Kurdistan クルディスタン(クルド人の人々)研究 ⑬  160504

 
★2,500~3500万人の国を持たない国。クルディスタンは 中東の台風の目だ。トルコ、イラク、シリア, イランなどに 分散されて住んでいる。独立志向が強い。あまりにも複雑すぎて 判りにくいが 幾つかの情報や映像を見ることで 理解を深めよう。自ずから 各国の思惑や行動のなぜ? が見えてくる。
 
1945年12月15日 クルディスタン人民共和国が樹立

1946年1月22日 正式に独立宣言
1946年12月14日 イラン軍に平定され崩壊

イラン全図 左上のトルコやイラクとの国境近くに、Mahabadがあります

クルディスタン人民共和国が支配したであろう領域

「祖国を持たない民族」といえば、かつてはユダヤ人がその代名詞みたいなものだったが、現在では約3000万人のクルド人が世界最大だ。クルド人の間では、紀元前8世紀にイラン高原でメディア王国を建国したインドーヨーロッパ語族のメディア人が、自分たちの祖先だと伝えられているが、メディア王国は紀元前6世紀の半ばに、ペルシャ人によって滅ぼされ、以後クルド人はペルシャ、アラブ、トルコ、モンゴル、ロシア、そしてイギリスやフランスによる分割支配を受けてきた。今ではトルコ領に1300万人、イラン領に570万人、イラク領に420万人、シリア領に100万人、旧ソ連領のアルメニアやアゼルバイジャンに40万人が住み、欧米各国へ難民となっている人たちも多い。トルコ領内のクルド人地区は、第一次世界大戦後に連合国とオスマントルコが結んだセーブル条約で、独立に向けた自治の実施が規定されたが、実施されずじまいに終わった。そして第二次世界大戦後、クルド人たちがイラン西北部のマハバドを中心に建国したのがクルディスタン人民共和国(別名:マハバド共和国)だった。

 ★クルド人最強部隊 ペシュメルガとは?

★この解説で クルド人の人たちが どこに住んでいるか? おおよそ 判る。

 

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第二次世界大戦でソ連軍がイラン北部に進駐すると、その後押しを受けて現地のクルド人たちは1942年にKJK(クルド建国グループ)という組織を結成した。そして戦後も続いたソ連軍の占領の下で、45年9月にカズィ・ムハンマドらKJKのリーダーたちが同じくソ連軍に占領されていたアゼリ人地区のタブリーズを訪れたところ、アゼルバイジャン自治共和国の独立準備が進められていることを知り、それならクルド人も続けと12月にイラン・クルド民主党(KDP-I)を結成。翌46年1月、マハバドでクルディスタン人民共和国の独立を正式に宣言し、カズィ・ムハンマドが大統領に就任した。

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★ この映像で、複雑な各国の思惑、各地に散らばるクルド人の状況や姿勢が、判りやすく解説されている。★

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2015/12/01 に公開

東京大学の学術文化系サークルTOSMOS(現代社会研究会)が、
2015年11月22日行った第66回駒場祭の企画。
日本クルド文化協会のユージェル・メメット代表、チョーラク・ワッカス事務局長、クル­ド人ジャーナリスト・エイユト・クルトを招いてクルド人の歴史や中東のクルド人の運動­について話を聞いた。


独立を祝うマハバドのクルド人たちと、演説するカズィ・ムハンマド大統領
独立宣言には、クルド人の自治や、公用語や教育言語としてのクルド語の採用、クルド人による民主的な議会の創設、クルド人による行政運営、アゼルバイジャン自治共和国との連携、法の確立などが盛り込まれた。しかし実際には議会は開設されず、あくまでイラン国内での自治にとどまるのかそれとも最終的に完全な独立を目指すのかがはっきり決めず、おおよそ現在の西アゼルバイジャン州一帯を支配したが領土もはっきりしなかった。しかしアゼルバイジャン自治共和国とは友好条約を結び、経済や軍事面での協力関係にあった。

領土も主権(独立か自治か)もはっきりできないままクルディスタン人民共和国の成立を急いだわけは、46年3月にソ連軍の撤退が予定されていたので、その前にとりあえず既成事実を作ろうとしたためだった。そのため同じイラン国内のクルド人居住地帯でも、南側のイギリス軍占領地域(現在のクルディスタン州)へは勢力を伸ばせなかった。また1930年代からイラクでクルディスタン独立のためのゲリラ戦を続けてきたムスタファ・バルザニが、3000人の仲間を引き連れてKDP-Iに合流したことも独立実現のチャンスだった。バルザニは国防相に就任し、クルディスタン人民共和国の軍を率いることになった。

しかし、46年5月にソ連軍がイラン領内から撤退し、ソ連による軍事支援や経済援助の望みが絶たれると、クルディスタン人民共和国は崩壊への道を辿り始める。クルド人たちはそれまで栽培したタバコをテヘランへ出荷することで現金収入を得ていたが、それが不可能になって困窮した多くの部族が政府に叛旗を翻し、南へと去っていった。またマハバド周辺の部族は、ただでさえ痩せた土地なのにバルザニらイラクのクルド人が流入してくることに不満を抱き、南へ去った部族の土地をバルザニらが独り占めしたことも怒りをかった。

こうしてクルディスタン人民共和国はクルド人たちの支持も失い、46年12月にイラン軍が侵攻するとあえなく崩壊。「反逆罪」に問われたカズィ・ムハンマド大統領はマハバドの広場で絞首刑にされた。またマハバドを占領したイラン軍は、クルド語による学校教育を禁じ、クルド語の出版物を集めて焼き捨てたという。一方でバルザニは再び仲間を引き連れてイラクへ戻り、さらにソ連へ亡命した。

カズィ・ムハンマド大統領の処刑

結局クルディスタン人民共和国は、アゼルバイジャン自治共和国や東トルキスタン共和国と同じように、ソ連の思惑によって生まれ、ソ連の都合によって解体したのだった。ソ連がクルド人に独立をけしかけたのは、イラン北部での石油利権の獲得交渉を有利に進めるために過ぎなかった。その後、パーレビ国王の治世下で弾圧されたイランのクルド人は、1979年のイラン革命では王制打倒に大きな役割を果たしたが、新たに発足したホメイニ政権に「クルディスタンの自治とイランの連邦制実施」を求めて交渉したところ、「イスラム革命に敵対する反革命」だと一蹴され、再び弾圧されている。

