身となる組織を結成した。
1959年1月にファタハを創設した。以来、今日に至るまでファタハはPLOの最大派閥となった。ファタハの指導者として1958年から君臨し、1968年からはスポークスマンの役も務めた。
1964年3月、最初のパレスチナ対中国代表団のメンバーとして周恩来首相と会談を行った。1969年2月にファタハがPLOに加入した後、アラファトはPLO執行部の議長に選任された。アラファトはPLOの方針を汎アラブ主義からパレスチナ民族主義に変更し、1970年9月には全パレスチナ/アラブ解放軍を指揮するようになった。
1974年のパレスチナ民族評議会(PNC)の舞台でパレスチナの解放を求める決議を行った。1974年11月13日、初めてニューヨークにおける国連総会で演説し、片手にオリーブの枝(平和)を持ち、もう一方の手に武器(戦争)を持つことを宣言した。1977年から1978年にかけてエジプトのサダト大統領とイスラエルとの平和会談を拒否した。これは、パレスチナ自治が宣言されたものに比して縮小され、PLOの意義を認めないものであることが明らかになったためである。
1985年、長年の敵であるヨルダンのフセイン国王と和平の枠組みを締結し、パレスチナ-ヨルダン同盟への計画を包含した(1986年にアラファトがアキレ・ラウロ事件を非難しなかった時、フセイン国王はこの計画を破棄した)。1986年3月、国連決議242および338が提示され、これにより国連安全保障理事会はパレスチナの自決権を保証する約束でイスラエルを承認する案を申し出た。
1988年11月15日、アラファトはイスラエルを承認し、テロリズムを放棄し、独立パレスチナ国家を宣言した。1989年4月2日アラファトはPLO中央議会により初代パレスチナ国家大統領に選任された。
1990年から1991年における湾岸危機が起きるまでの間、アラファトはアラブ問題を解決する交渉のための「よいポジション」を与えられた。湾岸危機では、サダムフセインによりパレスチナを代表する「戦争」への呼びかけが行われた。1992年2月、アラファトはスーハ・タウィルとの結婚を発表した。同年4月、リビアのサハラにおける飛行機墜落事故に巻きこまれたが生還した。1992年からはイスラエルとの秘密交渉を取りまとめ、その結果1993年9月13日にはPLOとイスラエルの間に暫定自治宣言が結ばれた。それ以降、パレスチナ自治に関しイスラエルと交渉を続け、1994年7月1日にパレスチナの地へ戻った。パレスチナ自治政府(PA)を創設し、大統領兼内務大臣に就任した。その後、1994年にはイスラエルのヤツアーク・ラビン首相およびシモン・ペレス外相と共にノーベル平和賞を受賞した。1996年における選挙では87.3%の有権者から大統領に選任され、パレスチナ憲法を作成する委員会を選出した。1996年5月には渡米しクリントン前大統領と会談を行った。5月9日に25名で構成される新内閣を発表した。1997~1998年には改革の失敗および内閣の汚職によりPLCおよび彼の内閣から辞職者が出た(例、ハナン・アシュラウィおよびハイダル・アブドゥル・シャフィ)。1998年6月にはフロレンスで「ゴールデン・ペガサス」賞を受賞。
1998年10月にはイスラエルとのワイリバー・プランテーション合意に署名した。イスラエルの撤退とパレスチナ過激派の取締りを要求。1999年イスラエルがその約束を破棄した後の暫定期間に、ヨルダン川西岸とガザ地区に東エルサレムを首都とするパレスチナ国家を一方的に宣言しようとするが、断念。1999年9月にシャルム・エル・シェイク協定に署名し、「C地域」から「B地域」への7%の返還を要求する。2000年7月キャンプデービッドでクリントン大統領とバラク首相との交渉に臨む、そこでは断固たる態度を取り、合意に至らなかった責任を取る。
2001年2月右翼アリエル・シャロン首相が当選後、同首相はアラファトとの接触を拒否し、アラファトはイスラエル政府により益々孤立させられる。アクサ・インティファーダの際は、イスラエル軍によるラマラでの議長府で軟禁され、外出を禁止された。2003年2月に首相を任命する国際的圧力を受入れ、2003年4月マハムード・アッバースを初代首相に宣誓就任させる。アッバースの辞任後、2003年10月パレスチナ非常事態政府を発表。2003年11月12日、新首相にアハメッド・クレイ政府を宣言。2004年10月病状が悪化、アンマン経由でラマラからパリに飛び、潜在的に致死性の血液疾患の治療を受ける。2001年以降最初の海外渡航となった。2004年10月29日からパリ郊外のクラマールのパーシー・ミリタリー・ティーチング病院で診察および治療を受けたが、回復せず、2004年11月11日死亡が発表され、アラファトの病状についての噂は消えた。アラファトは自国民の窮状を世界に注目させ、その生涯をパレスチナ国家の追求にささげ、パレスチナの自由と独立を求める苦闘にパレスチナ民族を団結させた。彼は自国民に忘れ去られることはないであろう。