海外で活躍する日本人 ⑪ 八田興一さん 160411

 

八田 與一(現在の字体では八田 与一、はった よいち、1886年2月21日1942年5月8日)は、日本の水利技術者。日本統治時代台湾で、農業水利事業に大きな貢献をした人物として知られる。

生い立ち〜台湾へ

石川県河北郡花園村(現在は金沢市今町)の出身。石川県尋常中学第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。台湾では初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義市台南市高雄市などの各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。

 

八田は28歳で当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任されたが、これを成功させ、高い評価を受けた。当時の台湾はまさにこういったインフラ建設のまっただなかで、水利技術者にはおおいに腕のふるいがいのある舞台であった。31歳のとき、故郷金沢の開業医で後に県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚した。

 

嘉南大圳

1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。

 

そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。

 

事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。

この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。

 

烏山頭ダム。下村海南によって珊瑚潭の美称が与えられている(2004年3月11日)

2000年代以降も烏山頭ダムは嘉南平野を潤しているが、その大きな役割を今は曽文渓ダムに譲っている。この曽文渓ダムは1973年に完成したダムで、建設の計画自体も八田によるものであった。また、八田の採った粘土・砂・礫を使用したセミ・ハイドロリックフィル工法(コンクリートをほとんど使用しない)という手法によりダム内に土砂が溜まりにくくなっており、近年これと同時期に作られたダムが機能不全に陥っていく中で、しっかりと稼動している。

烏山頭ダムは公園として整備され、八田の銅像と墓が中にある。また、八田を顕彰する記念館も併設されている。

台湾総督府復帰〜殉職

1939年、八田は台湾総督府に復帰し、勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事した。また対岸の福建省主席の陳儀の招聘を受け、開発について諮問を受けるなどしている。

太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に大洋丸に乗船した八田は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したがその途中、大洋丸が五島列島付近でアメリカ海軍潜水艦グレナディアーの雷撃に遭い撃沈され、八田も巻き込まれて死亡した。沒後贈正四位勲三等が贈られた。

日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、妻の外代樹も夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた。

 

 

八田の銅像と墓

日本よりも、八田が実際に業績をあげた台湾での知名度のほうが高い。特に高齢者を中心に八田の業績を評価する人物が多く、烏山頭ダムでは八田の命日である5月8日には慰霊祭が行われている。また、現在烏山頭ダムにある八田の銅像はダムの完成後の1931年(昭和6年)に作られたものである。

 

住民々意と周囲意見で出来上がったユニークな像は、固辞していた八田本人の意向を汲み一般的な威圧姿勢の立像を諦め、工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模し、碑文や台座は無く地面に直接設置された。

 

その後国家総動員法に基づく金属類回収令の施行時や、中華民国蒋介石時代に日本の残した建築物や顕彰の破壊がなされた際も、地元の有志によって守り隠され続け、1981年(昭和56年)1月1日に再びダムを見下ろす元の場所に設置された。

今は台座上に修まる銅像の経過や、八田が顕彰される背景、業績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするため尽力したこと、危険な現場にも進んで足を踏み入れたこと、事故の慰霊事業では日本人も台湾人も分け隔てなく行ったことなど、八田の人柄によるところも大きく、エピソードも多く残されている。

 

中学生向け教科書認識台湾 歴史篇』に八田の業績が詳しく紹介されている。2004年平成16年)末に訪日した李登輝台湾総統は、八田の故郷・金沢も訪問した。2007年5月21日に陳水扁総統は八田に対して褒章令を出した。また馬英九次期総統(当時)も、2008年5月8日の烏山頭ダムでの八田の慰霊祭に参加した。翌年の慰霊祭に参加し、八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念公園」を建設すると語った[1]。2009年7月30日に記念公園の安全祈願祭、2010年2月10日に着工式が行われ、2011年5月8日に完成した。完成式典には、馬英九総統や八田の故郷・石川県出身の森喜朗元首相が参加した[2]。記念公園は約5万平方メートルだが、約200棟の官舎や宿舎のうち4棟は当時の姿に復元された[3][4]。宿舎は一般公開されている。

顕彰事業は妻の外代樹にも拡大され、2013年9月1日、八田與一記念公園内に外代樹の銅像が建立された。

八田の業績と嘉南の人たちとのふれあいを取材したテレビ・ドキュメンタリー「テレメンタリー96 たった一つの銅像 〜衷心感謝八田與一先生〜」が 1996年(平成8年)6月30日にテレビ朝日系列で放送された。2008年には、八田を描いた長編アニメ映画「パッテンライ!! 〜南の島の水ものがたり〜」が制作された。

 

小学館版学習まんが 八田與一

監修/許光輝  まんが/みやぞえ郁雄  シナリオ/平良隆久

小学館版学習まんが 八田與一ためし読み

定価 本体1,100円+税 発売日 2011/5/27 判型/頁  菊判/160頁
ISBN  9784092271517  購入する     全巻を見る
〈 書籍の内容 〉
台湾に東洋一のダムを建設した日本人の物語
八田與一(はったよいち)は、日本統治時代の台湾で、約10年の歳月をかけて当時東洋一のダムを建設した土木技師です。台湾の灌漑施設の建設に数々の足跡を残しましたが、太平洋戦争中、乗っていた船が撃沈され、非業の死を遂げました。その妻・外代樹も、戦争終結後、ダムの水路に身を投げるという悲劇の最期を迎えています。
與一は台湾では教科書にも登場した、最も尊敬されている日本人のひとりで、現在でも毎年の慰霊祭には台湾の総統が出席するほどの人気です。
1930年に完成した烏山頭(うざんとう)ダムと給排水路は現在でも完全に機能しており、現地の人々が大切に管理し続けています。生誕125周年の今年はダムの近くにあった住居が復元され、記念公園として開園されます。実家のあった金沢でも毎年生誕祭が開かれています。
この本は、日本の土木技術の発展に大きな影響を与え、日本人と台湾人を区別することなく労働者を大切にした、偉大な技術者・八田與一の生涯とその業績を描き下ろした学習まんがです。
〈 編集者からのおすすめ情報 〉
当時のダム建設のようすがよくわかる解説と、貴重な写真も収録。