一方で、ソ連に保護されたバルザニは、1958年にイラクでクーデターが発生し王制が倒れると再びイラクへ戻り、クルド民主党(KDP)を率いて独立闘争を続けた。70年にはKDPはフセイン政権と協定を結んでクルド自治区を発足させたが、75年に内部対立からクルド愛国同盟が分裂。クルド民主党はイラン政府と対立する一方でトルコ政府と手を結び、トルコ領内で独立闘争をしているクルド労働者党(PKK)とは仲が悪いが、クルド愛国同盟はイラクと対立するイラン政府の支援を受け(※)、クルド労働者党(PKK)と共闘しトルコ政府と対立している。

湾岸戦争の後、クルド自治区はフセイン政府の支配から離れたが、クルド民主党とクルド愛国同盟の武力抗争が激化。フセイン政権が倒れた後、現在ではクルド愛国同盟のタラバニ議長がイラク大統領に、クルド民主党のバルザニ議長(ムスタファ・バルザニの息子)がクルド自治区の大統領になって両者は手を結んだが、イラクのクルド人の間では新たにイスラム系の組織が生まれている。

※イランとイラクは1980年から88年にかけて戦争を行っていたが、この時にクルド人がイランに協力したとして、フセイン政権はクルド人を弾圧した。

「国境線で分断されたクルド人が団結して、独立国・クルディスタンを築こう」という理想は唱えられても、現実には独立を目指すクルド人の組織は分裂が続いている。そしてクルド人が住む各国の政府は、自国のクルド人勢力を弾圧しながら隣国のクルド人勢力を支援しているため、クルド人同士の対立を促すことになっているようだ。

クルド人の居住地域(黄色)
★4年間存続した?クルド人の独立国:アララト共和国

コーカサス地方の地図(1919年) セーブル条約で予定された「クルヂスタン(自治)」の地域が載っています

クルディスタン人民共和国に先駆けて生まれたクルド人の国がアララト共和国だった。

 

第一次世界大戦に敗れたオスマントルコは、1920年のセーブル条約でバラバラに解体されることになった。トルコの属領だったアラビア半島の独立を認め、シリアやレバノンはフランスの、イラクやヨルダン、パレスチナはイギリスの委任統治領とされ、トルコ本土についても、イスタンブールを中心としたボスボラス海峡は国際管理地域となり、アルメニア人地区は独立(暫定的にアメリカの委任統治領とされたが、アメリカは拒否)、クルド人地区も独立を前提とした自治地域となり、ヨーロッパ側の領土(トラキア地区)はイスタンブールを除いてギリシャへ割譲し、アジア側でもイズミール(スミルナ)一帯はギリシャへ割譲、さらに南部はイタリア、南東部はフランスが占領することなどが定められ、トルコの領土は小アジアのほんの小さな部分だけしか残らないことになった。

さすがにこれはヒドいとトルコ人の間で危機感が広がり、軍司令官のケマル・アタチュルクを中心に国土回復の戦いが始まった。イスタンブールの宮廷に対抗してアンカラに新政府が作られ、イズミルから内陸部へ攻め込んだギリシャ軍を追い出したほか、フランス軍も撤退させ、海峡地帯に駐屯するイギリス軍と対峙。さらにアルメニア人を虐殺・追放して、1923年に新たに連合国と結んだローザンヌ条約では、トルコ本土の領有を確保した。こうしてクルド人の自治も取り消されてしまったのだ。

 

これでは話が違うと、首長やイスラム聖職者に率いられたクルド人が立ち上がり、1927年にトルコ南東部で独立を宣言したのがアララト共和国だった。独立運動にはイランのクルド人たちも加わったが、ローザンヌ条約でトルコの領土が確定したばかりだったので、アララト共和国を承認する国はなく、31年までにトルコ軍によって制圧された。

その後、トルコではクルド人に対して徹底した同化政策が進められ、政府は「クルド人という民族は存在せず、山岳トルコ人なら存在する」という立場を採った。1980年代に入ってクルド労働者党(PKK)による独立運動が盛んになると、トルコは再び武力鎮圧を強化する一方で、トルコ国会でクルド語を使った議員を懲役刑にするなどの弾圧を強めた。

 

ちなみに国名の「アララト」とは、この地域の象徴たるアララト山のことだが、アララト山はアルメニア人の「心の故郷」でもある。キリスト教徒のアルメニア人がトルコ政府によって虐殺・追放された時、イスラム教徒のクルド人はむしろそれに加担していたのだが、アルメニア人がいなくなった後、続いてクルド人が同化政策によって民族としての存在を「抹殺」される番になったということ。もっとも最近では、国際的な圧力で教育やメディアでのクルド語の使用は解禁されつつあるようだ。


アララト共和国の旗

●関連リンク

クルディスタン地域/政治体制 議院内閣制
クルディスタン地域 – Wikipedia クルディスタン地域

クルディスタン地域クルディスタンちいき、クルド語: ھەرێمى كوردستان、アラビア語: إقليم كردستان العراق 、英語: Iraqi Kurdistan)は、イラクの北部に設け …. この過程を通して、自治政府の役割が増大し、その機能が強化されたため、現時点ではクルディスタン地域はイラクからは半ば独立した状況になっている。この地域は油田が豊富であり、その..

朝日新聞掲載「キーワード」 – クルド地域政府の用語解説 – イラク北部3州からなるクルド人の自治区。人口約530万人。独自の議会や大統領を持つなど、大幅な自治がイラク憲法で認められている。イラク連邦政府とは、キルクークなど係争地の帰属問題を …
コイジンジャク
ザーホー大学  ブリティッシュ・ロイヤル大学 (アルビール)
ブリティッシュ・ロイヤル大学
アルビール

2015年7月28日 (火)

「イスラム国」最悪の敵、クルド人に対する戦争を開始したトルコ

By Moon Of Alabama

2015年7月25日

2013年以来、トルコ国と、南東トルコの反政府派、クルド労働者党(PKK)との停戦協定は良く守られてきた。政府は、クルドの文化的自治支持を約束し、引き換えに、与党の公正発展党(AKP)は、クルド人有権者の一部から票を得ていた。AKP政府は、北イラクのクルド人とも、良い関係を保ってきた。政府は、クルド地域政府から石油を購入し、自治イラク地域を支配するバルザニ一派の泥棒政治を支持している。

クルド労働者党(PKK)は、トルコ国内の戦闘的なクルド人組織だ。シリア国内の同様組織は、人民防衛隊(YPG)という名で知られている。集団は、イランでは、クルディスタン自由生活党(PJAK)、イラクでは、人民防衛軍(HPG)と呼ばれている。トルコの国民民主主義党(HDP)党は、クルド労働者党(PKK)の政治部門だ。クルド民主統一党(PYD)は、シリア人民防衛隊(YPG)の政治部門だ。こうしたものは全て、本質的に、クルド人自治や独立を目指す平等主義で、非宗教的なマルクス主義/アナーキスト組織だ。

トルコは、トルコ、イラクとシリアのPKKクルド人に対する戦争を再開した。トルコ警察は、トルコ国内で何百人ものクルド人活動家を一斉検挙し、今夜、何十機ものトルコ戦闘機がシリアとイラクのPKK拠点を攻撃した。この戦争はエスカレートし、長期的で、残虐なものになる可能性が高い。その大半はトルコ国内での戦闘となるだろう。一体どうしてこういうことになったのだろう?

対シリア戦争と、シリア政府と戦っている最も過激なイスラム原理主義者に対するトルコによる支援が、クルド人との関係を変えた。トルコが、自由シリア軍のみならず、イラクとシリア国内の、シリアのアルカイダ系ジャバト・アル-ヌスラや「イスラム国」を支援していることは否定しようがない。トルコは、こうした組織への参加を希望する世界中の自爆犯にとって、通過国だ。シリアトルコ諜報機関の支援を得て、兵器、弾薬や他の物資が密かに持ち込まれており、「イスラム国」は石油をトルコに輸出している。「イスラム国」は、トルコで新兵採用を行っており、トルコ全土に多数の潜伏細胞を保有していると思われている。

「イスラム国」が北シリア、コバニのクルド拠点を攻撃した際、アメリカがクルド人側にたって介入した。トルコは腹を立て、当初、あらゆる支援を阻止した。コバニのクルド人は、トルコ国内のクルド反政府派同様、PKK/YPGに組織されている。彼等は北シリアに、トルコ・シリア国境沿いの全てのクルド人居留地を結ぶ統合自治区を望んでいる。

アンカラは、こうした地域が、南東トルコのクルド地域に加わりかねないと恐れている。これはトルコにとって脅威となるだろう。トルコは、対シリア戦争で、領土を失うことなく、獲得だけしたいと願っている。シリアのイドリブとアレッポ、そしてイラクのモスルは、エルドアンが領土に加えたいと思っている地域だ。

シリアとイラクのクルド人が、「イスラム国」との戦闘で多少、勝利し、領土を増した為、トルコのAKP政府としては、計画が目茶滅茶になった。更に、AKPは、トルコでの最近の選挙で敗北したのに、クルドHDP党は、党史上初めて、トルコ議会に議席を得た。議会での安定過半数がなければ、より大きなオスマン・トルコを支配する全能大統領になるというエルドアンの計画は終わってしまう。

状況を変える為、エルドアンは、アメリカの対「イスラム国」戦争に参加するという口実で、対クルド戦争を再開することに決めたのだ。

7月20日、南部国境の町スルチで、若い社会主義者クルド人の集会で爆弾が爆発した。約30人が死亡し、百人以上が負傷した。トルコは、攻撃を即座に「イスラム国」のせいにしたが、ISは決して自分達がやったと主張していない。クルドPKKは即座に、トルコ国のせいだとし、「イスラム国」と共謀していると非難している。翌日、PKKは、トルコ警察官二人を爆撃への報復として殺害した。

昨年、トルコ首相と、トルコ諜報機関トップの会話の秘密録音テープが流出した。彼等は、シリア侵略の口実として、トルコの標的を対象にする偽装攻撃を企んでいたのだ。トルコがトルコ国内のクルド人を攻撃する為「イスラム国」と共謀しているというPKKの仮説は、それゆえ、大いに妥当すると思われる。攻撃を可能にした”諜報工作上の失敗”とされるものは単なる煙幕のように思われる。攻撃によって、現実には、クルド人を攻撃しながら、トルコは「イスラム国」と戦っている、という広報上の主張が可能になる。

水曜日、トルコ警察は、国中で、何百軒もの住宅を家宅捜索した。大量逮捕は「イスラム国」戦士に対する行動だと喧伝された。だが、少数の有名なIS幹部の他に、何百人ものクルド人活動家や左翼政治家達が拘留された。イスタンブールや他の都市において、クルド人による抗議行動や暴動がおきた。今日、トルコ裁判所はクルドの報道機関やメディアを禁止した。トルコのトルコ・マスコミとインターネットも再度、一部検閲されている

一体なぜ、エルドアンは今対クルド戦争をたちあげるのだろう? 彼の狙いは何だろう? こうしたことが思いつける。

  • クルドの攻勢後、「イスラム国」が失った北シリアのクルド県の統一を阻止すること
  • 北シリアを、トルコに組み込むという長期的な狙いでのアルカイダ、「イスラム国」や、他の反シリア集団に対する確実な補給路を維持すること。
  • 次回選挙で、民族主義者の支持をエルドアン側に集める。再度、AKPの圧倒的過半数を勝ち取るため、クルドHDPを次回選挙で締め出すこと。
  • エルドアンの政敵ではあるが、将来のクルド自治を大きな脅威と考えているトルコ軍の支持を得ること。

昨日、トルコ政府は、アメリカの対「イスラム国」攻撃飛行用に、インジルリク空軍基地を開放すると発表した。アメリカが、シリア上空に飛行禁止空域を設定することに合意したとも主張した。アメリカは公式に後に否定した。トルコ戦闘機は、北シリアの「イスラム国」標的とされるものに対して数回攻撃飛行を行った。トルコは、空き家を何軒か爆撃したに過ぎないと、クルド人は語っている。公式発表された計画は、トルコが実際に行っていることとは違っているように見える。

トルコとアメリカ合州国は、トルコ-シリア国境の両国が「イラクとレバントのイスラム国」(ISIL)禁止区域と呼ぶ場所から、聖戦テロリストを排除する目的の軍事行動計画に同意した。

アンカラとワシントンが作り上げた計画は、この地域もしISILが、この地域から完全に排除された場合、シリア民主統一党(PYD)が、欧米に対して影響力を更に拡大したり、暴力から逃れたシリア国民や、祖国に帰国を希望する人々を収容するための安全な環境を作ったりするのを阻止するため、自由シリア軍部隊の配備を見越している。

昨夜、トルコ空軍は、「イスラム国」戦士や拠点ではなく、イラクのクルド人に対する全面的攻撃を行った。数十機のトルコジェット機が、北イラクのPKK拠点を攻撃した。これらジェット機はシリア空域を飛行したとされている。これは、国際的支援を得て「イスラム国」との戦闘で最も成功している集団に対する攻撃だ。計画のこの部分に、アメリカ合州国が、一体どこまで同意したのだろうか不思議に思う。

今度は、対クルドPKK戦争で、アメリカはアンカラと共謀しているのだろうか? その場合には、いかにすれば、PKK/YPGを「イスラム国」との戦いでの同盟者として利用し続けることが可能だろう?

アメリカの姿勢は混乱している

オバマ政権幹部は「イスラム国」に対する戦いで、PKKとYPGには互いにつながりがあることを認めているが、彼等は、アメリカは、PKKとは正式に付き合わないことにしているが、YPGとは直接対応し続けているという。両集団は、別の指揮命令系統で動いており、異なる狙いを持っているのだと当局者は言う。

わずか二年前、バラク・オバマ大統領は、トルコに、アメリカは、PKK“テロリスト”に対する戦いで、トルコの支援を継続すると語った。アメリカは、PKKに関する諜報情報をトルコと共有し続けており、両国軍幹部は、ジョージ・W・ブッシュ政権がトルコのテロ集団との戦いを支援する為設置したアンカラの諜報情報共有セルで会議している。

だが今や“アメリカはYPG空軍となり、YPGはシリアにおけるアメリカ地上軍です”と、現在リーハイ大学につとめる元国務省トルコ専門家ヘンリ・バーキーは語っている。

繰り返すが、PKKとYPGは、実際には、別々の組織ではない。二者は本質的に同じものだ。アメリカは、「イスラム国」を支援しするトルコ政府が、クルド拠点を標的にしているを支援しながら、同時に、「イスラム国」と戦う、同じクルド人への上空援護を行っているように見える。

ワシントンの一体誰が、このような気の狂った政治姿勢を思いついたのか、そして背後にある本当の狙いは何だろうか?

記事原文のurl:http://www.moonofalabama.org/2015/07/turkey-re-lauches-war-on-kurds.html
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政党名や、軍団?の名前の略語、実に混乱してしまう。何ともわかりにくい。そもそもは、英語ではない言語がもとだろうから、たとえ略語でなくとも、わかりにくいだろうけれど。

略語と言えば、人気のSEALDS、Students Emergency Action for Liberal Democracys
というようだ。自由と民主主義のための学生緊急行動

一方、同じような名称のUnited States Navy SEALsはアメリカ海軍特殊部隊。
Sea, Air, Land Teamsの略語。

英米語学や、英米文学にはまったく無縁のメタボ老人としては、そもそもの名前が、あまりに陰湿な組織と重なる名前であったり、ホームページで、英語単語が色々つかわれていたりするのが気になってしまう。

紫式部や清少納言の文化を受け継いで、もっと素敵な組織の名前は考えられなかったのだろうか?

ソーシャル・ネットワークの駆使は良いことだろうが、宗主国がアラブや東欧であきずに繰り返しているソーシャル・ネットワークを駆使したお手盛り「カラー革命」と全く無縁のものであってほしいと、ついつい被害妄想気味になる。

60年安保時の全学連主流派や、70年安保時の全共闘のような末路を辿らないことを心から祈りたい。あの人々、結局は、宗主国を、そして傀儡政権を応援した結果にしかならなかったのではないだろうか?と、素人は思っているので。

 

アルビール
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スレイマニヤ
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ドホーク
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シャクラーワ
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ザーホー
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クルド労働者党(PKK)
Partiya Karkeran Kurdistan

クルド人国家の樹立を目指し,トルコ南東部を中心に活動する分離主義組織。

別称:
①the Kurdistan Freedom and Democracy Congress,②the Freedom and Democracy Congress of Kurdistan, ③KADEK(注1),④Worker’s Party of Kurdistan,⑤the People’s Defense Force,⑥Halu Mesru Savunma Kuvveti,⑦Kurdistan People’s Congress,⑧People’s Congress of Kurdistan,⑨KONGRA-GEL(注2)

1 設立時期

1978年,左翼系武装組織「民族解放軍」から「クルド労働者党」(PKK)に名称を変更。

2 組織・機構

(1) 最高指導者,幹部等

ア アブドラ・オジャラン(Abdullah Ocalan)

設立者で象徴的指導者。1948年トルコ生まれ。1970年代,トルコ・アンカラ大学に在学していた際に,左翼系武装組織「民族解放軍」(注3)の指導者に就任した。1978年,同組織の名称を「クルド労働者党」(PKK)に変更し,同国南東部での「クルド人国家の樹立」に向けて活動した。

1980年にトルコを出国し,シリアなどに滞在したほか,イタリア,ギリシャなどで庇護申請を行ったが,認められず,アフリカなどで潜伏場所を探していたところ,1999年2月,ケニアで拘束された。

オジャランは,同年6月,トルコ領域の一部を分離させるために計画的な行動を実行するなどしたとして,アンカラの治安裁判所から死刑を言い渡された。同年8月には,獄中から「和平イニシアチブ」を発表した。同人は,2002年10月,トルコでの死刑廃止(同年8月)に伴い,アンカラの治安裁判所により死刑から終身刑に減刑された。現在は,マルマラ海のイムラル島で服役中である。

イ ムラット・カラユラン(Murat Karayilan)

服役中のオジャランに代わる事実上の指導者(注4)。1954年(又は1950年)6月5日生まれ。トルコ国籍。「クルド社会連合」(KCK)(注5)幹部委員会議長。オジャランの「和平イニシアチブ」を受け,トルコ政府に対し,「PKKに対する軍事作戦の停止を条件として,武装解除及び対話に応じる」などと表明したが,「自衛のために抵抗する」との姿勢を堅持している。

ウ フェフマン・フセイン(Fehman Huseyin)

別名:
バホズ・エルダル(Dr.Bahoz Erdal)

PKKの軍事部門とされる「人民防衛軍」(HPG)元指導者(注6)。シリア国籍。PKK内部における有力な強硬論者としてテロを主導していたが,カラユランらと対立したため,2009年2月にPKK指導部から排除された。しかし,依然としてPKK内部で影響力を保持し,トルコ国内での一般市民に対するテロを主導しているとされる。

(2) 組織形態,意思決定機構

トルコ,イラク及びイランにまたがるカンディール山地のイラク側に設立されたKCK幹部委員会が,PKKに対する指導部としての役割を担っているとされる。1999年8月のオジャランの「和平イニシアチブ」以降,カラユランらはトルコ政府との対話を求めているが,PKK軍事部門とされるHPGは,2004年2月,PKKの主導権を掌握し,テロを実行した。このほか,2004年頃から「クルド解放のタカ」(TAK)(注7)を名のる組織がイスタンブールを中心に自爆テロなどを実行している。

3 勢力

4,000人から5,000人程度。このうち3,000人から3,500人はイラク北部で活動しているとされる(注8)。このほか,トルコ及び欧州に数千人規模の支持者を有しているとされる(注9)。メンバーの大半はトルコ系クルド人である。

4 活動地域

イラク北部のクルド人居住地域に活動拠点を置き,①トルコ南東部の郊外,②同国西部の都市部,③地中海やエーゲ海沿いの観光地―などでテロを継続してきた。また,PKKのシリアにおける関連組織「民主統一党」(PYD)は,2012年以降,シリア北部のクルド人居住地域の多くを事実上の支配下に置いたとされる(注10)

5 活動目的・攻撃対象

(1) 活動目的

トルコ南東部での「クルド人国家の樹立」を掲げている一方,近年,「クルドの文化や言語を保護する」として,同国内での自治権獲得に向けた取組も強化している。

(2) 攻撃対象

主な攻撃対象は,トルコ政府及び同国治安部隊である。しかし,時には,活動方針をめぐり敵対関係にあるクルド系政党や,PKKに非協力的な民間人を狙うほか,「トルコ経済に打撃を与えるため」として,外国人観光客らも標的としている。

6 沿革

PKKは,1978年,左翼系武装組織「民族解放軍」から名称を変更して設立された。1984年,トルコ政府に対するテロを初めて実行し,1990年以降,同国においてテロを頻発させた(注11)。1993年及び1995年には,欧州におけるトルコの外交・商業施設に対するテロも実行している。米国国務長官は,1997年10月,同組織を「外国テロ組織」(FTO)に指定した。

オジャランは,1999年2月に拘束された後,同年8月,獄中から「和平イニシアチブ」を発表した。同「イニシアチブ」は,PKKメンバーに対し暴力の停止を命じるとともに,トルコ政府に対し対話を求めることを内容とするもので,2000年1月のPKK「党大会」において支持が決定された(注12)。その後,PKKは,2002年4月の「党大会」で,「クルド自由・民主会議」(KADEK)へ名称を変更し,「クルド人の権利を保護するため非暴力的活動を行う」ことを宣言した。

PKKは,2003年11月,「コングラ・ゲル」(KONGRA-GEL)へ名称を変更した後,改めてテロの停止を宣言したものの,PKKの軍事部門とされるHPGは,2004年2月,PKKの主導権を握り,同年6月,オジャランの「和平イニシアチブ」を破棄し,イラク国内の拠点から越境してトルコ東部及び西部でテロを実行したほか,同年7月のヴァン県知事襲撃事件や,同年8月に起きたイスタンブールのホテル2か所などを狙った爆破事件などに関与したとされる。

こうした事態を受け,オジャランは,2005年4月,改めて「和平を訴える」として,組織名をPKKに戻し,組織再編を行ったとされる。また,事実上のPKK最高指導者であるカラユランも同年6月,トルコ政府に対し,PKKに対する攻撃を停止すれば停戦及び武装解除の上で「対話に応じる」などと宣言した。

こうした中,PKKは,トルコ治安部隊に対し,「自衛」と称してテロを繰り返し,2008年10月,トルコとイラクとの国境沿いの検問所でトルコ兵15人を殺害したほか,トルコ南東部・ディヤルバクル県でも警察官を襲撃し殺害した。

2009年8月,オジャランは,HPGを率いるフセインがカラユランによって解任された後,「トルコ政府との和平に向けたロードマップを公表する用意がある」などと宣言した。また,トルコ政府も同年11月,国内のクルド人などの権利を拡大する旨発表した。

一方,TAKを名のる組織は,2004年頃から都市部を中心にテロを実行してきた。2005年には,新たな戦術として自爆テロを採用し,トルコ経済に打撃を与えるために観光地を狙った攻撃を実行したほか,2008年2月,同組織のウェブサイト上で,トルコ政府などに対するテロを頻発させる旨表明し,観光地やホテルにおける爆弾テロや,外国人観光客の誘拐を実行した。このほか,TAKを名のる組織は,2008年7月,ドイツ(当時)の親PKK放送局「ロジ・テレビ」(Roj-TV)を非合法化したドイツ政府への「報復」として,トルコ東部のアララト山でドイツ人観光客3人を拉致した(同月,解放)。

7 最近の主な活動状況

(1) 概況

PKKは,これまでクルド人居住地域のトルコ南東部を中心にテロを行っていた。しかし,2011年5月以降,トルコ北部・カスタモヌ県での同国エルドアン首相の車列に対する襲撃事件を始め,同国北部においても複数のテロを実行している。また,2012年には,トルコ南東部・ハッカリ県で同国軍の前哨基地や検問所を襲撃するなど,治安当局に対する攻撃を頻発させた。その後,PKKは,2013年3月,オジャランの指示に基づき停戦を宣言したほか,同年5月,トルコ領内からイラク北部に向けた戦闘員の段階的な撤退を開始した。しかし,それ以降も,トルコ南東部や東部では,同国治安部隊とPKKとの間で衝突が発生している。

一方,TAKを名のる組織は,2011年8月,トルコ軍のバスに対する爆弾テロを実行し,兵士2人が死亡,同12人が負傷したほか,犯行声明において「我々の戦士は,トルコ全土において自らの任務(同様の攻撃)を行う用意がある」などと主張した。また,同年9月には,アンカラ中心部において,自動車爆弾によるテロを実行し,民間人4人が死亡,同33人が負傷したが,その犯行声明において「今次テロは一連のテロの始まりにすぎない」,「大都市は我々の主要な攻撃対象である」などと主張した。

このほか,PKKのシリアにおける関連組織「民主統一党」(PYD)は,2012年以降,シリア情勢の混乱に乗じて,同国北部におけるクルド人居住地域の多くを事実上の支配下に置き,自治権の確立を目指して活動しているとされる。同組織は,2014年1月以降,「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)との衝突を本格化させた。特に,ISILが,同年8月初めに,イラクのクルド自治政府(KRG)管轄地域へも侵攻を開始した際には,同国に戦闘員を派遣してKRGを支援したとされるほか,同年9月以降は,PYD支配地に対しても攻撃を強めたISILとの間で,シリア北部の要衝地アイン・アル・アラブ(クルド名:コバニ)などをめぐり,大規模な戦闘を交えた。

(2) 資金獲得活動・リクルート活動

ア 資金獲得活動

PKKは,麻薬取引により活動資金の多くを得ているとされる(注13)。米国財務省は,2008年5月30日,外国麻薬中心人物指定法(Foreign Narcotics Kingpin Designation Act)に基づき,20年以上にわたり麻薬取引に関与してきたとして,重大な麻薬取引者(significant narcotics trafficker)にPKKを指定した。

また,近年,PKKは,トルコ国内や海外に所在するクルド人居住地域において,人身売買,資金洗浄などの犯罪や慈善事業により多額の資金を得ているとされる。ドイツ・カールスルーエの連邦検察局は,2012年4月25日,PKKの欧州資金調達責任者であったトルコ国籍のアブドゥッラー・S(当時45歳)が逮捕されたことを明らかにした。同検察局によれば,同人は,①2003年から2004年までPKKのドイツ中部責任者であり,②2005年から2007年までイラク北部に滞在し,③2007年6月から2010年3月までPKKの欧州「経済・財務部門」の責任者であった―とされる。このほか,2013年2月,フランス及びスペイン両国で,PKKの資金調達を目的とした金品の強要事案に関連したテロ関連捜査が行われた。同共同捜査では,フランス南西部でクルド人17人が逮捕され,スペインでは6人が逮捕された(注14)

イ リクルート活動

PKKは,トルコ南東部のクルド人貧困層や同国西部の都市部に移住したクルド人若年層などを対象にリクルートを行っているとされる(注15)

年 月 日 主要テロ事件,主要動向等
78年  左翼系武装組織「民族解放軍」から「クルド労働者党」(PKK)に名称を変更。最高指導者にアブドラ・オジャランが就任
80年  オジャランがトルコから出国し,レバノン国内にPKKの訓練キャンプを設立
84. 8  トルコ南東部でテロを開始し,警察官2人を殺害
91. 8  トルコ軍がイラク北部のPKK訓練キャンプを急襲
95. 3  トルコ軍がPKK掃討のためにイラク北部に越境
98.10  シリア政府が同国内に滞在していたオジャランを国外に追放
99. 2  トルコ当局がオジャランをケニアで拘束
99. 6  トルコの裁判所がオジャランに対して死刑判決
99. 8  オジャランが,獄中から「和平イニシアチブ」を発表し,トルコ政府に対話を要求
00. 1  PKK「党大会」がオジャランによる「和平イニシアチブ」を支持
02. 4  「クルド自由・民主会議」(KADEK)に名称変更
03.11  「コングラ・ゲル」(KONGRA-GEL)に名称変更
04. 2  PKK軍事部門の「人民防衛軍」(HPG)がPKKの主導権を掌握
04. 6  オジャランの「和平イニシアチブ」を放棄し,トルコ東部及び西部でテロを実行(このほか,7月のヴァン県知事襲撃事件や8月に発生したイスタンブールのホテル2か所などを狙った爆破事件などに関与とも)
05. 4  「クルド労働者党」(PKK)に名称を変更
05. 6  PKKの事実上の指導者カラユランが,トルコ政府に対し,PKKへの攻撃停止と対話を要求
07. 5.22  トルコ首都アンカラの商業施設で自爆テロを実行し,8人が死亡,約100人が負傷
07.12  トルコ軍が,イラク北部のPKK基地及び同戦闘員に対する空爆などを開始
08. 1. 3  トルコ南東部・ディヤルバクル県で,同国軍部隊を標的とした自爆テロを実行し,5人が死亡,約110人が負傷
08. 2  「クルド解放のタカ」(TAK)を名のる組織が,トルコに対するテロを増大させる旨宣言
08. 7. 8  トルコ東部のアララト山でドイツ人観光客3人を誘拐(同月,解放)
08.10  トルコとイラクとの国境沿いの検問所でトルコ軍兵士15人を殺害したほか,トルコ南東部・ディヤルバクル県でも警察官を襲撃し殺害
09. 2  カラユランがPKK軍事部門「人民防衛軍」(HPG)を率いるフェフマン・フセインを解任
09. 8  オジャランが「トルコ政府との和平に向けたロードマップ」を公表する旨宣言
09.11  トルコ政府は,国内のクルド人などの権利を拡大する旨発表
09.12  トルコ中北部・トカット県で,同国軍兵士7人を殺害
10. 6.22  トルコ・イスタンブールで,同国軍の輸送バスを標的とした爆弾テロを実行し,5人が死亡,12人が負傷
10.10.31  イスタンブール中心部で,警察官を標的とした自爆テロを実行し,邦人1人を含む32人が負傷
11. 5. 4  トルコ北部・カスタモヌ県で,国会議員選挙遊説で移動中のエルドアン首相の車列を襲撃し,警察官1人が死亡,同1人が負傷(同首相は空路を利用しており乗車していなかった)
11. 7.14  ディヤルバクル県で,同国軍部隊を襲撃し,同国軍兵士13人が死亡,同7人が負傷
11. 9.20  TAKを名のる組織が,アンカラ中心部で,自動車爆弾によるテロを実行し,民間人4人が死亡,同33人が負傷
11.10.19  トルコ南東部・ハッカリ県で,同国軍駐屯地2か所を攻撃し,同国軍兵士24人が死亡,同約20人が負傷
12. 6.19  ハッカリ県で,同国軍の前哨基地3か所を攻撃し,同国軍兵士8人が死亡,同19人が負傷
12. 8. 5  ハッカリ県で,同国軍の検問所を襲撃し,同国軍兵士6人及び付近の村落の自警団員2人が死亡
12. 8.12  トルコ東部・トゥンジュリ県で,トルコ国会議員ヒュセイン・アイギュン氏(「共和人民党」所属)を誘拐し,同月14日に解放。国会議員の誘拐は初めて
12. 8.20  トルコ南東部・ガジアンテプ県の警察署付近で自動車爆弾によるテロを実行し,市民ら8人が死亡,同60人が負傷
13. 3. 4  ディヤルバクル県で,同国軍の車両を標的とした爆弾テロを実行し,兵士4人が負傷
13. 5  トルコ領内からイラク北部に向けた戦闘員の段階的な撤退を開始
13. 6.20  ハッカリ県で,同国軍幹部が乗ったヘリコプターを銃撃し,同機体の一部を損傷させたが,死傷者なし
13. 6.28  ディヤルバクル県で,同国軍兵士1人を誘拐。同月7月1日,同兵士を解放
13. 7. 3  ディヤルバクル県の2か所で同国軍の基地を襲撃,死傷者なし
14. 3.20  トルコ南部・ニーデ県で,治安部隊の検問所を襲撃し,同部隊員3人が死亡
14. 4.27  ハッカリ県で,同国軍部隊を襲撃し,同国軍兵士9人が負傷
14. 5.12  ディヤルバクル県で,飛行中の同国軍ヘリコプターを銃撃,死傷者なし
14. 7.13  トルコ南東部・シャンルウルファ県ケイランピナル町で,同町長の車列を自動車爆弾などで襲撃し,警察官3人,同市長の護衛,運転手の計5人が負傷
14. 8.24  トルコ南東部・シュルナック県の火力発電所で,同所建設作業員の中国人3人を誘拐。同年10月10日,3人とも解放
14.10.25  ハッカリ県で,非番であった同国軍兵士3人を襲撃し,同3人が死亡

当協会 設立 2009年(平成21年)9月18日

目的等

当法人は、日本国とクルディスタンの親善友好及び経済協力並びに文化交流を目的とするとともに、その目的に資するために次の事業を行う。

1:親善交流活動

2:企業就労支援活動

3:留学生援護活動

4:調査研究活動

5:広報啓蒙活動

6:査証申請窓口業務

7:前各号に掲げる事業に付帯または関連する事業

 

役員
名誉会長 平沼 赳夫

会長 頭山 興助

代表理事 木下 顕伸

理事 石川 多聞

理事 藤井 厳喜(拓殖大学客員教授)

監事 高野 英彦

法務顧問弁護士 小林 咸一

 

Member of Erbil
MR.Serwan Abdullah Ismail:Vice President of Education Committee at the House of Representatives of Iraq

Dr.Sirwan Alzahawy:Legal Adviser of Prime Minister of Kurdistan Region

MR.Omeed Albdulrahman Hasan:Parliament Member of Kurdistan, and Head of KDP list in Parliament

MR.Ali Awni:Head of KDP branch twenty

 

Member of Sulaimania
MR.Mohammed Saeed Ahmed:Member of Halabja victim Association

MR.Khder Kareem:Mayor of Halabuja

MR.Pshtiwan Ahmad Hatam:Mayor of Dokan

MR.Jaza Ali Toufiq:Mayor of Mawat

MR.Barzan R Jalil:Mayor of Tasluja

MR.Dliva Abdullah Ali:Mayor of Karadakh

MR.Mohammad Sharef Karem:Member of Halabja victim Association

MR.Aza Abdulkarem Aziz:Journalist

 

運営員
秘書兼通訳 ワッカス・ チョーラク

語学担当 アブドラ・ラッハマン・ガルベヤズ(大阪大学准教授)

情報・広報担当 植村 昌人

 

会社法人等番号
0199-05-014388

 

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一般社団法人日本クルド友好協会 〒112-0004 東京都文京区後楽2-2-10 松屋ビル6階

在日クルド人

在日クルド人、クルド系日本人
Kurdên Japonyayê
クルディスタン地域の旗日本の旗
総人口
約2,000人[1]
(推定)
居住地域
川口
言語
クルド語トルコ語日本語
宗教
イスラム教

在日クルド人(ざいにちクルドじん、クルド語: Kurdên Japonyayê)は、日本に一定期間在住するクルド人である。日本に帰化亡命した人、およびその子孫のことをクルド系日本人と言う。

概要[編集]

日本クルド文化協会によると難民などで構成される在日クルド人の数はおよそ2000人とされる。特に埼玉県蕨市川口市を中心とした埼玉県南部には、1990年代トルコ政府の迫害を恐れたクルド人たちが友人を頼って来日し、トルコ国籍のクルド人難民約1300人が集住している[2]。蕨市周辺はワラビスタン[3][4]とも呼ばれている。日本政府による難民認定を申請しているものの、認められるケースはほとんどなく、日本人と婚姻して滞在許可を得る人もいるが、不法滞在者在留特別許可による滞在が大多数を占めている。しかし、ニュージーランドカナダなどで難民認定を受け、再移住する人も少なくない。

現況[編集]

在日クルド人はトルコ国籍が大半を占めるが、イラン国籍のクルド人も少なくなく、さらにISILの支配によるイラクやシリア情勢の緊迫化などに関連して、イラクシリア国籍のクルド人なども出現した。そのような背景から、近年、来日するクルド人は増加し、一説には在日クルド人の総数は埼玉県内だけでも1,300人以上と推定されているが正確な統計は無い。日本とトルコの間には相互ビザ免除制度が適応されているために、観光ビザで入国しビザの期限が過ぎても滞在し難民申請を行うケースが多い。平成27年のトルコ国籍者の難民申請者数は926人と、全体では3番目に多くなっている[5]。川口市だけでもトルコ国籍者は平成28年には800人を超えており[6]、その大半がクルド人であると推定される。諸外国の中でもとりわけトルコ政府との良好な関係を持つ日本政府はトルコ国籍保持者はトルコ人(2015年末時点の不法滞在者を含まない合法的に滞在登録を行っている在日トルコ人数は4157人)と認定しているため、欧米諸国等でも行っているようなクルド人としての民族認定は行っておらず、日本にクルド民族がどの程度いるのかを把握することは難しい。

また、1990年代に来日した世代の2世も誕生しており、蕨市周辺には日本で生まれ育ったクルド移民2世の若者の姿をよく見かけるようになった。

生活・文化[編集]

多くの在日クルド人はクルド語トルコ語を混用して使用し、クルド人男性の大多数は日本語を習得している。日本で生まれ育ったクルド人の子などは3か国語を話す。在日クルド人はトルコ国内では制限されているクルド人の文化を自由に表現し、トルコでは政治的な側面から禁止されている”Runi”や”Rohat”という名前を子供に付ける人も多い。また、ネブロスと呼ばれるクルドの新年を祝う祭りなどを蕨市内の公園で盛大に祝う[7]、など、彼らはクルド文化を紹介するイベントを開催し、周辺住民と積極的に交流している。また、クルド人はもともと宗教的な民族ではなく世俗主義的であるため、イスラム主義とは距離を置いている人が多く、お祈りをしない人も珍しくない。

クルド人は建設業や飲食業で働く人が少なくない。不法就労するものも少なくないが、日本人との婚姻等で永住権を取得するなどして合法的な就労ビザを取得した人の中には起業する人もおり、日本国内にはクルド人が設立した会社がおよそ20社ほどあるとされる。

クルド人が日本で定住を始めてから長い年月が経ち、生まれも育ちも日本というクルド人も生まれている。しかし、就労許可が無いために大学を卒業しても就労できない者が出るという問題も起きている[8]

トルコ政府との対立[編集]

2015年6月のトルコ総選挙でクルド人政党の国民民主主義党(HDP)が躍進して以降、トルコ政府がクルディスタン労働者党(PKK)を武装集団テロリストとしてクルド人地域への空爆を行って多数の死者が出るなどトルコ政府とクルド人との対立は激化した。そのような中、2015年10月25日には11月1日に再び行われる総選挙の海外在外事前投票を行っていた在日トルコ大使館前でトルコ政府を支持する在日トルコ人とそれに反対する在日クルド人が乱闘となるなど、日本社会においても対立が表面化した[9]

この事件について、2015年10月28日、在日クルド人団体の日本クルド文化協会は、騒動について謝罪し、トルコ人たちと対立する意思はない事を表明した。なお、この事件の原因は、クルド人とトルコ人双方が政党や武装組織の旗を掲げたことが原因とされるが、日本クルド文化協会は旗について否定した[10]

日本政府の対応[編集]

トルコのクルド人に対しては、日本政府は一貫して“親日”のトルコ政府側に立つ。そのため、トルコのクルド人による難民認定の申請に対して、日本政府は難民と認めていない(難民認定は国内に政治的迫害が存在することを認める事であり、現在の良好な関係を損ねる原因になるため)。ただし、日本とトルコには、最大90日間の査証免除協定があるため、難民認定を目的とした来日が心配されている。これに関して、警視庁公安部は、2006年11月から2007年4月にかけて、埼玉県に居住していたトルコ国籍クルド人8人を入管難民法違反容疑で逮捕した。2007年6月27日、公安部の調べでは、8人のうち数人はクルディスタン労働者党の支援者であると認めており、彼らがテロ活動の支援をしていた可能性があると見ているが、十分な証拠が見つからなかったため、全員の身柄を入管に引き渡した。彼らのうち数人はすでに強制退去となっている。

2004年、クルド人の難民申請者の親子アフメット・カザンキランとラマザン・カザンキランが入国したが、不法入国としてトルコに強制送還された。彼らは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が難民認定した難民であるが、日本側は日本の東京高等裁判所が「迫害はなかった」とする判決を出したことと、イギリスが2人の難民申請を却下したことを根拠として、難民として認定しなかった。2006年1月、彼らの家族はニュージーランドに難民申請を行って認められ同国に移住したが、息子のラマザンは兵役のためトルコに残った。2007年3月13日、出国可能となったラマザンはニュージーランドに出国し、家族と再会することができた。これは、『バックドロップ・クルディスタン』と言うドキュメンタリー映画となっている。

2005年2月7日、東京入局管理局はトルコ国籍のクルド人を収容した。彼は、カザンキラン一家と同様、国連難民高等弁務官事務所から難民と認定されているが、東京入国管理局では難民と認定せず強制退去の処分を下した。これに対し、処分の取り消しを求める訴訟を起こし、上告中であったが、仮放免中には月に1回の出頭が義務づけられているため、東京入管に出頭し、そのまま収容された。

また、エルダル・ドーガン一家は1999年に来日し難民認定を求めたが、難民と認定されず強制退去の処分を下された。これに対し、処分の取り消しを求める訴訟を起こしたが、2006年に敗訴した。2007年5月、カナダ政府により難民申請が受け入れられ、2007年7月10日、エルダル・ドーガン一家はカナダに出国した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]